無か全か

文字数 2,743文字

 2.

 疲れ果てたルシーラが帰ったとき、家は真っ暗だった。子供たちは寝たようだ。足を引きずってダイニングにたどり着き、電気をつけた途端に悲鳴をあげた。目の前に人の顔があった。
「子供たちが起きてしまうよ」
 悪びれもせず、テレジアが言い放った。ルシーラはすぐに気を取り直し、声を荒らげた。
「帰って」
「そうカッカしなさんな。超多忙の救貧の聖女様がベビーシッターをしに来てやったんだ」
「何が目的なの?」
「いい仕事を紹介しよう」
 テレジアを押しのけて奥の低い戸棚を開け、ワインのコルクを抜く。
「この家に二人組みの女の子たちが来たことはわかっている」
 瓶に直接口をつけようとしていたルシーラは、それを聞いて動きを止めた。
「ところで奥さん、警察はよく君を放したね」
「裁判が始まるまで自宅待機よ。あいにく牢屋は臭くて汚い脱走兵でいっぱいなの」
「そこに君をねじ込まなかったとは、司直にも人の心があるのか」
 歩み寄ってきたかと思うと、テレジアはルシーラの手からワインの瓶をひったくり、瓶に口をつけ、上を向いて(あお)った。赤紫の滴が一筋、口の端から垂れ落ちた。
「ここは私の家よ」
 半ば呆然としながら抗議すると、テレジアは手の甲で口を拭きながら瓶を棚に置いた。
「状況については私も証言してあげよう。君に実刑判決を下せる人はなかなかおるまいよ」
「それを言いに来たの?」
「まさか。言ったろ? 仕事の紹介だ」
 テレジアはジャケットの内ポケットに手を入れて金塊をちらつかせると、すぐにしまった。
「君は自宅待機の間、窓の外を見張る。そして例の少女二人を見かけたら私に報告する。理由や目的については一切質問しない。他言もしない。どうだ?」
「嫌よ」ルシーラは後退りながら睨みつけた。「おかしなことに巻き込まないで」
「そりゃ被害妄想だよ、奥さん」
「どうせろくなことにならないわ」
「まさか。君ら一家が食いつなぐことができるようになるだけさ。娘に服を買ってあげろ」
「娘のことは」
 言い差して、今娘の体に合う服は、兄二人が着古したボロ着しかないことに思い至った。
 ルシーラは当たり障りのない文言(もんごん)を口にした。
「娘――子供たちのことは神が助けてくださるわ」
 聖女様のお返事はこうだった。
「神はお前の厄介事をぶち込むゴミ箱じゃない」
「帰って!」
 ルシーラは怒りを爆発させた。
「二度と会いたくない! もうお店にも来ないで!」
「君は私のために働くよ」
「出ていけ!」
 それで、テレジアは出ていった。もちろん自分の修道院に帰ったのだが、()しくも中等学校を離れてさまよい歩くスアラもまた、その場所にたどり着いていた。
 ガス灯が赤々と照らす街路では、今夜も炊き出しが行われていた。たった一杯のスープにありつくために並んでいた脱走兵や労働者、失業者たちが、ここでは誰も喧嘩せず、修道院と併設の救貧院、その角を二回曲がった裏手にまで列を作っていた。通りは垢とアンモニアの刺激臭でむせ返るほどだが、手際よくスープを配給する修道女たちは誰一人嫌そうではなかった。ガス灯の光のせいか、心温まる光景にさえ見えた。
 スアラは急に疲れを感じ、修道院の向かいの書店の壁に背を預けた。その内、膝を曲げてしゃがみ込んだ。しばらくして、救貧院の薄い扉の向こうからこう聞こえてきた。
院長(マザー)・テレジアが帰られた!」「マザー!」「マザー!」
 スアラは顔をあげた。テレジア。ルシーラがアルコにとどめを刺したとき、そばに立っていた人だ。
「君、さっきから何してるの?」空いた器を回収して回る若い修道女の一人がスアラに声をかけた。「並ぶの? 並ばないの?」
 スアラは修道女の目を見ながら立ち上がった。足が若干痺れていた。ふらつきながら、家を出てからどれくらい経ったか考えてみた。二時間経っただろうか? たぶんまだだ。まだ両親が眠りこむ時間ではない。
 それまで時間稼ぎが必要だ。
「手伝ってもいいですか?」
 尋ねてみた。追い払われると思ったが、意外にも頷かれた。
「じゃあ、これを中に運んで」
 修道女は顎で救貧院の出入り口を指した。
「中の人に渡したらすぐに出てらっしゃい。一緒に器を回収してそのあと洗い場と交代。みっちり働いてもらうからね」
 広い救貧院には四つの大部屋と十五の小部屋があるが、ベッドが六台ある奥の小部屋は、あとは死を待つのみの病者が横たわる部屋だった。窓には汚れきったカーテンがかかっているが、ベッドの間を遮るものはなかった。
 戸口に一番近いベッドとベッドの間に、背もたれのない椅子があった。そこに腰をかけ、テレジアは病者の顔に覆いかぶさるうように、死に向かう人の祈りを囁いていた。
 それは、公教会に敵対する抵抗教会の祈りだった。
 抵抗教会の信徒である病者は老いさらばえ、痩せこけ、顔は青黒く変わっていたが、皺深い寝顔は穏やかだった。そして、息をしていなかった。
「今宵、こちらのお一方(ひとかた)が神のもとに召されました」
 テレジアは死者の顔を離れ、椅子に座り直した。
「神よ、どうかこの死者を心に留めてください。病のない、貧苦のない、悲しみのない国へと迎え入れてください。また彼に続く者たちの苦しみを和らげてください。(しゅ)の平和」
 部屋にいて、まだ起きている病者たちがテレジアに唱和した。
「主の平和」
「明日の朝、葬儀を執り行います」テレジアは、聖女然とした穏やかな声で同室の者に告げた。「時間は追ってお知らせします。参列が難しい方も、どうかお祈りくださいませ」
 同意を示す曖昧な呟きが、蝋燭が一本あるだけの部屋のほうぼうであがった。テレジアはすぐには退席しなかった。背筋を正して座り、祈る。
 目を開けると、死者の隣のベッドの老婆が語りかけた。
「その強欲ジジイはね、布団の中で死ぬ権利はないってみんなに言われてたのさ」
 誰も何も言わないが、耳を澄ませている気配があった。
「それを、マザー、あんたぁに祈ってもらって、しかも望み通りに抵抗教会の祈りなんざしてもらって、十分に幸せな最期さ」
 テレジアが目を向けると、黄疸(おうだん)が目立つ小柄な老婆が歯のない口で笑った。
「マザー、あんたぁは、天使のような人だよ」
 テレジアは嫌味ではない微笑を浮かべた。
「お(たわむ)れを」
「あんたぁに、いい人はおらんのかね?」
 窓際の老人が言う。
(ばば)あ、困らせるんじゃねえ」
 灯影(ほかげ)に顔の半分を照らされながら、テレジアは慈愛に満ちた目を老婆に注いだ。
「いいえ。私のような者は、一人を特別に愛することはありません。
 全てを愛するか、何ものも愛さぬかです」
「あんたぁのような人が、何も愛してないはずがねぇ」
 それだけ言って、老婆は浅い息を吐いた。
「ああ、マザー……祈っておくれ。私のためにも」
 窓の向こうでは、配給を待つ人の列が伸び続けている。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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