使者

文字数 1,774文字

 3.

 カワセミは、今度こそ何もない空間、茫漠たる灰色の空間を滑翔した。そのうち床に落ちる黒いシミのようなものが見えてきた。
 亜麻色の髪の少女が横たわっているのだ。
 カワセミは少女の上でホバリング。様子を見守りながら、顔の前に下り立った。
 少女スアラは十三歳の姿のままで、両腕を枕にしながら胎児のように体を丸め、すすり泣いていた。
 カワセミは首をかしげた。どう呼びかけるのが最良かと考えるように。
 ほどなくして首をかしげるのをやめると、女の声で語りかけた。
「時間よ」
 スアラは打たれたように目を開けた。
「ここから出る時間が来たわ」
「誰?」
 身を起こしたスアラは左手を床につけて座り、声の出どころを探した。この空間で初めて出会う他者を。
「ここよ」
 声のするほうに目を落とし、黒いつぶらな瞳のカワセミを見つける。
「何しに来たの?」
「あなたをここから連れ出しに」
「私をどうするの?」
 スアラはパニック寸前で、着ている服を握りしめた。
「私を裁きに来たの? あなたは誰? 天使なの? 聖霊なの?」
「あなたの一番古いお友達よ」
 カワセミは翼を広げ、スアラの膝に飛び移った。
「あなたはもう独りぼっちで苦しむ必要はないの。それを知らせに来た。出ましょう、スアラ。外の世界へ」
「駄目だよ」スアラは首を振った。「私はここにいたいんだ。苦しんでなきゃ駄目なんだ」
「どうして?」
「私はリリスを殺した! 私のせいでリリスは……」腹から声を振り絞る。「それだけじゃない。お母さんを侮辱して、収容所送りにしたんだ!」
「リリスのことは不幸な事故だった」
「私のせいだよ。考えが足りなかったせいだ。全部私が悪いんだ」スアラは髪を掻き乱す。「私はもう生きていたくない。ここで死んだように眠っているのがお似合いなんだ」
「そんなことないのよ、スアラ。あなたは生きている。あなたは外の世界で生きられる」
「だったら私を私自身から救い出してみせてよ! それができないなら黙ってて!」
 スアラが手を払うと、カワセミはそれを避けて舞い上がり、顔の高さでホバリングした。
「あなたはいつだって救われているわ。救われていることを認めていないだけ」
「救われている? 私が? そんなわけないじゃん」
 スアラは泣きながら嘲笑う。
「私はいつだって悪い子だった。父母を敬えなんて言われてもできなかったし、人を許せと言われてもできなかった。教会なんか糞食らえだ!」
「敬えないことで、許せないことで、教会の教えや世間の常識に従えないことで、あなたは苦しんできたのね」
 カワセミは黒い瞳をスアラからそらさない。
「ならばもう苦しまないで。スアラ、あなたはテレジアの説得を受けたとき、お母さんを(おもんぱか)ったわ。家を去るときに、やろうと思えばできたのに、あれ以上お母さんを傷つけなかった。あなたはもう十分に相手のことを考えた。それだけで、あなたはとうにあなたを苦しめた人を許しているのよ」
「私は――」スアラは頭に爪を立て、うなだれる。「悪い子なんだ、悪い奴なんだ。本当は許していたからって、何? お母さんが収容所に送られたことは変わらないでしょ」
「それはあなたの問題ではなく、お母さんの問題。あなたとは異なる個人の人生の問題なの。あなたはあなた自身の問題に取り組まなければならない。だから、さあ」
 カワセミはスアラの肩で翼を休めた。
「ここを出ましょう」
「苦しいよ」スアラは涙を拭く。「きっと神様が、苦しめって言っているんだ」
「いいえ。苦しむのは、あなたが肉の体を持つ人間だから。人間が他の人間と生きていくというのは、そういうことなの。だけど苦しいだけじゃない。喜びがある。愛も」
「だったらどうして世界は壁だらけなの?」
「壁のほうが幻想なのよ」
 カワセミは言う。
「苦しみは、全ての生きる苦しみは、神の罰なんかじゃない。神様はあなたを罰してなんかいないのよ」
「……本当?」
 スアラは長い髪の貼り付いた手で涙を拭った。
「本当に壁のほうが幻想なの? 本当の、本当に?」
「外に出なさい。そうすればわかる」
「外に何があるの?」
「大人になったあなたがいるわ。その苦しみを受容できるほど成熟したもう一人のあなたが。あなたが出てくるのを待っている」
 カワセミは青い背中をきらめかせ、一直線に飛ぶ。その先に、閉じた心の出口、ツバメの絵、青い光がある――。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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