愚昧なる人の迷路
文字数 3,609文字
3.
「ミア」
アズがその名を呼ぶと、女はびくつき、拳銃を落としそうになった。フクシャ大聖堂の青年会の女だ。
「銃を下ろせ」
彼女は一瞬だけ手許 に目を落としたが、もう一度アズを見た。目も、口も、頬も、微かに痙攣している。ひどく恐怖していた。銃口は今や彼女の爪先 を向いているのだが、ミア自身、今撃てば今後歩けなくなることに気付いていない様子だ。
アズは歩み寄ると、これ以上怯えさせないように、優しくミアの手に自分の手を重ねた。安全装置をかけてから、一瞬で拳銃をもぎ取る。ミアは悲鳴を上げて後ずさり、民家の壁に背をぶつけた。その間にアズは銃把 に組み込まれた弾倉から弾を抜く。
銃をミアに返した。ミアは辛うじて腰を抜かさずに立っていた。
「どこでこんな物を?」
そう問いかけてから、相手が答えられるようになるまで待った。ミアは口を開けて荒い呼吸をしていた。顔面は蒼白だが、目の光は冷静さを取り戻しつつあった。
「あの、私」
唾をのみ、背中を壁から離す。
「その――ごめんなさい」弾を抜かれた拳銃を受け取りながら、「どうしていいかわからなくて」
「死者に拳銃は効きません。しまってください。あらぬ誤解のもとになります」
「おじいちゃんのなの」
「ご存命で?」
ミアは浅く頷いた。
「では、早くおじいさんに返してください。家に戻ったほうがいい」
彼女がコートのポケットに拳銃を押し込むのと、背後からルーの声がかかるのが同時。
「おおい、アズ!」
ミアが竦み上がる。銃をしまうところは、アズの体の陰に隠れて見えなかったはずだ。振り向くと、駆けてくるルーの姿が見えた。もちろん彼は、ミアの姿にもすぐに気がついた。
「なんだお前。どうした」
青白い顔で俯くミアは、アズの右の腰に目を向けて話を逸らした。
「言葉つかい……」
「ああ、そうなんだよ、うん」ルーはアズに図面鞄を押しつけ、「言葉つかいなんだよ、こいつはな。でも黙っててやってくれよ」
剣帯を外し、図面鞄にしまい込むアズの耳に囁いた。
「王は?」
「取り逃した」
「そっか」
ふと目を上げ、ルーの肩越しに黒い人影を見つけた。
「まあ、無事でよかった」
黒いワンピース姿の長髪の女が、道の真ん中に立ち、アズたちに背中を向けている。
巡礼が去った方向を見ているのだ。
「悪い」
目の前に立つルーを右手でそっと押し、横をすり抜けた。ルーは敢えて止めなかった。アズには見えているものがあるのだと、ルーはわかっていた。
アズが向かうほうに目を細める。
そこには誰もいなかった。
※
目的地があるのかないのか、黒いワンピースの女はふらふら歩いていた。それを追う最中、人とすれ違った。
青年会のイスラだった。
「あっ――」
呼び止めようとするのに、敢 えて気付かぬふりをした。行く手でワンピースの裾が翻 る。体の向きを変えて路地に入り込んでいった。
路地は、舗装された上り坂になっていた。左右は民家の漆喰の塀で圧迫されているが、辛うじて、体を斜めに傾けなくても進める幅があった。ワンピースの裾がカーブの向こうに消えた。アズは足音を立てずに歩を早める。
『大丈夫よぉ、あなた若いんだから!』
足を止める。
幻聴だ。
尾行を再開。
『若いことと病気で困ってることに何の関係があるの?』
坂を上った先に光が差している。ワンピースの人影が、光に吸い込まれていく。
『死ぬような病気じゃないし、後遺症が残るものでもないんでしょ? 私なんかもう歳だからさあ、あっちこっち悪くてさ? あなたの神経の病気なんて気の持ちようよ。実は私もね、妹が病気だったからわかるの。気持ちが悪くなるのも、眩暈がするのもね、大丈夫。全部気のせいなのよ』
女が、視界の先で坂を上り切った。坂の向こうの平坦な道に姿が消えていく。
アズもまた坂を上ると、そこはフクシャ大聖堂の裏手だった。
そんなはずはない。
足を止めても歩き続けているような、不思議な感覚。石畳と大聖堂の前庭が後ろに流れていく。
俯きがちに歩く人の視界だ。
ワンピースと、手に持ったバケツが見えた。
バケツには汚れた雑巾が何枚も入っていた。
大聖堂の隣には、信徒が行事や集会に用いる小さな会館。
手にバケツを提 げて、ワンピースの女は大聖堂と会館の間の細い道に入っていく……声がする……殺気だった男たちの声……野外の蛇口の前に来てバケツを置いた視線の主は、バケツをしばらく眺めてから、声がするほうに顔を向けた。
蛇口の前でしゃがもうとしていたものの、再度立ち上がる。
建物の影を抜け、会館の裏手へ。
木立 の影に一台のトラック。
若い男たちが積荷を下ろしている。
木箱の一つに文字が刻印されていた。
『爆発物注意』
トラックの積荷は続々と会館の裏口に運び込まれていく。
その光景に目が離せない視線の主は、強い衝撃を受けたかのように、突如昏倒 した。
※
アズは瞬間的に身構えた。力 んだ弾みで靴底が砂を鳴らし、裏通りの十字路の向こうでワンピースの女が振り向いた。
女は怯え、逃げようとした。
「待ってください」
アズは言葉を選びながら十字路に足を踏み出した。
「……巡礼にはついて行かなかったんですね」
女の顔を水のように覆う恐怖と嫌悪が、その一言で微かに揺らいだ。
もう一歩前へ。
「よかった」
女は首を振ると、十字路の向こうの坂に消えていった。
その坂を上り切ると大通り。
日の光の下で、大通りを挟んだ先の道をバリケードが封鎖している。
木材と有刺鉄線、焼けた警察隊の車やドラム缶を組み合わせて作ったバリケードは傍目 にも堅牢で、両隣の二階建ての建物の屋根に達する高さがあった。厄介な代物 だ。くぐり抜ける隙間はなく、よじ登る手がかりもなく、火をつけても無駄で、爆破しても通路が埋まるだけ。
建築の知識のある人間が建てたのだろうと思われた。大人の目の高さに木箱が組み込まれ、こう刻印されていた。
『爆発物注意』
「その先は危ないぜ」
後ろに、僅か三歩の距離を挟んでルーが立っていた。
アズは踵 を返し、ルーの肩を軽く叩いた。
「話がある。人に聞かれたくない」
そんなわけで、二人はルーの散らかった家に戻った。
「いなくなったリィという人は」
ダイニングで、立ったまま二人は話した。三毛猫のサリーはパントリーで体を丸め、伸ばした後ろ脚をしきりになめて毛繕いしていた。
「最後に黒いワンピースを着ていなかったか。背はこれくらいで、肌は白、背中まで伸びた暗褐色の髪、目は緑がかった灰色」
「服は覚えてねぇけど、まあそんな感じだな」
「年は」
「十六か七。八だったかな。よくわからん」ルーは眉を顰 めた。「……死んだのか?」
「自殺じゃない。殺された」
幻の中で見たことを聞かせる。ルーの気配が張り詰めていく。それを感じてか、毛繕いをやめた猫は眠ろうとせず、香箱 を組んだ姿勢で薄目を開けていた。
「わかった。教会を調べる」
「俺も行こう」
「二人のほうが目立って危険だ。お前は今日中に汽車が動くか見てこいよ」
アズは頷いた。
「ルー」
「なんだよ」
「リィは巡礼には加わらない」
ルーは肩を竦め、「そりゃよかった」
「彼女は学生だったのか? 家族は?」
「下町の工員だよ。親がいるって話は聞いたことがないな。病気持ちで工場を追い出されそうだって悩んでたし、少なくとも頼れるような家族はいなかったみたいだ」
「どういう病気だったんだ?」
「なんとか嘔吐 症とかいう……待てよ、思い出した」
乾いた音を立てて手を打った。
「そうだ。確かに黒いワンピースだった、最後に見たときは」
「聖父被昇天祭の日だって言ってたな」
「そうだ。あいつ礼拝の最中に吐いちまったんだよな。その後に代母と揉めてるの見たよ」
「何を言われたんだろう。治るまで教会に来るなとか?」
ルーは渋い顔で、「さすがにそんなはっきりとは言わねぇだろう」
「遠回しには?」
「知るかよ」
ふと気になって時計を見た。針は十一時半を指していた。
「お前はそろそろ行ってこい。汽車が動くなら見送ってやるからよ」
アズは頷く。
「ありがとう」
「タルはどうして教会を裏切ったんだろうな」
ドアノブに伸ばしかけた手を空中で止め、アズは振り向かずに囁いた。
「死者から話を聞く方法はある」
「やめろ」返事は早かった。「眠らせてやれよ」
顔を後ろに向けて見る。昔から変わらぬ友の顔を。
アズは張り詰めた目の光を和らげて、黙って出ていった。
「ミア」
アズがその名を呼ぶと、女はびくつき、拳銃を落としそうになった。フクシャ大聖堂の青年会の女だ。
「銃を下ろせ」
彼女は一瞬だけ
アズは歩み寄ると、これ以上怯えさせないように、優しくミアの手に自分の手を重ねた。安全装置をかけてから、一瞬で拳銃をもぎ取る。ミアは悲鳴を上げて後ずさり、民家の壁に背をぶつけた。その間にアズは
銃をミアに返した。ミアは辛うじて腰を抜かさずに立っていた。
「どこでこんな物を?」
そう問いかけてから、相手が答えられるようになるまで待った。ミアは口を開けて荒い呼吸をしていた。顔面は蒼白だが、目の光は冷静さを取り戻しつつあった。
「あの、私」
唾をのみ、背中を壁から離す。
「その――ごめんなさい」弾を抜かれた拳銃を受け取りながら、「どうしていいかわからなくて」
「死者に拳銃は効きません。しまってください。あらぬ誤解のもとになります」
「おじいちゃんのなの」
「ご存命で?」
ミアは浅く頷いた。
「では、早くおじいさんに返してください。家に戻ったほうがいい」
彼女がコートのポケットに拳銃を押し込むのと、背後からルーの声がかかるのが同時。
「おおい、アズ!」
ミアが竦み上がる。銃をしまうところは、アズの体の陰に隠れて見えなかったはずだ。振り向くと、駆けてくるルーの姿が見えた。もちろん彼は、ミアの姿にもすぐに気がついた。
「なんだお前。どうした」
青白い顔で俯くミアは、アズの右の腰に目を向けて話を逸らした。
「言葉つかい……」
「ああ、そうなんだよ、うん」ルーはアズに図面鞄を押しつけ、「言葉つかいなんだよ、こいつはな。でも黙っててやってくれよ」
剣帯を外し、図面鞄にしまい込むアズの耳に囁いた。
「王は?」
「取り逃した」
「そっか」
ふと目を上げ、ルーの肩越しに黒い人影を見つけた。
「まあ、無事でよかった」
黒いワンピース姿の長髪の女が、道の真ん中に立ち、アズたちに背中を向けている。
巡礼が去った方向を見ているのだ。
「悪い」
目の前に立つルーを右手でそっと押し、横をすり抜けた。ルーは敢えて止めなかった。アズには見えているものがあるのだと、ルーはわかっていた。
アズが向かうほうに目を細める。
そこには誰もいなかった。
※
目的地があるのかないのか、黒いワンピースの女はふらふら歩いていた。それを追う最中、人とすれ違った。
青年会のイスラだった。
「あっ――」
呼び止めようとするのに、
路地は、舗装された上り坂になっていた。左右は民家の漆喰の塀で圧迫されているが、辛うじて、体を斜めに傾けなくても進める幅があった。ワンピースの裾がカーブの向こうに消えた。アズは足音を立てずに歩を早める。
『大丈夫よぉ、あなた若いんだから!』
足を止める。
幻聴だ。
尾行を再開。
『若いことと病気で困ってることに何の関係があるの?』
坂を上った先に光が差している。ワンピースの人影が、光に吸い込まれていく。
『死ぬような病気じゃないし、後遺症が残るものでもないんでしょ? 私なんかもう歳だからさあ、あっちこっち悪くてさ? あなたの神経の病気なんて気の持ちようよ。実は私もね、妹が病気だったからわかるの。気持ちが悪くなるのも、眩暈がするのもね、大丈夫。全部気のせいなのよ』
女が、視界の先で坂を上り切った。坂の向こうの平坦な道に姿が消えていく。
アズもまた坂を上ると、そこはフクシャ大聖堂の裏手だった。
そんなはずはない。
足を止めても歩き続けているような、不思議な感覚。石畳と大聖堂の前庭が後ろに流れていく。
俯きがちに歩く人の視界だ。
ワンピースと、手に持ったバケツが見えた。
バケツには汚れた雑巾が何枚も入っていた。
大聖堂の隣には、信徒が行事や集会に用いる小さな会館。
手にバケツを
蛇口の前でしゃがもうとしていたものの、再度立ち上がる。
建物の影を抜け、会館の裏手へ。
若い男たちが積荷を下ろしている。
木箱の一つに文字が刻印されていた。
『爆発物注意』
トラックの積荷は続々と会館の裏口に運び込まれていく。
その光景に目が離せない視線の主は、強い衝撃を受けたかのように、突如
※
アズは瞬間的に身構えた。
女は怯え、逃げようとした。
「待ってください」
アズは言葉を選びながら十字路に足を踏み出した。
「……巡礼にはついて行かなかったんですね」
女の顔を水のように覆う恐怖と嫌悪が、その一言で微かに揺らいだ。
もう一歩前へ。
「よかった」
女は首を振ると、十字路の向こうの坂に消えていった。
その坂を上り切ると大通り。
日の光の下で、大通りを挟んだ先の道をバリケードが封鎖している。
木材と有刺鉄線、焼けた警察隊の車やドラム缶を組み合わせて作ったバリケードは
建築の知識のある人間が建てたのだろうと思われた。大人の目の高さに木箱が組み込まれ、こう刻印されていた。
『爆発物注意』
「その先は危ないぜ」
後ろに、僅か三歩の距離を挟んでルーが立っていた。
アズは
「話がある。人に聞かれたくない」
そんなわけで、二人はルーの散らかった家に戻った。
「いなくなったリィという人は」
ダイニングで、立ったまま二人は話した。三毛猫のサリーはパントリーで体を丸め、伸ばした後ろ脚をしきりになめて毛繕いしていた。
「最後に黒いワンピースを着ていなかったか。背はこれくらいで、肌は白、背中まで伸びた暗褐色の髪、目は緑がかった灰色」
「服は覚えてねぇけど、まあそんな感じだな」
「年は」
「十六か七。八だったかな。よくわからん」ルーは眉を
「自殺じゃない。殺された」
幻の中で見たことを聞かせる。ルーの気配が張り詰めていく。それを感じてか、毛繕いをやめた猫は眠ろうとせず、
「わかった。教会を調べる」
「俺も行こう」
「二人のほうが目立って危険だ。お前は今日中に汽車が動くか見てこいよ」
アズは頷いた。
「ルー」
「なんだよ」
「リィは巡礼には加わらない」
ルーは肩を竦め、「そりゃよかった」
「彼女は学生だったのか? 家族は?」
「下町の工員だよ。親がいるって話は聞いたことがないな。病気持ちで工場を追い出されそうだって悩んでたし、少なくとも頼れるような家族はいなかったみたいだ」
「どういう病気だったんだ?」
「なんとか
乾いた音を立てて手を打った。
「そうだ。確かに黒いワンピースだった、最後に見たときは」
「聖父被昇天祭の日だって言ってたな」
「そうだ。あいつ礼拝の最中に吐いちまったんだよな。その後に代母と揉めてるの見たよ」
「何を言われたんだろう。治るまで教会に来るなとか?」
ルーは渋い顔で、「さすがにそんなはっきりとは言わねぇだろう」
「遠回しには?」
「知るかよ」
ふと気になって時計を見た。針は十一時半を指していた。
「お前はそろそろ行ってこい。汽車が動くなら見送ってやるからよ」
アズは頷く。
「ありがとう」
「タルはどうして教会を裏切ったんだろうな」
ドアノブに伸ばしかけた手を空中で止め、アズは振り向かずに囁いた。
「死者から話を聞く方法はある」
「やめろ」返事は早かった。「眠らせてやれよ」
顔を後ろに向けて見る。昔から変わらぬ友の顔を。
アズは張り詰めた目の光を和らげて、黙って出ていった。