死を語る
文字数 2,490文字
5.
リリスは床に直接横たわり、腕を枕にし、肘の内側に鼻を近付けて眠っていた。チルーとスアラは虚脱していた。帰ってきてしまった。静まり返った、つまらない、生き抜くための戦いが口を広げて待っている現実に。これからどうしたらいいか、誰もわかっていなかった。どうやってお金を稼ぐ? どこに住めばいい? 将来はどうなってしまうのだろう?
「ねえ」
チルーは窓の近くの壁にもたれかかり、ツバメの絵の下で膝を抱えているスアラに呼びかけた。
「なに?」
「スアラちゃんは、どうしてお父さんのことを恐がっていたの?」
沈黙があった。長い沈黙。それは、あの男を恐がっていたのだという事実を認めるために、スアラが必要とした時間だった。
「あいつに、言うこと聞かないならレイプするぞって脅されてたんだ」
今度はチルーが、受け入れるための沈黙を必要とした。明らかに彼女はショックを受けていた。
「その……スアラちゃんのお母さんは、そのことを知ってたの?」
「お母さんは……」黙ってしまいたいのをスアラは我慢した。「『でもまだされてないんでしょ』、って……」
チルーは黙り込んでしまう。
だからスアラは喋らなければならなかった。誰のためにかもわからずに。
「あ、でも、私だってお母さんにひどいこと言ったしさ……」
「それって、『まだされてないんでしょ』よりひどいこと?」
「……嫌だよ」
スアラは頭を抱えて首を振った。
「もういいよ。わからないよ……」
「ごめんね」
チルーは身じろぎし、スアラに近付こうとする気配を見せて、やめた。
「嫌なことを聞いちゃったね。本当にごめん」
「こっちこそ、ごめん」
「えっ?」
「初めて会ったとき、私ひどいこと言った……すごく」
「いいよ」チルーは疲れ切った笑みを浮かべた。「気にしてないよ。こうして一緒になれたんだもの」
結局、スアラのほうが動いた。五歩で横切れる鯨の体内を移動するのも億劫で、それでも立ち上がり、チルーの左隣に行ってまた膝を抱えた。そこからはツバメの絵がよく見えた。空飛ぶ鯨の物語を彩る、真昼の国からきたツバメ(だがそこに入っているのはカワセミだ)(死者を呼ぶカワセミだ)。
「みんな私が悪いって言った。お父さんが私をぶったり、お母さんが私を無視するの……私が家の外で上手に振る舞えなくなったのも、全部私が悪いって」
「そんなこと」
「だから私」チルーを遮った。「どうせ私が悪いって思うなら、本当に悪くなりたかった」
「スアラちゃんは悪い子じゃないよ」
スアラは自分の脛に爪を立てた。
「ううん。私、いろんな人にひどいことを言った。これ以上傷つけられたくないと思ったときにはもう、先に人を傷つけるしかなくなってたんだ。そうしたら誰も寄って来なくなるから……他にどうすればいいかわからなくて」
チルーが体の向きを変え、膝を抱くスアラの腕に手を当てた。
手を当てた。ただ。
ごそごそと音を立てて、リリスが床から身を起こした。
「ごめん、起こしちゃった?」
リリスは不機嫌そうに目をこすり、質問を返した。
「ここ、どこ?」
スアラにも、チルーにも答えられなかった。
「どの辺りだろうね。真っ暗でわからないや」
「巡礼の空間に入ったよね」
チルーは頷く。どのようにそこを脱したのか記憶が曖昧だ。気がついたときにはここで壁にもたれかかっていた。ただ、多幸感の余韻だけが残っていた。
美しかった。
「地上に降りてみる?」
スアラが尋ね、リリスが否定する。
「行けるところまで行ってみようよ」
「……私たち、どこまで行けるの?」
「どこまでも行けるよ」
「食べるものがないよ。それにその……トイレだって」
この世界は、生きていくにはあまりにも煩雑だった。三人は、三人ともが同じ気持ちを抱えていることを理解した。面倒なのだ。
うまくいくはずなかったのだとスアラは思っていた。
夜空の旅の仲間になるのは犬と猫だった。
しばしば鯨と併走するのはツバメであってカワセミではない。
細かな違いだ。
でも。でも。
「あ」リリスが呟いた。「お父さんがいるよ」
チルーとスアラは固く口を閉ざした。真顔でリリスの横顔を注視した。
「お父さんだ……うわぁ、間違いない。新聞の切り抜きと同じ顔だよ」
「何も見えないよ、リリスちゃん」
スアラもまた姿勢を変えてリリスの肩越しに窓を覗いたが、チルーの言うとおり、夜の闇が景色を塗りつぶすばかりだった。
「もっとよく見てよ、チルー。スアラも……ほら!」
リリスが窓の前からどくので、スアラはチルーと共に、左右から窓を覗き込んだ。
夜。
夜闇。
街は遠く、一しずくの光もない。
高度もわからない。
なのに、リリスの声は歓喜に彩られる。
「お父さん……ああ、こっちを見たよ。私のことがわかるんだ」
何も見えないとわかっていた。なのにスアラは冷たい闇から目を逸らせない。後ろでリリスが柄 にもなくはしゃぐ。
「お父さん! お父さん!」
スアラは、チルーの様子を横目で窺った。チルーの横顔は凍りつき、目は極限まで見開かれ、恐怖に魅了されていた。
何が見えるというのだろう?
スアラがもう一度、窓の外に目を凝らしたとき――
※
「……目を凝らしたとき?」
ストーブの中で薪がはぜている。
暖色の電灯をつけても部屋は薄暗かった。一つしかない椅子に腰掛けてるスーデルカは唇を噛んだ。ショールをきつく握りしめ、うなだれる。
「申し訳ございませんが、今夜はここまでとさせていただきます」
アズは抗議したかった。責められるならスーデルカを責めたかった。それほど彼女の話に没入していたのだ。
「話すのが、おつらいですか?」
「はい」
スーデルカはきっぱり頷いた。
「私にとってあの夜の出来事は、過去の出来事ではないのです。三十年経った今も、恐ろしいまま……」
「チルーは今どこにいるのですか?」それでもアズは尋ねた。「リリスは」
「リリスは……」
深々とため息をついて、肩の力を抜く。スーデルカの両手がショールの端から落ちた。
「彼女は見つけたのです。父親を」
窓の外では散発的な戦闘が続いていた。
機関銃の音だけが、今は、死について雄弁に語っていた。
リリスは床に直接横たわり、腕を枕にし、肘の内側に鼻を近付けて眠っていた。チルーとスアラは虚脱していた。帰ってきてしまった。静まり返った、つまらない、生き抜くための戦いが口を広げて待っている現実に。これからどうしたらいいか、誰もわかっていなかった。どうやってお金を稼ぐ? どこに住めばいい? 将来はどうなってしまうのだろう?
「ねえ」
チルーは窓の近くの壁にもたれかかり、ツバメの絵の下で膝を抱えているスアラに呼びかけた。
「なに?」
「スアラちゃんは、どうしてお父さんのことを恐がっていたの?」
沈黙があった。長い沈黙。それは、あの男を恐がっていたのだという事実を認めるために、スアラが必要とした時間だった。
「あいつに、言うこと聞かないならレイプするぞって脅されてたんだ」
今度はチルーが、受け入れるための沈黙を必要とした。明らかに彼女はショックを受けていた。
「その……スアラちゃんのお母さんは、そのことを知ってたの?」
「お母さんは……」黙ってしまいたいのをスアラは我慢した。「『でもまだされてないんでしょ』、って……」
チルーは黙り込んでしまう。
だからスアラは喋らなければならなかった。誰のためにかもわからずに。
「あ、でも、私だってお母さんにひどいこと言ったしさ……」
「それって、『まだされてないんでしょ』よりひどいこと?」
「……嫌だよ」
スアラは頭を抱えて首を振った。
「もういいよ。わからないよ……」
「ごめんね」
チルーは身じろぎし、スアラに近付こうとする気配を見せて、やめた。
「嫌なことを聞いちゃったね。本当にごめん」
「こっちこそ、ごめん」
「えっ?」
「初めて会ったとき、私ひどいこと言った……すごく」
「いいよ」チルーは疲れ切った笑みを浮かべた。「気にしてないよ。こうして一緒になれたんだもの」
結局、スアラのほうが動いた。五歩で横切れる鯨の体内を移動するのも億劫で、それでも立ち上がり、チルーの左隣に行ってまた膝を抱えた。そこからはツバメの絵がよく見えた。空飛ぶ鯨の物語を彩る、真昼の国からきたツバメ(だがそこに入っているのはカワセミだ)(死者を呼ぶカワセミだ)。
「みんな私が悪いって言った。お父さんが私をぶったり、お母さんが私を無視するの……私が家の外で上手に振る舞えなくなったのも、全部私が悪いって」
「そんなこと」
「だから私」チルーを遮った。「どうせ私が悪いって思うなら、本当に悪くなりたかった」
「スアラちゃんは悪い子じゃないよ」
スアラは自分の脛に爪を立てた。
「ううん。私、いろんな人にひどいことを言った。これ以上傷つけられたくないと思ったときにはもう、先に人を傷つけるしかなくなってたんだ。そうしたら誰も寄って来なくなるから……他にどうすればいいかわからなくて」
チルーが体の向きを変え、膝を抱くスアラの腕に手を当てた。
手を当てた。ただ。
ごそごそと音を立てて、リリスが床から身を起こした。
「ごめん、起こしちゃった?」
リリスは不機嫌そうに目をこすり、質問を返した。
「ここ、どこ?」
スアラにも、チルーにも答えられなかった。
「どの辺りだろうね。真っ暗でわからないや」
「巡礼の空間に入ったよね」
チルーは頷く。どのようにそこを脱したのか記憶が曖昧だ。気がついたときにはここで壁にもたれかかっていた。ただ、多幸感の余韻だけが残っていた。
美しかった。
「地上に降りてみる?」
スアラが尋ね、リリスが否定する。
「行けるところまで行ってみようよ」
「……私たち、どこまで行けるの?」
「どこまでも行けるよ」
「食べるものがないよ。それにその……トイレだって」
この世界は、生きていくにはあまりにも煩雑だった。三人は、三人ともが同じ気持ちを抱えていることを理解した。面倒なのだ。
うまくいくはずなかったのだとスアラは思っていた。
夜空の旅の仲間になるのは犬と猫だった。
しばしば鯨と併走するのはツバメであってカワセミではない。
細かな違いだ。
でも。でも。
「あ」リリスが呟いた。「お父さんがいるよ」
チルーとスアラは固く口を閉ざした。真顔でリリスの横顔を注視した。
「お父さんだ……うわぁ、間違いない。新聞の切り抜きと同じ顔だよ」
「何も見えないよ、リリスちゃん」
スアラもまた姿勢を変えてリリスの肩越しに窓を覗いたが、チルーの言うとおり、夜の闇が景色を塗りつぶすばかりだった。
「もっとよく見てよ、チルー。スアラも……ほら!」
リリスが窓の前からどくので、スアラはチルーと共に、左右から窓を覗き込んだ。
夜。
夜闇。
街は遠く、一しずくの光もない。
高度もわからない。
なのに、リリスの声は歓喜に彩られる。
「お父さん……ああ、こっちを見たよ。私のことがわかるんだ」
何も見えないとわかっていた。なのにスアラは冷たい闇から目を逸らせない。後ろでリリスが
「お父さん! お父さん!」
スアラは、チルーの様子を横目で窺った。チルーの横顔は凍りつき、目は極限まで見開かれ、恐怖に魅了されていた。
何が見えるというのだろう?
スアラがもう一度、窓の外に目を凝らしたとき――
※
「……目を凝らしたとき?」
ストーブの中で薪がはぜている。
暖色の電灯をつけても部屋は薄暗かった。一つしかない椅子に腰掛けてるスーデルカは唇を噛んだ。ショールをきつく握りしめ、うなだれる。
「申し訳ございませんが、今夜はここまでとさせていただきます」
アズは抗議したかった。責められるならスーデルカを責めたかった。それほど彼女の話に没入していたのだ。
「話すのが、おつらいですか?」
「はい」
スーデルカはきっぱり頷いた。
「私にとってあの夜の出来事は、過去の出来事ではないのです。三十年経った今も、恐ろしいまま……」
「チルーは今どこにいるのですか?」それでもアズは尋ねた。「リリスは」
「リリスは……」
深々とため息をついて、肩の力を抜く。スーデルカの両手がショールの端から落ちた。
「彼女は見つけたのです。父親を」
窓の外では散発的な戦闘が続いていた。
機関銃の音だけが、今は、死について雄弁に語っていた。