滅ぶが道理の聖女様

文字数 3,275文字

 1.

 階段を上りながら、アンテニー・トピアは(いま)だに迷っていた。彼は短慮なわりに優柔不断だった。ナイフを見せるべきか見せざるべきか。それが問題だ。
 二階の廊下から光が差して、階段の上に舞う埃を浮き上がらせていた。帯状の光は(ごう)と欲望の渦巻く場所をも聖なる場所のように見せかけた。一階の賭場(とば)は静まり返っているが、二階の売春宿は盛況だ。まだ日が傾いてもいないのに、嬌声、すすり泣き、肉を打ち据えていたぶる音と声が、光の中で笑いさざめく聖所の天使たちの声のように満ちていた。アンテニーの耳はルシーラの声を探した。
 それで、ナイフを見せるべきか(いな)かだ。
 階段を上り切ったところの踊り場で、アンテニーは廊下に向かい、また階段へと引き返し、窓辺をうろつきながら逡巡(しゅんじゅん)した。彼は四十にもなっておらず、まだ若々しさを保っていてもよさそうな歳であった。盛りの時より多少衰えても、()け始めるにはまだ早い。だが、彼は痩せて貧相で、鶏の蹴爪(けづめ)のように突き出た喉仏が神経質そうに上下する(さま)にはある種の老人のような頑迷さがあった。髪の生え際は額まで後退し、しかも白髪の割合が多かった。背中を丸めて窓の前をせわしなくうろつく彼は狂気じみて見える。ズボンのポケットから折りたたみ式のナイフを出せばなおさらだった。
 ああ、そうさ。
 彼は足を止めて、グリップから刃を出した。
 俺の浮気は遊びだが、あいつの浮気は十中八九、本気だ。誰かがこう言っていたじゃないか。本気なぶん、女の浮気は男のそれより罪深いって。
 身勝手なことを考える彼に心を決めさせたのは、奥のほうの薄い戸の向こうから響いた女の声だった。耳に馴染みのある叫び声だった。なんということだ。肉付きのいい尻と太腿を打たれ、その度に(よろこ)びに彩られた悲鳴を上げていたのはルシーラだったのだ。
 つかつかと、アンテニーは早足で廊下の奥へ向かった。ナイフの光が彼についていった。
 脅すだけだ。刺す? まさか。俺が本気だって思い知れば、これを使う必要なんてなくなるさ。でもな、ルシーラ、俺は本気なんだぞ。俺はとっても怒ってる。
 だが実のところ、アンテニーはルシーラという見すぼらしいが懸命に生きている女の夫でもなんでもないのだった。
 部屋は、廊下の奥から二番目の個室だった。興奮に彩られた甲高い声に体の一部分が反応する。いや、駄目だ、駄目だ。窃視(せっし)をしに来たのではないのだから。
 体の中心部から湧き立つ熱い血と興奮が駆け巡るのを堪えながら、ナイフを握り直す。切れ味のよい軍用品で、前線から逃走してきた下士官から買ってやったものだ。対トレブ共和国の前哨地であるグロリアナにはその手の(やから)が大勢いた。コブレンの森林地帯から前線が押し戻された今では、脱走兵だの抵抗教会だのを取り締まる士気も元気も、誰にもない。
 とにかく、アンテニーは目的を果たした。長ったらしく身勝手な言い分で己を奮い立たせた末に、戸を内側へと開け放ったのである。怯えさせるために、大きな音を立てて蹴り開けたつもりだったのだが、蝶番(ちょうつがい)が軋んだだけで、戸板全体がたわみながら間抜けな感じで奥へ開いた。足の裏全体で蹴るべきだったのだが、膝が上がらずできなかったので、爪先が痛んだ。
 相手の男が恐い奴だったらどうしよう?
 恐怖しながら部屋に踏み込むと、アンテニーは一歩めで絶句し、立ち竦んだ。
 ルシーラは汗にまみれ、褐色の髪を乱し、あられもない姿で横たわっていた。両手首は頭の上で縛られていた。白くなめらかなふくらはぎを肩に乗せて彼女に快楽を与えていたのは。
 女だった。
 アンテニーに顔を向けたルシーラの顔が素面(しらふ)に戻っていく。彼女と同じベッドの上で、肩の下まで伸ばした黒髪の女が臆することなく言い放つ。
「なに、お前」
 そちらの女は着衣のままで、しかも見覚えのある相手だった。
 アンテニーが突っ立っていると、女はルシーラの足を自分の肩からどかし、スリッパに無造作に足を突っ込んで立ち上がった。長い足、くびれた腰、広い肩幅。筋肉質の、逞しく、美しい女だった。
 救貧院のテレジアと呼ばれ、近頃グロリアナで聖女のように持て囃されている若者である。
「……そ、その女は!」
 アンテニーは、テレジアが歩み寄ってくるので(まく)し立てた。だが、腰は引け、肩はすぼまっていた。
「俺の女だ! ほとんど俺が買ってたようなもんだぞ! 他の男と寝ないでいいように――」
「残念。女だ」
 言うが早いか、テレジアの鋭い蹴りがアンテニーの手首に炸裂した。
 飛んだナイフが天井に深々と突き刺さり、石綿(いしわた)の粉を室内に降らせた。床にひっくり返って悲鳴を上げたアンテニーは、右手首があらぬ方向に曲がっているのを目にするや、すぐに沈黙した。
 テレジアが問う。
「で、あんた誰?」
 質問とは裏腹に、冷酷な目はこう言っていた。『私はお前を知っているぞ』
 テレジアの右手には、先刻までルシーラの中に押し込んでいた張り型――およそ現実離れした太さと長さの代物(しろもの)だ――が握られていたが、思い出したようにそれを肩越しに放り投げた。張り型はルシーラが裸体を覆うシーツの端に落ちた。
「ルシーラは俺の女だ」
 アンテニーは倒れ込んだ姿勢からようよう身を起こすと、座り込んで文句をつけた。
「身請け人?」
「今は違う、でも」
「だったら無責任なこと言っちゃいけないねえ。でも、でも、って言いながら、いつまでも美味しい思いだけ味わっていたいんだろ? お前のような手合いはさ」
「ルシーラは特別なんだ!」
 面目(めんぼく)を潰され、アンテニーはお菓子を没収された子供のようにすすり泣きをし始めた。
「どこにでも連れてってやったじゃないか。何でも買ってやったし。ネックレスも、鞄も」
 こういうわけだ。『ボク、いい子でお手伝いできたじゃないか。皿洗いも、雑巾がけも』
 ルシーラがおずおずと声をかけるか。
「あれは――」
「売ったってさ」
 アンテニーとルシーラは、同じくらい青ざめた。
「用がないなら出てけば?」
 冷ややかに言い放つテレジアの前で、アンテニーはこれ見よがしに折れた手首をさすっていたが、やがて拗ねた口調で吐き捨てた。
「右手が折れちまった」
「じゃあ左手で


「救貧の聖女がなんてことを。娼婦を買うなんて」
「公教会は知ってるさ。公然の秘密ってやつだよ」
「神の(いかづち)に打たれて死んじまえ」
 お(たの)しみを邪魔されて不機嫌だったテレジアは、ここにきてようやく愉快そうな光のかけらを目に浮かべた。片方だけ吊り上げた唇の笑いは冷たいままだったが。
(しか)り! 私のような偽善と背徳の(やから)は裁きを受けて滅ぶが道理というものだ。だが、見ろ。神が憐み深いがゆえに私は生きている。つまりだ! 私が生きているだけで、神の憐み深さは証明され続けるのだよ。そう! 私が生きている限り! 神の威光はいや増すばかりだ!」
 いい気になって高笑いをするので、アンテニーは諦めた。何を言っても無駄だ。惨めにも破れ去り、退場しようとするアンテニーがよろめきながら立つと、テレジアは笑うのをやめた。
「先生、面白いことを教えとくよ」
 苦々しい顔をしながらも、テレジアの顔を直視せずアンテニーは応じた。
「何だ」
「町に鳥飼いが来るよ」
 テレジアの言うことを、ルシーラもまた聞いていた。
「女の子だ」
 何のことだかアンテニーにはわからなかった。ルシーラにも。
「レライヤから来る」
 意図を確かめたくてアンテニーは尋ねた。
「買うのか?」
 たちまち蹴りの二撃めを腹に叩き込まれ、アンテニーは犬のように「キャン!」と叫んで部屋から弾き出された。廊下の壁に背中と後頭部をぶつけ、ずるずると倒れ込んだ。
「失せろ」


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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