生きてて楽しいか。

文字数 2,931文字

 ※

 左手の薬指と小指の間に紙巻きタバコを挟み、親指の爪にマッチをこすりつけた。マッチに火がつくと、テレジアはタバコに火を移し、マッチの火は棒を縦に振って消した。
 彼女はベッドに腰をかけていた。後ろのルシーラは着替えを終えている。チリチリと火花のような視線がうなじに当たるのを感じ、テレジアは振り返らずに煙を吐き出した。
「もう一発おしりペンペンしたいのか?」
 物言いたげな沈黙が続いたが、やがてルシーラは手櫛で髪を()きはじめた。
「さっきの人はアンテニー・トピアというの。中等学校で数学を教えてて――」
「知ってるよ」
 ルシーラはいらいらしながらポケットをあさり、紙タバコを見つけると、勢いよく噛みちぎった。
「やめとけ。老けこむのが早いと仕事に差し障る」
「ほっといて」
「ご機嫌ななめだな」
「アンテニーは二度と私を買わないわ」
「先生はあんたに何をしてくれたんだ?」
「金払いがいいのよ。それだけ」
 タバコをくゆらせながら、テレジアはようやく振り向いた。
「金払いなら私もいい部類だと思うがね。こっちは救貧の聖女様だぞ」
「あなたに私を救う気があるなら救っているわ」
「『天は自らを助くるものを助く』だよ、お嬢さん」
「お嬢さんですって?」ルシーラはベッドの上でテレジアににじり寄った。「こっちは子供が三人もいて、あなたより十は年上なんだけど?」
「こりゃ失礼しましたね、奥様」
 テレジアはタバコを大きく吸い込んで、ゆっくり吐き出した。煙は石綿の粉の上を通り過ぎ、薄い戸の前で薄れて消えた。
「……アンテニーは陰険な人」
「それが?」
「醜聞が立つわよ、聖女様」
 テレジアは肩を揺すって笑った。
「今さら誰が驚くんだ? 公教会自体が腐ってるのに」
 ルシーラは何とかして自分よりも若い客を言い負かしたい気持ちになった。口を開き、だが物を言いあぐねていると、ふと胸に何かがきらめいた。
 さっき、この人は、大事なことを言った。
「鳥飼いが来るってどういう意味?」
 テレジアはもう一口ふかしてから立ち上がり、タバコをベッドの灰皿に押し付けた。
「奥様には関係ないよ」
 ルシーラは腹を立てて売春宿を出て行った。
 冬の太陽は、薄い雲の向こうで西へ傾き始めていた。宿の裏はすっかり葉を落としたイチョウの並木道で、その黄色い葉を雨樋に残した小さな家の、裏通りに面した小窓が開いた。
「お姉さん、飲んでくかい?」
 小柄で汚らしい老婆が、胎内の子種を殺すという触れ込みのジュースの瓶を掲げ、振った。老婆の奥に広がる部屋は暗く、よく見えない。夜には街灯の加減で見えることもあった。あの暗がりには胎児と動物の干からびた内臓や骨が陳列されているのだ。
 窓から漏れくる臭気に顔をしかめると、北風が吹き付けた。ルシーラは毛織りの肩掛けを握りしめ、体に押し付けた。
「いらないわ」
 窓辺に佇み、「ふうん」と、『心眼』の魔女は頷いた。
「女の客を取るようになったかね。聖女様はお上手かい?」
 ルシーラは、魔女の黄ばんだ歯にも、いやらしい目つきにも背を向けた。足早に去りつつ、思う。私は卑しい。魔女はもっと卑しい。この町はどうかしてるわ。戦争が始まるまで、嫌われ者の魔女なんかがあんないい立地に店を持てるわけなかったのに。
 どうかしてしまったのだ、町も国も。その通り、角を曲がればどうかしてしまった連中がいくらでもいた。
 片足を吹き飛ばされた傷病兵が、金を入れる帽子を足許に置いてバイオリンをかき鳴らしていたが、彼はよだれを垂らして酩酊し、奏でる音は騒音で、旋律になっていなかった。別の連中は銃を抱えて家屋の壁に身を寄せており、かと思えば先頭の男が玄関から突入した。あれは抵抗教会の示威的な突入訓練で、二人一組の警官が近くの辻に立っていたが、背を向け、見ぬふりをしていた。
 ある酔っ払いはこぎれいな少女の前で出し抜けにズボンを下げ、スカートめがけて放尿し始めた。悲鳴をあげて逃げる少女を見、脱走兵たちが指を差して笑った。
 絶対に客にしたくない種類の男たちだ。
 ルシーラが働く宿はまだ良心的な店の部類だが、それでもいつああいう客を取り始めるか知れたものではない。
 ルシーラは道の真ん中を急ぎ足で渡った。
 私はタイピストだったことがあるわ、と、自らに(むな)しく言い聞かせた。電話交換手だったことも。市電(トラム)のガイドだったことも。どれも長続きしなかったのは、運が悪かっただけ。
 教会の前を通り過ぎる。戸には抵抗教会の連中が好きな『九十何項目の論題』とかいう長ったらしい御託(ごたく)が貼られ、論をぶつより馬糞の掃除でもしているほうがお似合いの男がビラを撒き散らしていた。
 私はもう人に誇れる仕事に()くことはないかもしれない。でもせめて――ルシーラは希望に縋りつく――せめてうちのアルコをああいうのの同類にしてはいけない。
 ルシーラの誇れる長男アルコは十歳で、今は自宅の玄関先に座り込み、母親が帰るまでのしばしの自由を放心して過ごしていた。彼は、母親は電話交換手の仕事をしていると信じていた。ルシーラの月の稼ぎの半額に該当する家賃の家は、アルコの父が病気の療養で実家に戻る、と言って姿を消す前に借りた家だった。父は本当は新しい女を見つけて逃げたのだということを、アルコはまだ知らなかった。彼はろくでもない連中が騒ぎながら家の前を通るとき、その中に父親の顔はないかと無意識に探した。笑顔に乏しく、学校の成績が悪ければ躊躇なく拳骨(げんこつ)をくらわす父の性根(しょうね)を本当はわかっていたのである。そしてつくづく思うのだった。ああはなりたくないと。
「何してんの」
 軽やかな女性の声がした。明らかに自分にかけられた声だったので、アルコは顔を上げた。
 子供にとって四歳の差は大きい。声をかけたのは旅の少女リリスだったのだが、アルコの目には彼女が大人に見えた。
 玄関先の階段から通りに足を投げ出して座っていた子供に、リリスは微笑みながら再度声掛けした。
「ボーッとしてちゃ、危ないよ」
 少年はどこか嫌そうな目でリリスを見ていたが、「ごめんなさい」と呟いて、足を引っ込めた。
「どうしたの? つまんない顔して」リリスは腰を屈めて子供の顔を覗き込んだ。「お父さんとお母さんは?」
 黒髪がかかるリリスの横顔を見やり、アルコは一つめの質問に答えた。
「楽しいことが何もないからつまらないんだよ」
 その生意気な口調と態度に、チルーは思った。私、この子苦手だ。憂鬱そうな子供は存在感のないチルーに本当に気付いていないのかもしれなかった。
 リリスは乾いた声で笑い、彼女自身信じていなさそうなことを口にした。
「君はまだ子供じゃないか。大きくなったら楽しいよ」
 行こうよ。チルーはよほど声をかけようと思った。子供は嫌そうにしているし、余計な話をして町の人に覚えられたくない。
 子供はこう尋ね、表通りのろくでなしたちを顎で指した。
「でも、楽しそうな大人、いる?」
 その声は、素っ気なくもどこか切実な響きを秘めていた。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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