時を超えて
文字数 1,445文字
1.
昼下がり。修道院の桃の木の下にはテーブルと椅子が出され、老いた修道女が一人、くつろいでいた。
町から続く小道を一人の少女がやって来る。
修道女は少女の姿を認め、その後ろ、丘の下の壊れた町へ目を細めた。
全ての都市と村で、壁が生まれることはもはやなくなっていた。むしろ姿を消しつつある。どうやら壁の聖女は歌うのをやめたらしい。それも、とうの昔に。
三十年以上続いたあの戦争は、公教会と抵抗教会が共倒れになる形で終わった。時代は変わりつつある。あと十年もすれば、壁の聖女が崇められた六百年間のほうが異常な時代だったと評価されるのかもしれない。
夏の終わりの涼しい風が、桃の葉を鳴らした。
老修道女は澄んだ眼差しを少女に戻した。少女の頭上を小鳥たちが飛び交っている。高い空から祈りの声を聞いているのだ。一つ残さず天に届けるために。
小鳥たちのさらにその上を、銀色にきらめきながら飛行船が通り過ぎていく。
※
「こんにちは」
少女は老修道女の前で足を止めると、微笑み挨拶した。修道女は椅子にかけたまま微笑みを返した。
「かわいらしいお客さんだこと。若い人が訪ねて来るのは久しぶりだわ」
少女はちらりと町を振り返る。
「あの町から人は来ないのですか?」
「滅多なことでは。一月 か、それ以上前かしらね、最後にお客様が見えたのは。町で鳥が繁殖し始めていると言っていたわ。公教会の鳥飼いはお役御免ね」
修道女は笑う。
「あなたは町で鳥を見ましたか?」
「はい、みんなとってもかわいい鳥です」
「かわいい、そう」瞬きし、頷いた。「野の鳥の目が冷徹であることを、あなたは知っていますか?」
少女は小首をかしげ、答えた。
「いいえ。でも、町の鳥と野の鳥では、見ているものが違うのでしょうね」
「あなたは町の鳥ですか? それとも野の鳥ですか?」
「わかりません。でも町の鳥でいたい。野の鳥の生活は厳しそうです」
「野の鳥には野の鳥の喜びがあるかもしれません」
修道女は目を閉じた。眠ってしまったのかと少女は思ったが、そのうち目を開けて、言った。
「荒れ野に花を見出すのは、その荒涼たる地平に恐れをなしつつも、目を凝らす勇気のある者でしょう。野の鳥の性質も必要です。人間が生きていくには」
「シスターのお話は、私には少し難しいです」少女は困惑した笑みを浮かべた。「でも、大切なことを教えてくれようとしていることはわかります。どうして
そのようなお話を、私に?」
「何に対して言葉を使うかのほうが、どのような言葉を使うかよりもよほどその人を表すからですよ、若い人。当たり障りのないことしか言わない人などいくらでもいるのですから。私は次の世代の人間にそうであってほしくありません」
修道女は椅子の上で身じろぎし、背筋を伸ばした。
「ところであなたは修道志願者ですか?」
「いいえ、ここに住んでおられるというシスターを訪ねて来ました。チルー・ミシマという方です」
修道女は一度大きく見開いた目を、嬉しそうに細めた。
「チルー・ミシマは私です。あなたは?」
「イクトゥス・ラティアと申します。私の父アザリアス・ラティアはかつて公教会の『天使』で、レライヤ学園の秘宝のカワセミを追っていました」
赤い髪の少女は、吸い込まれそうなほど美しい紫水晶の瞳でチルーの出方を伺った。
老いたチルーは何も動揺することなく、肘掛けに手を置き立ち上がった。右手で杖を取る。
「おいでなさい」
柔らかい土に杖を立てて歩く。修道院へ案内するその後ろ姿を、イクトゥスは追いかけた。
昼下がり。修道院の桃の木の下にはテーブルと椅子が出され、老いた修道女が一人、くつろいでいた。
町から続く小道を一人の少女がやって来る。
修道女は少女の姿を認め、その後ろ、丘の下の壊れた町へ目を細めた。
全ての都市と村で、壁が生まれることはもはやなくなっていた。むしろ姿を消しつつある。どうやら壁の聖女は歌うのをやめたらしい。それも、とうの昔に。
三十年以上続いたあの戦争は、公教会と抵抗教会が共倒れになる形で終わった。時代は変わりつつある。あと十年もすれば、壁の聖女が崇められた六百年間のほうが異常な時代だったと評価されるのかもしれない。
夏の終わりの涼しい風が、桃の葉を鳴らした。
老修道女は澄んだ眼差しを少女に戻した。少女の頭上を小鳥たちが飛び交っている。高い空から祈りの声を聞いているのだ。一つ残さず天に届けるために。
小鳥たちのさらにその上を、銀色にきらめきながら飛行船が通り過ぎていく。
※
「こんにちは」
少女は老修道女の前で足を止めると、微笑み挨拶した。修道女は椅子にかけたまま微笑みを返した。
「かわいらしいお客さんだこと。若い人が訪ねて来るのは久しぶりだわ」
少女はちらりと町を振り返る。
「あの町から人は来ないのですか?」
「滅多なことでは。
修道女は笑う。
「あなたは町で鳥を見ましたか?」
「はい、みんなとってもかわいい鳥です」
「かわいい、そう」瞬きし、頷いた。「野の鳥の目が冷徹であることを、あなたは知っていますか?」
少女は小首をかしげ、答えた。
「いいえ。でも、町の鳥と野の鳥では、見ているものが違うのでしょうね」
「あなたは町の鳥ですか? それとも野の鳥ですか?」
「わかりません。でも町の鳥でいたい。野の鳥の生活は厳しそうです」
「野の鳥には野の鳥の喜びがあるかもしれません」
修道女は目を閉じた。眠ってしまったのかと少女は思ったが、そのうち目を開けて、言った。
「荒れ野に花を見出すのは、その荒涼たる地平に恐れをなしつつも、目を凝らす勇気のある者でしょう。野の鳥の性質も必要です。人間が生きていくには」
「シスターのお話は、私には少し難しいです」少女は困惑した笑みを浮かべた。「でも、大切なことを教えてくれようとしていることはわかります。どうして
そのようなお話を、私に?」
「何に対して言葉を使うかのほうが、どのような言葉を使うかよりもよほどその人を表すからですよ、若い人。当たり障りのないことしか言わない人などいくらでもいるのですから。私は次の世代の人間にそうであってほしくありません」
修道女は椅子の上で身じろぎし、背筋を伸ばした。
「ところであなたは修道志願者ですか?」
「いいえ、ここに住んでおられるというシスターを訪ねて来ました。チルー・ミシマという方です」
修道女は一度大きく見開いた目を、嬉しそうに細めた。
「チルー・ミシマは私です。あなたは?」
「イクトゥス・ラティアと申します。私の父アザリアス・ラティアはかつて公教会の『天使』で、レライヤ学園の秘宝のカワセミを追っていました」
赤い髪の少女は、吸い込まれそうなほど美しい紫水晶の瞳でチルーの出方を伺った。
老いたチルーは何も動揺することなく、肘掛けに手を置き立ち上がった。右手で杖を取る。
「おいでなさい」
柔らかい土に杖を立てて歩く。修道院へ案内するその後ろ姿を、イクトゥスは追いかけた。