死が残る
文字数 1,588文字
※
短時間屋内に入っただけで、また外に出たとき、街の印象は違って見えた。
灰混じりの雪が降る中、南ルナリア市民はできる限りいつも通りに過ごそうとしているのが階段の上から見てとれた。寄り添いあって歩む老夫婦がいるし、犬を散歩させる少女もいた。中年の女が、赤いバッグを体にぴったり押し付けるように持ち、急ぎ足で聖堂の前を横切った。演説者たちはまだいたが、四人で険悪な様子で話し込み、通り過ぎる人たちは彼らへの興味を失っている。
赤いバッグの女と入れ違いで、嫌な顔が通りに現れた。スーツを着た役人の男は、目敏 くアズを見つけると、例の左右対称の笑みを作り、これ幸いとばかりに大聖堂の敷地に入ってきた。アズは露骨に無視して階段を下りた。
「ラティアさん」
黙って聖堂の壁沿いに曲がると、役人は無理に追い越してアズの前に立ちはだかった。
「ラティアさん、お話がございます」
アズはうんざりしてため息をついた。
「今は一人で放っておいてほしいのです」
「お時間はとらせません。当方としましても滞在できる時間は限られておりますので、その間にあなたのことを少しでも多く知りたく」
「俺の何を疑っているのですか?」
「まさか」腕を広げた。「あらぬ疑いからあなたを守るために私が遣わされたのです」
「疑い」
ああ、こんなことになるなら寝床に直行すればよかった。
「ガイエン大司教はよほど俺の態度が気に食わなかったとみえる」
「いいえ、私をここに遣わしたのはガイエン大司教ではございません」
「では、誰が」
「心ない噂を流す者がいるようです。フクシャでルー・シャンシアを油断させ、革命家に売ったのは学生時代からの彼の友人である、と」
疲れ果てた体の中で、たちまち感情が蘇生した。怒りだ。目が吊り上がる。顔が熱くなった。
「いかにも彼と私は友人同士でした。親友と言ってもいい。そんな相手を革命家に売っただなんて、侮辱にもほどがある」
「心中お察しします」
こんな奴にお察しされてたまるか。そう思いながら、アズは全く別のことを口にした。
「リール」
役人は傾いたマネキンのように首を横に倒した。
「その噂を検邪聖省の担当者に耳打ちした人物は、リール・クロウという名だったのでは?」
「さて。潜入員として働く者は複数名おりますが、それが誰であるかは」
「もし俺の言った通りだとしたら、彼女を今まで通り公教会の僕 と考えるのはおやめになったほうがいいでしょう。俺からの忠告をあなたの上司に伝えていただきたい」
自分自身の声をかき消すように、少女の声がした。儚 く。
『今日はお菓子を持ってきたの』
黄色くとろける春の陽射し。
クマバチが、羽音を立てて飛んでいた。
ミモザが茂る裏庭で、男子寮と女子寮を仕切るフェンスの網目に指を入れ、リールと触れ合った――。
「猊下からお聞き及びでしょうが、私はレマ・クロウを討ちました」
『キャラメルだよ。お姉ちゃんの直伝なの。絶対おいしいんだから!』
開いた口、その喉の奥に、甘く重い記憶が蘇った。しっとり濡れた油紙の手触り。羽音。
キャラメル。
「リールの姉です。それだけで、彼女が私を恨むには十分です」
もしかしたら本当に、リールは抵抗協会に潜入した公教会の間諜だったのかもしれない。つまりリール自身がレマを裏切っていたのだと。だが、だとしても、それはレマを守るための裏切りだったはずだ。それほど彼女は姉を愛していた。
何故、恋は終わるのだろう?
愛は消えるのだろう?
心の中の美しいものは破壊され、死と硝煙しか残らないのか? 銃が破壊したあとに、さっきまで確かに生きていたものしか残らないのか? リールもまたそうなるのか?
「では、私はこれで」
「お待ちを。もう一つだけ」
「まだ何か?」
「あなたはエヴァリアを脱出したあと、山中で修道士に会いませんでしたか?」
今度はアズが知らないふりをする番だった。
「存じません」
短時間屋内に入っただけで、また外に出たとき、街の印象は違って見えた。
灰混じりの雪が降る中、南ルナリア市民はできる限りいつも通りに過ごそうとしているのが階段の上から見てとれた。寄り添いあって歩む老夫婦がいるし、犬を散歩させる少女もいた。中年の女が、赤いバッグを体にぴったり押し付けるように持ち、急ぎ足で聖堂の前を横切った。演説者たちはまだいたが、四人で険悪な様子で話し込み、通り過ぎる人たちは彼らへの興味を失っている。
赤いバッグの女と入れ違いで、嫌な顔が通りに現れた。スーツを着た役人の男は、
「ラティアさん」
黙って聖堂の壁沿いに曲がると、役人は無理に追い越してアズの前に立ちはだかった。
「ラティアさん、お話がございます」
アズはうんざりしてため息をついた。
「今は一人で放っておいてほしいのです」
「お時間はとらせません。当方としましても滞在できる時間は限られておりますので、その間にあなたのことを少しでも多く知りたく」
「俺の何を疑っているのですか?」
「まさか」腕を広げた。「あらぬ疑いからあなたを守るために私が遣わされたのです」
「疑い」
ああ、こんなことになるなら寝床に直行すればよかった。
「ガイエン大司教はよほど俺の態度が気に食わなかったとみえる」
「いいえ、私をここに遣わしたのはガイエン大司教ではございません」
「では、誰が」
「心ない噂を流す者がいるようです。フクシャでルー・シャンシアを油断させ、革命家に売ったのは学生時代からの彼の友人である、と」
疲れ果てた体の中で、たちまち感情が蘇生した。怒りだ。目が吊り上がる。顔が熱くなった。
「いかにも彼と私は友人同士でした。親友と言ってもいい。そんな相手を革命家に売っただなんて、侮辱にもほどがある」
「心中お察しします」
こんな奴にお察しされてたまるか。そう思いながら、アズは全く別のことを口にした。
「リール」
役人は傾いたマネキンのように首を横に倒した。
「その噂を検邪聖省の担当者に耳打ちした人物は、リール・クロウという名だったのでは?」
「さて。潜入員として働く者は複数名おりますが、それが誰であるかは」
「もし俺の言った通りだとしたら、彼女を今まで通り公教会の
自分自身の声をかき消すように、少女の声がした。
『今日はお菓子を持ってきたの』
黄色くとろける春の陽射し。
クマバチが、羽音を立てて飛んでいた。
ミモザが茂る裏庭で、男子寮と女子寮を仕切るフェンスの網目に指を入れ、リールと触れ合った――。
「猊下からお聞き及びでしょうが、私はレマ・クロウを討ちました」
『キャラメルだよ。お姉ちゃんの直伝なの。絶対おいしいんだから!』
開いた口、その喉の奥に、甘く重い記憶が蘇った。しっとり濡れた油紙の手触り。羽音。
キャラメル。
「リールの姉です。それだけで、彼女が私を恨むには十分です」
もしかしたら本当に、リールは抵抗協会に潜入した公教会の間諜だったのかもしれない。つまりリール自身がレマを裏切っていたのだと。だが、だとしても、それはレマを守るための裏切りだったはずだ。それほど彼女は姉を愛していた。
何故、恋は終わるのだろう?
愛は消えるのだろう?
心の中の美しいものは破壊され、死と硝煙しか残らないのか? 銃が破壊したあとに、さっきまで確かに生きていたものしか残らないのか? リールもまたそうなるのか?
「では、私はこれで」
「お待ちを。もう一つだけ」
「まだ何か?」
「あなたはエヴァリアを脱出したあと、山中で修道士に会いませんでしたか?」
今度はアズが知らないふりをする番だった。
「存じません」