君も旅をするの

文字数 5,828文字

 2.

 トイレから母が出てきた。廊下を歩いてくる。そのまま階段を上ってくれればいいのにと思ったが、やはり、キッチンの電気がついていることに気付かれた。ダイニングに入ってくる。その気配を、キッチンストーブに向き合ったままスアラは感じていた。
「何してるの?」
「ん」爛々(らんらん)と光る目を向けもせず、スアラは答えた。「包丁を研いでるの」
 濡れた砥石を刃が滑るたび、冷たい音がした。
「あら、ありがとう」
 優しくて欺瞞くさい声で応じるレティは、娘が罪悪感からしていることだと思ったのだろう。それとも、薄々わかっていて、気付いていないふりをしているだけか? そうすれば責任逃れができるとでも?
「でも、今日は遅いから寝なさい」
「うん」
 もう十分に研げたから。
「寝るよ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 立ち去る気配。ダイニングの戸が開け閉めされ、レティの足音は階段を上っていった。
 ありがとう、だって。
 スアラは手を止めた。用意しておいた布巾(ふきん)で刃を拭き、白熱電球にかざした。浮かび上がる白い紋に目が吸い寄せられ、それでいて、スアラは何も見ていなかった。
 こうする以外のやりかたは思いつかなかった。殺してやる。私を欲望の餌食にするというのなら、殺してやる。必ず。
 やられる前に、やろう。
 覚悟を決めたつもりなのに、奥歯を噛み締めるスアラはキッチンを立ち去れない。そのまま、心の声に耳を傾けた。声はこう言っていた。
 あの男は私の寝室には来ない。来ないといいな。来るわけない。あの脅しは本気じゃないんだ。お母さんは正しいんだ。
 それとは別の方向から、同じ声が違うことを言っていた。
 あの男は来ると思う。本気かどうかなんて関係ない。奴は遊び半分でも私をレイプできる。だってカス野郎だから。そのときは、私の話を信じなかったことをお母さんに後悔させてやる。
 そうしたら、お母さんは謝ってくれるかもしれない。
 これからは、もっと私の話を聞いてくれるかもしれない。
 お母さん。お母さん。
 瞼に熱と痛みを感じた。涙がこぼれないように顔を上げた。母親が趣味で集めたクッキーや紅茶の缶が棚に並んでいた。上を向いている間にも、スアラは二つの異なる声の重さを量っていた。後者のほうが重かった。あの男は、私を壊しに来る。
 いよいよキッチンを立ち去るとき、スアラはふと思いついて背伸びをし、黄色い紅茶の缶を取った。開けると、忘れ去られて干からびたシナモンスティックが三本入っていた。シナモンを屑籠に捨て、二階に上がる。
 自室に入り、まず電気をつけて室内の安全を確かめると、レバー型のドアノブに紅茶の缶をはめた。
 こうしておけば、深夜の侵入者がレバーを下げたら缶が床に落ち、音で目が覚める。
 包丁を枕の下に忍ばせた。
『どこの家もそうよ』
 夕方、母は言った。
 椅子に座らせた新品のクマを気にしながら、枕のそばに座り込み、じゃあ、同じクラスの他の子たちも今夜は刃物を用意して眠るのか、と考えた。
 (どう思う?)自分に尋ねた。
 自分が答えた。(違うと思う)
 もう一度、目頭が熱くなった。
 熱くなっただけだった。
 もはや涙は流れなかった。

 ※

 耳が硬い物音をとらえた瞬間、覚醒した。ぱっちり開いた目を戸口に向ける。暗くて何も見えない。
 横向きの姿勢から、一度うつ伏せになり、枕の下に手を入れた。包丁の柄を掴んだとき、もう一度同じ音がした。
 ノック音だ。部屋の戸からではない。
 窓からだ。
 スアラは身を起こし、布団から冷たい空気に足を晒した。窓に歩み寄るとき、包丁を持って行こうかと考えたが、やめた。鍵はかかっているはずだ。
 白いカーテンを細く開け、そっと様子を窺うと、思いもしない顔がガラス一枚を隔てた至近距離にあった。
『あ、け、て』
 窓の下のほうから首を伸ばし、リリス・ヨリスが口の動きで要求する。風で長い髪が暴れていた。スアラは呆れ、このまま開けてやらなかったらどうなるだろうと少し思ったが、自分が面倒になるだけなので開けてやった。冷気と新鮮な風が入ってきた。
「今何時かわかってる?」
 リリス同様、長い髪をなびかせながらスアラは窓から身を乗り出した。庭仕事用の梯子を、誰かが庭で押さえている。暗くてよく見えないが、チルーに違いあるまい。
「緊急」梯子にしがみつきながら、リリスが囁いた。「とにかく今は中に入れて。誰にも見られたくないしさ」
 例の余裕ぶった笑み。
 だが実際には切羽詰まっているらしい。目を見ればわかる。
 見られたくないのはスアラも同感だった。後退して場所を空けると、リリスは窓枠に手と膝をついて乗り込み、窓を閉めた。風がやんだ。後ろ髪の感触を頬に受けながら、スアラはリリスがカーテンの隙間をぴっちり閉ざすのを見ていた。
「よっぽど緊急なんだろうね」
 スアラは電気をつけず、ベッドに座り込んだ。「で、何?」
「君が言ってた空飛ぶ鯨の完成時期を教えて」
「鳥が手に入れば完成したも同然だけど。ってか、なんであんた――」
「チルーの鳥を貸し出すって言ったら?」
 質問をしようとしていたスアラはつい思考を止めた。
「君の力が必要なの」
 カーテンを通して、外のナトリウム灯の赤い光が入ってくる。その赤さの中でスアラは呼吸を整えて、今度こそ尋ねた。
「いや、ていうかさ、なんで私の家知ってるの? おかしくない?」
「君が背中に目をつけておかないからさ」
()けてきたっていうわけ?」
 スアラは反射的に怒り、その後、急に恐くなった。たちまちリリスに恐怖を見抜かれた。
「私たち、将来は革命勢力を相手に戦うことになるからね。学園ではあらゆる汚い手段を学ぶわけさ」
 土足で部屋を横切りながらリリスは手振りを交えて語った。
「チルーだってそう。私らがただの女の子に見えるなら、早めに考えを改めたほうがいいよ」
「なんなのよ、あんたは」
「もう一度言うね。鳥を貸す。一度なら。これはチルーも了承済み。代わりにあんたは鯨を貸して」
「無理」
「どうして無理なの?」
「物理的に不可能だから」
 答えるスアラの隣にリリスが腰を下ろす。マットレス越しに振動がスアラの尻から背中へ伝わった。
「私の作業場は空き家の地下にあるの。鯨が完成したら、まず空き家を解体する。それから鯨を引き上げる」
「なるほどね。家が邪魔なわけか」
「どうするの? 爆破する? そんなことしたって土台が――」
 廊下から、主寝室の戸が開く音が聞こえた。
 スリッパを履いた足音が廊下に出てきた。
 口を開けたまま、スアラは目だけを戸に動かした。体は固まって動かない。
 主寝室の戸がしまる。
 隣で、リリスがベッドの陰に身を屈めた。無駄だ。入ってこられたら終わりだ。
 足音が、来る。スアラの部屋のほうへ――。
 だが、それ以上は接近しなかった。階段を降りていく。その足音が聞こえなくなってから、スアラはほとんど止めていた息を吐き出した。
「よかった……トイレみたい」
「今の誰? 父親?」
 リリスは立ち上がるが、スアラは答えなかった。まだ安心できない。トイレの後、今度こそ部屋に入ってくるかもしれない。
「ねえ」と、一度目よりは行儀良く、リリスがベッドに座り直した。「よかったら、君も私たちと逃げない?」
 何を言われているのかわからなかった。
「は?」
「逃げるの」
 不意に、赤い光を集めた真剣な目と出会う。
「君も私たちと旅をするんだ。恐いものが追いかけてこない場所まで」
 旅をする。
 頭がくらくらし、スアラの耳はほとんど何も聞こえなくなった。逃げる。恐いものが追いかけてこないところまで。
 その甘美な考えは、たちまちスアラの想像力の大部分を楽園へと連れ去った。
 そこではきっと……ああ。
 娘は父親に、レイプすると脅されたりしない。
 そのことで母親に、嘘つき呼ばわりされたりしない。
「どこなの?」
 返答でもなんでもない質問をようやく捻り出す。
「それはどこ? 西なの? 壁の中心?」
「きっと、物理的にどこでもない場所だ。私たちは少しだけ見たんだ。君の鎧の教父がいた村で」
「コルテス」
「何?」
「あの人の呼び名よ……あんたたちが鎧と呼ぶあの人」
 沈黙が訪れた。それゆえに、二人は玄関の物音をはっきり耳にした。二重扉の内側を開く音。
 すぐに外への扉を開け閉めする音。
 スアラは怪しみながらもう一度部屋の戸に目を向けた。
「どこに行くの?」
 だが、わかるはずもなく。
 このときスアラとリリスは同じ心配をしていた。窓にかかる梯子のことだ。だが、家の裏側の車庫でエンジンのかかる音がした。車が動き、家を離れていく。なんとか見咎められずに済んだ。
「でさあ」タイヤの音が聞こえなくなると、リリスが再度持ちかけた。「あんたさ、ケツまくって逃げちゃえばいいんだよ。それともあんたを戦場に送り込もうとする両親に何か義理立てすることあるの?」
「私が逃げたらお母さんが一人ぼっちになっちゃうよ」
 そう答えながらも、スアラはリリスの説得が続くことを期待していた。
「一人ぼっち? なんで? お父さんがいるじゃない」
「それは……そうだけど」
「わかるよ。君はお父さんが恐いんだ」
 いつの間にか俯いていたスアラは、その一言で顔を上げた。だがリリスは何も言わせなかった。
「で、君にとってはどっちが恐いかの問題なんだね。父親とこの家に居続けて、あと何年かしたら革命の魔女に仕立て上げられるのと、でなきゃ私たちと旅に出るのと。違う?」
 スアラはどうしても聞きたいことを尋ねた。話を逸らす結果にはなるが。
「壁の中心なんてのがあるの?」
「さあ?」
「そこに行って生きていられるの?」
「戦争に行っても生きていられないと思うけど」
 窓枠に硬いものが二度ぶつかった。チルーが梯子を揺すって壁を叩いたのだ。
「ちょっと待ってて」
 リリスが窓に向かい、チルーが下で支えている梯子を恐れる様子もなく降りていった。姿が見えなくなってもスアラはまだぼんやりしていた。
 逃げる?
 ふと、自分は今重要な局面に立たされているのではないかと思った。きっとそうなのだ。
 リリスはすぐに上がってきた。
「君の家の車、中等学校のほうに行ったってさ。何か心当たりある?」
「学校のほう?」
 あの人が深夜の中等学校に用があるとは思えない。他に用事がありそうな場所は?
 思い当たると同時に心臓が凍りついた。
「鯨だ!」怪訝な顔をするリリスに、「私の作業場があるの! まさか――」
 寝衣(ねまき)のポケットから机の鍵を出す。急ぐあまり取り落としたり、鍵穴に逆向きにつっこんだりしながらようやく鍵をあけ、果たしてひきだしに作業場に通じる花の鍵があるのを目にすると、深々とため息をついた。
「奏明の鍵だね」
 他に何も入っていないひきだしを覗き込み、リリスが関心したように言った。
「うん。この鍵じゃなきゃ作業場に入れないはず。だから――」
「安心するには早いんじゃない?」
 だから大丈夫、と言いかけたスアラは言葉を呑み込んだ。
「どういうこと?」
「私だったら鍵がついてるのと反対側の蝶番(ちょうつがい)を外して侵入するね。それかあんた、扉の両側に鍵つけた?」
 横からリリスの視線を浴びながら、スアラはただ、首を浅く横に振った。何も考えたくないが、リリスが正しいことだけはわかる。
「……行かないと」
「行ってどうするの?」
「あの男が汚い視線で鯨を見るなんて許せない」
「だから、その人をどうするつもりなの?」
「殺してやる」
 迷いなく断言し、スアラはベッドに戻って枕をめくり上げた。カーテンは開いたままで、ナトリウム灯の光がまっすぐ包丁を赤く照らした。
 リリスもさすがに度肝を抜かれたようだ。包丁については直接何も言わなかった。代わりに提案した。
「私たちがついて行ってあげようか?」
 包丁を握りしめながら、スアラはリリスの顔を見つめた。焦りと怒りで思考は麻痺しているが、それでもなんとか考えた。
 気に食わないが、リリスは頭が良い。たぶん、自分よりも。
「お願い。でも、少し離れてついてきて」
「そうだね。君のお父さんには君が一人きりだって思わせたほうがいい」
「あんなのを私のお父さんだなんて言わないで」
 そうだ。あの男、私を殴ればいい。罵ればいい。そうやって、油断した状態で醜い姿を人目に晒すがいい。
「ああ、そうだ。包丁は持っていかないで」
「どうして?」
 リリスは握りしめた右手を左手に叩きつけ、パチンと音を鳴らした。
「そんなものより『石工』のほうが強いからさ」
 そう言い残して庭へおりていった。梯子が元の位置に片付けられている間にスアラは着替えて玄関から外に出た。歩いているうちに、背後に足音を感じた。一度振り向いた。リリスとチルーがいるのを確認したら、もう振り向かなかった。 
 静まり返った街路、時折どこかの家から怒鳴り声が聞こえる街路、車道を突っ切り、壁に取り付けられた扉を開き。
 中等学校までたどり着いた。
 吹き荒ぶ冬の夜風はスアラの頭を冷やさなかった。
 許さない。
 私を鯨から遠ざけて、コソコソ何をするつもりなの? 汚い体で近寄るな。汚い手で触るな。そんなことをしたら殺してやる。殺してやるからな。
 歩調が早くなっていく。
 悪意に取り憑かれていたがゆえ、スアラは気配に気がつかなかった。
「君」
 いきなり肩を叩かれ、跳び上がった。男の声で話しかけられた。
「何をしているの? 君、未成年だよね?」
 振り向く。
 大人が二人だった。若い男と女。警察官と修道女だ。
「何って……」
 答えられるわけもなく、黙り込むスアラの前に修道女が歩み出た。
「あら、あなた、この前炊き出しのお手伝いに来てくれた子ね」
 何も言えないスアラに修道女は言い聞かせた。
「この辺りで、聖四位一体紋を冒涜する事件が起きているって通報があったの」
「えっ」
「物騒だから、私たちも手伝って巡回を強化しているの。悪いけど、あなたの身柄を保護させてもらうわね」
「私は……ただ……」
「この辺りは危険なの」
 スアラは抗弁を試みるが、助言を与えてくれる人がいるわけでもなかった。リリスのたちがいるほうを振り向きたい衝動を抑えるのが精一杯だった。
「君、一人?」
 警官が、再度問う。
「……はい。一人です」
「それじゃあ、警察署で君を保護させてもらうよ。ついて来て。そこに車があるから」
 立ち尽くすスアラの背中に手を当てて、警官は促した。きっと優しい人なんだ、とスアラは思った。
「朝になったら、帰してあげるからね」


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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