封鎖地帯
文字数 2,939文字
4.
夜行列車への振替手続きを済ませて駅から戻っても、ルーは自宅に帰ってきていなかった。鍵が閉まり、戸を叩いても反応がない。
「サリー」
猫は返事をするのだが、ルーは返事をしないまま。アズはフクシャ大聖堂に足を向けた。その前庭には予想以上に人がおり、ミアとイスラに姿を見られることを思うと、足を踏み入れる気が失せた。
街をぶらついて時を潰す。
ルーなら大丈夫だろう、と思っていた。彼の賜物 はアズと同じく、滅多にいない戦闘特化型。つまり戦いになってルーに太刀打ちできる者もまた滅多にいない。銃や毒などで暗殺されない限りは。それに、ルーの言葉を借りればフクシャは彼の縄張りだ。
だが……もし街に潜む言葉つかいが他にもいたら?
心配しなくても大丈夫。アズは自分に言い聞かせるが、もちろん確証はなかった。
よそ者の街歩き。
銀行、大学、馬車道通り、狂信者の伝道。
旧友ただ一人を於 いて、この街で誰が信用できる?
酒店、茶葉店、レストラン、不謹慎な大道芸。
そしてバリケード。
いつしかアズは、死せるリィを追って辿り着いたバリケードの前にいた。目の前に横たわる通りを渡れば、その先は完全封鎖地帯。
両足は硬直し、視線は狙撃銃の射線がごとく、バリケードの脇の建物に定められた。
その建物の片開きの扉が半開きになっていた。
通りの周囲を警戒する。
人一人いない。
誰もがここを避けている。
小走りで通りを横切り、建物の外壁に背中を押しつけた。扉を内側から固定していた針金が切断され、落ちていた。中は暗い。ショーケースの枠組みが、かつてここが菓子店だったことを物語っていた。ガラスは砕け、当然ながら窓は板で塞がれている。床は銃弾でえぐれ、天井は崩落し、壁の一部に頭皮がこびりつき、長い毛髪が垂れていた。壁紙の模様に見えたまだらの色彩は血痕だった。
機銃掃射が行われたのだ。革命軍の手に落ちた日に。
「ルー?」
それで、侵入者は誰か。
ルーかもしれないし、そうでないかもしれない――アズは音もなく、半開きの扉から中に滑り込む。頭にペンチのイメージが浮かんだ。針金を切るペンチを持つ右手は、人差し指の先がない。
腰を屈め、アズはこそこそと奥の闇に身を浸す。カウンターの向こうは厨房。間取りからしてここから外に出られるはずなのだが、壁に土嚢 が積まれていた。
では、侵入者はここからどうやってバリケードの奥の封鎖地帯に忍び込んだ?
二階だ。
カーブする木の階段はかろうじて踏み板が残っているありさま。二階は客席。丸テーブルが五席。それぞれに椅子が二脚。一階の天井の崩落具合を思い起こせば、部屋の真ん中を歩くのは賢くない。アズは右手を壁につけて、そっと歩く。
部屋の奥の戸へ。
ミントグリーンに塗られた戸の先はスタッフルームだった。
廊下のような空間に、店員の制服が吊るされ、奥には私物が置かれたであろう棚。棚には丸めたカーペットが立てかけられている。
アズがそうした備品を確認したのは、素早くしゃがんでからだった。というのも、正面にガラス窓が並んでいるからだ。
図面入れが肩からずれ落ちないよう背中に回し直し、左手に拳銃を握る。安全装置を解除。周囲に針金が仕掛けられていないか、爆発物がないか確かめると、壁ににじり寄った。
早くも冬の陽 は沈みかけ、差し込む直射日光は斜めに傾いている。日輪はじきに迷宮の壁に触れる。
光に目を慣らしたアズは、ついぞ壁際 で立ち上がると、横目で外を確かめた。
もしもフクシャ守備隊がこの二階から突破しようとした場合、その兵士達に是非とも見せたいものを、革命闘士たちは周到に用意していた。
絞首刑台。
吊るされているのは五人。
聖教軍の制服の士官が一人。
警察官が一人。
老修道女が一人。
僧衣を着た司祭が一人。
何をしたのかわからないが、普通の身なりの女が一人。
踏み板は撤去され、一抱えもある大きなガラス瓶が下に置かれていた。
瓶を満たす黄色がかったは液体は、酢か、アルコールか。いずれにしろ漬けられた生首を保存する役を果たしていた。首はちょうど菓子店の二階に顔を向けていた。あの鼻は、生きているうちに削 ぎ落とされたのか。大きく開いた口の中に歯が見えないのは何故か。へし折られたにしろ、引っこ抜かれたにしろ、視線を放つべくもない白目が最期の苦痛を物語る。
一瞬のきらめきがアズの眼球を乾かした。
咄嗟にしゃがむ。
直後、窓ガラスが砕けて銃弾が壁を穿 った。
銃撃は一発では済まなかった。二発。三発。アズは体の右側を下にして窓際 に這う。砕けたガラス片が体に落ちてきた。
ガラスが頭に刺さらないよう、左腕をかざす。
銃撃が止 んだ。
体を起こし、方向を確認。
向かいの教会の鐘楼 だ。
素早く伏せる。ほぼ同時に銃撃。四発。五発。弾は斜めに降り注ぎ、窓からスタッフルームの入り口への動線を完全に塞いだ。
六発。
床が木屑を散らす。
だが、カウントは不要だった。
弾切れを待つまでもなく、頭上で足音。
誰かが屋根の上を走ってくる。
銃撃が止んだ隙に、アズは瞬時に身を起こし、戸の向こう、客席へと逃げ込んだ。手榴弾が投げ込まれると思ったのだ。
だが違った。
影が割れ窓に投げかけられ、直後、予測より遥かに大きなものが、窓枠から一番近いテーブルに転がりこんできた。日が沈む。無知蒙昧 の斜陽。投げ込まれたのは籐 の籠で、弾み、蓋が開き、柔らかいものが出てきた。それは自ら動いてアズの前を走り、壁に行き当たると、威嚇しながら後ずさった。
猫だった。
「サリー!」
他の猫と見間違えたりはしない。その三毛猫の、オレンジ、黒、白の毛並みの模様をしっかり覚えている。
「サリー」
猫は恐怖に目を見開いて、牙を見せて威嚇した。哀れな小さな生き物。物怖 じせず人懐こい猫だったサリーは、今や怯え切っていた。体に血がつき、固まっている。誰かが血まみれの手で猫に触れたのだ。そして、アズへの素敵な手土産 を、生皮で猫の体に縛りつけた。
目を凝らす。
サリーの背中にくくりつけられているのは、切り落とされた手首。
人差し指の先がない右手首だった。
「サリー、おいで」
だが猫は、緑の瞳でアズを見つめて動かない。全身の毛は逆立ち、太い尻尾を胴に巻きつけ、唸り、威嚇する。
叫び出したかった。悲しみの強烈な衝動のゆえに。サリー。ルー。サリー。ルー。けれどもアズは声を出さない。ルー。どこに行った。ルー。何があったんだ。
助け出さないと。
だが、逃げ出すのが先だ。
身を翻し、階段を駆け下りる。
一階へ。
無残に変わり果てた菓子店の、瀟酒 だった扉を蹴り開ける。
途端に三方向から銃を突きつけられた。
アズは口を開く。
ミア。
銃は、すぐには火を吹かなかった。
太陽の角度は下がり続ける。無知蒙昧の日没……。
夜行列車への振替手続きを済ませて駅から戻っても、ルーは自宅に帰ってきていなかった。鍵が閉まり、戸を叩いても反応がない。
「サリー」
猫は返事をするのだが、ルーは返事をしないまま。アズはフクシャ大聖堂に足を向けた。その前庭には予想以上に人がおり、ミアとイスラに姿を見られることを思うと、足を踏み入れる気が失せた。
街をぶらついて時を潰す。
ルーなら大丈夫だろう、と思っていた。彼の
だが……もし街に潜む言葉つかいが他にもいたら?
心配しなくても大丈夫。アズは自分に言い聞かせるが、もちろん確証はなかった。
よそ者の街歩き。
銀行、大学、馬車道通り、狂信者の伝道。
旧友ただ一人を
酒店、茶葉店、レストラン、不謹慎な大道芸。
そしてバリケード。
いつしかアズは、死せるリィを追って辿り着いたバリケードの前にいた。目の前に横たわる通りを渡れば、その先は完全封鎖地帯。
両足は硬直し、視線は狙撃銃の射線がごとく、バリケードの脇の建物に定められた。
その建物の片開きの扉が半開きになっていた。
通りの周囲を警戒する。
人一人いない。
誰もがここを避けている。
小走りで通りを横切り、建物の外壁に背中を押しつけた。扉を内側から固定していた針金が切断され、落ちていた。中は暗い。ショーケースの枠組みが、かつてここが菓子店だったことを物語っていた。ガラスは砕け、当然ながら窓は板で塞がれている。床は銃弾でえぐれ、天井は崩落し、壁の一部に頭皮がこびりつき、長い毛髪が垂れていた。壁紙の模様に見えたまだらの色彩は血痕だった。
機銃掃射が行われたのだ。革命軍の手に落ちた日に。
「ルー?」
それで、侵入者は誰か。
ルーかもしれないし、そうでないかもしれない――アズは音もなく、半開きの扉から中に滑り込む。頭にペンチのイメージが浮かんだ。針金を切るペンチを持つ右手は、人差し指の先がない。
腰を屈め、アズはこそこそと奥の闇に身を浸す。カウンターの向こうは厨房。間取りからしてここから外に出られるはずなのだが、壁に
では、侵入者はここからどうやってバリケードの奥の封鎖地帯に忍び込んだ?
二階だ。
カーブする木の階段はかろうじて踏み板が残っているありさま。二階は客席。丸テーブルが五席。それぞれに椅子が二脚。一階の天井の崩落具合を思い起こせば、部屋の真ん中を歩くのは賢くない。アズは右手を壁につけて、そっと歩く。
部屋の奥の戸へ。
ミントグリーンに塗られた戸の先はスタッフルームだった。
廊下のような空間に、店員の制服が吊るされ、奥には私物が置かれたであろう棚。棚には丸めたカーペットが立てかけられている。
アズがそうした備品を確認したのは、素早くしゃがんでからだった。というのも、正面にガラス窓が並んでいるからだ。
図面入れが肩からずれ落ちないよう背中に回し直し、左手に拳銃を握る。安全装置を解除。周囲に針金が仕掛けられていないか、爆発物がないか確かめると、壁ににじり寄った。
早くも冬の
光に目を慣らしたアズは、ついぞ
もしもフクシャ守備隊がこの二階から突破しようとした場合、その兵士達に是非とも見せたいものを、革命闘士たちは周到に用意していた。
絞首刑台。
吊るされているのは五人。
聖教軍の制服の士官が一人。
警察官が一人。
老修道女が一人。
僧衣を着た司祭が一人。
何をしたのかわからないが、普通の身なりの女が一人。
踏み板は撤去され、一抱えもある大きなガラス瓶が下に置かれていた。
瓶を満たす黄色がかったは液体は、酢か、アルコールか。いずれにしろ漬けられた生首を保存する役を果たしていた。首はちょうど菓子店の二階に顔を向けていた。あの鼻は、生きているうちに
一瞬のきらめきがアズの眼球を乾かした。
咄嗟にしゃがむ。
直後、窓ガラスが砕けて銃弾が壁を
銃撃は一発では済まなかった。二発。三発。アズは体の右側を下にして
ガラスが頭に刺さらないよう、左腕をかざす。
銃撃が
体を起こし、方向を確認。
向かいの教会の
素早く伏せる。ほぼ同時に銃撃。四発。五発。弾は斜めに降り注ぎ、窓からスタッフルームの入り口への動線を完全に塞いだ。
六発。
床が木屑を散らす。
だが、カウントは不要だった。
弾切れを待つまでもなく、頭上で足音。
誰かが屋根の上を走ってくる。
銃撃が止んだ隙に、アズは瞬時に身を起こし、戸の向こう、客席へと逃げ込んだ。手榴弾が投げ込まれると思ったのだ。
だが違った。
影が割れ窓に投げかけられ、直後、予測より遥かに大きなものが、窓枠から一番近いテーブルに転がりこんできた。日が沈む。
猫だった。
「サリー!」
他の猫と見間違えたりはしない。その三毛猫の、オレンジ、黒、白の毛並みの模様をしっかり覚えている。
「サリー」
猫は恐怖に目を見開いて、牙を見せて威嚇した。哀れな小さな生き物。
目を凝らす。
サリーの背中にくくりつけられているのは、切り落とされた手首。
人差し指の先がない右手首だった。
「サリー、おいで」
だが猫は、緑の瞳でアズを見つめて動かない。全身の毛は逆立ち、太い尻尾を胴に巻きつけ、唸り、威嚇する。
叫び出したかった。悲しみの強烈な衝動のゆえに。サリー。ルー。サリー。ルー。けれどもアズは声を出さない。ルー。どこに行った。ルー。何があったんだ。
助け出さないと。
だが、逃げ出すのが先だ。
身を翻し、階段を駆け下りる。
一階へ。
無残に変わり果てた菓子店の、
途端に三方向から銃を突きつけられた。
アズは口を開く。
ミア。
銃は、すぐには火を吹かなかった。
太陽の角度は下がり続ける。無知蒙昧の日没……。