恐怖の家

文字数 3,769文字

 ※

 通学鞄を抱えたスアラは街路を小走りで抜けた。街灯の下を、帽子をかぶった大人たちが行き来する大通りに出て、ようやく現実的な感覚が戻ってきた。
 やはり、人の群れの中でしか生きていけない。一人でいては、嫌な記憶と孤独に視界を閉ざされてしまう。だが、人間の姿を見て安堵している事実を、スアラはどうしようもなく嫌悪してしまう。
 今日は早く帰らなくてはと思っていたのに、やはり日が暮れてしまった。家路を急きながらスアラは顎を上げた。迷宮の壁が夜空を遮っていた。雲はない。星もない。空を飛びたい。スアラは願うが、飛ぶときは戦争のために飛ぶことになると知っていた。家に着いた。スアラが二重扉の向こうに姿を消すと、離れて尾行していたリリスはすぐに(きびす)を返した。
「どこに行くの?」
 目的を持った足取りなので、チルーは尋ねた。リリスは早口で答えた。
「便箋を買うよ。ペンも」
 そんなことはつゆ知らず、スアラは自宅の沈黙の廊下を沈黙のダイニングへと歩いた。ダイニングの扉の向こうから、新聞をめくる音がする。その扉の向かいにある階段を、スリッパ履きのスアラは足音を殺して上った。
 暗い自室にたどり着くと、少しだけ肩の力を抜いた。自分の臭いがする空間で、電気をつけるより先に鍵をかけようとする。
 だが、スアラの指は何もない空間を泳いだ。
 鼓動が跳ねる。
 もう一度鍵をかけようとした指は、今度は縁が盛り上がったネジ穴を撫でた。
 電気をつけてみれば、鍵は取り外されていた。
 スアラは鍵がついていた場所を見つめる。無心で。血流が早くなっていく。
 ただ見つめる。
 何も言語化したくない……何も。
 この半年、スアラを守っていたもの、部屋の鍵。ネジ穴、つまり悪意を持って取り外した侵入者が存在する証拠を、ただ見た。
 喉が激しく脈打ち、くすぐったい。足から震えがきた。
「スアラ!」
 階下でレティが呼んだ。
「荷物を置いたら下りてきなさい!」
 スアラが奥歯を噛みしめると、ダイニングの扉が閉まる音がした。後ずさり、警戒しながら窓際の勉強机にいき、椅子に鞄を置いた。そのときネジ穴から一度目を離したが、もちろん、そんなことで魔法のように鍵が戻ったりはしなかった。
 私は奏明の魔女。
 スアラはもう一度戸口に向かいながらゆっくり考えた。
 鍵なら作れる、私にしか外せないような鍵が。でも……。
 足はまだ震えていた。そのまま廊下に出た。
 ……でも、その方法であの人たちを部屋から締め出したら、たぶんもう、私とあの人たちは二度と親子に戻れない。
 ダイニングはミネストローネの匂いがした。テーブルには他に、玉ねぎのサラダとバゲット、塩とオリーブオイルがあった。
「帰ったらただいまって言いなさいっていつも言ってるでしょ」
 スアラは無視して自分の椅子に座った。
「手は洗ったの?」
「洗ったよ」
 嘘をつく。
 タリムが新聞を折りたたみ、テーブルの端に置いた。めいめいがカトラリーを手に取る。誰も食事の挨拶をしなかった。頭上の白熱電球は嘘くさい明るさで家族間の嫌悪を照らし出していた。
 真っ暗になればいいのに。スアラはバゲットをオリーブオイルに浸して思った。互いの顔が見えなければ何も話さなくて済むのに。
「今日はどうして遅くなったんだ?」
 タリムがスアラの顔を見ずに尋ねた。
「図書館で居眠りをして」二度目の嘘をつく。「宿題の途中で」
 馬鹿にしたように鼻を鳴らし、タリムは追及しなかった。硬直した感情は、言語化されることをもう一度願い始めた。スアラは腹を立てていた。他に言うことがあるんじゃないの?
「ねえ」
 バゲットを口に運ばずにスアラは尋ねた。
「部屋の鍵外したの誰?」
 空気が急激に重さを増し、実際に目の前が暗くなった感じがした。両肩が痛かった。頭も。首の凝りがひどいが、いつからなのか思い出せない。
 沈黙が続いた。
 タリムがため息をついたのは、ようやくスアラがバゲットの一口目を咀嚼し終えてからだった。
「お父さん、自分から外して欲しかったんだがなあ」
 待ってましたとばかりにレティが追い討ちをかける。
「スアラ、お父さんは外しなさいって何回も言ってたでしょ?」
 口の中で柔らかくなったバゲットを、スアラは急に呑み込めなくなった。
「お母さんたち、勝手にあなたの部屋に入ったりあなたの嫌がることはしないわ。信じてほしいの」
 喉に力が入り、どうしても物を通すことができない。
「自意識過剰になるのはわかるわよ。お母さんにもそんな時期があったんですもの。それでも大人になるまでは親の言うことを聞きなさい。あなたは養われているんだから」
 その間、タリムは食事を続けていた。スプーンでミネストローネを飲んでいた。ちっとも美味しくなさそうに。
 スアラは一口だけかじったバゲットを皿に置き、席を立った。
「ごちそうさま」

 ※

「スアラ! ほとんど食べてないじゃないの!」
 階段を駆け上がるとき、レティの声が追ってきた。
「スアラ!」
 部屋に逃げ込み、無意識に鍵をかけようとした。鍵はもうなかった。電気をつけず、カーテン越しの街灯の光を目に集め、スアラは耳を凝らした。
 この世で最も聞きたくない音が、父の足音が、した。ダイニングを出て……ああ、でも、風呂場に向かっていく。よかった! すぐにはここに来ない。スアラは慌てて制服のボタンを外しにかかった。急いで着替えなくては。寝衣(ねまき)を手に取り、少し考えて、クローゼットから私服のブラウスとセーターを出した。なんとか父の侵入を受けずに着替えを済ますことができた。そういえば、脱衣所にいるとき、または学校に行くために服を着替える時間、父がいきなり入ってくることがあった。そういうことが増えたのは、中等学校に上がる少し前からだった。
 肩掛けのハンドバッグを斜めがけにして、財布だけを突っ込む。中に入っているのは小遣いという名目でありがたぶって渡される金だが、実際のところスアラの協力費として抵抗教会の革命家たちが父に渡している金の一部だと知っていた。
 部屋を出ようとし……父の足音が、風呂場から廊下に出てくるのが聞こえた。
 ドアノブを手に硬直していると、足音は階段のほうに来た。
 だが、ダイニングに入っていった。
 両親の会話が微かに聞こえた。
 少しして、父はまた風呂場へと遠ざかっていった。今だ!
 スリッパを脱いだ。父が風呂に、母がキッチンにいる間に、スアラは息を殺して廊下を横切った。母はキッチンで水を使っている。今なら多少の足音は誤魔化せる。
 前屈みになって静かに移動し、ようやくスアラは遥か遠くの玄関までたどり着いた。やった! 内側の扉を音を立てずに閉め、靴を履く。首尾よく外に出ると、すっかり人通りのなくなった街路を一目散に走り出した。最初の曲がり角で振り向くが、誰も追ってきていない。また走る。幸いにして追い風だった。
 迷宮を走り抜ける。中等学校を通り過ぎ、愛するもののもとへ。ああ、鯨! 鯨の原形は、幼い頃にスアラが自作した絵本に出てきたものだった。奏明の賜物を持って生まれた人間の大部分がそうであるように、スアラは空想する力が強かった。その絵本を、ルーリー先生、優しくていつもミルクの匂いがする先生は手放しで褒めてくれた。それから少しして、先生は追放されてしまった。何故か? 大体わかる。雇い主に背いたのだ。先生はスアラを人間兵器として戦場に送り込みたくなかったのだ。
 隠れ家にたどり着き、その門扉(もんぴ)に渡された鎖を見て、スアラは口に出した。
「鯨」
 スアラとスアラの愛するものは錠と鎖で隔てられていた。ただ、無意識に握りしめた鉄格子の冷たさだけが、手に確かだった。
 スアラは思案ののち、隣の家の扉を叩いた。果たして家族に偽装した革命家の男女が一組出てきて、スアラにこう説明した。
「夜の間には施錠するようにって、スアラちゃんのお父さんに言われちゃってさあ」
 へらへら笑うニキビ面の青年に、スアラは刺々しく言った。スアラは知っていた。この青年は小生意気なスアラが嫌いなのだ。
「そんなこと言ったって、昼は学校だし、夜の間しか制作に取りかかれないんですけど」
「でも、お父さんの言うことだから、ね?」
 今度は後ろから出てきた女が言った。
「お父さん、昨夜の巡礼ですごく心配したはずだよ。優しいお父さんですものね」
 吐き気をこらえ、適当なことを言いながらスアラは家を離れた。男女が家に引っ込むと、スアラは改めて門扉と向き直った。
 乗り越えられないことはない。でも、バレたらどう言い訳がたつ?
 そんなことをしたら、父はスアラの制作に口を出すようになるだろう。作品を取り上げられるか……破壊されるかもしれない。
 結局、スアラは隠れ家に背を向けた。家に戻ろうとすると、風は今度は向かい風となった。
 父のすることはいつもこうだ。部屋の鍵のことだって。スアラに、それでもしたいようにするか否かの選択肢があるかのように見せかけるのだ。強引に部屋に鍵をかけても、強引に門扉を突破しても、それはさらなる干渉を招く口実になる。
 中等学校の前まで戻った。併設の修道院の門に掲げられた聖四位一体紋からは、全ての釘が抜き取られていた。
 スアラは、微かに期待しながら工具箱を探した。
 錬鉄の柵の下に、それはまだ放置されていた。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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