善意の人に平和あれ

文字数 5,336文字

  4.

 ハーヴィー・セフ神父は南ルナリアの教区司祭で、狼犬(ろうけん)を連れてきた。長身痩躯。黒くて丈の長い司祭平服の上から銃帯を巻き、予備を含めて計二丁の拳銃をロザリオと一緒に吊って、その上に黒い二重マントを着込んでいた。歳は七十を過ぎたかどうかといった辺りだが、加齢によって性格が丸くなったようには見えない。銀の虹彩を持つ目はただただ鋭く、黒い中折れ帽から僅かに覗く髪もまた鋭い銀色であった。
「セフ神父は従軍司祭として二十五年間陸軍に在籍しておられました。頼もしい人ですよ」
 昨夜話した『聖母の涙修道会』の修道会司祭ローザ神父はそうにこやかに紹介したが、セフという名の老いた教区司祭は、会釈(えしゃく)もせずにただならぬ眼光でアズを突き刺すばかりだった。
 聖骸ならびに人質の奪還をかけて招集されたのは、兵士四名を連れた聖教軍の士官学生が一名、兵士二十名を連れた聖教軍の下士官が一名。修道会からは代表として案内役のローザ神父が加わった。更に助っ人として呼ばれたセフ神父と名もなき狼犬、最後に情報提供と引き換えに協力を申し出た『星月夜の天使』アズ。これで全員だった。
 追跡隊は夜明けと共に南ルナリア市を後にした。聖骸が奪われてから二十四時間後には、一行は黄色っぽい雲の下で、岩壁に挟まれた広いガレ場を上っていた。先頭に立つのはセフ神父で、彼の相棒が転がる岩屑に鼻を押しつけて臭いを追っていた。
 追跡は順調だったが、突風吹き(すさ)ぶガレ場の登山が小休止を迎えたとき仲間割れが起きた。従軍経験のある教区司祭セフ神父が、まっすぐ追わずに西の道から回り込もうと提案したのだった。それはアズにとって「おい、犬!」以外で初めてまともに聞くセフの声であった。
「そりゃあどういうわけですかね?」
 下士官が尋ねた。この老いた教区司祭を戦力外と見做して甘く見ていることを隠そうともしない口ぶりだった。もう一人の司祭のほうは、ついてくるのがやっとの様子で平らな岩屑に座り込み、口呼吸をしながら、粉雪がちらつく中で汗を拭っていた。
 素っ気ない口調でセフは答えた。
「この岩山には忘れられた聖所がある。『星の伽藍(がらん)』と呼ばれる天然洞窟の聖堂だ。私が賊の(かしら)であるならば、追っ手を入り組んだ伽藍に誘い込まない手はない」
 口論となった。血気盛んな士官学生と下士官は提案に反発し、人質は今にも殺されるかもしれない、この順調な追跡をなぜ妨げるとセフを責め立てた。
 最終的に、士官学生は我慢ならぬとばかりに立ち上がった。
「神父様、私は行かせていただきます。ここで怖気(おじけ)づいては亡き父にあわせる顔がありませんので」
「言っておくが俺もこの若いのと行くぜ。兵を残していくつもりはないが、ジジイ二人でどうするつもりだ?」
「私が残ります」
 黙っていたアズは、ここでようやく意思を表明した。
「あまりにも戦力が不均衡になりますから」
「あんた一人で俺ら二十六人分の戦力って言いたいのか?」
 下士官は積もり始めた雪の上に唾を吐いた。
「ムカつくぜ」
 二十六人分どころではない。アズはこれまであまりにたくさんの人を殺した。瞼を下ろす。闇の中にさらなる闇がある。懐中電灯の弱々しい光の中、砂に紛れてルーの生首が落ちてくる。
 それが岩床(がんしょう)に当たり、音を立てる。
 ごとり。
 目を開ける。
 下士官たちはちょうど去っていくところだった。捨て台詞を吐いていた気がするが、どうせくだらないので聞いていない。
 アズが聞くのは。
 ごとり。
「ルー」
 その呟きは誰にも聞こえない。
 ガレ地の足音が徐々に遠ざかっていった。
「あと十分間休憩だ」セフ神父が言った。「十分で奴らは星の伽藍に着く」
 だが、実際には十五分かかった。切り立つ岩壁の間の道を悲鳴と銃声が貫いたとき、アズは閉じていた目を開け、セフ神父は腕時計に目を落とした。ローザ神父の汗は引き、今度は蒼白な顔で寒さに耐えていた。
 風の中で悲鳴が失せ、銃声だけが続いた。やがてそれも消えて、風だけが元通り吹いた。
 狼犬はアズたちに尻を向け、風の臭いを嗅いでいた。火薬の臭いは犬でなくても嗅ぎとれた。
「おい、犬!」
 セフに呼ばれると、戻ってきて彼の隣に座った。
 誰も何も言わなかった。
 口火を切ったのはローザ神父だった。
「セフ神父、あなたはこうなることをわかっていたのですか?」
「ゆえに忠告した」
「すぐに下山しましょう」
 と、平たい岩屑から立ち上がる。
「軍と教会に報告しなければ」
「で、その間に奴らはエヴァリアまで逃げおおせ、我らは助かり人質は死ぬわけか。素晴らしい考えだ。地には善意の人に平和あれ」
「どうしろというのです?」
伽藍(がらん)の西口に回る。行くぞ」
「待ってください、セフ神父。お願いですから」
「誰かが内通したのだ」
 ローザ神父は一瞬(ほう)けた顔をしたが、すぐに気を取り直した。
「何を根拠に」
「賊どもは伽藍の中で彼らを殺戮するほうが楽に待ち構えていられるのに、そうはしなかった。音がはっきり聞こえただろう。斉射できるだけの人数が外で待ち構えていたということだ。まだわからんか? 奴らは我々がいつ来るかを知っていたのだ、ローザ神父」
「見えていただけということもあるのでは」
「あり得ん。地形が複雑すぎる」
 全くあり得ないということはないはずだが、セフの確信めいた口調が気になって、アズは彼が喋るに任せた。
「奴らはアレが戦力の全てであったと思うかもしれん。急ぐぞ」
「我々三人でですか」
「遅れれば我らが残っていることが気付かれよう。連中をエヴァリアに逃がすな」
「自殺行為です!」
 セフは無視して拳銃を取り、目視で状態を点検した。ここでアズは口を挟むことにした。
「セフ神父、あなたに性急さは似合わない。もしかしてあなたは、内通者が南ルナリア市内に

ことを恐れておられるのですか」
「どういう意味です?」
 尋ねるローザにアズは紫色の目を向けた。
「つまり我々の中にいる、ということです、ローザ神父」
 狼犬が立ち上がり、ゆっくり歩いてローザの背嚢(はいのう)のところに行った。後脚で立ち上がれば人の背丈ほどもある巨大な犬の接近にローザは緊張したが、犬は彼に構わず、意味ありげな目線をセフに送った。
 アズは続けた。
「要塞化が進むエヴァリアで星獣が屠られたことは賊どもも知っているはず。星獣はエヴァリアの革命家たちの精神的支柱だった。彼らが代わりの支柱を求めているのなら、この程度の事件はほんの手始めです」
「ああ……では、もし」途端にローザは泣き言を言い始めた。「エヴァリアから星獣が失われていなければ、こんな事件は起きなかったのか」
「そこの若いのに責任を押し付けるのはやめろ、ローザ神父。嫌なら帰っていいと言われるのを待っているのだろうが、そうはさせんぞ」
 そのとき、桃の種が囁いた。
奏明(そうめい)
 ローザが懸命に言い返しているのを聞き流しながら、アズはその一言の意味を考えた。
 そして理解した。
「そうか」
 司祭二人の視線が向けられた。アズはほとんど独り言のように言った。
「エヴァリアの星獣が一体だけとは限らない」
 セフが脅すように問いかけた。
「何故そのように考える」
「誰がどのような隠し球を持っていてもおかしくありますまい。聖骸の強奪によって革命家たちは破れかぶれになっている、という印象を植え付けるのが奴らの目的という可能性もあり得ます」
「そんな可能性の話をしてなんになるというのです?」
「おちついてください、ローザ神父。あなたが把握している範囲内で結構です。南ルナリアやグロリアナなどのルナリア山塊の近縁に、奏明の魔女はいますか」
「だから、それは今の我々には関係ないと――」
 ごとり。
「ローザ神父」
 つい追い詰めるような口調になる。
「知らないなら知らないと仰ればよい」
 けれど、あの音は消せない。
 ごとり。
「もういい」
 セフがため息混じりに遮った。
(らち)が明かん。犬!」
 狼犬が素早く立ち上がる。
「持ってこい」
 セフな忠実な(しもべ)が主人のもとに持って行ったのは、ローザの小型の背嚢だった。
「あ、ちょっと。何をするんですか?」
 引きずられていく背嚢を追ってローザが立ち上がる。が、疲労によって、膝から力が抜けた様子で前につんのめった。
「この犬は実によく鼻が効く。香辛料でごまかす程度では火薬の臭いは隠せんのだよ。こいつは貴様が何を隠しているか知っている」
 つんのめりながら前進するローザ神父が、背嚢に覆いかぶさろうとした。
 アズが素早く立ち上がる。
 処刑刀が抜かれた。
 その切っ先をぴたりと喉仏に突きつけられ、ローザはいよいよ動けなくなった。
「終わりにしてくれよう」
 着替えと携行食、スキットル、そして布袋がセフの手によって掻き出された。最後の布袋から、手榴弾が三つ出てきた。アズはそれを一瞥し、すぐにローザに注意を戻し、尋ねた。
「あれを誰に使うつもりだったか教えていただきたい、ローザ神父」
 ローザは口ごもりながら目線を背嚢に向け、狼犬に向け、セフの手にある手榴弾に向けた。言い訳を探しているようだったが、ほどなくしてこの沈黙自体が答えだと彼は悟った。
 それで、逃げるか、戦うか。
 アズはローザを甘く見ていた。彼は背を向けて逃げると思ったのだが、コートの内側に手を入れて拳銃を出してきた。ローザの目は、アズの心臓がある場所にひたと据えられていた。
 銃声が轟いた。
 セフの銃であった。
 ぬるい血飛沫が、アズの冷たい頬に散った。ローザが黒づくめなので、彼がどこから出血しているのかすぐにわからなかった。老いた司祭はアズの足許に崩れ落ちた。誰も彼を支えてやらなかった。
 血の出処(でどころ)は脇腹だった。まだ煙が出ている銃口をおろし、セフが狼犬と歩いてくる。アズは鞘にくくりつけた革布で、刃につく血飛沫(しぶき)を拭いた。風の音とともに、ローザの喘鳴がガレ場の空気を揺らしていた。
 セフがローザの傍らに(ひざまず)き、腕で押して仰向けにした。
「息子のためか?」
 撃たれた司祭の痩せた胸は波打つように上下しているが、その波が次第に小さくなっていくのが見て取れた。ローザの目にはまだ光があって、こう答えた
「他に何がある」
 弱々しくも激しい咳をして、血の泡を口の周りに飛ばした。セフが、マントの内ポケットから小さな瓶を取り出した。黄色い油が入っていた。
「あと少しの辛抱だ、ローザ神父。終油(しゅうゆ)の秘蹟をしてくれよう」
 それが終わるまで、アズは先頃までと同じ岩屑の上に座って待った。狼犬が、たまに見張るような視線をアズに投げた。やがてローザは息を引き取った。
「彼の隠し子は『鳥飼い』だった」
 セフ神父は立ち上がり、指を白いハンカチで拭いた。
「何故このようなことに」
「鳥を奪われたのだよ、詳しい事情は知らんがな。よくある話だ」
 アズは実際に、鳥を奪われた鳥飼いを一人だけ知っていた。その鳥飼いは幼い息子が司祭に性的虐待を受けたと告発したのだ。結果、若い父親は鳥を奪われ教区を追い出された。鳥飼いなどいくらでも代わりがいるということだ。
「自分の鳥を失った鳥飼いがどうなるか知っているか」
「いいえ」
「まず、ぼうっとしている時間が増える。眠くて仕方がないのに眠れない、という状態だそうだ。その時間は徐々に長くなり、老け込み、ついには日がな一日口を開けて天井を見上げるだけとなる。クソも小便も垂れ流しでな。それで、週に一度か二度、正気に戻る。そのとき口にするのは決まって『死にたい』、だ」
「ローザ神父の御子息は、次の鳥に出会えなかったのですか?」
「結果を見ればわかろうが」
 セフはローザの遺体に顎をしゃくった。
「いつかは彼に引導を渡してやらねばならなかった。そうだろう」
「いつからローザ神父を疑っていたのですか?」
 セフは肩を竦め、拳銃をホルスターに収めた。質問が返ってきた。
「死んだ二十六人が惜しいか」
「はい」
「ならば『もっと早くにローザを始末しておくべきだった』と言ってみろ」
 既にローザ神父の顔からは血の気が失せていた。この顔色について誰かが言っていた。白いような、青いような、黄色いような――。
 ごとり。
 暗がりを落ちてくる幻影のなかの生首が、ローザ神父のものになった。
「言えません」
 ふん、とセフは鼻を鳴らした。
「貴様の生気のない怠惰な常識など死者と共に行ってしまえ」
 アズはやる気のなさを隠そうともせずに立ち上がった。
「伽藍の西の入り口は?」
「探さねばならんな。最後に訪れたのがいつか覚えとらん」
「ローザ神父なら覚えているかもしれません」
 アズは処刑刀を抜いた。
「何をするつもりだ」
 答えなかった。
 見せるほうが早いのだから。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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