さまよう王

文字数 5,352文字

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 老人は一度消えたが、アズが月光を辿って陸橋に上がると、再び姿を現した。老人はアズの背中に張り付くように浮いていた。アズは状況がよく見えるように、歩幅一歩分もない胸壁の上をひた走っていた。爆発音、号令、銃声と、機関銃の射撃音に近付いていく。その方向から吹いてくる風は、生ぬるく、焦げ臭く、粘つくような感触を顔や手に残した。火炎瓶が使われた。街を縦横に切り刻む高い壁の向こうで、空間が赤く染まった。誰かが最期の悲鳴を上げた。
 アズは走るのをやめて、よろめくこともなく、狭い胸壁の上で立ち止まった。腕を上げ、中央郵便局がある方向へ指を突きつける。すると、郵便局へと一直線に向かう光の道が、屋根屋根に、そして迷路の壁の上に架けられた。道はアズが通り過ぎると消えた。駆け抜けるアズの左手は空の光を集め、右手は外套のポケットから紐状の物を引っ張り出した。
 木の珠を連ねた数珠(ロザリオ)だ。先端には聖四位一体紋が取り付けられている。
 その紋章を握りしめる。
「父である神、聖霊、神の息子と神の娘、聖四位一体の救い主よ、我が祈りを聞き入れたまえ」
 郵便局への最後の壁が、もう目の前だった。壁の向こうから、赤い色彩と、爆風が立ち上った。
「我らの罪を許したまえ、弱き我らを憐れみたまえ――」
 橋を、渡りきった。
 局の暗い窓の向こうに、蠢く人影が見えた。二階と三階が占拠されている。
 聖教軍の兵士たちを荷台に乗せたトラックが壁を曲がってやって来て、郵便局の前に停まった。
「武器を捨てて出てこい!」
 広場の噴水の陰から一人の士官が飛び出して、郵便局の窓という窓に叫んだ。
「お前たちは包囲されている!」
 トラックから、続々と兵士たちが飛び降りて来た。
 革命軍の誰かが威嚇射撃をした。士官は威嚇した者がいる窓に向けて撃った。途端に、火線がたった一人の士官に対して惨たらしいほど集中した。士官は、銃弾に引きちぎられた肉片を四方に飛び散らせながらくず折れた。射手たちは、郵便局に突入しようとする新手の兵士たちを薙ぎ倒し始めた。死してなお、彼らの体に銃弾が穴を開けた。
 アズは誰にも気付かれずに壁を蹴り、飛び上がる。
 空中で左手を左肩の上にかざし、右の脇腹へ振り下ろす動作をすると、光の波が放たれて、郵便局の三階の外壁を打った。光は窓に入り込むと、室内で爆発した。机や棚などの備品が浮き上がり、盛大に音を立てた。一瞬のことだったので、悲鳴を上げる者はなく、ちぎれた四肢と血と内臓が、文房具や椅子や書類などと一緒に、三階のあらゆる窓から噴出した。
 足場を作り、体を支える。
 その足場を蹴り上げる前に、二階に向けて同じことをした。ようやく地上の生き残りの兵士たちが事態を把握したのは、アズが足場を順に蹴り、局本棟の平屋根に移ってからだった。
「天使だ」
 誰かが叫んだ。
「ガイエンの『星月夜の天使』!」
 聖教軍の兵士らは、士気を盛り返し、喚く。
「大司教様が言葉つかいを出動させてくださったんだ! 神は我らと共にある! 行くぞ!」
 突撃が始まったときにはもう、アズはその声を聞いていなかった。
 電話局は下町寄りの地区にある。壁の上を駆け抜けるアズに、ついてくる死者が語りかけた。
〈容赦ないねえ、お兄ちゃん! あんな効率的な殺人は初めて見た! 俺は抵抗教会の連中を悪魔みたいだと思ってたが、こりゃ認識を変えにゃならんかね!〉
 笑いを含んだその声に、「彼らは悪魔ではありません」アズは丁寧に答えた。息を切らしつつあった。
「彼らは……」早歩きの速度まで足を緩める。「……彼らは貧しく、騙されているのです。ですがこれ以上犠牲者を増やすのならば、除かなくては」
〈俺を見せしめに吊るしたのは甥っ子でね、兄ちゃん〉
 冷たい風が吹き荒ぶ壁の上を、よろめかないように気をつけながらアズは歩いた。死者は語るのをやめ、反応を待っている。
「何故、そんなことを」
〈エリ河の第六橋梁架橋計画さ! 考えてみるんだな、兄ちゃん。都市の重要な機構が一揃えになった西岸と、腐った臭いのする東岸の北部を橋で繋ぐっていうんだ。まず東岸をきれいにしなきゃならねえってもんだろ?〉
「ガイエンは市を挙げて東岸の労働環境を改善し――」
〈収容所だよ〉
 アズは歩き続けながら、振り向きはしないまでも、死者がいるはずの右肩に注意を向けた。
〈そうさ。あそこに住んでる人間は、あそこに住んでるってだけで(なま)け者の烙印(らくいん)を押されて労働訓練所送りさ。ただ都市の美観をよくするってためだけに、郊外の高い塀の中ってわけよ! 甥っ子はそこから逃げ出して来たときにゃあよ、すっかり別の人間になってたね〉
 きっとそうなのだろう、とアズは思う。死者は嘘をつかないと言われているのだから。
 壁の途切れるところに辿り着いた。
 下町の工場は、数時間前に労働者たちを送り出して以降、悲しみに打ちひしがれていた。明日、何割の労働者がいつものように出勤するだろう。労働者たちが戦いに出てしまい、取り残された女房たちや旦那たち、父親たちと母親たちは、街路に群れるともなく群れ、タバコを吸い、そうでなければ真っ暗な家でシチュー鍋をかき回していた。子供たちは日が暮れてもまだ路上に箱を出し、上に細々(こまごま)とした物を乗せて商いをしていたが、一つも売らずに家に帰ったら子供たちを殴り倒すであろう親も、多くは命を落としていた。
 また、これから落とす。
〈兄ちゃん、操屍者だろう?〉
 アズの興味深そうな視線の先にある物を見て、老人が尋ねた。アズは頷く。
「はい」
〈ふぅん、そいつは結構だねぇ〉
 アズが見下ろす先には、集団処刑用の首吊り台が(もう)けられていた。
 それは既に使用済みで、吊るされている人の数は、明かりの乏しい中でも三十は下らぬように見えた。
〈あれよ。俺の隣に吊るされとるのは俺の家内(かない)よ……〉
 初めて、死者の声に不穏の響きが滲んだ。
 吊るされた人々は皆、後ろ手に縛られていた。肩が外れ、首が長くなっていた。外れた踏み板が、垂れ流しの糞尿にまみれたまま残されていた。その上に、いくつもの靴が脱げ落ち、犠牲者たちの足は飢えた野犬に食いちぎられていた。その光景を、アズの白い息が滲ませて、吐息が消え去れば、再び明らかになった。
〈さあ、電話局に行っとくれ〉
 そんなはずはないのに、肩を掴まれた感じがした。
(かばね)はくれよう〉
 それきり、気配が消えた。死者は去った。骸だけが残っていた。アズは唾をのみ、身震いを堪えると、右手で聖四位一体の(いん)を切った。指を額に当て、次に鳩尾(みぞおち)。同様に左肩、右肩に触れ、最後に、触れた四箇所を線で結ぶ。
 飛び降りた。
 月光が幅広の足場となってアズを受け止めた。一段降り、二段降り、左手を処刑刀に移す。
 処刑刀を鞘から抜くと、金属のこすれる冴えた音がした。
 右手のロザリオに口付ける。
 空気は冷たく、顔の両側で鳴る風の音は恐ろしかった。
 処刑台の、横木が迫る。
 横木と迷宮の壁の狭い隙間にアズは落ちていった。武器を振り下ろすと、刃は見事、死者の体を傷つけることなく一本の縄を切った。
 冬期ゆえ臭いは抑えられていたが、右腕で死者の乾いた体を抱きしめながら最後の距離を落下するときは、さすがに錐のように強烈な刺激臭を吸い込まずには済まなかった。
 反射的に吐きそうになる。
 死体を下敷きに着地。
 踏み板が大きな音を立てた。
 膝の下にあるその体は、女の体だった。
「おい、何だ!」
 誰かが音を聞きつけた。
 アズは右手を女の伸び切った喉に当て、顔を上向かせた。乾燥して伸び切った皮膚は、いかにも脆い感触であった。
「そこに誰かいるのか?」
 視界の効かない暗闇の通りを、誰かがやってくる。
 アズは左手を天に掲げ、

 



 光を集め、

 



 その光を、乾いた舌が小枝のように突き出る口の中に突っ込んだ。
 甲高い絶叫が、女の死体から放たれた。通りに潜む何者かが、(おのの)き恐れ、喚きながら、鍋のような物をしつこく打ち鳴らした。アズが月の光を操ると、縄は切り裂かれ、死者たちは皆、何日かぶりに地と接した。月の光を注ぎ込まれた死者は、呻き、喚きながら、処刑刀を手にしたアズの身ぶりに指示されて、電話局のほうへと駆け出した。死者たちはそこにたどり着き、戦場に乱入するや、宿した光を爆発させるだろう。
「弱き我らを憐れみたまえ」
 アズは恐怖のあまり息を喘がせている男を無視し、その横を、死者の群れを追って歩き始めた。
「今宵傷つけ合う我らが、いずれの日にか、御国(みくに)にて……」
 電話局へ至る道の途中、アズは、売り物の布製の小物の上に突っ伏す子供を見つけた。まだ十にも届かぬであろうその子は、どう見ても死んでいた。
 次の辻、明かりの消えた外灯の下では、男が丸くなって眠るように横たわっていた。何故死んでいる人間は、遠目にも死んでいるとわかるのだろう。男に呼吸はなかった。指に挟んだタバコの火だけが生き続けていた。
 少し歩くと、今度は指を二本失った男が仰向けに倒れていた。工作機械で中指と薬指を飛ばし、銃を扱えなくなったから、下町に取り残されたといったところだろうか。更に歩くと戸口から僅かによろめき出たところで老婆が死んでいた。板戸が風に煽られて、老婆の体にぶつかったり、離れたりを繰り返していた。
 別の家を覗き込むと、シチュー鍋をかき回していた主婦は竈のそばに伏していた。
 椅子に座って窓に寄りかかる少女は、二度と瞬きしない目を()き出しにしていた。誰かが詩の朗読をしていた。ラジオだった。耳を傾ける者がいるかは疑問だった。

 みな、行ってしまったのだ。

 一歩ごとに、視界が暗くなっていく。
 電話局の方向から爆発音が聞こえてくるが、遠い国の出来事のようで、事実爆発音は、迫りくる唸りにかき消された。
 詠唱。
 アズは目を閉ざし。
 また開けて。
 振り仰ぎ。
 見た。
 巡礼団。
 呻くような調子で、聞き取ることのできない祈りの句を詠唱し、半笑いを浮かべて足を動かす巡礼衣の集団。
 列の先頭のほうに、窓辺で目を剥いて死んでいた少女がいた。
 シチュー鍋をかき回していた主婦がいた。
 戸口からよろめき出たところで死んだ老婆がいた。
 指を飛ばした労働者がいた。
 辻でタバコを吸っていた男がいた。
 布の小物を売っていた子供がいた。
 処刑台に吊るされていた、性別も年代もバラバラの男女。
 橋の詰所の床に横たえられていた、河川交通局の職員。
 彼らを殺し、また自身はアズに殺された革命軍の兵士たち。
 仲(むつ)まじい男女が一組。
 近くには、郵便局の前で集中砲火を浴び、体を銃弾で引きちぎられた士官の姿。トラックを降りる前に撃ち殺された兵士。トラックを降りてから撃ち殺された兵士。そして、アズが顔も見ずに殺した男たち。
 頬を生温い液体が伝う。
 何故だろう。何も感じていないのに、死者たちの前で涙が出てくるのは。
 わからない。
 体の反応とは無関係に、心は冷え切り、感情は抑圧され、透徹した視線は巡礼団の中心を探す。
 巡礼の死者は足音を立てない。
 巡礼の死者は衣ずれの音を立てない。
 巡礼の死者は瞬きをしない。
 巡礼の死者は泣かない。
 薄笑いするのみ。
 死を望む生者がいるならば、死を着せて、連れて行く。
 中心を、見つけた。
 それは列の後方。
 アズは平均よりも背の高いほうだが、そのアズよりも更に三倍はあろうかという背丈。
 全ての宝石を外された、黒ずんだ王冠。
 引きちぎられ、ところどころ焦げて穴の開いたマントは、アズが操る月光に照らされると鮮やかな深紅だった。マントの下の襤褸(ぼろ)からは、もともとの華美な装飾の名残が見て取れた。衣服から露出する体は剥き出しの骨だった。
 顔面に見えたるは鉄仮面。顎骨が音を立てるのは、笑っているのか、それとも仮面に当たるからか。
 その扇動者の型は。
「……また、お前か……」
『さまよう王』と呼ばれていた。
 涙の筋が口に到達し、舌に苦念の味を与えた。
 アズは、死者の川の流れを遡る。
 巡礼団の前列と後列が、尾を噛む蛇のようにくねり、円の中にアズを閉じ込めた。
 扇動者たる王は、アズにも、死者たちの動きにも興味を示さずに、前へ足を引きずり続ける。
 薄笑いの死者たちは、アズを指差した。扇動者への残り僅かな距離が、完全に遮られた。
 処刑刀を振りかぶり、前列の死者を斬り伏せる。シチュー鍋をかき回していた女だった。ぺらり、と紙をめくるような音と、あまりにも軽い手応えがあった。
 河川交通局の職員を斬り伏せる。
 ぺらり。
 指のない労働者を斬り伏せる。
 ぺらり。
 中央郵便局で死んだ士官を斬り伏せる。
 ぺらり。
 アズは斬り、死者は笑い続ける。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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