あかり

文字数 4,357文字

 4.

 傷つき、打ちひしがれた姿でアズは歩いていた。月も星も厚い雪雲の奥に隠れていた。道には街灯の一つもなかった。重い一歩を踏み出すたびに息が弾む。呼吸が荒れると、あばら骨のあたりが軋むように痛んだ。服はずぶ濡れで、凍え、粉雪に吹きつけられながら、アズは痛みで汗をかいていた。
 星獣の手からどのように逃れたか、記憶が定かではない。無我夢中だったのだろう。捕らえられてから、安全な場所へ向かう途上で苦しい歩行をしている現在までの間の記憶は抜け落ちていた。
 何にせよ、アズは生きていた、惨めに。
 愚弄(ぐろう)されたのか。
 殺す値打ちもないということか。
 足を引きずる。体は重く、前のめりにならなければ歩き続けられなかった。教皇から直々(じきじき)下賜(かし)された処刑刀は、今や杖となり下がっていた。
 それでもアズは歩く。
 一歩。
 また一歩。
 前方には小さな家の光。そこは世界で最も大事な場所だった。窓から漏れる微かな光しかアズのもとには届かないが、日の光に照らされれば、その家は店舗を兼ねていることがわかるだろう。軒先にはこう看板が掲げられている。
『ラティア薬局店』
 あそこにたどり着けば。
 一歩。
 また一歩……。

(トビィ! 起きて!)
 記憶の混濁。
(アズが帰って来た!)
 女の声がした。意識を取り戻す。
(お願い、早く! 大変なの!)
 ああ、レミだ。アズはぼんやり理解する。
 たどり着いたのだ。
(ひどい怪我してる)
 怪我? そうか。
 そんなにひどいのか……。

 ※

 ラティア家は予期せず一度に二人の男児を得たが、十年もしないうちに金の心配はなくなった。二人を公平に育てるつもりで節制を重ねたのに、双子の下の子を公教会に取り上げられたからだった。
 アズは教会に買い取られたも同然だった。大人になるまで知らなかったが、公教会はアズの両親に少なからぬ額の金を渡していたのだ。
 その金は、双子の長男トビィの養育費として使われた。
 トビィは『救貧院のテレジア』として知られる女性が設立したテレジア金庫から融資を受け、薬局を開いた。薬局は無医村の命綱となった。かくて村で唯一の薬剤師となったトビィは幼馴染みのレミと結婚した。彼は誰からも頼られて、誰からも愛されている。
 けれど、アズが思い出す兄の姿はいつも、雨の中、遠ざかる馬車を立ち尽くして見送る七歳のときの姿だった。

 ※

 意識を取り戻したとき、夕刻で、切妻(きりつま)屋根の下の小部屋は琥珀に閉じ込められたような色に染まっていた。アズはずぶ濡れの衣服を着たまま横たわり、斜めになった天井に向かって瞬きを繰り返した。体は麻酔を打たれたように重く、動けなかった。
 耳を澄まし、柱時計の振り子が揺れる音を聞いた。誰かが階段を上がって来て、部屋の薄い木戸を開けた。
 アズと瓜二つの青年が戸口に現れた。葡萄茶(えびちゃ)の髪。小麦色の肌。紫水晶の虹彩が輝く目には薄い眼鏡をかけている。一卵性双生児の兄は、まだ店を閉めていないのか、服の上に白衣を纏っていた。
 同じ顔なのに、顔つきはまるで違っていた。トビィの顔は、まだ人を殺したことも、その必要に迫られたこともない人間の顔だった。
 トビィの目には痛ましさと困惑が入り混じっていたが、慈愛の光がそれに(まさ)っていた。彼は微笑み、後ろ手で戸を閉めた。
「よく寝たね」
 枕もとにある椅子に座り、トビィはアズの顔を覗き込んで、弟が口を開くのを待っていた。だが、アズが眠気と倦怠感に冒されて瞬きしかできずにいると、額に手を当てて熱を測り、その手で今度はアズの手の甲を覆った。
「大丈夫だよ。痛み止めを飲んで、安静にしていてほしい。医者を呼ぼうと思ったけど……君がここにいることは、誰にも言わないほうがいいかな?」
 アズは浅く頷いて、感覚のない唇を動かした。
「ありがとう」
「お礼なんて言わないで。ここは君の家でもあるんだよ」
「トビィ」
「なに?」
「何も聞かないでくれ」
 トビィは深く頷いた。
「君が元気になってくれたらそれでいいよ」
 アズは目を閉じる。優しさの波動を肌で感じ取る。トビィはいつでも許してくれる。トビィが村の病人や怪我人を一人でも多く救おうとしている間、アズは教会が敵と定めた人間を一人でも多く殺そうとしていた。そのことを、トビィはいつでも許してくれる。
 だが、トビィに許されるほど、アズは自分自身に対して冷たく(かたく)なになっていくのだ。
 とにかく、今は眠る。
 
 ※

「晴れてよかったねえ!」
 レミが小径(こみち)の先で振り向いた。黄色い長髪は束ねずに背中に垂らしていて、口の周りに何本も髪が張り付いていた。アズの幼なじみは、双子の兄の美しい妻となっていた。
「去年も一昨年(おととし)も、命日は雪だったもんねえ」
「それに今年はアズもいるよ。今日はいい日だ」
 傷を気にしてゆっくり歩くアズをトビィが振り向いた。痛みは和らいでいる……いると思う。アズは化け物に握られたあばら骨と腰骨に手を当ててみた。ずきずきする。服はずぶ濡れだった。
 もう一度兄たちを見る。似合いの夫婦だと思う。生涯かけて愛したい、と思った女性が自分にもいたことを、トビィに話したことはない。リール。『心眼』のリール。女子部のリール・クロウ。茶色い肌。波打つ豊かな黒髪。二重瞼の大きな目と少しふっくらした頬。唇は厚く、笑うと赤く輝いた。掌の色は薄かった。校舎裏の茂み、男子部と女子部を隔てる金網越しに、掌を重ね合う日々があった。けれど、二人はついぞ手を繋ぎあうことはなかった。
 ブナの木立(こだち)に横たわる道は石畳で舗装されていた。霜が朝日を浴び、きらめきながらとけていく。葉を落とした木々の間を風が吹き抜けてくる。空は雲ひとつない晴天で、アズたちの顔に枝の模様をつけていた。
「母さんは最期に――」
 道の先で立ち止まり、アズが追いつくのを待ちながら、トビィが声をかけた。
「大人になったアズを見れてよかったって言っていたよ。満足して逝った」
 アズは黙って頷いた。その件について、何を言えと言うのだ? トビィとレミはたまにアズの任地まで会いに来てくれる。アズのほうはといえば、レライヤ学園を卒業後、帰宅を許可されたのは二度だけだった。父は在学中に死に、母が息を引き取った夜は、当時の任地はミナルタだったのだが、突き止めた抵抗教会のアジトで革命家たちを血祭りにあげていた。
 当たり前のことなのだ。生涯を公教会に捧げる誓いを立てたのだから。公教会が命じたのだから。
「父さんはいつも君を気にしてた。元気でやってるか、今どうしているかって」
「手紙の一つも出せなかったんだ」
「わかってる」
 追いついたアズの背中にトビィが手を添えた。濡れた服越しに触れる手は、氷のように冷たかった。
「父さんは君を愛していた」
 木立の終端が近かった。
「聞いて」
 視界が開け、光が充溢(じゅういつ)した。一羽のオオルリが、近くの枝から飛び去った。その鳥の鳴き騒ぐ声を、アズはどこか幸せな気持ちで聞いていた。
「父なる者は、今もそばにいて、君を愛している」
 墓地が眼前に広がっていた。湖を見はるかす眺めのいい丘で、死者たちは眠り、かつ、常に目覚めている。
「愛している、いつも」

 ※

 太陽は彼らに上り、落ちる。その一日を、三人は墓を洗い、湖を散策して過ごした。レミが持ってきたバスケットからケーキを出し、湖畔のベンチで食べた。それから家に戻り、一緒に菜園を手入れする。
 穏やかな生活。
 滅多のことでは血と臓腑を見ることのない、殺すことも、殺される覚悟も必要ない、当たり前の一日が静かに暮れていく。
「晩ご飯にしようか」
 トビィが台所に立った。その手許(てもと)を白熱電球が照らし出す。けれど、食事のときは蝋燭に火を灯すのだ。なんであれ雰囲気を大切にするレミの好みだった。暗いダイニングでは、レミが蝋燭に火をつけていた。三叉(さんさ)燭台(しょくだい)に刺さった蝋燭はどれも長く、宿る()は明るく澄み、煙が出なかった。鯨蝋(げいろう)だ、と、アズは思った。服はずぶ濡れだった。
 灯火(ともしび)が、人と物とを等しく影に変えて壁に映し出した。その影を動かして、アズは蝋燭にも、白熱電球にも背を向けた。
 一人で二階に上がる。切妻屋根の下の小部屋には、猫脚の、背の低いチェストが一台ある。上に一輪挿しがあるが、今は花も草も飾られていない。
 真っ暗な部屋で、アズは震えながら乾いた衣服を取り出した。手探りで着替えた。シャツのボタンが取れ、一つしか残っていなかった。
 階段を降りる。トビィが野菜を切る、トン、トン、という音が聞こえていた。夫婦はどちらも沈黙していた。アズもまた喋らなかった。寒くて震えていた。服がずぶ濡れだ。
 ダイニングを横切り、玄関から外に出る。ポーチで着たままシャツを絞った。水が落ち、木製のポーチで跳ねた。その水は、硬いものを落としてできた浅い溝目(みぞめ)に溜まった。
 水たまりが玄関灯をオレンジ色に反射した。どの時間帯でも急を要する人が来れるよう、真夜中でも点灯し続ける照明だ。
 水たまりに映る顔に、アズは屈んで身を寄せる。
『お兄さん、お兄さん』
 水鏡が映し出すのは、思いもしない人の顔だった。
「シャーリィ」
 声を上げるアズに、黒いワンピース姿のリィは悪戯っぽく唇に指を当てた。
『お兄さんは私を助けてくれたから、今度は私がお兄さんを助けてあげる』
 微かな声で、リィはアズの心に直接届けた。
『夢を見ない生き物は、鼓動がないんだよ』
「アズ?」
 台所からトビィが呼んだ。
「寒いでしょう。入っておいで」
 リィが消えた。オレンジ色の水面には、アズの顔だけ映っていた。
 レミは蝋燭が灯るダイニングでテーブルをセットしていた。長い髪が顔を隠し、幽鬼のように見えた。ダイニングではシチュー鍋にトビィが野菜を投じていた。キッチンストーブに目をやると、カッティングボードの上に刃渡りの長いナイフが置かれていた。
「トビィ」
 ためらいながら声をかけ、手をあげる。
「なに?」
 その手を、シチュー鍋をかき混ぜるトビィの背中に押し当てた。トビィは笑う。
「どうしたの?」
 目を閉じ、(ぬく)もりを感じようとした。
 それは無理な相談だった。
「アズ、一体どうしたの?」
「トビィ――」
 ナイフを、取る。
 両手で握りしめ、肘を引くと。
「――覚悟」
 愛する兄弟の背中に突き立てた。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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