市電広場(死者)
文字数 2,957文字
3.
カタカタと音を立てて、ばね仕掛けの鳥たちが、頭上を飛んでいった。目を開けたとき、広場に人はおらず、チルー一人だった。悪臭と、人熱 の余韻だけがあった。冷たい風が吹き、熱を拭 い去り、悪臭だけ残った。
歩き出せば、聞こえるのは自分の足音だけ。
いや。
再び旋律が聞こえてきた。低く唸る祈りが。
その声は後ろから、徐々に近づいてくるのではない。段階的に大きくなる。
振り向いた。
死者の凝視が待ち受けており、いきなり目があった。
広場を取り囲む迷宮の石壁、その一部が扉のように開き、折り畳まれた死者が二人、いや三人、物欲しげにチルーを見つめていた。白い巡礼衣装は血染め。男だか女だか、若いのか老いているのか、よくわからない。痩せこけ、髪は抜け落ち、幾重 にも折れ曲がった体を紙のように伸ばしながら、壁から出てこようとしていた。
チルーは壁に飛びついて、石壁の扉を強く閉ざした。扉はたちまち壁と同化した。
振り返ると、マンホールから別の死者が這い上がってくるところだった。マンホールが開いているのではなく、マンホールに扉ができているのだ。
扉を踏んで閉ざす。
爪先で蹴り、小さな閂 をかける。
「やだ、やだ」
青く晴れた空、自分の影を踏みながら、チルーは今度は陸橋に開いた扉に飛びついて閉ざした。別の陸橋からは、既に死者が溢れてきている。
間に合わない。
出現する扉は多く、チルーはたった一人。
「あっちに行って! 私は死にたくない!」
……そのはずだ。
チルーは基本的なことを思い出し、己に言い聞かせていた。その事実が自分を冷静にさせてくれるはずだ。つまり、死者は死にたい人しか連れて行かないと。
掌で触れる冷気に集中する。扉は消え、陸橋はただの陸橋に戻っていた。
もう大丈夫、きっと――。
振り返る。
人が見えた。
鶏を抱えていた女だ。
這いつくばり、石畳の上を泳ぐように腕を動かして、逃げようとしていた。死者が二人、歩み寄り、その女に追いついた。
死者たちは白い巡礼衣を脱いで、女に着せる――死を着せる。
巡礼衣が、内側から、女の血で赤く染まっていく。
布の内側に顔が押しつけられ、形をはっきりと浮き上がらせていた。苦悶の表情。叫んでいる口の形。
無音。
死者たちの後ろからリリスが駆けつけてきて、一瞬音が戻った。リリスは銃剣を振るい、死者二人をたちまち斬り伏せた。
死者は斬られると、シャンパンの栓が抜けるような音を立てた。
ぽん。
ぽん。
空気が抜けたようにくしゃくしゃとくず折れる。
「リリス!」
呼びかけても聞こえなかった。彼女もまた無音の世界にいるのだ。学園の、実習用の銃剣を手にしてリリスは駆けていき、消えた。
死者を殺せる者は『言葉つかい』のみ。
言葉つかいを育成する学園の生徒でありながら、チルーが巡礼の死者たちの恐怖に抗し得たことは一度もない。
背後に大きな気配。
今までの死者は先触れ。
本隊が来たのだ。死者の巡礼団が。
「落ち着いて」
チルーは敢えて声に出した。背後の祈りはこれ以上ないほど大きく、近かった。生者の声を聞きたい。この際、自分の声でも。
「まずは型を見抜くの。扇動者の型――」
扇動者を斬り伏せないと、巡礼団は消えない。
振り向いた。それはもう、手を伸ばせば届く位置にいた。死者、死者。たくさんの、見すぼらしい死者。白い巡礼衣。黒い巡礼衣。赤、青、緑の巡礼衣。大きな目。開いた口。その行列のただなかに、民家を圧するほど巨大な死せる馬。
その馬の鞍 に、赤と金の祭服の巨人が揺られている。
チルーは反応できなかった。その扇動者は、教科書の図版で見たものとまるで同じだった。
金歯を剥き出しにし、顔の上半分と頭部を髑髏 の兜で覆っている。悠然と手綱を握り、帯 を掛けた首を前後に揺らしながら、カチカチ、カチカチと、金歯を鳴らし笑っていた。
その型をチルーは習い、知っていた。
「……『嗤 い祭司』」
カチ! 真横で音がした。そこにはイースラがいた。教室でそうしているように、寮でもそうしているように、成績も、将来も、教師たちの態度も何も気にしたことがないかのように微笑みながら、歯を打ち鳴らした。カチ!
死者のほうにさまよい出ていく。
「待って」
手を伸ばす。チルーの指は、確かにいるはずのイースラの二の腕をすり抜けた。
イースラに触れることができたのは、死者たちのほうだった。
死者たちの中に、太った将校がいた。鶏を抱いていた女がいた。垢まみれの脱走兵がいた。死者は巡礼衣を脱ぐ。三人でイースラを取り囲み、頭から被せた。
チルーが陸橋の影で息をのむと、布が一瞬で血に染まった。直後、手品のように、布の中身が――イースラの体が――ぺしゃんこになり、消えた。
石畳に落ちた巡礼衣を拾い上げ、死者たちは巡礼の列に戻っていく。巡礼衣が消え、石畳が剥き出しになっても、イースラは現れず、持ち物ひとつ残らなかった。あの笑顔、天真爛漫な声音と存在感。それはもう、世界のどこにもない。毎日違う靴下留めもない。毎日違うリボンもない。
いいや。リボンだけ、巡礼団のただなかに見出 せた。石畳に落ちたそれは、死者たちの裸足 の足に蹂躙されていく。
最後尾が見えた。
祈りの旋律が、来たときと同じように、段階的に小さくなる。
闇。
※
「イースラ!」
雑踏の中で、チルーは絶叫した。
「駄目!!」
人、人、人。巡礼は去った。広場には生者と死者が混在し、死者は永遠に物言わぬ姿で横たわっていた。生者は混乱し、泣き叫び、立ち尽くし、呆然としていた。チルーもその内の一人だった。けれどチルーは大切なことを思い出す。
「……リリス?」
足許 では、黄色い目をした鶏がほっつき歩いていた。チルーは駆け出す。
「リリス、どこ!?」
横たわる屍 を飛び越えて、広場を突っ切った。拳銃を手にした『抵抗者の教会』の男性信者が、へらへら笑いながら広場の中央に出てきた。そしておもむろに銃口をこめかにみ当てて、躊躇なく発砲した。
「リリス!」
通りでは、倒れ伏した屍 や、その屍に取り縋って泣く人の姿がそこかしこに見られた。
再び友の名を呼ぼうとして、チルーは凍りついた。寮母を見つけたのだ。生きていた。生きて、夫に縋り付いていた。夫のほうは死んでいた。穏やかな死に顔だった。
「なんで!」叫びが深く突き刺さる。「なんで私じゃなくてあんたなんだい!?」
その体から発散される悲壮の気が、チルーの混乱と焦りを鎮め、悲しみを伝染させた。いまやチルーの心も体も冷え切っていた。肩を落とし、悄然と、広場に戻っていく。
自殺した男の手の先に、イースラの青いリボンを見つけた。屈んで拾い上げようとしたとき、他人の血溜まりに広がる黄色い髪の持ち主こそ、級友であることに気がついた。
既に死んでいるとわかっていながら、顔を覗き込んだ。
イースラの死に顔は、恐怖と苦悶で歪んでいた。
カタカタと音を立てて、ばね仕掛けの鳥たちが、頭上を飛んでいった。目を開けたとき、広場に人はおらず、チルー一人だった。悪臭と、
歩き出せば、聞こえるのは自分の足音だけ。
いや。
再び旋律が聞こえてきた。低く唸る祈りが。
その声は後ろから、徐々に近づいてくるのではない。段階的に大きくなる。
振り向いた。
死者の凝視が待ち受けており、いきなり目があった。
広場を取り囲む迷宮の石壁、その一部が扉のように開き、折り畳まれた死者が二人、いや三人、物欲しげにチルーを見つめていた。白い巡礼衣装は血染め。男だか女だか、若いのか老いているのか、よくわからない。痩せこけ、髪は抜け落ち、
チルーは壁に飛びついて、石壁の扉を強く閉ざした。扉はたちまち壁と同化した。
振り返ると、マンホールから別の死者が這い上がってくるところだった。マンホールが開いているのではなく、マンホールに扉ができているのだ。
扉を踏んで閉ざす。
爪先で蹴り、小さな
「やだ、やだ」
青く晴れた空、自分の影を踏みながら、チルーは今度は陸橋に開いた扉に飛びついて閉ざした。別の陸橋からは、既に死者が溢れてきている。
間に合わない。
出現する扉は多く、チルーはたった一人。
「あっちに行って! 私は死にたくない!」
……そのはずだ。
チルーは基本的なことを思い出し、己に言い聞かせていた。その事実が自分を冷静にさせてくれるはずだ。つまり、死者は死にたい人しか連れて行かないと。
掌で触れる冷気に集中する。扉は消え、陸橋はただの陸橋に戻っていた。
もう大丈夫、きっと――。
振り返る。
人が見えた。
鶏を抱えていた女だ。
這いつくばり、石畳の上を泳ぐように腕を動かして、逃げようとしていた。死者が二人、歩み寄り、その女に追いついた。
死者たちは白い巡礼衣を脱いで、女に着せる――死を着せる。
巡礼衣が、内側から、女の血で赤く染まっていく。
布の内側に顔が押しつけられ、形をはっきりと浮き上がらせていた。苦悶の表情。叫んでいる口の形。
無音。
死者たちの後ろからリリスが駆けつけてきて、一瞬音が戻った。リリスは銃剣を振るい、死者二人をたちまち斬り伏せた。
死者は斬られると、シャンパンの栓が抜けるような音を立てた。
ぽん。
ぽん。
空気が抜けたようにくしゃくしゃとくず折れる。
「リリス!」
呼びかけても聞こえなかった。彼女もまた無音の世界にいるのだ。学園の、実習用の銃剣を手にしてリリスは駆けていき、消えた。
死者を殺せる者は『言葉つかい』のみ。
言葉つかいを育成する学園の生徒でありながら、チルーが巡礼の死者たちの恐怖に抗し得たことは一度もない。
背後に大きな気配。
今までの死者は先触れ。
本隊が来たのだ。死者の巡礼団が。
「落ち着いて」
チルーは敢えて声に出した。背後の祈りはこれ以上ないほど大きく、近かった。生者の声を聞きたい。この際、自分の声でも。
「まずは型を見抜くの。扇動者の型――」
扇動者を斬り伏せないと、巡礼団は消えない。
振り向いた。それはもう、手を伸ばせば届く位置にいた。死者、死者。たくさんの、見すぼらしい死者。白い巡礼衣。黒い巡礼衣。赤、青、緑の巡礼衣。大きな目。開いた口。その行列のただなかに、民家を圧するほど巨大な死せる馬。
その馬の
チルーは反応できなかった。その扇動者は、教科書の図版で見たものとまるで同じだった。
金歯を剥き出しにし、顔の上半分と頭部を
その型をチルーは習い、知っていた。
「……『
カチ! 真横で音がした。そこにはイースラがいた。教室でそうしているように、寮でもそうしているように、成績も、将来も、教師たちの態度も何も気にしたことがないかのように微笑みながら、歯を打ち鳴らした。カチ!
死者のほうにさまよい出ていく。
「待って」
手を伸ばす。チルーの指は、確かにいるはずのイースラの二の腕をすり抜けた。
イースラに触れることができたのは、死者たちのほうだった。
死者たちの中に、太った将校がいた。鶏を抱いていた女がいた。垢まみれの脱走兵がいた。死者は巡礼衣を脱ぐ。三人でイースラを取り囲み、頭から被せた。
チルーが陸橋の影で息をのむと、布が一瞬で血に染まった。直後、手品のように、布の中身が――イースラの体が――ぺしゃんこになり、消えた。
石畳に落ちた巡礼衣を拾い上げ、死者たちは巡礼の列に戻っていく。巡礼衣が消え、石畳が剥き出しになっても、イースラは現れず、持ち物ひとつ残らなかった。あの笑顔、天真爛漫な声音と存在感。それはもう、世界のどこにもない。毎日違う靴下留めもない。毎日違うリボンもない。
いいや。リボンだけ、巡礼団のただなかに
最後尾が見えた。
祈りの旋律が、来たときと同じように、段階的に小さくなる。
闇。
※
「イースラ!」
雑踏の中で、チルーは絶叫した。
「駄目!!」
人、人、人。巡礼は去った。広場には生者と死者が混在し、死者は永遠に物言わぬ姿で横たわっていた。生者は混乱し、泣き叫び、立ち尽くし、呆然としていた。チルーもその内の一人だった。けれどチルーは大切なことを思い出す。
「……リリス?」
「リリス、どこ!?」
横たわる
「リリス!」
通りでは、倒れ伏した
再び友の名を呼ぼうとして、チルーは凍りついた。寮母を見つけたのだ。生きていた。生きて、夫に縋り付いていた。夫のほうは死んでいた。穏やかな死に顔だった。
「なんで!」叫びが深く突き刺さる。「なんで私じゃなくてあんたなんだい!?」
その体から発散される悲壮の気が、チルーの混乱と焦りを鎮め、悲しみを伝染させた。いまやチルーの心も体も冷え切っていた。肩を落とし、悄然と、広場に戻っていく。
自殺した男の手の先に、イースラの青いリボンを見つけた。屈んで拾い上げようとしたとき、他人の血溜まりに広がる黄色い髪の持ち主こそ、級友であることに気がついた。
既に死んでいるとわかっていながら、顔を覗き込んだ。
イースラの死に顔は、恐怖と苦悶で歪んでいた。