絶命

文字数 2,468文字



「ここではない世界、今ではない時間には、私ではない私が生きています――」

 気高い女性の声が朗々と物語り始めると、鯨は身悶えしながら方向転換し、尾をセフに、頭をスーデルカとアズに向け、首をそらした。

「――私ではない私が生きる美しい世界では、時間が壊れ始めておりました」

 物語。
 あなたもなのか。
 あなたもまた言葉つかいであったか、『奏明』よ。
 痩せた背中に目を注ぎながら、アズはいつでも飛び出せるよう身構えていた。
 空中でスーデルカと正対する鯨、その口が開く。

『腐り落ちた太陽』

 口の向こう、暗闇に、赤い目が光っている。鍵穴の目と同じだ。声は、先ほど絶叫した少女の声ではない。病的で粘着質な成人女性の声だった。

『私を照らし見た人は、誰も私を離れ去る』

「語り直し」
 スーデルカは左手を胸に当てた。
「あなたは知っています。全てのものの美しい顔を照らす太陽は必ず見つけられる。その不思議な旅路の果てに、愛する人々と出会えるの」

『なべて光は失われ』
 鯨は左右に尾を振った。
『大口を開けた過去から、後悔が無限に押し寄せる』

 赤い両目が、鯨の口の暗闇から外界へと近付いてくる。

「いいえ。夜には夜の光があることを私たちは知っています。月と星とに導かれ、私とあなたは旅をした」

『心は砕け、その残響は失われ――』

「語り直し」
 緋色の腕が鯨の舌の上にずり出てきた。アズは処刑刀に手を置く。
「犬、猫、スズメ、ああ、特に無口で賢いあのスズメ。月が照らす草原と、夜空の旅の仲間たち。私はあなたの名前を知っている」
 贈り物をするように、スーデルカの両腕が鯨に伸びた。
 にわかに風が強まった。
 雪の幕が鯨とスーデルカを遮った。それも(つか)の間のこと。
 すぐに無風に近い状態となり、音さえ消え去った。
 岩場には、婦人のただ一言が澄み渡る。
「――岩鯨」
 その一語が魔法の呪文となった。
 鯨の口の中で、赤い腕が動きを止めた。
 鯨の鼻先。そこには一羽のスズメが正面を向いてとまっている。体の両脇では、月が照らす草原が、人の心だけが持ち得る永遠の中で、風にそよいでいる。
 鯨が視界から消えた。木材の砕ける音がした。鯨はは墜落し、その口はアズの目の高さにあった。口からはなお声がした。

永遠(とわ)、の、暗、闇――』

 スーデルカは歩み寄り、鯨の下顎に手を当てた。
「物語れ、(すべ)てを」
 命令形でありながら、声は慰めに満ち、畝に沿って顎を撫でる所作は、後ろから見ても慈愛が感じられた。
「良い子も、悪い子も、この私も、美しい世界を旅した私も全て私でした。そうでしょ? 岩鯨」
 鯨の口が顎へと落ちていく。力を失うのだ。
「旅をして、いつの日か、私たちは天へとたどり着く。なお物を言うのであれば、そこに何があるのか答えてごらんなさい」
 赤い指先が、闇にうごめいている。
 それが動きを止めてすぐ、軋む音を立てながら、ついぞその口が閉ざされた。
「……答えられませんよね」
 スーデルカの姿が崩れ落ちる。尖った石の上に膝をついたのだ。
「マデラさん」
「あなたは先に行って」
 その言葉はアズではなく鯨に向けられていた。
「私もいずれ追いつくわ」

『――全部』

 微かな少女の声。

『全部私のせいだ……』

 死が訪れた。
 鯨はもともと生きていなかったはずだ。だが、二度と起動しないとわかる瞬間が、何故かきた。スーデルカは耐えきれぬ思いに膝を屈し続けていた。何も言わず、涙を流すこともなく、屈し続けていた。
「ご婦人」
 鯨の後ろから歩いてきたセフが重々しく声をかけた。
「鯨について知っていることを話していただきたい」
 アズは口を挟もうかと思ったが、スーデルカはしっかりした声で答えた。
「未熟な魔女の作です」
 そして立ち上がる。様子を窺いながら、アズは静かに声をかけた。
「素体を作ったのは未熟な魔女かもしれません。ですが改造した人は違う」
「ええ」
「これを作った人を知っているのですか?」
「はい。素体を作ったほうの魔女でしたら」
 アズはこの場で質問を重ねるのはやめた。本当に重要なことだけ聞こう。それでも聞くべき事柄はあと二つあった。
「あなたがご無事で安心しました。ところでお連れ様は? 女の子たちは」
「南ルナリアに残しております。市内のどこも安全ではありませんが」
「巡礼がありましたね」
 並び立ち、顔色を窺う。スーデルカは蒼白になってうなだれていた。その顔に注ぐ空の光も消えている。もうすぐ夜になる。
「あれは――」
「あれは私のせいです、マデラさん。私はあの少女たちの素性を知っています。ですが先の巡礼は、死者の王が私を追って来たのです」
 セフが目で問いかけていた。お前はさっきから何を言っているのだ?
 スーデルカがアズを見たとき、瞳には恐怖が満ちていた。それでいて、縋りつくような目でもあった。
「最後に」
 二つめの質問だ。
「あなたはかつて、『スアラ』と呼ばれていたのではありませんか?」
 瞳に浮かぶ恐怖の中に、鋭い痛みが走った。スーデルカ・マデラの目は、薄暗い中でもはっきりわかるほどみるみる充血し、間もなく目尻に涙の粒が宿った。
 だが否定も肯定もしない。
「旅の途中、私は『スアラ』を探しさまよう古い死者と出会いました。鎧です。幼き日にあなたが中に桃の種を押し込んだ鎧です。覚えておられますか?」
 うっ、と、スーデルカは喉の奥で声を押し潰した。
「その人は言っていました」
「……何と」
「愛していた、と」
 スーデルカの心の(せき)が切れた。決壊した目尻の堤防から涙が溢れてくる。
「下山しよう」と、セフ。「日が暮れる」
 聞こえていないかのように、スーデルカは左手を鯨の喉に当てて体を支えた。右手は両目を押さえている。
「マデラさん」
「お話しします。全てお話しします」
 右手の指の隙間から、涙が滲み出る。
「……確かに、私には、スアラと呼ばれていた時期があります。鯨を作ったのも私です。その完成が近付いたとき、死者の巡礼団を呼ぶ鳥と、二人の少女と出会いました」
 彼女は右手を握りしめ、手の甲で涙を拭った。
「でもそれは、今から三十年も前のことなのです」


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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