愛していた
文字数 3,604文字
5.
アズは腰に銃帯を巻きながら尋ねた。
「どこで迎え撃つのですか」
窓に向けて、左手で素早く銃を抜けるか試す。セフはその傍らで答えた。
「陸軍演習場の予定だった。話はつけたのだが予想以上に敵方の動きが早い。そうだな、ミズゥ」
「はい」
「我らの動きは誰にも知らせん。市の北部から狙い撃つぞ。目標は鯨のみだ」
「いいでしょう」
拳銃を収め、今度はベッドの下から筒状の製図鞄を引っ張り出す。戦いになれば、鞄から得物 を出している余裕はない。処刑刀をベルトで腰に吊った。
セフが、聖四位一体紋が刺繍された青い司祭用マントを突き出してきた。腰の剣を隠すには、コートよりもマントのほうが適している。
「我らの目標物は鯨。革命家どもには目もくれぬ、と」
「小物共は聖教軍に任せておけ。もし本当に鯨が兵器であるのなら、最小の被害で撃ち落とせるのはお前しかおるまい」
マントの襟を留 め、アズはミズゥの暗く伏せられた目を見て、次にセフの銀色の目を見た。鋭く緊張に満ちた目だが、いつものことなのだろう。アズ自身、普段通りであり、ほとんど平常心だった。
三人はしばらく部屋の真ん中で円を描いて立っていた。
号令を発したのはセフだった。
「行くぞ」
セフとアズは並んで廊下を出た。後ろをミズゥがついてくる。夢のように気配がない。
二階の前室に通じる階段の下に立ったとき、上から響く女の声を聞いた。
「夢あかしよ! 光の雨が降るの。再臨 の前触れなんだから! いい? みんな、知恵を用いて信仰を保つのよ! 救い主が来られるわ!」
そうであればいいのにとアズは思った。
「……もう、何よ!雁首 そろえて辛気臭い顔しちゃってさー! あなたたち、神の子供たちなんだっていう喜びはないの!?」
アズに喜びはなかった。残念ながら、救い主が来るより殺し合いが始まるほうが先だと知っている。大聖堂前庭へ続く傾斜路 に出るべく扉を押し開けた。
そのとき、殺し合いよりも早く来るものに気がついた。
気付くのが少々遅かったかもしれない。
もう来ていた。
無音。
暗転。
※
音のない世界に、アズは一人だった。ミズゥもセフもいない。本当にいないわけではないことはわかっている。見えないだけだ。探す意志があれば二人を見つけ出せる。だがアズは先へ進む。
敵を迎え撃とう。
中途半端に開いた扉から、雪混じりの風が吹き込んでくる。外に出て、凍てつく大気に身を晒す。モッコウバラの茂みが壁を作る傾斜路に出る。
扉から十歩と離れていない場所に、その人は、背を向けて立っていた。
赤錆の浮いた鎧。
筒状の兜。
鋼鉄の腕が動き、掌で兜を挟んだ。歩み寄るアズを振り向かぬまま、その人は兜を持ち上げて外した。
兜の下には、何もなかった。
頭部があるべき場所には、渦巻く煙のようなものが見え、それもたちまち風に吹き散らされてしまう。
「それで」
首のない戦士に、アズは尋ねてみた。
「あなたは誰だったのですか?」
沈黙が続いた。
行かなければならない。
アズが動き出そうとしたときに、イメージが思考に挿 し込まれた。
うららかな日差しの中にいる、亜麻色の髪の女の子。
『スアラ』
その瞳は澄み、口の周りと手は甘い匂いの果汁でいっぱいだ。
しゃぶっていた桃の種を、その子は差し出してくる。
かと思えば、鎧の草摺 をめくり上げ、種を押し込んだ。人の体があるべき空洞を満たす、土の中へ。
子供は満面の笑みだった。幼い、愛らしい――。
『私は古く』
思考が心に流れ込んできた。
『死者の巡礼をはぐれたときにはもう、顔も名も思い出せなくなっていた』
消えてしまう。
日差しも、子供も。
その記憶も。
魂とともに。
行ってしまう。
『それでも、愛していた』
石畳に黒い影が浮き出てきた。影はうつ伏せた人の形になると、次は巡礼衣の老婆となり、起き上がった。
聖堂の壁から巡礼者の指が、手首が、ついで肘が出てきた。今度は十四、五歳の冴えない少年だった。少年の後から、続々と死者が湧き出てくる。壁から、地面から、モッコウバラの茂みから。
老いた死者が。若い死者が。
十人。二十人。三十人。
傾斜路から聖堂の前庭へ向かい、めいめいが、大通りへと笑いながら歩いていく。鎧の死者もまた、その群れに混じって行く。
どんな旅をするのかわからない。
だが、西へ行くのだ。
「何故なんだ」
刺すような痛みを鼻の奥に感じながら、アズは死者たちの背中越しに、通りに声を上げた。
「どうしてお前は俺につきまとう!」
生ぬるい雫が、目尻から頬へ伝い落ちる。新たに湧き出た死者たちが、後ろからアズを追い越していく。この巡礼の煽動者のもとに、従順な召使のように馳せていく。
傾斜路から前庭に出て、アズはその姿をまたも視野に収めた。
全ての宝石を失い黒ずんだ王冠。
引きちぎられて穴の開いたマント。人ならざる巨躯 は黄ばんだ骨。
その髑髏 には、流れた涙の痕が刻み込まれている。
同じ涙を今、死者の王はアズの身体を借りて流している。
言いたいことがあるらしく、西へ進みながらカタカタ顎を鳴らす。
その後を、長すぎる白い尾のように、死者の列が続く。
朝には元気に演説していた革命家の男がいた。
聖堂の前階段を駆け下りて流れに加わろうとするのは、ああ、確かに一度見かけた赤いハンドバッグの女性じゃないか。
少女が、犬の散歩紐と首輪を引きずっていく。
中腰で、何かを探しながらついていく男がいる。その死者は、まだ長い煙草を路上に見つけていそいそと拾い上げた。
死者が、生者を連れていく。
アズは動いた。処刑刀の柄を握る。
その左手に誰かが生ぬるい手を重ねた。
剣は抜かれなかった。
振り向いて、アズは、手の主の正体を確かめる。
知っている人だった。
少年時代から慣れ親しんだ顔。日焼けした顔。洞窟で、化け物の口の中にあった生首の顔。
「ルー」
笑顔の残骸のような表情を浮かべ、ルーは目を細めた。アズから手を離し、王がいるほうを指した。
そこに扉があった。
前庭に、枠のない黒い扉が一枚立ち、王とアズの間を遮っている。雪が、白く張り付いていく。
もう一度、ルーを見た。憐むような眼差しがアズに注がれていた。ルーは、今度は顎で扉を指した。
開けろということだ。
だから、名残を惜しみながらアズは足を踏み出した。ルーを見ながら。だが、とうとう前を向き、扉の前に立った。
夢の扉だった。
真鍮のドアノブは、ほとんど錆で覆われて、不思議と見覚えがあった。
ルーが後ろにいなければ、扉の後ろに回ったり、叩いたりして調べただろう。開けようとすら思わなかったかもしれない。だが、扉に手を伸ばすアズは理解していた。
開くのだ。
開く意志があれば、扉は開かれる。
ノブを掴んで思い出した。この扉はレライヤ学園の男子部の校舎に使われていたものだ。
そしてノブは。この悲しいほど軽く回転するノブは、一階の北の通用門に使われていたもので、この扉をくぐれば愛する人に会えたのだ。
扉は開かれた。
黄色くとろける春の陽を享 け、ミモザが満開だ。
砂利の敷き詰められた小径 を、少年が背中を向けて歩いていく。痩せた体格。葡萄茶 の髪。
ああ――。
俺だ。
足を踏み出した。靴底が砂利の感触をとらえた途端、怖気 づいた。
幼い恋だった。
金網越しに手を触れた。金網越しに語り合った。金網越しに口づけた。その恋が、どんなふうに終わりを迎えたか、自分自身がよく知っているではないか。
丸々とした愛らしい熊蜂が、ミモザの花から花へと飛び回る。その羽音を聞きながら、アズは凍りついている。
この日が、あの日なのだ。
その通り、女子部の教師、厳格と恐れられているけど実際には底意地が悪いだけの老女教師、その金切り声が小径の陽気を切り裂いた。
『何をしているのですか、あなたたち!』
アズはドアノブを握りしめた。
『不潔です! 離れなさい! 誰か! 誰かここにいらして!』
ミモザが色褪せていく。
アズは身を引いて、ゆっくり扉を閉ざす。
『大変よ! 誰かー!』
見せしめと懲罰の日々。
惨めだった。愛した罰だと思っていた。そうではない。愛が発覚しないために知恵を絞らなかった、その幼さの罰だった。
閉ざしたら、扉は消え去った。
雪の中、アズは震えて立ち尽くす。
死者は西へ立ち去る。その巡礼の前を、ただ見ていた。
一度、処刑刀に手をおいた。
だがすぐに離す。
己の戦いは西にはない。北にある。そこで鯨を撃ち落とす。その闘争の行く先で、再びリールと会えるだろう。
愛は消えた。
俺も消えるんだ。アズは確信する。失われた全ての愛や平和と同じように、暗闇の中に落ちていき、汚れきった姿で消えるんだ。
ああ。でも、どうか。
主よ、願いを聞いてくださるのなら。
走り去りながら、アズは祈った。
主よ。私は。
――落ちていくときは、輝きながらがいい。
アズは腰に銃帯を巻きながら尋ねた。
「どこで迎え撃つのですか」
窓に向けて、左手で素早く銃を抜けるか試す。セフはその傍らで答えた。
「陸軍演習場の予定だった。話はつけたのだが予想以上に敵方の動きが早い。そうだな、ミズゥ」
「はい」
「我らの動きは誰にも知らせん。市の北部から狙い撃つぞ。目標は鯨のみだ」
「いいでしょう」
拳銃を収め、今度はベッドの下から筒状の製図鞄を引っ張り出す。戦いになれば、鞄から
セフが、聖四位一体紋が刺繍された青い司祭用マントを突き出してきた。腰の剣を隠すには、コートよりもマントのほうが適している。
「我らの目標物は鯨。革命家どもには目もくれぬ、と」
「小物共は聖教軍に任せておけ。もし本当に鯨が兵器であるのなら、最小の被害で撃ち落とせるのはお前しかおるまい」
マントの襟を
三人はしばらく部屋の真ん中で円を描いて立っていた。
号令を発したのはセフだった。
「行くぞ」
セフとアズは並んで廊下を出た。後ろをミズゥがついてくる。夢のように気配がない。
二階の前室に通じる階段の下に立ったとき、上から響く女の声を聞いた。
「夢あかしよ! 光の雨が降るの。
そうであればいいのにとアズは思った。
「……もう、何よ!
アズに喜びはなかった。残念ながら、救い主が来るより殺し合いが始まるほうが先だと知っている。大聖堂前庭へ続く
そのとき、殺し合いよりも早く来るものに気がついた。
気付くのが少々遅かったかもしれない。
もう来ていた。
無音。
暗転。
※
音のない世界に、アズは一人だった。ミズゥもセフもいない。本当にいないわけではないことはわかっている。見えないだけだ。探す意志があれば二人を見つけ出せる。だがアズは先へ進む。
敵を迎え撃とう。
中途半端に開いた扉から、雪混じりの風が吹き込んでくる。外に出て、凍てつく大気に身を晒す。モッコウバラの茂みが壁を作る傾斜路に出る。
扉から十歩と離れていない場所に、その人は、背を向けて立っていた。
赤錆の浮いた鎧。
筒状の兜。
鋼鉄の腕が動き、掌で兜を挟んだ。歩み寄るアズを振り向かぬまま、その人は兜を持ち上げて外した。
兜の下には、何もなかった。
頭部があるべき場所には、渦巻く煙のようなものが見え、それもたちまち風に吹き散らされてしまう。
「それで」
首のない戦士に、アズは尋ねてみた。
「あなたは誰だったのですか?」
沈黙が続いた。
行かなければならない。
アズが動き出そうとしたときに、イメージが思考に
うららかな日差しの中にいる、亜麻色の髪の女の子。
『スアラ』
その瞳は澄み、口の周りと手は甘い匂いの果汁でいっぱいだ。
しゃぶっていた桃の種を、その子は差し出してくる。
かと思えば、鎧の
子供は満面の笑みだった。幼い、愛らしい――。
『私は古く』
思考が心に流れ込んできた。
『死者の巡礼をはぐれたときにはもう、顔も名も思い出せなくなっていた』
消えてしまう。
日差しも、子供も。
その記憶も。
魂とともに。
行ってしまう。
『それでも、愛していた』
石畳に黒い影が浮き出てきた。影はうつ伏せた人の形になると、次は巡礼衣の老婆となり、起き上がった。
聖堂の壁から巡礼者の指が、手首が、ついで肘が出てきた。今度は十四、五歳の冴えない少年だった。少年の後から、続々と死者が湧き出てくる。壁から、地面から、モッコウバラの茂みから。
老いた死者が。若い死者が。
十人。二十人。三十人。
傾斜路から聖堂の前庭へ向かい、めいめいが、大通りへと笑いながら歩いていく。鎧の死者もまた、その群れに混じって行く。
どんな旅をするのかわからない。
だが、西へ行くのだ。
「何故なんだ」
刺すような痛みを鼻の奥に感じながら、アズは死者たちの背中越しに、通りに声を上げた。
「どうしてお前は俺につきまとう!」
生ぬるい雫が、目尻から頬へ伝い落ちる。新たに湧き出た死者たちが、後ろからアズを追い越していく。この巡礼の煽動者のもとに、従順な召使のように馳せていく。
傾斜路から前庭に出て、アズはその姿をまたも視野に収めた。
全ての宝石を失い黒ずんだ王冠。
引きちぎられて穴の開いたマント。人ならざる
その
同じ涙を今、死者の王はアズの身体を借りて流している。
言いたいことがあるらしく、西へ進みながらカタカタ顎を鳴らす。
その後を、長すぎる白い尾のように、死者の列が続く。
朝には元気に演説していた革命家の男がいた。
聖堂の前階段を駆け下りて流れに加わろうとするのは、ああ、確かに一度見かけた赤いハンドバッグの女性じゃないか。
少女が、犬の散歩紐と首輪を引きずっていく。
中腰で、何かを探しながらついていく男がいる。その死者は、まだ長い煙草を路上に見つけていそいそと拾い上げた。
死者が、生者を連れていく。
アズは動いた。処刑刀の柄を握る。
その左手に誰かが生ぬるい手を重ねた。
剣は抜かれなかった。
振り向いて、アズは、手の主の正体を確かめる。
知っている人だった。
少年時代から慣れ親しんだ顔。日焼けした顔。洞窟で、化け物の口の中にあった生首の顔。
「ルー」
笑顔の残骸のような表情を浮かべ、ルーは目を細めた。アズから手を離し、王がいるほうを指した。
そこに扉があった。
前庭に、枠のない黒い扉が一枚立ち、王とアズの間を遮っている。雪が、白く張り付いていく。
もう一度、ルーを見た。憐むような眼差しがアズに注がれていた。ルーは、今度は顎で扉を指した。
開けろということだ。
だから、名残を惜しみながらアズは足を踏み出した。ルーを見ながら。だが、とうとう前を向き、扉の前に立った。
夢の扉だった。
真鍮のドアノブは、ほとんど錆で覆われて、不思議と見覚えがあった。
ルーが後ろにいなければ、扉の後ろに回ったり、叩いたりして調べただろう。開けようとすら思わなかったかもしれない。だが、扉に手を伸ばすアズは理解していた。
開くのだ。
開く意志があれば、扉は開かれる。
ノブを掴んで思い出した。この扉はレライヤ学園の男子部の校舎に使われていたものだ。
そしてノブは。この悲しいほど軽く回転するノブは、一階の北の通用門に使われていたもので、この扉をくぐれば愛する人に会えたのだ。
扉は開かれた。
黄色くとろける春の陽を
砂利の敷き詰められた
ああ――。
俺だ。
足を踏み出した。靴底が砂利の感触をとらえた途端、
幼い恋だった。
金網越しに手を触れた。金網越しに語り合った。金網越しに口づけた。その恋が、どんなふうに終わりを迎えたか、自分自身がよく知っているではないか。
丸々とした愛らしい熊蜂が、ミモザの花から花へと飛び回る。その羽音を聞きながら、アズは凍りついている。
この日が、あの日なのだ。
その通り、女子部の教師、厳格と恐れられているけど実際には底意地が悪いだけの老女教師、その金切り声が小径の陽気を切り裂いた。
『何をしているのですか、あなたたち!』
アズはドアノブを握りしめた。
『不潔です! 離れなさい! 誰か! 誰かここにいらして!』
ミモザが色褪せていく。
アズは身を引いて、ゆっくり扉を閉ざす。
『大変よ! 誰かー!』
見せしめと懲罰の日々。
惨めだった。愛した罰だと思っていた。そうではない。愛が発覚しないために知恵を絞らなかった、その幼さの罰だった。
閉ざしたら、扉は消え去った。
雪の中、アズは震えて立ち尽くす。
死者は西へ立ち去る。その巡礼の前を、ただ見ていた。
一度、処刑刀に手をおいた。
だがすぐに離す。
己の戦いは西にはない。北にある。そこで鯨を撃ち落とす。その闘争の行く先で、再びリールと会えるだろう。
愛は消えた。
俺も消えるんだ。アズは確信する。失われた全ての愛や平和と同じように、暗闇の中に落ちていき、汚れきった姿で消えるんだ。
ああ。でも、どうか。
主よ、願いを聞いてくださるのなら。
走り去りながら、アズは祈った。
主よ。私は。
――落ちていくときは、輝きながらがいい。