……それとも、生きたいのか?
文字数 3,167文字
4.
巡礼は去り、人が出てきた。チルーとリリスは身を屈め、腰の高さの壁に隠れて広場から遠ざかった。
魔女の家まで戻ってきた。その家の窓を見て、チルーは出かかった声を口の中で押し殺した。窓辺に魔女がおり、目の上で手庇 を作り、両眼をカッと見開いて、立ったまま死んでいた。
一方リリスはモミの木の陰で立ち止まった。
教会へ続く坂の上から男が降りてくる。黒い僧服の司祭だ。彼をやり過ごすと、二人は一目散に魔女の家の裏に回り込んだ。この家を越えれば町の外だ。
何を思ったのか、リリスが教会に顔を向けた。訝 しむような視線を注ぎながら、教会へと進路を変更する。
「待ってて」
だが、チルーは待たずについていった。
教会に明かりはなく、細いステンドグラス越しに様子を窺うが、何も聞こえない。リリスは優雅な曲線を描くドアハンドルに手をかけて、教会の戸を押し開けた。やめようよ、と言いたかったが、諦めが言葉を押し留めた。
チルーは中を見て後悔した。
人々が、恐ろしいものから逃げて祭壇の前に一かたまりになり、そのまま息絶えていた。会衆席のベンチには中年の男が一人残っており、首と体を後ろに仰け反らせ、戸口のチルーたちに光のない目を向けていた。
そこで何をしている! と声がかかるのを恐れたが、そんなことは起きなかった。リリスは戸を閉めると、魔女の家のほうへ戻っていく。
魔女の家の裏手には、半地下の空間に降りる階段があった。階段の途中で、頭を下に向けて少年が死んでいた。階段の先には木の扉があり、いつでも誰でも入れるように、鍵はつけられていなかった。倉庫の類 ではない。きっと祠か礼拝所だ。
読みは当たった。リリスが警戒しながら扉を開いても、中に誰もいなかったが、乳香の匂いが神聖な空気を作り出していた。立ち並ぶ蝋燭と、お手製の祭壇。三方の壁には、額 入りの絵が計十枚ほどかけてあった。
誘 われるように、足を踏み入れていく。
額の前に立った。
ヒースの丘の上、夕闇を滑る魔女の絵。
詩が添えられていた。
『魔女は西へ逃げた』
隣の額には、星空を滑る魔女の絵。
『別の魔女が追った』
字が読めない人でも理解できる絵物語だ。
『追跡者の箒 が夏の星座を撫でると長い雨が降った』
『ヒースの丘は潤い、窪地の水たまりから、呻く死霊の群れが這い出た』
ふと我に返り、前を行くリリスの腕を取った。
「出よう」
祠は暗いが、リリスが不満げな表情をしていることはわかった。チルーは静かに説得した。
「ここは神聖なところだよ。聖所なんだ」
※
死者が歩き回ると、生きている人は壊れる。
祠から出ると、怒鳴り声が聞こえた。壁の隙間から窺えば、死体が転がる広場で、脳天に斧を食い込ませた司祭が倒れていた。村人たちは責任を押し付けあってがなっていた。一人の若者が魔女の家を指差した。その先で、死せる魔女は手庇を続け、最期に見たものを今も見続けようとしていた。それか、見えたものの国に行っただろうか?
広場からの死角を選び、再び魔女の家の裏へ。今度はリリスがチルーの腕を取る。雲に滲む夕日も今や薄れていた。日が沈む。リリスが教会を顎で指す。
教会横の鳥小屋に、蝋燭の明かりが見えていた。ばね仕掛けの鳥が金網の中を乱舞する、その影が見えた。影の中、女が立っていた。長衣と雰囲気で、あれは鳥飼いではないかと思った。
やけに背が高い。いや。踏み台に乗っているのだ。両手を上げている。電球を変えているのか。いや。
縄が下がっているのだ。
その縄の先端の輪に、鳥飼いは頭をくぐらせた。肩まで伸ばした髪が縄に絡まらないよう、払う。最後に踏み台を蹴った。
耳を覆いたかった。踏み台が倒れる音は聞こえてこなかった。その音は、幻聴としてチルーの頭に響いた。
「こんなの駄目だよ」
チルーは理性を保つために口走った。
「いけない。冒涜 だ。聖所を。ね。リリス。駄目」
「落ち着いて」
「教会の言葉つかいは巡礼から教会を守る」
リリスの手を握り返して、力を込めた。力の調整ができない。
「やっちゃった」
「大丈夫だから」
「あの祠だって。みんなの。神聖な場所で」
「もう終わったから。チルー」
リリスは空いているほうの手で、人差し指を口に当てた。
「神聖な場所を死者が通っちゃ駄目なんだ。冒涜だよ。私たちは通すどころか招いちゃった。招いちゃった!」
「聞いて、チルー、静かに」
リリスがチルーの手を解 こうとするが、チルー自身、手から力を抜く方法がわからなかった。
「これが聖所冒涜なら、私たちは聖所冒涜を続けることになるよ。死者は聖所を通りたかったんだ」
「駄目だよ」
「思い出して。死者が目指してるのは一番神聖な場所だ。迷宮の中心だ」
「駄目」
「じゃあどうしろっていうの」
「帰ろう」
リリスは眉を寄せる。
「どこに」
レライヤしかない。チルーは学園以外の世界を知らない。
「先生たちに謝って、許してもらおうよ」
もはやリリスに馬鹿にされることなど怖くない。だがリリスはチルーを馬鹿にしない。憐むような目をしただけだった。
「無理だよ。学園がどうこうの問題じゃない。学園の後ろにいるのは公教会なんだ。司祭と、司教と、枢機卿と、教皇庁だ」
「何が言いたいの」
「逃げた時点で私たちは公教会に楯突 いた」
皮膚感覚が消えていく。寒さと、リリスの言葉で。
「魔女は尊敬されてた。言葉つかいの教育なんて受けてないのに。それくらい言葉つかいの力は脅威なんだよ。持ってるだけで特別なの。わかるよね、チルー。君は自分を鳥飼いでしかないというけど、でも言葉つかいには違いない。誰もが持ってる力じゃない」
呼吸一つの間 を置き、続ける。
「脅威だから、公教会のシステムに組み込まれて、飼い慣らされたんだ。公教会から逃げ出す言葉つかいなんて許されない。若くて力の弱いうちに必ず殺される」
「だったらどうして逃げ出したの!?」
「君は戻れるよ」
リリスは笑った。きっと彼女も意図していなかったのだろうが、ひどく意地の悪い笑みだった。
「戻って学園に保護を求めるんだ。鳥を手に入れたことを打ち明けて、後のことは私のせいにすればい。唆 されたって。脅されたって」
チルーは首を横に振る。リリスも振った。
「きっと信じてもらえるよ」
そうだ。チルーにはわかる。リリスに脅されたといえば、教師たちは信じる。それは、チルーは意志薄弱な馬鹿だと思われているから。馬鹿すぎて自分のしたことの責任など取れないと思われているから。内気で度胸や行動力のかけらもないと思われているから。
そして、リリスは違うから。
「自分で決断して、チルー」
ぱっ、と反感の火花が散り、一瞬本当に目の前が明るくなった気さえした。
「都合のいいこと言わないで!」
喉は凍りつかなかった。リリスの腕から手が離れた。離すことができた。これからも、ずっと。
この手はいつだって離せるのだ。
立ち上がり、魔女の家と、鳥小屋を後にする。だがさほど進みもせずに止まった。
どこに行くつもりなのか?
学園に戻りたいのか、本当に?
振り返る。
リリスもまた歩き始めていた。
チルーと反対方向、町の中へ。
「リリス?」
ああ、彼女もまた、どこに行くつもりなのか?
チルーは息を詰め、大股でリリスを追った。
どうしてこんな所で一人でいられよう。結局のところ、チルーには目的がない。だから、リリスにそれがあるのなら、どこに行き、何をするのか見ずにはおけなかった。
巡礼は去り、人が出てきた。チルーとリリスは身を屈め、腰の高さの壁に隠れて広場から遠ざかった。
魔女の家まで戻ってきた。その家の窓を見て、チルーは出かかった声を口の中で押し殺した。窓辺に魔女がおり、目の上で
一方リリスはモミの木の陰で立ち止まった。
教会へ続く坂の上から男が降りてくる。黒い僧服の司祭だ。彼をやり過ごすと、二人は一目散に魔女の家の裏に回り込んだ。この家を越えれば町の外だ。
何を思ったのか、リリスが教会に顔を向けた。
「待ってて」
だが、チルーは待たずについていった。
教会に明かりはなく、細いステンドグラス越しに様子を窺うが、何も聞こえない。リリスは優雅な曲線を描くドアハンドルに手をかけて、教会の戸を押し開けた。やめようよ、と言いたかったが、諦めが言葉を押し留めた。
チルーは中を見て後悔した。
人々が、恐ろしいものから逃げて祭壇の前に一かたまりになり、そのまま息絶えていた。会衆席のベンチには中年の男が一人残っており、首と体を後ろに仰け反らせ、戸口のチルーたちに光のない目を向けていた。
そこで何をしている! と声がかかるのを恐れたが、そんなことは起きなかった。リリスは戸を閉めると、魔女の家のほうへ戻っていく。
魔女の家の裏手には、半地下の空間に降りる階段があった。階段の途中で、頭を下に向けて少年が死んでいた。階段の先には木の扉があり、いつでも誰でも入れるように、鍵はつけられていなかった。倉庫の
読みは当たった。リリスが警戒しながら扉を開いても、中に誰もいなかったが、乳香の匂いが神聖な空気を作り出していた。立ち並ぶ蝋燭と、お手製の祭壇。三方の壁には、
額の前に立った。
ヒースの丘の上、夕闇を滑る魔女の絵。
詩が添えられていた。
『魔女は西へ逃げた』
隣の額には、星空を滑る魔女の絵。
『別の魔女が追った』
字が読めない人でも理解できる絵物語だ。
『追跡者の
『ヒースの丘は潤い、窪地の水たまりから、呻く死霊の群れが這い出た』
ふと我に返り、前を行くリリスの腕を取った。
「出よう」
祠は暗いが、リリスが不満げな表情をしていることはわかった。チルーは静かに説得した。
「ここは神聖なところだよ。聖所なんだ」
※
死者が歩き回ると、生きている人は壊れる。
祠から出ると、怒鳴り声が聞こえた。壁の隙間から窺えば、死体が転がる広場で、脳天に斧を食い込ませた司祭が倒れていた。村人たちは責任を押し付けあってがなっていた。一人の若者が魔女の家を指差した。その先で、死せる魔女は手庇を続け、最期に見たものを今も見続けようとしていた。それか、見えたものの国に行っただろうか?
広場からの死角を選び、再び魔女の家の裏へ。今度はリリスがチルーの腕を取る。雲に滲む夕日も今や薄れていた。日が沈む。リリスが教会を顎で指す。
教会横の鳥小屋に、蝋燭の明かりが見えていた。ばね仕掛けの鳥が金網の中を乱舞する、その影が見えた。影の中、女が立っていた。長衣と雰囲気で、あれは鳥飼いではないかと思った。
やけに背が高い。いや。踏み台に乗っているのだ。両手を上げている。電球を変えているのか。いや。
縄が下がっているのだ。
その縄の先端の輪に、鳥飼いは頭をくぐらせた。肩まで伸ばした髪が縄に絡まらないよう、払う。最後に踏み台を蹴った。
耳を覆いたかった。踏み台が倒れる音は聞こえてこなかった。その音は、幻聴としてチルーの頭に響いた。
「こんなの駄目だよ」
チルーは理性を保つために口走った。
「いけない。
「落ち着いて」
「教会の言葉つかいは巡礼から教会を守る」
リリスの手を握り返して、力を込めた。力の調整ができない。
「やっちゃった」
「大丈夫だから」
「あの祠だって。みんなの。神聖な場所で」
「もう終わったから。チルー」
リリスは空いているほうの手で、人差し指を口に当てた。
「神聖な場所を死者が通っちゃ駄目なんだ。冒涜だよ。私たちは通すどころか招いちゃった。招いちゃった!」
「聞いて、チルー、静かに」
リリスがチルーの手を
「これが聖所冒涜なら、私たちは聖所冒涜を続けることになるよ。死者は聖所を通りたかったんだ」
「駄目だよ」
「思い出して。死者が目指してるのは一番神聖な場所だ。迷宮の中心だ」
「駄目」
「じゃあどうしろっていうの」
「帰ろう」
リリスは眉を寄せる。
「どこに」
レライヤしかない。チルーは学園以外の世界を知らない。
「先生たちに謝って、許してもらおうよ」
もはやリリスに馬鹿にされることなど怖くない。だがリリスはチルーを馬鹿にしない。憐むような目をしただけだった。
「無理だよ。学園がどうこうの問題じゃない。学園の後ろにいるのは公教会なんだ。司祭と、司教と、枢機卿と、教皇庁だ」
「何が言いたいの」
「逃げた時点で私たちは公教会に
皮膚感覚が消えていく。寒さと、リリスの言葉で。
「魔女は尊敬されてた。言葉つかいの教育なんて受けてないのに。それくらい言葉つかいの力は脅威なんだよ。持ってるだけで特別なの。わかるよね、チルー。君は自分を鳥飼いでしかないというけど、でも言葉つかいには違いない。誰もが持ってる力じゃない」
呼吸一つの
「脅威だから、公教会のシステムに組み込まれて、飼い慣らされたんだ。公教会から逃げ出す言葉つかいなんて許されない。若くて力の弱いうちに必ず殺される」
「だったらどうして逃げ出したの!?」
「君は戻れるよ」
リリスは笑った。きっと彼女も意図していなかったのだろうが、ひどく意地の悪い笑みだった。
「戻って学園に保護を求めるんだ。鳥を手に入れたことを打ち明けて、後のことは私のせいにすればい。
チルーは首を横に振る。リリスも振った。
「きっと信じてもらえるよ」
そうだ。チルーにはわかる。リリスに脅されたといえば、教師たちは信じる。それは、チルーは意志薄弱な馬鹿だと思われているから。馬鹿すぎて自分のしたことの責任など取れないと思われているから。内気で度胸や行動力のかけらもないと思われているから。
そして、リリスは違うから。
「自分で決断して、チルー」
ぱっ、と反感の火花が散り、一瞬本当に目の前が明るくなった気さえした。
「都合のいいこと言わないで!」
喉は凍りつかなかった。リリスの腕から手が離れた。離すことができた。これからも、ずっと。
この手はいつだって離せるのだ。
立ち上がり、魔女の家と、鳥小屋を後にする。だがさほど進みもせずに止まった。
どこに行くつもりなのか?
学園に戻りたいのか、本当に?
振り返る。
リリスもまた歩き始めていた。
チルーと反対方向、町の中へ。
「リリス?」
ああ、彼女もまた、どこに行くつもりなのか?
チルーは息を詰め、大股でリリスを追った。
どうしてこんな所で一人でいられよう。結局のところ、チルーには目的がない。だから、リリスにそれがあるのなら、どこに行き、何をするのか見ずにはおけなかった。