父なる者は、今も

文字数 3,967文字

 3.

 アズは南ルナリア大聖堂にスーデルカを送り返したあと、仮眠をとり、夜中に再び大聖堂を()った。アズは今度は車をフクシャの北へと走らせた。会うべき人はこれで最後だ。
 夜明け、東の空が薄桃色に明ける頃、世界で最も大事な家にアズはたどり着いた。やがて朝陽に照らされれば、その家は店舗を兼ねていることがわかるだろう。軒先にはこう看板が掲げられている。
『ラティア薬局店』
 ヘッドライトを消し、エンジンを切って、アズは車を下りる。前階段を上り、夢のように扉を叩く。そう、確かにこんな夢を見た。

(トビィ! 起きて!)
(アズが帰って来た!)

 ……。

 ※

「晴れてよかったねえ!」
 レミが小径(こみち)の先で振り向いた。黄色い長髪は束ねずに背中に垂らしていて、口の周りに何本も髪が張り付いていた。アズの幼なじみは、双子の兄の美しい妻となっていた。
「去年も一昨年(おととし)も、命日は雪だったもんねえ」
「それに今年はアズもいるよ。今日はいい日だ」
 既視感に苛まれながらゆっくり歩くアズを、トビィが振り向いた。臨月のレミが大きな腹をさすっている以外、夢と変わりがない。
 もしかして、とアズは思う、俺はまだあの洞窟にいるのか。本当は、今まさに、ルーを殺した化け物に捻り潰されようとしているのではないか。
「アズ」
 ブナの木立に横たわる道は石畳で舗装されていた。霜が朝日を浴び、きらめきながらとけていく。葉を落とした木々の間を風が吹き抜けてくる。空は雲ひとつない晴天で、アズたちの顔に枝の模様をつけていた。
「どうしたの? ぼうっとして」
 アズは答えずに、黙って手を上げた。掌をトビィの胸に押し当てる。トビィは笑った。
「なに? 急に」
 しばらくそのままでいると、服越しに鼓動が伝わってきた。
「……鼓動がある」
「何言ってんの、当たり前じゃん」
 どうしたの? と、トビィはもう一度尋ねた。アズは今度は答えた。
「生きても生きてもわからないことがあるんだ」
「どういう意味?」
「アズ」先を歩いていたレミが戻ってきた。「アズさ、もしかして、今すごくつらいんじゃない?」
「つらい? ……そうか。つらいのかもしれないな」
「アズ、ねえ、どうしたの?」トビィが肩に腕を回した。「言って?」
「教会の仕事をしていると……」
「うん」
「……何が夢で、何が現実かわからなくなるときがある。何のために、どこで何をしているのか、人を殺しているのか、物を壊しているのかわからない……」
 教会とはなんだ。
 心には闇がある。アズは闇へと手を伸ばす。けれど、もし裂けて血を流すことがあるのなら、それは闇ではないはずだ。
「人を殺していると……そう考えるなら、公教会の天使であり続けるのは難しい……のかもしれない、そう考えてた」
「アズはここにいるよ」肩に回った腕に力がこもる。「俺もレミも。大丈夫だよ。いつもここにいるから」
 アズは身を捩ってその優しさから逃れたい衝動に襲われる。心を覗き込まないで欲しかった。それでも二人には伝わっている。アズの悲しみが。悲しみの矢は鋭い。隠し持っても、外界からの僅かな愛と光を受けてきらめくのだ。
 闇は裂け、血を流した。アズの両目に涙が浮かんだ。
「昔さ」レミが口を開く。「私たちが湖で遊んでたときに、私のサンダルが波で流されちゃったよね。アズは必死になって取りに行こうとしてくれたよね。もういいよ、危ないよって大人がみんな言ってるのに、アズは『レミが泣いてるから』って」
「俺は、ただ――」
「アズは本当は優しい人だよね」レミは静かにアズの手を取った。「私たちは知ってる」
「生きても生きてもわからないことがあったっていいじゃん。っていうかそれが普通でしょ。アズ、俺はアズが生きてるだけで嬉しいよ」
「教会にいればいろいろな命令を受けるんだ。それでも……」
 ついぞ目尻から、涙がひとしずくこぼれた。
「生きているだけのことが、神への愛たり得るだろうか」
 涙で視界が滲み、光が充溢(じゅういつ)した。
「聞いて」
 一羽のオオルリが、鳴き騒ぎながら近くの枝から飛び去っていく。
「父なる者は、今もそばにいて、君を愛している」
 木立の向こうに墓地が広がっていた。湖を見はるかす眺めのいい丘の手前で、アズはオオルリの姿を目で探す。顔を上げ、太陽のほうに目を向ける。平和な世界は炸裂する光の中に消えていく。

「愛している、いつも」

 ※

 一日は穏やかに、贅沢に過ぎていった。陽が落ちると、食卓にシチューとパンが並んだ。テーブルには三叉の燭台が置かれ、蝋燭はどれも長く、宿る()は明るく澄み、煙が出なかった。鯨蝋(げいろう)だ。
「それで、アズ」
 三人がシチューを平らげると、いよいよトビィが切り出した。
「今日は母さんの命日だから来たの? それとも泣きに来たの?」
「トビィは変わらないな」
「なに?」
「基本的には優しいが、たまに言いかたが意地悪だ」
 トビィは笑った。
「ごめん。でもアズだってあんまり変わってないよ。アズは昔から一人では泣かなかったよね。父さんに怒られたり、痛いめにあったときは、わざわざ俺のところに来てから泣いたんだ」
 アズは白い皿に残るパン屑に目を落とした。別れのときが来た。時間よ止まれ。凍りつけ。
 凍りつかなかった。
「……まもなくこの家に、ハーヴィー・セフ神父という人物によって人が派遣されてくる」
「どういう人?」
「俺も知らない」
 沈黙。
「ただ、その人が、この村での暮らしを捨ててついてくるように言ったら、従ってほしい」
 長い、沈黙だった。平和は終わりだ。
「アズ」トビィは慎重に言葉を選んでいた。「アズは今、公教会とどういう関係にあるの?」
「言えない」
 レミが何か言おうとしたが、結局言わなかった。
「それでも信じてくれ。トビィ、レミ、セフ神父の名によって来る人物なら敵じゃない」
「敵、か」
 トビィはテーブルの上で両手を組んだ。目を伏せてじっと考え込む様子は、祈っているようにも見えた。アズは畳み込む
「その人はトビィたちを保護するために来るんだ。悪いようにはならない」
「保護するために、俺たちをここから連れ出す? 公教会の目の届かないところに?」
「そういうことになる」
「できない」はっきり目を合わせてきたトビィの、それが答えだった。「ここでの生活を捨てるつもりはない」
 アズの心臓が、ぎゅっと収縮した。鼓動が早鐘を打ち、頭は(せわ)しなく反論の言葉を探す。
「本当に危険なんだ」
 思いつくままにアズは口にした
「レミも身重だ」
「そうだね」
「俺も、トビィとレミに生きていてほしいと思ってる。生きているだけでいい」
「この村には薬局が必要だ」
 トビィの両手は組まれたままだった。
「父さんが守ってきた家だ。捨てるわけにはいかない」
「どうなってもいいのか」
 トビィは唇の両端を吊り上げて、ぎこちなく笑った。
「うまくやるよ」
 アズは静かな諦念によってうなだれた。レミが声音を変える。
「アズは今夜、泊まっていくよね」
「いいや」アズはテーブルに手をついて立ち上がった。「すぐに()つ。行かなければならない」
 トビィとレミは、玄関先までアズを見送ってくれた。夜風は穏やかだが、耐え難い寒さだった。アズは二人の手を順に握った。
「ありがとう。会えてよかった」
「元気でね」と、レミ「よくわからないけど、アズもうまくやってよ」
「俺たちはずっとここにいるよ。いつでも帰っておいで」
 もう言うことはなかった。アズは車に乗り込んで、二人の家を去った。ヘッドライトが夜道を照らし出す。ミラーで様子を窺えば、トビィもレミも玄関先に立ったままアズを見送っていたが、ある程度離れると、トビィがレミの背を押して促し、家に入っていった。
 村の明かりが遠ざかる。
 車の中の静寂で、俺は二人の人生を犠牲にするのだとアズは改めて噛み締めた。あの夢のように、直接背後から刺す真似はしなくとも、見殺しにするのだ。この事実は一生俺の中に巣食う。
 墓地も湖も、薬局も村も、二度と戻れないほど遠ざかる。かつて雨の降る日、学園の迎えの馬車によって村を離れたときのように。本当はあの日にこそ、永遠に故郷を離れたのではないか? 雨に打たれるまま、幼い双子の兄は道の真ん中に立ち尽くしていた。追い縋るでもなく、別れを惜しむでもなく、ただ見送っていた――。
 アズは突然、何もかもが耐え難くなる。ブレーキを踏み込む。他に通る車のない夜道で急停車。
 アズは車の頭を返した。戻ろう。もう一度説得しよう。怒らせてしまうかもしれないが、何もしなかった事実が巣食うより、そのほうがずっといい。
 永遠に離れてなどいない、そう思いたいだけかもしれない。とにかくアズは引き返した。湖に、墓地に、ブナの木立に、もう一度近付いていく。
 やがて村外れの一軒家の明かりが見えてきた。ラティア薬局店。村の生命線。その一階の明かりは全て消え、二階の一室の窓から明かりが漏れていた。
 アズはもう一度車を停め、心を鎮めた。
 あの温かい光の中で、二人は何をしているだろう。大きな二人用のベッドで、レミは座り、大きく膨らんだ腹を撫でているだろうか。だとしたらトビィは、その首に腕を回し、妻のこめかみに口づけて、愛を囁いているだろうか。
 膝の上に詩集を広げて読み聞かせているかもしれない。レミは微笑んで、トビィの肩に頭を預け、耳を傾ける――。
 結局アズは、車を返すのだ。わかっている。トビィは怒らないし、信念を曲げないことを。アズにできる唯一のことは、二人に残されたささやかな平和のときを壊さないことだけだ。そう。愛する者、平和をくれる者のもとからは、自分から立ち去らなければならない。罪のために。
 ヘッドライトは今度こそ、一路、南ルナリアへ向かう道を照らす。タイヤが小石を踏みつける。
「さようなら」
 トビィの言ったことは間違っていた。
 アズは一人で泣いた。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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