絶叫
文字数 2,476文字
1.
かつて鯨が存在したスアラの地下室。
もしもあの晩父親を追うスアラがたどり着けていたら、鯨があった場所に淀む大気に絶望しただろう。車輪の痕跡。秘密の通路。もし少しの冷静さがあれば、投げ捨てられた数冊の冒険小説と、毛布と、日持ちする菓子の包みも見つけたかもしれない。
どれも鯨の体内に持ち込んだものだ。
スアラは作品は、彼女の嫌いな大人たちに、土足で踏み荒らされたあとだった。
※
鯨は今、上空の薄い雲と真下の厚い雲とを背景に、岩場の空中を滑っていた。廃棄された伽藍、乾いて縮んだ聖教軍の兵士たちの遺体を見下ろしながら。
雪はいまや間断なく降りしきっていた。雲が薄いところには、茜の夕日が滲んでいる。
アズは切り立った崖の陰に一人で立っていた。
鯨の膨れた腹は、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。喉に彫り込まれた畝 の、一筋ずつがよく見えた。
そして、初めて鯨を見たときには混乱していたようだと思い至る。鯨は思ったほど大きくなかった。頭部から尾のくびれまでの内部空間に武装した大人が入るなら、四人か五人が限度だろう。
革命家たちが鯨に乗り込んで逃げるなど無理だったのだ。
つまり昨日、伽藍にいた革命家たちのあらかたを殺し尽くしたことになる。
アズは鯨の真下を歩く。鯨にとって死角と思われる位置だ。
転がる石と砂礫が靴の下で音を立てるが、鯨には聞こえていないらしい。
後方には援護射撃を担当するセフが、さらに後ろにはミズゥが控えている。
『扉を開けてください。夢に見た扉を』
岩場に身を隠すとき、ミズゥは早口で囁いた。アズは身を引いて尋ねた。
『君もあれを見たのか?』
『夢見ですから』
『どうしてそのことを今話すんだ?』
『生き残るのが私のほうとは限らないからです』
扉を開けて、と、ミズゥは繰り返した。
『……どうして、開けなくてはいけないんだ?』
ミズゥは悲しい目をするだけで、沈黙を保った。その彼女は、アズとセフが斃 れた場合に、その結果を持ち帰るために同行していた。相応の覚悟があるようだが、死なせるわけにはいくまい。
鯨が、頭上でアズを追い抜いた。
尾鰭が悠然と風を受け流す。
鯨には存在感というものが全くなかった。動きに音が伴わないのだ。天候のせいで影が落ちてこないからというのもある。
尾が、風雪で左に大きくなびいた。アズはそれを攻撃開始の合図とした。
視界の限り、血を吸った綿を敷き詰めたような曇り空が広がっていた。左腕を突き上げ、頭越しに右手で左の肘を握り支える。赤い光を手に集め、鯨めがけて解き放った。
尾を落とせば均衡を崩して墜落するだろうと思われた。
最初の一撃が真後ろから尾の中心を直撃した。
思わぬことに、何の音もしなかった。
アズは目をみはる。二度、三度、赤い光が炸裂し、それは狙い通りに空中で身をよじる鯨の尾の付け根で弾けた。
音はなく、ただ。
雪が降っているだけ。
夢を見ているのか。
息が弾んでいく。
その非現実的な感覚は、縦に円を描いて方向転換した鯨が腹を上にしてアズに向き直ったとき終わりを告げた。
二枚の胸びれが頭上でばたついている。畝を血の雪雲に晒し、髭に雪をまとわりつかせ、色とりどりの花模様で飾られた口は固く結ばれたまま。
長い顔、草原の模様。
月を象 った真紅の目は禍々しい死神の顔。
アズは見つけた。
鯨の背中には、人が出入りするための跳ね上げ戸 が設けられていた。
見えた直後には視界から消えていた。鯨の体が視界を塗り潰す。
反射的に飛び上がる。
岩場に急降下した鯨は、的を外して地面に直撃する手前で首を天に向けた。
その背にアズが飛び下りた。
下り立った地点はトラップドアの真上だった。ドンッ! 初めて鯨から音がした。戸の震えが靴底を通して体に伝わる。内部は空洞だ。
ドアの冷たい把手を握りしめながら、アズは左手を天に向ける。そうしながらも、目はトラップドアに向けたままだった。
赤い、鍵穴があった。
鍵だ。『奏明』の鍵だ。
鍵穴の向こうから、真っ黒い、病的な目がアズを凝視していた。
――二人いる。
左手を振り下ろしながら、アズは考えた。
――鯨を作った人物は二人だ。体に描かれたのどかな草原の絵柄は鯨の攻撃性と結びつかない。少なくとも、体の模様を描いた人物と、この鍵を描いた人物は別人だ。
考える。
手を振り下ろし、光を鯨の首に叩きつける、その僅かな時間で頭を回転させる。
――鯨の体を花々や草原で飾った人物は。
――その願いはなんだ?
この鯨は、何のために生み出されたんだ?
天の光は、今度こそ鯨の脳天をかち割るはずだった。
黒い色が見えた。
円。
縁の内側に、白いぎざぎざの歯が描かれた、真円の黒い口だった。
それが、光を呑みこんだ。
『――チルゥーーーーーーーッ!!』
衝撃に跳ね上げられる。
たまらず把手から手を離した。宙に浮く体が鯨の尾に打ち据えられなかったのは、たまたま運がよかったからだった。でなければ、一撃で全身の骨をへし折られて岩場に叩きつけられただろう。
銃声が聞こえた。セフだ。
鯨の脇腹に現れた新たな口が、銃弾を呑む、音もなく。
『――ごめんねええええええっ!!』
音がなくとも声はした。
『ごめんねぇ、チルゥー、ごめんねええええええ!!』
少女の絶叫を浴びながら、身をよじり、膝をついて着地。
すぐにセフの声が絶叫をくぐって聞こえてきた。
「下がれ!」
後ろに跳びすさる。だが、自分に向けられた言葉でないと気付くのに、時はかからなかった。
首筋に呼気を感じた。
ミズゥかと思った。何故ここに?
振り向き、最初に黒いコートの襟を見た。
ほっそりした白い首。
化粧した女の顔。そろそろ皺が目立つ、それでも美しい顔。
額で分けられた亜麻色の前髪。
その人は、アズの尋ね人スーデルカ・マデラは、祈るように両手を胸で組んでいた。顎を上げ、意志の強そうな視線を空中で暴れる鯨に飛ばしていた。
彼女はセフと同じことを言った。
「お下がりください」
絶句するアズを残し、前に出る。
「鯨の相手は、この私です」
かつて鯨が存在したスアラの地下室。
もしもあの晩父親を追うスアラがたどり着けていたら、鯨があった場所に淀む大気に絶望しただろう。車輪の痕跡。秘密の通路。もし少しの冷静さがあれば、投げ捨てられた数冊の冒険小説と、毛布と、日持ちする菓子の包みも見つけたかもしれない。
どれも鯨の体内に持ち込んだものだ。
スアラは作品は、彼女の嫌いな大人たちに、土足で踏み荒らされたあとだった。
※
鯨は今、上空の薄い雲と真下の厚い雲とを背景に、岩場の空中を滑っていた。廃棄された伽藍、乾いて縮んだ聖教軍の兵士たちの遺体を見下ろしながら。
雪はいまや間断なく降りしきっていた。雲が薄いところには、茜の夕日が滲んでいる。
アズは切り立った崖の陰に一人で立っていた。
鯨の膨れた腹は、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。喉に彫り込まれた
そして、初めて鯨を見たときには混乱していたようだと思い至る。鯨は思ったほど大きくなかった。頭部から尾のくびれまでの内部空間に武装した大人が入るなら、四人か五人が限度だろう。
革命家たちが鯨に乗り込んで逃げるなど無理だったのだ。
つまり昨日、伽藍にいた革命家たちのあらかたを殺し尽くしたことになる。
アズは鯨の真下を歩く。鯨にとって死角と思われる位置だ。
転がる石と砂礫が靴の下で音を立てるが、鯨には聞こえていないらしい。
後方には援護射撃を担当するセフが、さらに後ろにはミズゥが控えている。
『扉を開けてください。夢に見た扉を』
岩場に身を隠すとき、ミズゥは早口で囁いた。アズは身を引いて尋ねた。
『君もあれを見たのか?』
『夢見ですから』
『どうしてそのことを今話すんだ?』
『生き残るのが私のほうとは限らないからです』
扉を開けて、と、ミズゥは繰り返した。
『……どうして、開けなくてはいけないんだ?』
ミズゥは悲しい目をするだけで、沈黙を保った。その彼女は、アズとセフが
鯨が、頭上でアズを追い抜いた。
尾鰭が悠然と風を受け流す。
鯨には存在感というものが全くなかった。動きに音が伴わないのだ。天候のせいで影が落ちてこないからというのもある。
尾が、風雪で左に大きくなびいた。アズはそれを攻撃開始の合図とした。
視界の限り、血を吸った綿を敷き詰めたような曇り空が広がっていた。左腕を突き上げ、頭越しに右手で左の肘を握り支える。赤い光を手に集め、鯨めがけて解き放った。
尾を落とせば均衡を崩して墜落するだろうと思われた。
最初の一撃が真後ろから尾の中心を直撃した。
思わぬことに、何の音もしなかった。
アズは目をみはる。二度、三度、赤い光が炸裂し、それは狙い通りに空中で身をよじる鯨の尾の付け根で弾けた。
音はなく、ただ。
雪が降っているだけ。
夢を見ているのか。
息が弾んでいく。
その非現実的な感覚は、縦に円を描いて方向転換した鯨が腹を上にしてアズに向き直ったとき終わりを告げた。
二枚の胸びれが頭上でばたついている。畝を血の雪雲に晒し、髭に雪をまとわりつかせ、色とりどりの花模様で飾られた口は固く結ばれたまま。
長い顔、草原の模様。
月を
アズは見つけた。
鯨の背中には、人が出入りするための
見えた直後には視界から消えていた。鯨の体が視界を塗り潰す。
反射的に飛び上がる。
岩場に急降下した鯨は、的を外して地面に直撃する手前で首を天に向けた。
その背にアズが飛び下りた。
下り立った地点はトラップドアの真上だった。ドンッ! 初めて鯨から音がした。戸の震えが靴底を通して体に伝わる。内部は空洞だ。
ドアの冷たい把手を握りしめながら、アズは左手を天に向ける。そうしながらも、目はトラップドアに向けたままだった。
赤い、鍵穴があった。
鍵だ。『奏明』の鍵だ。
鍵穴の向こうから、真っ黒い、病的な目がアズを凝視していた。
――二人いる。
左手を振り下ろしながら、アズは考えた。
――鯨を作った人物は二人だ。体に描かれたのどかな草原の絵柄は鯨の攻撃性と結びつかない。少なくとも、体の模様を描いた人物と、この鍵を描いた人物は別人だ。
考える。
手を振り下ろし、光を鯨の首に叩きつける、その僅かな時間で頭を回転させる。
――鯨の体を花々や草原で飾った人物は。
――その願いはなんだ?
この鯨は、何のために生み出されたんだ?
天の光は、今度こそ鯨の脳天をかち割るはずだった。
黒い色が見えた。
円。
縁の内側に、白いぎざぎざの歯が描かれた、真円の黒い口だった。
それが、光を呑みこんだ。
『――チルゥーーーーーーーッ!!』
衝撃に跳ね上げられる。
たまらず把手から手を離した。宙に浮く体が鯨の尾に打ち据えられなかったのは、たまたま運がよかったからだった。でなければ、一撃で全身の骨をへし折られて岩場に叩きつけられただろう。
銃声が聞こえた。セフだ。
鯨の脇腹に現れた新たな口が、銃弾を呑む、音もなく。
『――ごめんねええええええっ!!』
音がなくとも声はした。
『ごめんねぇ、チルゥー、ごめんねええええええ!!』
少女の絶叫を浴びながら、身をよじり、膝をついて着地。
すぐにセフの声が絶叫をくぐって聞こえてきた。
「下がれ!」
後ろに跳びすさる。だが、自分に向けられた言葉でないと気付くのに、時はかからなかった。
首筋に呼気を感じた。
ミズゥかと思った。何故ここに?
振り向き、最初に黒いコートの襟を見た。
ほっそりした白い首。
化粧した女の顔。そろそろ皺が目立つ、それでも美しい顔。
額で分けられた亜麻色の前髪。
その人は、アズの尋ね人スーデルカ・マデラは、祈るように両手を胸で組んでいた。顎を上げ、意志の強そうな視線を空中で暴れる鯨に飛ばしていた。
彼女はセフと同じことを言った。
「お下がりください」
絶句するアズを残し、前に出る。
「鯨の相手は、この私です」