神よ、愛しているのなら
文字数 3,576文字
※
スアラは夜のグロリアナ市街を歩いた。等間隔に並ぶ街灯はオレンジ色の光を放ち、煉瓦造りの家々は静まり返っている。裏通りからは野犬がゴミ箱を倒す音がするけれど、ここは概 ね治安の良い区画だった。
迷宮に迷い込んだ風が、上から、前から、後ろから吹き付けた。長い髪は上下左右に飛び跳ね、顔にかかり、視界を遮った。スアラは風が好きだ。耳がちぎれそうなほど痛み、歯をガタガタ鳴らせても。風は生きている。大自然とつながっている。
目の前に壁が立ちはだかった。スアラが十歳のときに生えてきた壁で、今ではスアラの背丈の五倍の高さがある。壁に沿って右に曲がり、南ルナリア市から派遣された『石工』が工事した扉を押し開く。壁の生成は『壁の聖女』の御心 に従って行われることだからという口実でこの手の工事はあまり行われないのだが、実業家や科学者が集まる富裕な地区の住民が苦情を申し立てるので、都合の良いお耳を持つ聖職者たちは許可を出したのである。
風圧で、扉はなかなか開かなかった。スアラの気分は限りなく敬虔さに近い静謐 さと緊張に満ちしていた。風のせいで街路に人気 はない。
風が心にも吹いた。
はやく愛するもののところに行こう。そこまで行けば、大丈夫……。
そこへ行くには大嫌いな場所の近くを通らなければならなかった。中等学校だ。中等学校の手前には、門は別々だが中で学校と敷地がひと続きになった修道院が、向かいにはリリスと話した公園がある。
スアラは顔を伏せ、足早に通り過ぎようとした。だが人は、見たくないものほどつい見てしまう。スアラは顔を上げてしまった。結果、修道院の門に掲げられた聖四位一体紋を見た。
『その発言は主の与えたもうた生命に対する冒涜です』
スアラは門に唾を吐いた。男子修道院なので、門の向こうにシスター・エピファニアがいないことはわかっていたが。
『懺悔なさい』
今度はより足早に進み始めたが、シスターの声は記憶からしみ出て追ってきた。
『神にです!』
「なにが神だ!」
思った以上に大きな独り言となったので、スアラは驚いて立ち止まった。今度は工具箱を見ることとなった。それは街灯の光の輪の中で眠っていた。学校の敷地を取り囲む、錬鉄 でできた装飾性の強い柵の間に取り残されていたのだ。蓋が開き、釘と金槌が出ていた。そのときスアラはエピファニアの言葉を忘れ去る方法を思いついた。スアラは昔から行動が早い少女だった。たちまち釘の束と金槌を両手いっぱいに掴んで修道院の門に戻った。
聖四位一体紋を睨みつける。
かつて神は深き愛のゆえに、地球人に息子を、惑星アースフィアの言語生命体には娘を与えたという。
神の息子は地球人の手で処刑された。聖四位一体紋の中の十字。縦棒と横棒が交わるところ、人をはりつけるのにちょうど良いところ。そこに、スアラは釘を一本あてがって、金槌を振り上げた。
風雨にさらされ脆くなった木材に、金槌の一撃は気持ちいいほどよく効いた。長い釘は一撃で深く沈んだ。
「……なにが神だ」
足許に置いた、次の釘を取る。
「なにが神だ、神の愛だ」
そんなのは品行方正で聞き分けのいい連中への愛だろ? えっ? こんなことを、こんな冒涜的な発言と行動をする私への愛じゃない。
二本めの釘を沈めた。
ねえ、あんたに私を愛せるの? あんたをもう一度串刺しにする私を?
どうなのさ、主 とやらよ。
三本め。
そんなに私を愛しているのなら。
四本め。
私のために、今、また死ね。
五本め。
父親にオッパイを揉まれて股を押し付けられている全ての娘たちのために、何度も死ね。
六本、七本、八本め。
お前が創ったクソみたいな世界が終わるまで、死んで、死に続けろ。このクソみたいな世界のために、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死ね。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね! 死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、私のために。死ね、死ね、死ね、キモい父親に苦しめられる全ての娘たちのために。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!
二十六本。
それが全てだった。
スアラは十字の中央が釘だらけになった聖四位一体紋の前で立ち尽くした。
金槌を投げ捨てる。
もう、シスター・エピファニアのことなどどうでもよくなっていた。それからは、顔を伏せることも、足早になることもなく、ただ歩いた。
目指す場所についた。そこはかつてグロリアナで最も富裕な人々が暮らしていた地区で、今や空き地と廃れた邸宅だけが並ぶうら寂しい場所だった。いくつかの邸宅は最近になって借り手がついたのだが、夜になって温かな明かりが点 るそこでは、革命家たちが口角泡を飛ばしながら青写真を作っては破り捨てていることを町じゅうの人が知っていた。
スアラは緑色の郵便受けがある屋敷の門扉 を押し開けて、前庭を横切った。屋敷を迂回して竃 がある裏庭から裏口の戸を押すと、首から下げていた木製の花を左手に乗せた。彫刻も彩色もスアラがしたもので、青紫をした五枚の花弁をある順番で撫でると、目に優しい白色光がぼんやり点って廊下を照らし出した。
スアラはこの空き家が怖くなかった。荒れ果てていないからだ。自分のことを革命家だと思っているバカ共が定期的に掃除と害虫駆除をしているのだ。スアラ一人のために。
地下室へ降りていく。
スアラは鼻歌を始めた。歌はいつも同じ。『天使と少女の語歌 』。まだこの惑星に、星獣 と呼ばれる生き物が闊歩していた頃に歌われていた民謡で、それらの作品群は、天球儀と呼ばれる架空の巨大構造物がこの惑星をすっぽり包み込んでいる世界について物語る連作だった。
内容は、例えばこんな具合だ。
家族を失った少女は、自ら家を焼き払い、彼女以外の誰にも見えない天使を道連れに故郷を後にする。過酷な環境を生き延びるために少女は様々な罪に手を染める。人を殺したときでさえ、天使は笑っていたのだが、故郷に帰ってそこに花が絶えているのを目にしたとき、天使は笑っていなかった。
スアラはこの物語が好きだった。訓話めいておらず、人の理解を拒む佇 まいがいい。そう、物語には佇まいがあるのだ。
十四段ある階段を下りきると、大きな錠が下がる両開きの扉が現れた。錠に描いた花の雄蕊 に木の花の雌蕊 を押しつけると、錠は外れ、扉は勝手に開いた。
明かりを掲げる。
光に反応し、地下室じゅうに仕込んだスアラの作品群が一斉に光を放った。
ペンキの匂い。刷毛 の毛先の匂い。中等学校のグラウンドほどではないものの、地下室には十分な広さがあった。
そこに、鯨がいた。木製の体を色とりどりの草花やツタ、樹木で彩られた、広い地下室の三分の一を埋め尽くす鯨だ。体のあちこちに梯子 がかけられている。鯨の周囲はカンナ屑で床板が見えない。
スアラは鯨の鼻先まできて、頭上に手を伸ばした。
指先は、口には届かなかった。鯨の顎から腹にかけて並ぶ、畝 と呼ばれる縦溝を撫でる。
左手で鯨に触れながら、スアラは鯨の頭の先から尻尾の先まで歩いて行った。端から端まで到達するのに一分かかった。それからさらに一分かけて頭の先に戻ると、今度は両腕を広げて鯨の顎を抱きしめた。
頬をすり寄せる。
「会いにこなくてごめんね、岩鯨 」
スアラは微笑みを浮かべると、鯨の脇腹に固定した梯子から背中に上った。鯨の背には跳ね上げ戸 が取り付けられていた。
鯨の体内に下りる。
そこはスアラの秘密基地で、毛布とお菓子、缶詰と、好きな冒険小説が数冊溜め込まれていた。跳ね上げ戸を閉めて、毛布をかぶり、横たわる。換気口の羽根を傾けると、外からの光が遮られ、木製の花が照らすのみとなった。それは今や眠気を誘うオレンジ色の微かな光だった。
壁には青いツバメが描かれていた。スアラの身長ほどもあるツバメだ。手を伸ばし、翼を撫でる。
鳥を。
鳥飼いの『鳥』が手に入らなければ、岩鯨の引き渡しまで時を稼げる。だが大した時間じゃないことはわかっていた、スアラが要求すれば、革命家たちは鳥飼いを拉致してくるだろう。そして、拒むなら、その家族を殺すとか、手首を切り落とすとか、とにかくスアラが望まないやり口で『鳥』をこの模様に組み込むのだ。
でも、そんなことは考えないでおこう。今夜だけは。
目を閉じる。眠気がくる。今日が過去になる。意識がほどけていく。
眠りに落ちる直前、大事なことを思い出した。
聞き流していたことを。
チルーとリリスは、スアラのものを見つけたといってグロリアナまで来た。それは彼女たちに『奏明』の賜物を持つ者の作品であると思わせるものだった。
もしかして、
目を開く。
うんと小さなときに失われた、けれど忘れるべくもない
スアラは夜のグロリアナ市街を歩いた。等間隔に並ぶ街灯はオレンジ色の光を放ち、煉瓦造りの家々は静まり返っている。裏通りからは野犬がゴミ箱を倒す音がするけれど、ここは
迷宮に迷い込んだ風が、上から、前から、後ろから吹き付けた。長い髪は上下左右に飛び跳ね、顔にかかり、視界を遮った。スアラは風が好きだ。耳がちぎれそうなほど痛み、歯をガタガタ鳴らせても。風は生きている。大自然とつながっている。
目の前に壁が立ちはだかった。スアラが十歳のときに生えてきた壁で、今ではスアラの背丈の五倍の高さがある。壁に沿って右に曲がり、南ルナリア市から派遣された『石工』が工事した扉を押し開く。壁の生成は『壁の聖女』の
風圧で、扉はなかなか開かなかった。スアラの気分は限りなく敬虔さに近い
風が心にも吹いた。
はやく愛するもののところに行こう。そこまで行けば、大丈夫……。
そこへ行くには大嫌いな場所の近くを通らなければならなかった。中等学校だ。中等学校の手前には、門は別々だが中で学校と敷地がひと続きになった修道院が、向かいにはリリスと話した公園がある。
スアラは顔を伏せ、足早に通り過ぎようとした。だが人は、見たくないものほどつい見てしまう。スアラは顔を上げてしまった。結果、修道院の門に掲げられた聖四位一体紋を見た。
『その発言は主の与えたもうた生命に対する冒涜です』
スアラは門に唾を吐いた。男子修道院なので、門の向こうにシスター・エピファニアがいないことはわかっていたが。
『懺悔なさい』
今度はより足早に進み始めたが、シスターの声は記憶からしみ出て追ってきた。
『神にです!』
「なにが神だ!」
思った以上に大きな独り言となったので、スアラは驚いて立ち止まった。今度は工具箱を見ることとなった。それは街灯の光の輪の中で眠っていた。学校の敷地を取り囲む、
聖四位一体紋を睨みつける。
かつて神は深き愛のゆえに、地球人に息子を、惑星アースフィアの言語生命体には娘を与えたという。
神の息子は地球人の手で処刑された。聖四位一体紋の中の十字。縦棒と横棒が交わるところ、人をはりつけるのにちょうど良いところ。そこに、スアラは釘を一本あてがって、金槌を振り上げた。
風雨にさらされ脆くなった木材に、金槌の一撃は気持ちいいほどよく効いた。長い釘は一撃で深く沈んだ。
「……なにが神だ」
足許に置いた、次の釘を取る。
「なにが神だ、神の愛だ」
そんなのは品行方正で聞き分けのいい連中への愛だろ? えっ? こんなことを、こんな冒涜的な発言と行動をする私への愛じゃない。
二本めの釘を沈めた。
ねえ、あんたに私を愛せるの? あんたをもう一度串刺しにする私を?
どうなのさ、
三本め。
そんなに私を愛しているのなら。
四本め。
私のために、今、また死ね。
五本め。
父親にオッパイを揉まれて股を押し付けられている全ての娘たちのために、何度も死ね。
六本、七本、八本め。
お前が創ったクソみたいな世界が終わるまで、死んで、死に続けろ。このクソみたいな世界のために、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死ね。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね! 死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、私のために。死ね、死ね、死ね、キモい父親に苦しめられる全ての娘たちのために。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!
二十六本。
それが全てだった。
スアラは十字の中央が釘だらけになった聖四位一体紋の前で立ち尽くした。
金槌を投げ捨てる。
もう、シスター・エピファニアのことなどどうでもよくなっていた。それからは、顔を伏せることも、足早になることもなく、ただ歩いた。
目指す場所についた。そこはかつてグロリアナで最も富裕な人々が暮らしていた地区で、今や空き地と廃れた邸宅だけが並ぶうら寂しい場所だった。いくつかの邸宅は最近になって借り手がついたのだが、夜になって温かな明かりが
スアラは緑色の郵便受けがある屋敷の
スアラはこの空き家が怖くなかった。荒れ果てていないからだ。自分のことを革命家だと思っているバカ共が定期的に掃除と害虫駆除をしているのだ。スアラ一人のために。
地下室へ降りていく。
スアラは鼻歌を始めた。歌はいつも同じ。『天使と少女の
内容は、例えばこんな具合だ。
家族を失った少女は、自ら家を焼き払い、彼女以外の誰にも見えない天使を道連れに故郷を後にする。過酷な環境を生き延びるために少女は様々な罪に手を染める。人を殺したときでさえ、天使は笑っていたのだが、故郷に帰ってそこに花が絶えているのを目にしたとき、天使は笑っていなかった。
スアラはこの物語が好きだった。訓話めいておらず、人の理解を拒む
十四段ある階段を下りきると、大きな錠が下がる両開きの扉が現れた。錠に描いた花の
明かりを掲げる。
光に反応し、地下室じゅうに仕込んだスアラの作品群が一斉に光を放った。
ペンキの匂い。
そこに、鯨がいた。木製の体を色とりどりの草花やツタ、樹木で彩られた、広い地下室の三分の一を埋め尽くす鯨だ。体のあちこちに
スアラは鯨の鼻先まできて、頭上に手を伸ばした。
指先は、口には届かなかった。鯨の顎から腹にかけて並ぶ、
左手で鯨に触れながら、スアラは鯨の頭の先から尻尾の先まで歩いて行った。端から端まで到達するのに一分かかった。それからさらに一分かけて頭の先に戻ると、今度は両腕を広げて鯨の顎を抱きしめた。
頬をすり寄せる。
「会いにこなくてごめんね、
スアラは微笑みを浮かべると、鯨の脇腹に固定した梯子から背中に上った。鯨の背には
鯨の体内に下りる。
そこはスアラの秘密基地で、毛布とお菓子、缶詰と、好きな冒険小説が数冊溜め込まれていた。跳ね上げ戸を閉めて、毛布をかぶり、横たわる。換気口の羽根を傾けると、外からの光が遮られ、木製の花が照らすのみとなった。それは今や眠気を誘うオレンジ色の微かな光だった。
壁には青いツバメが描かれていた。スアラの身長ほどもあるツバメだ。手を伸ばし、翼を撫でる。
鳥を。
鳥飼いの『鳥』が手に入らなければ、岩鯨の引き渡しまで時を稼げる。だが大した時間じゃないことはわかっていた、スアラが要求すれば、革命家たちは鳥飼いを拉致してくるだろう。そして、拒むなら、その家族を殺すとか、手首を切り落とすとか、とにかくスアラが望まないやり口で『鳥』をこの模様に組み込むのだ。
でも、そんなことは考えないでおこう。今夜だけは。
目を閉じる。眠気がくる。今日が過去になる。意識がほどけていく。
眠りに落ちる直前、大事なことを思い出した。
聞き流していたことを。
チルーとリリスは、スアラのものを見つけたといってグロリアナまで来た。それは彼女たちに『奏明』の賜物を持つ者の作品であると思わせるものだった。
もしかして、
あれ
なの?目を開く。
うんと小さなときに失われた、けれど忘れるべくもない
あれ
のことなの?