グロリアナの黄昏
文字数 6,200文字
2.
「でも、楽しそうな大人、いる?」
アルコ少年が人にこう尋ねたのは今日が最初ではない。
『あなたは立派になんてならなくていいわ。それに生きていれば他にも楽しいことがいっぱいあるんだから』
ルシーラは、口ではそのように言うのだった。なのでアルコは母に尋ねた。
『でも、楽しそうな大人、いる?』
すると、ルシーラのおためごかしの微笑みは途端に弱々しくなり、目は濁り、喉から少し考え込むような、だが実のところは不満を表している声を漏らすのだった。『親に口答えするなら、打 つよ』。
だがこのときルシーラはそこまで不機嫌ではなかったので、そう言わず、もう少しアルコに付き合った。
『そういうことを考えてしまうのは、まだあなたが幼くて、世界が狭いからよ。将来は今よりずっと良くなっているわ』
『僕はいま楽しいことがしたいんだ』
そのときは夏で、アルコは級友の父親から川での遊泳指導に誘われており、是非とも行きたいと考えていたのだが、級友たちの中で自分だけ親に許可を出してもらえないことに絶望していた。
『だったらなおさら、たくさんお勉強しなきゃ』
アルコは泣きたかった。それを見て、ルシーラも悲痛な顔をした。
『つらいわね、わかるわ。でもね、今日の我慢は十年、二十年後に必ず報われるの。そのときが来れば必ずお母さんに感謝するんだから。あなたがいいお仕事について、大きなおうちに住めるとき、子供の頃に遊んでばかりだった他の子は兵隊に行くくらいしかなくなってるのよ? 町じゅうにいる人たちを見てごらん。ああはなりたくないでしょう?』
と、アルコの肩に両手を置き、力を込めた。
『お母さんは毎日仕事に行くわよね。子供は勉強が仕事なの。じゃあ、お母さん、行ってくるから』
母親は最後にこう付け加えるのを忘れなかった。
『あなたを悲しませるのはお母さんだってつらいの。この前のテストさえ満点だったなら、お母さん、遊びに行ってもいいって言えたのよ?』
今、アルコはリリスの目をひたと見据えて答えを待っていた。でも、楽しそうな大人、いる? さあ、答えろよ。お前がそこらのバカと同類かどうか、答えを聞いて判断してやるよ。
「ここにはいないかな」
リリスは肩を竦めた。
この人も楽しくないんだ、と、アルコはがっかりした。同級生たちは楽しそうに見えるんだけど。っていうか、大人になって楽しみがなくなるなら、子供のうちしか楽しくないはずなんだよなあ。でも、お母さんは僕に勉強以外の何もさせない。アルカとマルカは好きにさせてるのに、僕だけ我慢させられる。
お母さんは僕のことが嫌いなんだ。
「ま、君だってああいう大人にはなりたくないよねえ」
子供が黙っているのでリリスは言った。建物への突入訓練をしている革命家たちは、やれどちらが偉いだの、どちらが正しいだので口論をしていた。俺が上官だ、言うことを聞け。なんだと、前線の経験年数は俺のほうが長いんだ。お前は間違ってる。
「僕はたくさん勉強しなきゃいけないんだ」
「なんで?」
「だって、いい仕事につかないと兵隊に取られちゃうもの」
「君が大人になる頃には戦局がどうなってるかなんてわからないじゃん?」
「ほっといてよ!」
常に追い詰められている少年は、その一言をきっかけに暴発した。
「お姉さんはこんなところで何やってんの? 勉強しなくていいの!?」
「そんなの、したいときにすればいいじゃん」
「バカだ!」
今やヒステリーを起こしているのは追い詰められた子供だけではない。チルーの目は子供と通りを交互に見るので忙しかった。銃を持った革命家たちがつかみ合いの喧嘩を始めたのだ。
「あんたはバカだ! 勉強しない奴はみんなバカだ!」
チルーは聞いていなかった。仲裁に入った別の男が二人の間に長身銃を割り込ませ、互いを引き離そうとしていたのだが、今やその銃口は、完全にチルーたちのほうを向いていた。
「どっか行けよ! バーカ! バーカ! 消えろ! バカがうつるんだよ! お前なんか――」
チルーはかつて勇敢だった試しがない。
今回もそうだった。
撃たれる。
そう思ったとき、膝をついて子供に覆いかぶさったのは、断じて勇敢だからではない。目の前にいる子供が殺されるのを見たくなかったからだ。それを目にするくらいなら自分が死んでもいいというほど強い衝動に駆られたゆえの行動だった。
突如として抱きすくめられ、少年は言葉を失った。直後、銃声が響いた。誰かが恐ろしさに悲鳴をあげていた――チルー自身だった。
銃弾なんてそうそう当たるもんじゃない、と教わった。戦闘実習の授業だ。
別の誰かが叫ぶ。
「アルコ!!」
ちょうど自宅に帰ったルシーラだった。
弾はチルーに当たっていなかった。リリスにも。
革命家たちは今や少女と親子を見つめていたが、上官を自称するほうが、喧嘩相手を素手で殴った。殴られたほうは、さすがに悪かったと思ったのか、やり返しも言い返しもしなかった。
チルーがおずおずと子供から離れると、ルシーラは我が子に飛びついて、腕じゅうの力で抱きしめた。
※
その一件のお陰で、チルーたちは自称電話交換手ルシーラの家で作り置きのシチューに与 ることができた。
「いつの間にかグロリアナはこんなに恐ろしい町になってしまって……うちは小さな子供もいることですし、治安のいい場所に引っ越したいところですが……」
という話が三回めを迎えたとき、食卓の全てのシチュー皿は空 になり、ふかし芋は粉すら残っていなかった。末っ子で七歳の娘マルカはシチュー皿をスプーンですくい、ありもしないシチューを口に運ぶ動作を繰り返していた。
「やめなさい、お行儀悪い」
母親に睨まれたマルカはスプーンを置くが、席を離れはしなかった。自分がいなくなった後で母親がとっておきのデザートを出すのではないかと疑っているようだった。
二人めと三人めの子供の服はよれよれで、髪も汚らしい感じだったが、家自体はそこそこ広く立派だった。この家に住み始めたときにはもう一人稼ぎ手がいたのかな、とチルーが思ったときにはもう、リリスはルシーラの職業が電話交換手ではないことを見抜いていた。ルシーラは化粧が濃すぎるうえに着る服が派手で、服も本人もくたびれている。あと五年もすれば別人のように老け込むだろう。しかも、喉に光る赤い宝石は小粒ながらも本物のルビーのようではないか。
少女たちと一家の頭上で白熱電球が羽虫のような音を立て、ときおり大きく瞬いた。ダイニングが薄暗くなり、再び照らされたとき、陰気な顔をしていたルシーラは思い出したように微笑んだ。
「ごめんなさいね、こんな話ばかりして。それで、ええっと」
「動く鎧です」リリスが素早く答えた。「それが作られた場所を探していて」
「ヨロイってなに?」
チルーの足許 で空気が動いた。長男アルコがマルカの足を蹴ったのだ。マルカは何も言わなかったが、泣きそうな顔でルシーラを見た。
ルシーラは取りあわなかった。
「そういうものについてなら、中等学校の先生なら詳しいかも。セレテス記念中等学校っていうのだけど、『魔女』の子を何人か受け入れているわ」
「話のできそうな先生はいるでしょうか」
「アンテニー・トピアという数学の先生が私の知り合いなの。図書館で貧しい子供向けの勉強会なんかをやっていて、友人なんだけど、もし会ったらまたいつでも遊びに来てねって伝えてくださる?」
意味を薄々理解しながら、顔に出さずにリリスは微笑んだ。
「お知り合いの方なんですね。わかりました。ありがとうございます」
「学校は何時まで開いてるんですか?」
ルシーラはチルーを見、ついで壁を見た。かつてそこに長年時計がかかっていたであろうことが日焼け具合で察せらた。ルシーラは釘の穴だけが残る壁から目を背け、今度は窓を見た。
「前線後退の影響で授業が遅れていると聞くから、薄暗くなるまでやってるはずよ」
それを聞くと、少女たちは礼だけ言っていそいそと出て行った。
客人が去ると、むしろルシーラの家はよそよそしい静けさに満たされた。
どこの子かしら、と、シチュー皿を洗いながらルシーラは考えた。着ている服は貧乏臭いが垢抜けた所作 だった。南ルナリアから来たと言っていた。親戚に会いに。それから……動く鎧だって?
いずれにしてもシチュー鍋は空っぽだ。遠慮のない子でしたこと。特にリリスのほう。
と、大事なことを思い出した。
「そうそう、アルコ、お母さんね、職場でお菓子をもらったの」
ルシーラが手を拭いてキッチンストーブを離れたとき、アルコはテーブルで教科書を広げ、次男アルカは指のささくれをめくり、末のマルカは膝の上で広げた絵本に身を乗り出していた。三人の子供の期待がルシーラに降り注いだ。ルシーラは鞄から油紙を三つ出した。表面に油がしみ、クッキーの甘い香りがする。
ルシーラは客からのもらいものをあらかじめ三等分しておいた。渡す前に不公平にするなんて、まさかそんなやり方はしない。
「ぼく、お兄ちゃんにあげる!」
八歳のアルカはクッキーを一枚だけ取って、媚びた笑みで袋をアルコに寄越した。アルコは「ふうん、じゃあちょうだい」とだけ言って、礼も言わずに袋を受け取った。
ルシーラは笑顔になった。
「まあ、優しいのね、アルカ」
「だって、お兄ちゃんたくさん頑張ってるんだもん。それに将来はお兄ちゃんがぼくたちのおうちを立派にしてくれるんだもんね!」
アルコは胃の辺りがひくひくと引きつるのを感じながら作り笑いをした。
母親と二人の兄は、誰ともなしに末 のマルカを見た。マルカは猜疑心の強い娘だった。左手に油紙をしっかり握りしめ、取られまいとするあまり、ろくに味わいもしないでクッキーを貪っていた。
誰も、マルカに何も言わなかった。空気は一層冷え冷えとしたものとなった。
このバカのせいだ、と、アルコとアルカは思った。思考は目に表れた。当然のことながらルシーラは息子たちの思いに気付いた。同じ気持ちだった。
とにかく気が利かない子。思いやりがなく、意地汚い。一日ぼんやりしているだけのくせに、あの食い意地!
ルシーラは女の子がほしかった。二人めが生まれたとき、男の子だったが、将来頼もしくなることを願って育てることにした。三人めの妊娠がわかったとき、女の子かもしれないから生みたいと泣いて夫に頼んだ。果たして女の子が生まれてきた。
そう、女の子がほしかった。でもあの子が欲しかったんじゃない。
勉強してくる、と言って、アルコは個室に引っ込んだ。机は教科書で山積みだった。ルシーラが熱心に子供向けの辞書や事典を買ってきては、毎日のように山を高くするせいだ。
西日の色が濃くなるなか、アルコは頭を抱えて机に突っ伏した。毎朝母に一日の勉強量を言い渡されるのだが、今日はまだ、ノートを開くことさえできていなかった。
※
中等学校はすぐに見つかった。問題はシスター・エピファニアだった。
「ここで粘られてもお約束のない人を通すわけには行きません」
ヴィヴィ先生にそっくり。
つまり誰からも嫌われていそうな教師だとチルーは思った。それが事実だから教師は若者に対して心を閉ざしているのだろう。色褪せた灰色の虹彩は、拒絶という名の金属でできているかのようだった。
「すみません、ここに来るまでに何度か電話を借りようとしたのですが、軍に借り上げられていまして」
「それが当校の責任ですか?」
修道女 が教師をしているのも当然で、敷地には修道院が併設されていた。公教会の教育施設が『魔女』を受け入れるとは驚きだ。グロリアナにおける公教会の弱体化はもはや隠すべくもないということだ。
「それでは、明日の日付で面談のお約束をさせていただきたいのですが」リリスは学校の門前から一歩も引かなかった。「今、この場で」
何を図々しいことを言っているのかしらこの子、という考えを隠そうともしない老いた修道女の前で、リリスは可愛らしく小首をかしげてみせた。
「受けていただけますよね?」
可愛らしいどころか、小賢 しく、生意気に見えた。
シスター・エピファニアがいけ好かない少女を追い返す口実を考えている間に、校舎と礼拝堂の間から一人の男が歩いてきた。
それが修道士 だとは、チルーはすぐには気がつかなかった。修道服をたくし上げ、北風が吹くなか靴下にサンダルばきで、肩にシャベルを担ぎ、口笛を吹きながらやって来たからである。
若い修道士は腹の底から声を出し、修道女に呼び掛けた。
「どうかしたんスか、シスタぁ!」
エピファニアはピシャリと言葉を叩きつけた。
「あなたには関係ありません!」
「そんなつれないこと言わないでくださいよぉ、俺たち同僚じゃないっスかぁ」
と、威勢よく言い放って小柄な老修道女と並んだときになって、チルーは彼が修道士であると理解した。目があって、少なからず安堵した。声が大きくガサツな感じだが、思いやりがありそうな人に見えたからだ。
リリスが一歩踏み出した。
「数学のアンテニー・トピア先生にお会いしたいんです」
するとシスターが「トピア先生は今日はお休みですよ」
シスターの冷ややかな顔を、チルーは信じられない思いで見返した。さっきはそんなこと一言も言わなかった。
チルーは知った。
この人は冷たいというより底意地が悪いんだ。
「あれ? トピア先生ならさっき来ましたよ、転んだとか言って医務室に」
少しだけいい気分になった。修道士のこの発言で、シスターがひどい裏切りを受けたような顔をしたからだ。
「ところで君たち、この学校の子じゃないねえ。今日はどうしたの?」
「数学のアンテニー・トピア先生に、図書館の勉強会で『わからないことはいつでも聞きに来ていい』って言われて来たんです。授業が終わった時間なら大丈夫だからって」
「トピア先生がね、へえ……」
思案する若き修道士に、老修道女は棘 のある声をかけた。
「ブラザー・エンリア。非常識な時間ですよ。もう夕方です」
「スアラ」
リリスの放った一語が全てを変えた。
雪雲が割れ、茜の夕日がまっすぐ老修道女の顔に差した。
エピファニアは強張った顔でリリスを凝視した。
「もう一人、スアラと呼ばれる人がいるならお会いしたいのですが」
「あの子なら知りません!」
リリスではなく、エンリアという修道士にエピファニアは言った。
「勝手に教室を抜け出したのですからね。また屋上にでも行ったんじゃないですか?」
「屋上?」
リリスの目が高いところを泳ぐ。
「もしかして、あそこから飛び降りようとしている人ですか?」
目線を追い、チルーも見つけた。
校舎の屋上の縁に人が立っていた。
夕日で影になっているものの、長い髪をなびかせて俯いているのがわかる。
両手はスカートを押さえていた。
修道士エンリアが、言葉もなく校舎へ全力疾走しはじめた。
「でも、楽しそうな大人、いる?」
アルコ少年が人にこう尋ねたのは今日が最初ではない。
『あなたは立派になんてならなくていいわ。それに生きていれば他にも楽しいことがいっぱいあるんだから』
ルシーラは、口ではそのように言うのだった。なのでアルコは母に尋ねた。
『でも、楽しそうな大人、いる?』
すると、ルシーラのおためごかしの微笑みは途端に弱々しくなり、目は濁り、喉から少し考え込むような、だが実のところは不満を表している声を漏らすのだった。『親に口答えするなら、
だがこのときルシーラはそこまで不機嫌ではなかったので、そう言わず、もう少しアルコに付き合った。
『そういうことを考えてしまうのは、まだあなたが幼くて、世界が狭いからよ。将来は今よりずっと良くなっているわ』
『僕はいま楽しいことがしたいんだ』
そのときは夏で、アルコは級友の父親から川での遊泳指導に誘われており、是非とも行きたいと考えていたのだが、級友たちの中で自分だけ親に許可を出してもらえないことに絶望していた。
『だったらなおさら、たくさんお勉強しなきゃ』
アルコは泣きたかった。それを見て、ルシーラも悲痛な顔をした。
『つらいわね、わかるわ。でもね、今日の我慢は十年、二十年後に必ず報われるの。そのときが来れば必ずお母さんに感謝するんだから。あなたがいいお仕事について、大きなおうちに住めるとき、子供の頃に遊んでばかりだった他の子は兵隊に行くくらいしかなくなってるのよ? 町じゅうにいる人たちを見てごらん。ああはなりたくないでしょう?』
と、アルコの肩に両手を置き、力を込めた。
『お母さんは毎日仕事に行くわよね。子供は勉強が仕事なの。じゃあ、お母さん、行ってくるから』
母親は最後にこう付け加えるのを忘れなかった。
『あなたを悲しませるのはお母さんだってつらいの。この前のテストさえ満点だったなら、お母さん、遊びに行ってもいいって言えたのよ?』
今、アルコはリリスの目をひたと見据えて答えを待っていた。でも、楽しそうな大人、いる? さあ、答えろよ。お前がそこらのバカと同類かどうか、答えを聞いて判断してやるよ。
「ここにはいないかな」
リリスは肩を竦めた。
この人も楽しくないんだ、と、アルコはがっかりした。同級生たちは楽しそうに見えるんだけど。っていうか、大人になって楽しみがなくなるなら、子供のうちしか楽しくないはずなんだよなあ。でも、お母さんは僕に勉強以外の何もさせない。アルカとマルカは好きにさせてるのに、僕だけ我慢させられる。
お母さんは僕のことが嫌いなんだ。
「ま、君だってああいう大人にはなりたくないよねえ」
子供が黙っているのでリリスは言った。建物への突入訓練をしている革命家たちは、やれどちらが偉いだの、どちらが正しいだので口論をしていた。俺が上官だ、言うことを聞け。なんだと、前線の経験年数は俺のほうが長いんだ。お前は間違ってる。
「僕はたくさん勉強しなきゃいけないんだ」
「なんで?」
「だって、いい仕事につかないと兵隊に取られちゃうもの」
「君が大人になる頃には戦局がどうなってるかなんてわからないじゃん?」
「ほっといてよ!」
常に追い詰められている少年は、その一言をきっかけに暴発した。
「お姉さんはこんなところで何やってんの? 勉強しなくていいの!?」
「そんなの、したいときにすればいいじゃん」
「バカだ!」
今やヒステリーを起こしているのは追い詰められた子供だけではない。チルーの目は子供と通りを交互に見るので忙しかった。銃を持った革命家たちがつかみ合いの喧嘩を始めたのだ。
「あんたはバカだ! 勉強しない奴はみんなバカだ!」
チルーは聞いていなかった。仲裁に入った別の男が二人の間に長身銃を割り込ませ、互いを引き離そうとしていたのだが、今やその銃口は、完全にチルーたちのほうを向いていた。
「どっか行けよ! バーカ! バーカ! 消えろ! バカがうつるんだよ! お前なんか――」
チルーはかつて勇敢だった試しがない。
今回もそうだった。
撃たれる。
そう思ったとき、膝をついて子供に覆いかぶさったのは、断じて勇敢だからではない。目の前にいる子供が殺されるのを見たくなかったからだ。それを目にするくらいなら自分が死んでもいいというほど強い衝動に駆られたゆえの行動だった。
突如として抱きすくめられ、少年は言葉を失った。直後、銃声が響いた。誰かが恐ろしさに悲鳴をあげていた――チルー自身だった。
銃弾なんてそうそう当たるもんじゃない、と教わった。戦闘実習の授業だ。
別の誰かが叫ぶ。
「アルコ!!」
ちょうど自宅に帰ったルシーラだった。
弾はチルーに当たっていなかった。リリスにも。
革命家たちは今や少女と親子を見つめていたが、上官を自称するほうが、喧嘩相手を素手で殴った。殴られたほうは、さすがに悪かったと思ったのか、やり返しも言い返しもしなかった。
チルーがおずおずと子供から離れると、ルシーラは我が子に飛びついて、腕じゅうの力で抱きしめた。
※
その一件のお陰で、チルーたちは自称電話交換手ルシーラの家で作り置きのシチューに
「いつの間にかグロリアナはこんなに恐ろしい町になってしまって……うちは小さな子供もいることですし、治安のいい場所に引っ越したいところですが……」
という話が三回めを迎えたとき、食卓の全てのシチュー皿は
「やめなさい、お行儀悪い」
母親に睨まれたマルカはスプーンを置くが、席を離れはしなかった。自分がいなくなった後で母親がとっておきのデザートを出すのではないかと疑っているようだった。
二人めと三人めの子供の服はよれよれで、髪も汚らしい感じだったが、家自体はそこそこ広く立派だった。この家に住み始めたときにはもう一人稼ぎ手がいたのかな、とチルーが思ったときにはもう、リリスはルシーラの職業が電話交換手ではないことを見抜いていた。ルシーラは化粧が濃すぎるうえに着る服が派手で、服も本人もくたびれている。あと五年もすれば別人のように老け込むだろう。しかも、喉に光る赤い宝石は小粒ながらも本物のルビーのようではないか。
少女たちと一家の頭上で白熱電球が羽虫のような音を立て、ときおり大きく瞬いた。ダイニングが薄暗くなり、再び照らされたとき、陰気な顔をしていたルシーラは思い出したように微笑んだ。
「ごめんなさいね、こんな話ばかりして。それで、ええっと」
「動く鎧です」リリスが素早く答えた。「それが作られた場所を探していて」
「ヨロイってなに?」
チルーの
ルシーラは取りあわなかった。
「そういうものについてなら、中等学校の先生なら詳しいかも。セレテス記念中等学校っていうのだけど、『魔女』の子を何人か受け入れているわ」
「話のできそうな先生はいるでしょうか」
「アンテニー・トピアという数学の先生が私の知り合いなの。図書館で貧しい子供向けの勉強会なんかをやっていて、友人なんだけど、もし会ったらまたいつでも遊びに来てねって伝えてくださる?」
意味を薄々理解しながら、顔に出さずにリリスは微笑んだ。
「お知り合いの方なんですね。わかりました。ありがとうございます」
「学校は何時まで開いてるんですか?」
ルシーラはチルーを見、ついで壁を見た。かつてそこに長年時計がかかっていたであろうことが日焼け具合で察せらた。ルシーラは釘の穴だけが残る壁から目を背け、今度は窓を見た。
「前線後退の影響で授業が遅れていると聞くから、薄暗くなるまでやってるはずよ」
それを聞くと、少女たちは礼だけ言っていそいそと出て行った。
客人が去ると、むしろルシーラの家はよそよそしい静けさに満たされた。
どこの子かしら、と、シチュー皿を洗いながらルシーラは考えた。着ている服は貧乏臭いが垢抜けた
いずれにしてもシチュー鍋は空っぽだ。遠慮のない子でしたこと。特にリリスのほう。
と、大事なことを思い出した。
「そうそう、アルコ、お母さんね、職場でお菓子をもらったの」
ルシーラが手を拭いてキッチンストーブを離れたとき、アルコはテーブルで教科書を広げ、次男アルカは指のささくれをめくり、末のマルカは膝の上で広げた絵本に身を乗り出していた。三人の子供の期待がルシーラに降り注いだ。ルシーラは鞄から油紙を三つ出した。表面に油がしみ、クッキーの甘い香りがする。
ルシーラは客からのもらいものをあらかじめ三等分しておいた。渡す前に不公平にするなんて、まさかそんなやり方はしない。
「ぼく、お兄ちゃんにあげる!」
八歳のアルカはクッキーを一枚だけ取って、媚びた笑みで袋をアルコに寄越した。アルコは「ふうん、じゃあちょうだい」とだけ言って、礼も言わずに袋を受け取った。
ルシーラは笑顔になった。
「まあ、優しいのね、アルカ」
「だって、お兄ちゃんたくさん頑張ってるんだもん。それに将来はお兄ちゃんがぼくたちのおうちを立派にしてくれるんだもんね!」
アルコは胃の辺りがひくひくと引きつるのを感じながら作り笑いをした。
母親と二人の兄は、誰ともなしに
誰も、マルカに何も言わなかった。空気は一層冷え冷えとしたものとなった。
このバカのせいだ、と、アルコとアルカは思った。思考は目に表れた。当然のことながらルシーラは息子たちの思いに気付いた。同じ気持ちだった。
とにかく気が利かない子。思いやりがなく、意地汚い。一日ぼんやりしているだけのくせに、あの食い意地!
ルシーラは女の子がほしかった。二人めが生まれたとき、男の子だったが、将来頼もしくなることを願って育てることにした。三人めの妊娠がわかったとき、女の子かもしれないから生みたいと泣いて夫に頼んだ。果たして女の子が生まれてきた。
そう、女の子がほしかった。でもあの子が欲しかったんじゃない。
勉強してくる、と言って、アルコは個室に引っ込んだ。机は教科書で山積みだった。ルシーラが熱心に子供向けの辞書や事典を買ってきては、毎日のように山を高くするせいだ。
西日の色が濃くなるなか、アルコは頭を抱えて机に突っ伏した。毎朝母に一日の勉強量を言い渡されるのだが、今日はまだ、ノートを開くことさえできていなかった。
※
中等学校はすぐに見つかった。問題はシスター・エピファニアだった。
「ここで粘られてもお約束のない人を通すわけには行きません」
ヴィヴィ先生にそっくり。
つまり誰からも嫌われていそうな教師だとチルーは思った。それが事実だから教師は若者に対して心を閉ざしているのだろう。色褪せた灰色の虹彩は、拒絶という名の金属でできているかのようだった。
「すみません、ここに来るまでに何度か電話を借りようとしたのですが、軍に借り上げられていまして」
「それが当校の責任ですか?」
「それでは、明日の日付で面談のお約束をさせていただきたいのですが」リリスは学校の門前から一歩も引かなかった。「今、この場で」
何を図々しいことを言っているのかしらこの子、という考えを隠そうともしない老いた修道女の前で、リリスは可愛らしく小首をかしげてみせた。
「受けていただけますよね?」
可愛らしいどころか、
シスター・エピファニアがいけ好かない少女を追い返す口実を考えている間に、校舎と礼拝堂の間から一人の男が歩いてきた。
それが
若い修道士は腹の底から声を出し、修道女に呼び掛けた。
「どうかしたんスか、シスタぁ!」
エピファニアはピシャリと言葉を叩きつけた。
「あなたには関係ありません!」
「そんなつれないこと言わないでくださいよぉ、俺たち同僚じゃないっスかぁ」
と、威勢よく言い放って小柄な老修道女と並んだときになって、チルーは彼が修道士であると理解した。目があって、少なからず安堵した。声が大きくガサツな感じだが、思いやりがありそうな人に見えたからだ。
リリスが一歩踏み出した。
「数学のアンテニー・トピア先生にお会いしたいんです」
するとシスターが「トピア先生は今日はお休みですよ」
シスターの冷ややかな顔を、チルーは信じられない思いで見返した。さっきはそんなこと一言も言わなかった。
チルーは知った。
この人は冷たいというより底意地が悪いんだ。
「あれ? トピア先生ならさっき来ましたよ、転んだとか言って医務室に」
少しだけいい気分になった。修道士のこの発言で、シスターがひどい裏切りを受けたような顔をしたからだ。
「ところで君たち、この学校の子じゃないねえ。今日はどうしたの?」
「数学のアンテニー・トピア先生に、図書館の勉強会で『わからないことはいつでも聞きに来ていい』って言われて来たんです。授業が終わった時間なら大丈夫だからって」
「トピア先生がね、へえ……」
思案する若き修道士に、老修道女は
「ブラザー・エンリア。非常識な時間ですよ。もう夕方です」
「スアラ」
リリスの放った一語が全てを変えた。
雪雲が割れ、茜の夕日がまっすぐ老修道女の顔に差した。
エピファニアは強張った顔でリリスを凝視した。
「もう一人、スアラと呼ばれる人がいるならお会いしたいのですが」
「あの子なら知りません!」
リリスではなく、エンリアという修道士にエピファニアは言った。
「勝手に教室を抜け出したのですからね。また屋上にでも行ったんじゃないですか?」
「屋上?」
リリスの目が高いところを泳ぐ。
「もしかして、あそこから飛び降りようとしている人ですか?」
目線を追い、チルーも見つけた。
校舎の屋上の縁に人が立っていた。
夕日で影になっているものの、長い髪をなびかせて俯いているのがわかる。
両手はスカートを押さえていた。
修道士エンリアが、言葉もなく校舎へ全力疾走しはじめた。