世界は今も
文字数 2,631文字
※
「物語れ、総てを」
青白い光が満ちた。壁に描かれた花々が輝きを放ち、少女たちの姿を浮かび上がらせた。スアラはチルーとリリスから顔を背け、青いツバメの前に立つ。
「……その美しい世界では、時間が壊れ始めていて」
鯨の設計図をテレジアの修道院に置いてきたことに今更思い至る。だが、しばらくは問題ないだろう。動かしかたを確認する必要はなかった。
「太陽を探して、私たちは月夜を旅するの。行こう」
ツバメの首を撫でながら、スアラは絵に頬をこすりつけた。チルーは固唾 をのんで見守っている。
「……目覚めて」
鯨全体が大きく縦に揺れた。木材の軋みが耳を聾する。騒音の問題が解決していなかったことをスアラは思い出した。空を飛ぶときには、できるだけ静かに飛んでほしかったのだが。
外では梯子が外れて倒れたようだった。
「チルー、お願い。鳥を」
手袋を外したチルーが、おずおすと前に出る。
「どうすればいいの?」
「鳥を解き放つの。このツバメの中に」
「カワセミだけどいいの?」
スアラは眉を顰 めた。今のは聞かなければよかった。
「この際仕方がないよ。やって」
視線に操られるように、チルーが前に出た。スアラと入れ違いにツバメの前に立つ。
右手をツバメに向けながら、その掌を左手で撫でた。直後チルーの体がびくりと震え、青い光がツバメに吸い込まれていくのをスアラは見た。その光が鳥なのかなんなのか、一瞬のことだったのでわからなかったが、間をおかずして自分の意図した通りのことがおきた。
ツバメが光を放ったのだ。
呼応するように、花々が輝きを増す。今度は、一度めよりはかは優しい震動がきた。
外で大人たちが騒いでいる。まだ駄目だ、やめろということを言っているらしかった。壁の向こうの世界に心を閉ざし、スアラは物語る。
「良い子でも悪い子でもなく誰の娘でもない。行こう、夜空の旅の仲間たち。はぐれた雀よ、知恵を与えて!」
チルーとリリスは眩しそうにしていたが、少しずつスアラに向かって目を開けていく。
浮き上がったのがわかった。
飛翔するのだ。うまくいったのだ!
爆発するような喜びがこみ上げてくるのをスアラは待った。
そんなものは来なかった。
ただ、壁の向こうから、幾重にも重なる鐘の音が聞こえた。
死者の巡礼団の到来を告げる警鐘だった。
足許から来る浮遊感で、鯨が徐々に高度を上げつつあることがわかる。
グロリアナを去るのだ。スアラは孤独だが、自由になれたのだ。チルーとリリスも。偶然と幸運が重なった結果とはいえ、テレジアを出し抜いたのだ。
だが、少女たちは笑っていなかった。
誰も喜んでいなかった。
※
ほどなくして巡礼の空間に突入し、チルーの耳に鐘の音が届かなくなった。
最初に動いたのはスアラだった。ツバメが描かれているのと反対側の壁にいき、膝をついて緑の六角形の模様に触れた。物語を呟いているようだが聞こえなかった。緑色が消えた。模様は窓になり、夜が見えるようになった。
チルーは吸い寄せられるように窓辺に近付いた。座り込んでいたリリスも、床に手をつきながら膝で移動してきた。
夜の底には、家の光が宝石のように敷き詰められていた。迷宮に切り刻まれながら、街灯は可能な限り秩序だって整列していた。
空から巡礼を見つけることはできなかった。代わりにチルーは一人だけ外に出ている女を見つけた。
ナトリウム灯の光を投げかけられ、体を橙色に染めながら座り込んでいるのは、ルシーラだった。頬杖をつき、長男が死んだ辺りをじっと見ていた。傍らには麻の買い物袋が置かれている。
チルーはルシーラから目を離せない。巡礼を待っているのだろうか。それとも、ぼうっとしているだけだろうか。そのまま動かないでいてくれることをチルーは心から願った。だが、ルシーラは動いた。
立ち上がり、後ろを向いて家に入ったのだ。ちゃんと買い物袋も持って。
ルシーラの家に明かりが点 った。こうなってくれることを望んでいたのだと、チルーはようやく理解した。
誰だって、打ちひしがれているのかもしれない。
傷ついているのかもしれない。
死にたいという気持ちは病的なものでも特別なものでもなくて、みんな少しずつ持っているのかもしれない。
ああ、それでも生きていくんだ。
体の奥底に、歌を感じた。誰かが歌っている。視界が、ついで心が明るくなっていく。その喜びに身を委ねようとするチルーの腕に、怯えた様子でスアラがしがみついてきた。窓の下に、いつか見た暗黒があった。
大丈夫だよ。
言葉もなく、チルーは反対の腕を伸ばしてスアラの手を握った。
闇に潜る。次いで光の中に飛び出した。
体の感触が消えた。チルーはもう鯨の体内の固い床に座っていなかった。
飛んでいる。
目を開ける。
眼下には一面の野薔薇。
魂の薔薇が咲き誇る。
『ああ、チルー!』
輝ける草原を飛翔しながら、隣のスアラが語りかけてきた。
『今、懐かしい人がいたよ。誰だかわからないけれど、知っている人だと思うの!』
導くように、カワセミの青いきらめきが、彼方の地平に吸い込まれていく。その栄光に満ちた死者の国の壁の向こうへと。
このとき隣にリリスがいなかったことにどうして気がつかなかったのか、後になってもスアラにはわからなかった。チルーにもわからなかっただろう。スアラはただ確信に心と体を委ねていた。
ここにいたんだ。
死んでいった人たちは、野薔薇になって咲き誇るのだ。永遠の美と平和の中で。
どんな死であっても、関係なかったのだ。
たなびく雲は非言語のメッセージを少女たちに投げかけていた。それは慰めだった。
『あの雲を』
スアラは言葉を振り絞る。カワセミはもう見えない。
『きっと昔見たことがあるんだ。子供の頃に』
『うん。私もそう思うよ、スアラちゃん』
『子供の頃、世界は美しかった』
ハルニレの大樹が大きな枝を広げているのが遠くに見えてきた。惜しみなく注ぐ光を緑の葉々が享 けている。
チルーがスアラの心に思考を寄越してきた。
『今もかもしれないよ』
『えっ?』
『今も、世界は美しいままかもしれない。子供の頃信じていたみたいに』
そうなのだろう、と、スアラはごく自然に受け入れた。
今なら現実のグロリアナに帰っても、そこに広がる世界を美しいと思えるはずだ。戦争が行われていても。そこにはスアラを騙す大人ばかりがいても。誰一人信じられなくても。
美しいと思えるだろう。
この草原を見たのだから。
「物語れ、総てを」
青白い光が満ちた。壁に描かれた花々が輝きを放ち、少女たちの姿を浮かび上がらせた。スアラはチルーとリリスから顔を背け、青いツバメの前に立つ。
「……その美しい世界では、時間が壊れ始めていて」
鯨の設計図をテレジアの修道院に置いてきたことに今更思い至る。だが、しばらくは問題ないだろう。動かしかたを確認する必要はなかった。
「太陽を探して、私たちは月夜を旅するの。行こう」
ツバメの首を撫でながら、スアラは絵に頬をこすりつけた。チルーは
「……目覚めて」
鯨全体が大きく縦に揺れた。木材の軋みが耳を聾する。騒音の問題が解決していなかったことをスアラは思い出した。空を飛ぶときには、できるだけ静かに飛んでほしかったのだが。
外では梯子が外れて倒れたようだった。
「チルー、お願い。鳥を」
手袋を外したチルーが、おずおすと前に出る。
「どうすればいいの?」
「鳥を解き放つの。このツバメの中に」
「カワセミだけどいいの?」
スアラは眉を
「この際仕方がないよ。やって」
視線に操られるように、チルーが前に出た。スアラと入れ違いにツバメの前に立つ。
右手をツバメに向けながら、その掌を左手で撫でた。直後チルーの体がびくりと震え、青い光がツバメに吸い込まれていくのをスアラは見た。その光が鳥なのかなんなのか、一瞬のことだったのでわからなかったが、間をおかずして自分の意図した通りのことがおきた。
ツバメが光を放ったのだ。
呼応するように、花々が輝きを増す。今度は、一度めよりはかは優しい震動がきた。
外で大人たちが騒いでいる。まだ駄目だ、やめろということを言っているらしかった。壁の向こうの世界に心を閉ざし、スアラは物語る。
「良い子でも悪い子でもなく誰の娘でもない。行こう、夜空の旅の仲間たち。はぐれた雀よ、知恵を与えて!」
チルーとリリスは眩しそうにしていたが、少しずつスアラに向かって目を開けていく。
浮き上がったのがわかった。
飛翔するのだ。うまくいったのだ!
爆発するような喜びがこみ上げてくるのをスアラは待った。
そんなものは来なかった。
ただ、壁の向こうから、幾重にも重なる鐘の音が聞こえた。
死者の巡礼団の到来を告げる警鐘だった。
足許から来る浮遊感で、鯨が徐々に高度を上げつつあることがわかる。
グロリアナを去るのだ。スアラは孤独だが、自由になれたのだ。チルーとリリスも。偶然と幸運が重なった結果とはいえ、テレジアを出し抜いたのだ。
だが、少女たちは笑っていなかった。
誰も喜んでいなかった。
※
ほどなくして巡礼の空間に突入し、チルーの耳に鐘の音が届かなくなった。
最初に動いたのはスアラだった。ツバメが描かれているのと反対側の壁にいき、膝をついて緑の六角形の模様に触れた。物語を呟いているようだが聞こえなかった。緑色が消えた。模様は窓になり、夜が見えるようになった。
チルーは吸い寄せられるように窓辺に近付いた。座り込んでいたリリスも、床に手をつきながら膝で移動してきた。
夜の底には、家の光が宝石のように敷き詰められていた。迷宮に切り刻まれながら、街灯は可能な限り秩序だって整列していた。
空から巡礼を見つけることはできなかった。代わりにチルーは一人だけ外に出ている女を見つけた。
ナトリウム灯の光を投げかけられ、体を橙色に染めながら座り込んでいるのは、ルシーラだった。頬杖をつき、長男が死んだ辺りをじっと見ていた。傍らには麻の買い物袋が置かれている。
チルーはルシーラから目を離せない。巡礼を待っているのだろうか。それとも、ぼうっとしているだけだろうか。そのまま動かないでいてくれることをチルーは心から願った。だが、ルシーラは動いた。
立ち上がり、後ろを向いて家に入ったのだ。ちゃんと買い物袋も持って。
ルシーラの家に明かりが
誰だって、打ちひしがれているのかもしれない。
傷ついているのかもしれない。
死にたいという気持ちは病的なものでも特別なものでもなくて、みんな少しずつ持っているのかもしれない。
ああ、それでも生きていくんだ。
体の奥底に、歌を感じた。誰かが歌っている。視界が、ついで心が明るくなっていく。その喜びに身を委ねようとするチルーの腕に、怯えた様子でスアラがしがみついてきた。窓の下に、いつか見た暗黒があった。
大丈夫だよ。
言葉もなく、チルーは反対の腕を伸ばしてスアラの手を握った。
闇に潜る。次いで光の中に飛び出した。
体の感触が消えた。チルーはもう鯨の体内の固い床に座っていなかった。
飛んでいる。
目を開ける。
眼下には一面の野薔薇。
魂の薔薇が咲き誇る。
『ああ、チルー!』
輝ける草原を飛翔しながら、隣のスアラが語りかけてきた。
『今、懐かしい人がいたよ。誰だかわからないけれど、知っている人だと思うの!』
導くように、カワセミの青いきらめきが、彼方の地平に吸い込まれていく。その栄光に満ちた死者の国の壁の向こうへと。
このとき隣にリリスがいなかったことにどうして気がつかなかったのか、後になってもスアラにはわからなかった。チルーにもわからなかっただろう。スアラはただ確信に心と体を委ねていた。
ここにいたんだ。
死んでいった人たちは、野薔薇になって咲き誇るのだ。永遠の美と平和の中で。
どんな死であっても、関係なかったのだ。
たなびく雲は非言語のメッセージを少女たちに投げかけていた。それは慰めだった。
『あの雲を』
スアラは言葉を振り絞る。カワセミはもう見えない。
『きっと昔見たことがあるんだ。子供の頃に』
『うん。私もそう思うよ、スアラちゃん』
『子供の頃、世界は美しかった』
ハルニレの大樹が大きな枝を広げているのが遠くに見えてきた。惜しみなく注ぐ光を緑の葉々が
チルーがスアラの心に思考を寄越してきた。
『今もかもしれないよ』
『えっ?』
『今も、世界は美しいままかもしれない。子供の頃信じていたみたいに』
そうなのだろう、と、スアラはごく自然に受け入れた。
今なら現実のグロリアナに帰っても、そこに広がる世界を美しいと思えるはずだ。戦争が行われていても。そこにはスアラを騙す大人ばかりがいても。誰一人信じられなくても。
美しいと思えるだろう。
この草原を見たのだから。