再訪

文字数 4,014文字

 夢を見た。
 美しい世界だった。
 誰もが私を愛していた。
 私は望まれて生まれてきた。
 木を植えた。
 芽吹かなかった。
 花を植えた。
 芽吹かなかった。
 野菜を植えた。
 果物も植えた。
 誰にも芽吹かせられなかった。
 だから、この世界に神様はいないのだとわかった。

 ※

 無音、闇。
 巡礼の空間にいるのかと思ったが、そうではない。チルーは五感を取り戻す努力をする。意識を失っていたようだ。
 土の匂い。湿った土の上に伏せているのだとわかってきた。音が聞こえる。風の音、風にぶつかる木々の枝の音。
 光が見える。
 月の光ではない。もっと人工的な、だが優しい光。
 鯨の中から漏れてくるのだ。
 そうだ。リリスと共に窓の外を覗き込んだ。そのときには手遅れだった。眼下に暗い木々が広がり、鯨はそこに突っ込もうとしていた。チルーはただ恐怖に固まって、なす術もなかった。
 地面に衝突したに違いない。その瞬間の記憶は、恐怖のせいか飛んでいる。
 投げ出された両腕を体に引き寄せた。
 腕も足も動いた。痛いが、耐えられないほどではない。
「リリス――」
 呼ぼうとしたが、咳が出ただけだった。チルーは夜の森で、四つん這いの姿勢になって顔を上げた。
 寒い。
 少し離れたところで、鯨が地面に頭からめり込んでいた。腹部が大破している。そこから投げ出されたのだろう。その板材の破れ目が光の出どころだった。
 光の中に、ほっそりした手が投げ出されていた。
 チルーは咳込みながら姿勢を変え、土に座り込んだ。震えながら寒さと痛みに耐えていると、目が慣れてきて、徐々に視認できる範囲が広がってきた。
 細い手、その腕の先を目でなぞる。
 リリスの腕だった。
 リリスは両腕を頭の上に投げ出すように仰向けに横たわり、その首は、生きているならばあり得ない角度に捻じ曲がっていた。

 1.

 一夜明けてみれば、見事な冬晴れだった。南ルナリア大聖堂の前庭を埋め尽くしていた亡骸も、多くは遺族が引き取ったあとで、霜に覆われて真っ白になった残る三分の一ほどの遺体も、午前中に役所が収容に来るとセフは言った。
 大聖堂の玄関先で、アズはスーデルカと並び立ち、改めてセフに頭を下げた。
「どうかあの二人をお願いします」
 あの二人とは、無論スーデルカが連れてきた少女たちのことである。一人はガラヤ、一人はエルミラという。ガラヤは鳥飼いで、レライヤのカワセミを連れている。ひどく内気で、アズと改めて顔合わせをしても、会話らしい会話はほとんどできなかった。もう一人のエルミラは活発で、したたかな少女だった。抵抗教会の蜂起に乗じて、エルミラがガラヤを学園から連れ出したのだという。
 そんな二人に、アズは重ね合わせずにはいられなかった。チルーとリリスを。もっともアズはチルーとリリスを直接知ってはいないのだが。
 ガラヤもエルミラも、アズが二人に手を下すつもりがないと知れば心を開いてくれた。
『君たちは、カワセミをどうしたいと思っている?』
 昨夜、アズは二人に問いかけた。ガラヤだけでなく、エルミラの意思も尊重したかった。そうしなければ、エルミラはガラヤを引っ張ってどこかに姿を消しかねない。
『とりあえず、学園に返すのは嫌だな』
 エルミラは言った。ガラヤも浅く頷いた。
『ああ。俺もそれでは何の意味もないと思う。カワセミはまた三十年後に別の鳥飼いを選ぶだろう。これ以上同じことを繰り返してはいけない』
『お兄さんはどうすればいいと思ってるの?』
『そうだな』
 ここでアズは、同席するセフとスーデルカに顔を向けた。
『死者の行方を追うのが最善だと私は考えます。三十年前に、チルーとリリスがそうしたように』
 だが、その前に会っておきたい人々がいた。
 大聖堂の玄関先で、セフはこれから出かけようとするアズに重い口を開いた。
「あの二人もだが、お前の頼みはそれだけではなかっただろう」
 アズの兄夫婦、トビィとレミの保護を頼まれたことをセフは忘れていなかった。
「お前の希望を叶えられるか伝手(つて)をあたる。もっとも、最終的な判断はお前の家族が下すのだがな」
 アズは重ねて頭を下げた。
「よろしくお願いします」

 ※

 運転席のアズは、押し黙ったままハンドルを握り続けた。車は険しい山道に差し掛かっていた。僅かでもハンドル操作を誤れば、右側の崖に転落しかねない。
 それでもアズは集中力をスーデルカに振り分け、いよいよ口を開いた。
「マデラさん、あなたは私があなた方を追ってきた公教会の刺客だと気付いていましたか?」
 助手席のスーデルカが即答する。
「薄々と」
「どの時点で」
「あなたが私を助けるために、指先から光を放った、その時点で」
「つまり最初から」
「そういうことですね」
 行く手に落石があった。アズは車を道の右端、崖ぎりぎりに寄せる。減速して落石を避けると、話を再開した。
「あなたは私があなた方に害を及ぼす可能性に気付いていた。それでも鯨を落とすために、私を助けにきてくださった。私には、あなたが悪い人だとは思えません」
 スーデルカは黙り込む。
「どうか教えてください」
「何でしょう」
「どのようにして、あなたはガラヤとエルミラの二人を見つけ出したのですか? レライヤのカワセミが再び鳥飼いを選ぶことを、あなたは知っていたのですか?」
「……私もまた、公教会の人間です」
 思いもしない返答だった。
「所属は」
「救貧の聖女マザー・テレジアのもとで、情報分析の仕事をしています」
「奇遇ですね。私の兄は薬剤師ですが、薬局を開くにあたりテレジア金庫から融資を受けたんです」
 そうだったのですか、と答え、スーデルカは僅かに身振りを加えた。
「三十年に一度、レライヤのカワセミが鳥飼いを選ぶことを私はテレジアから聞かされていました。それにあのカワセミは、一度は私の作品の一部となったもの。もう一度接点ができる……近付けば私にはわかる……そういう曖昧な自信がありました」
「それで、テレジアはあなたを送り出した?」
「ええ。前回のチルーとリリスの逃走経路から、現在の戦況等を反映し、ガラヤとエルミラが取り得るであろう逃走経路を割り出しました。その内の一つ、南ルナリアに私が派遣されたのです」
「他にも派遣された者がいるのですか?」
「はい」
「その者たちと、連絡は」
「カワセミを見つけたことはまだ誰にも伝えてません。私も――」スーデルカは言い淀み、唾をのんだ。「学園に戻すべきとは考えておりませんから。それにチルーとの約束もあります」
「約束?」
 乾いた小枝をタイヤが踏みしだく音が車内に響く。
「私は、素手で土を掘ったあの闇夜を覚えています。リリスを埋めるために。生涯忘れることはありません。汗が顔を伝うのに、私はずっと震えていました。恐らく、チルーも」
 沈黙。
「……やがて太陽が、盛り上がった土と、壊れた鯨、それに土まみれのチルーの青白い顔を照らし出しました。
 チルーは私に、一人で行く、と告げました。自分の鳥を見つけに行くと。
 その後の彼女の行方は私も知りません」
「そうでしたか」
「そのときにチルーは、カワセミを頼むと私に言ったのです。私は答えました、なんとかする、と。それが約束です」
 アズはゆっくりブレーキを踏んだ。先ほどよりも大きな落石が道の半分を塞いでいた。この先は徒歩で進むしかない。
「下りましょう」
「近いのですか?」
「遠くはありません」
 二人は静かな森の中を、落ち葉を踏んで歩いた。空気は澄んでいて、風が冷たい。木々の枝を透かして日差しが降り注ぐ。
「私はと言えば――」スーデルカは再び話し始めた。「なんとかする、と言っても、どうすればいいかわかりませんでした。結局一人、森を出て、近くの町で下働きの生活でした。でもそれも数週間のことで、結局自ら公教会に出頭したのです。リリスの死に一人で耐え続けるなど、私には無理でした」
「きっと私でもそうしたことでしょう」
「公教会が調査に出向いたときにはもう、鯨は持ち去られたあとでした。それから十年後――」
 山道はゆっくりカーブを描く。それを曲がると分岐点に出た。片方は上り、もう片方は下り。
「こちらです」
 アズは記憶を頼りに下りの道を選ぶ。
「――十年後のことです。誰かが鯨に手を加えた」
「何故わかったのですか?」
「墜落した鯨から立ち去るとき、私はつらい心を鯨の中に封じ込めました。鯨を改造した者は、その負の感情の煮凝(にこご)りのような心につけ込んだのでしょう。
 とにかく、私と鯨の間には無意識の繋がりがありました。その繋がりが壊されるのを感じたのです」
「十年後というと、レライヤ学園にカワセミが戻ったのと同時期ですね」
「鯨に新しい鳥を入れた者は、既に中にカワセミが入っていることを知らなかったのでしょう。あるいは私の鯨では、いつまでもカワセミを留めておくことはできなかったかもしれません」
 道はなだらかに下り続け、右の崖下に狩猟小屋の板葺屋根が見えた。
「ラティアさん、今度は私がお尋ねします。あなたは死者の巡礼を追うのが最善と仰いましたが、実現のあてはおありですか?」
「あります」と即答。「私は死者の王に憑かれている」
 道を下りきり、二人は開けた空間に出た。崖に背をつけるように、修道士の小屋がある。
「マデラさん、あなたの望みは何ですか? どうなってほしいと思っていますか?」
 小屋の前で、アズはぴたりと足を止め、スーデルカの目を直視した。スーデルカの瞳の中には動揺と確信が拮抗し、不思議なバランスで同居していた。
「私が望むのは」
 話し声が聞こえるのか、小屋の中で人が動く気配がした。住人が出てくる前にスーデルカは言い切った。
「死者たちがもう苦しまないことです」
 音を立てて、小屋の引き戸が開かれた。アズの命の恩人が戸口に立っていた。
 高い背、ぼさぼさの髪と鋭い目。
 スーデルカが深々と頭を下げて挨拶した。
「お久しぶりです、修道士(ブラザー)・ディルク・エンリア」


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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