憎しみ深く
文字数 3,653文字
3.
知ってしまった。知ってしまったのだ。
夕日は薄紫の空からすっかり手を引いていた。あの修道女はすぐにスアラの不在に気付くだろうし、修道院の関係者たちはまずスアラの家から探すはずだ。
わかっていても、スアラはナトリウム灯の表通りを自宅へと疾走した。他にどうしたらいいかわからなかった。
お母さんは荷物のように抱えられて連れ去られた。そこにテレジアがいた。それは自分がテレジアに母を委ねたからだとスアラは理解していた。
道の向かいから自分と同じくらいの少女が歩いてくる。すれ違うとき肩がぶつかった。そのときスアラは、相手が中等学校の同級生だと気がついた。「あっ」、と相手が声を上げたが、立ち止まるわけにはいかなかった。
一緒にいた女性は母親だろう。
息を切らし、よろめきながらスアラは走った。
ああ、どうしてなの? 私を守ってくれる人はどこにいるの? 私を愛するものはいないの?
「スアラ!」
知っている声が叫んだ。仕立て屋の壁に左手をつき、息を弾ませながら立ち止まったスアラはいきなり背後から右手を取られた。誰かが、そのままスアラを追い抜きながら路地へと誘い込む。確かめるまでもなかった。リリスだ。チルーも一緒だった。
二人とも、スアラと同じく息を切らしていた。
守ってくれる大人がいないことも同じだった。
表通りの喧騒も街灯の光も届かない路地で、額の汗を拭いながらリリスが尋ねた。
「逃げてきたの?」
暮れ残る空の下で、肩で息をしながらスアラは頷いた。
「お母さんが――お母さんが――」
「落ち着いて」チルーが背中に手を当てた。「泣かないで。大丈夫だよ」
「何が大丈夫なの!?」
スアラは空き瓶が収められた木箱を蹴飛ばした。
「こっちは母親を収容所送りにされたんだ! 私もう――」
もう、何だ? スアラは自分が言おうとしたことの恐ろしさに絶望し、言葉を失った。
「鯨はどうしたの?」
崩れ落ちそうなスアラの両肩をリリスが掴み、爪を立てた。自失するのを許さない、厳しい口調だった。が、鯨のことを思い出させるのは実際スアラには効いた。スアラは天を仰ぐ。星は見えない。
「どうしたの? 言って」
顔を夜空に向けたまま、スアラは目を瞑 った。目尻が生ぬるく濡れていく。
何もかも奪われた。母親も、帰る家も、鯨も。
全て騙し取られたのだ。
「……ううん」
あることを思い出して、スアラは目を開けた。
「作業場の解体工事は始まってる。でも地下に、いざというときに別の家に鯨を運び込む秘密の通路があるんだ」
リリスが肩から手を離し、大きく瞬きをした。
「君は鯨がどっちにあると思う? 作業場? それとも秘密の通路の先?」
「わからない。でも作業場には修道院の人間が張り込んでると思う」
しっかりした声で言って、スアラは右手の人差し指の関節で目尻を拭った。手袋はなく、荒れた手に感覚はなかった。
「行ってみよう」リリスが背中を二回叩いた。「しっかりしてよ」
「私、騙されてた」
「私たちもだよ」
表通りに油断なく目を配りながらリリスが囁いた。
「学園にいれば安全だって私たちは教わった。でもそれは、自由を求めるなら死ねって意味だった」
「あんたたちはどうするつもりなの?」
「やりたいことをやってやるんだ。あいつらがやろうとも思わないことを全部やってやる」
押し黙るチルーは、一日か二日で信じられないほど老け込んだルシーラのことを思い出していた。だからといって、リリスから離れ去ることなどどうしてできようか?
「君もやっちゃおうよ」
チルーは見た。スアラが涙を流しながら唇を釣り上げ、笑うのを。
ある共通の感情ゆえに、二人は心が通じたのだ。
友達になったのだ。
スアラは答えた。
「……あはっ。やっちゃおう」
※
スアラは一番乗りでその家の柵を乗り越えた。もうすっかり夜になっていた。後ろを振り向かずに前庭を突っ切り、ザクロの木と邸宅の間をすり抜けて裏庭に駆け込んだ。
そこに鯨が引き込まれていた。
「待って!」
鯨の周りには、五、六人の大人たちがいた。そのうち二人は作業場の向かいに住んでいた男女だ。すっかり息切れし、ふらつきながら鯨に歩み寄るスアラに、大人たちは態度を決めかねていた。
「……何、その目は」
スアラは歩 を止めて啖呵を切った。
「何、その目は! こっちはあんたたちのために命がけで逃げてきたんだよ!? 何とか言ったらどう!?」
青白く角ばった顔の、痩せた中年男が身じろぎした。グロリアナの革命家の中で結構な地位にあるはずの男だが、スアラは正直興味がなかったのでよくわからなかった。普段から人に興味を抱いておけばよかったと悔いるが、もう遅い。
「スーデルカ、すまない。君がどこに行っていたのかわからなかったんだ」
「わかってたんでしょ、嘘つき。どうせ私があんたたちを裏切って逃げたとでも思ってたんだ」
嘘つきなのは私もだけど。
男は掌をしきりに腿 にこすりつけていた。スアラがもう一度鯨に足を踏み出したときには、息切れは収まっていた。
ただ、どうしようもなく足が震えた。
鯨は車輪付きの台座に載せられていた。ちょうどいいことに、梯子はついたままだった。
「まだ鯨に『鳥』を組み込んではいないよね」
鯨の喉の畝 に右手を添えて、十三歳の未熟な魔女は大人たちを一睨みした。鯨の鼻先に描かれた無口で賢い雀がスアラを見下ろしていた。
「ああ。何をどうしたらいいのかわからなかったんでね」
「よかった。防御システムが組み込んであって、私が決めた手順で起動しないと自爆するようにできてるの」
それも嘘だった。
緊張に満ちた沈黙の中で、スアラはうなだれた。
私を守る人はいない。信用していい人はいない。この大人たちの中に、一人も。
「スアラちゃん、あの」
作業場の向かいに住んでいるあばた面の青年が前に歩み出た。
「君のご両親は……」
「知ってるよ! 聞きたくない」
彼と偽装結婚している女性の革命家が質問を重ねた。
「あの子たちは?」
屋敷の壁際に、チルーとリリスが手をつないで立っていた。リリスのほうが背が低いということに、スアラは初めて気がついた。
「鳥飼い。私が選んだの。こっちに来て!」
二人は手をつないだまま歩いてきた。チルーの態度もまた堂堂としたものだった。
覚悟ができているのだ。
「……鳥を見せてあげて」
そう頼むと、チルーはつないだ手を離し、無言で手袋を外した。屋敷の二階の窓から落ちる淡い光に掌をさらす。
「確かに君は鳥飼いだ」角ばった顔の男がリリスに目を向けた。「君は?」
リリスは鼻で笑った。
「まだ知らなくていいよ」
「その子の正体は隠しておくの!」スアラが鋭い声で割り込んだ。「隠しておくことが鯨を動かす物語 の一部なんだから。二人とも、乗って」
「待って」
梯子に両手をかけたスアラは、青年を振り向いて眉をひそめた。
「なに?」
「公教会の鳥飼いを確保してるんだけど、その鳥じゃ駄目なの?」
「駄目だね」
スアラは嫌悪を込めて吐き捨てた。その鳥飼いがどういう人で、どのように革命家たちの手に落ちたのか、知りたくもなかった。
「用済みだから帰してあげなよ。人質にしても足手まといになるだけでしょ?」
「そういうわけにいかないんだけどなあ」
「あんたの都合なんて知らないよ。私とは何も打ち合わせなかったあんたたちが悪い。とにかく、死にたくなければ私抜きで鯨を動かせるなんて思わないことね」
「スアラちゃん、あのさあ」
スアラはうんざりしながら梯子から手を離した。チルーとリリスに目配せし、鯨を顎で指した。
「先、上がってて。それであなたは何? 話はこれでおしまいにしてほしいんだけど」
「君が作ったそれは、子供が扱うものじゃないんだ」
「くっだらない」
スアラは心の底から吐き捨てた。後ろではリリスが、ついでチルーが梯子を軋ませながら鯨の背中に上っていく。
「あんた、自分の立場がわかってる? 頭も悪い。何の才能もない。あんたにこれを創れるの?」
青年の両側から、真横に立っていた男女がすぐさま彼の腕をとった。
「ふざけんなよ!」彼はスアラに詰め寄ろうとしていた。「こっちは心配してるんだよ! お前のためを思って言ってやってるんだろうが!」
ああ、本当に嘘ばかり。
この青年を蔑んでいないと言ったらそれも嘘。だが、どちらかと言えばどうでもよかった。もしもこの人が、賢くても、正直者だとしても、世界は寒々しいばかり。それもそのはず。今から慣れ親しんだ全てのものと別れなければならないのだ。
スアラは悠然と彼らに背を向けた。
「……持って生まれた才能の差って、残酷よね」
それは自分自身に向けた言葉。もし奏明の異能を持たずに生まれていたら、人生はどう違っていただろう。
梯子を上った。鯨の背にあるトラップドアは既に開け放たれていた。扉を閉めながら乗り込むとき、青い燕の絵の前に座り込むチルーとリリスの姿が淡く見えた。
トラップドアは閉ざされた。
暗闇となった。
何も聞こえない。
スアラは涙を流した。
知ってしまった。知ってしまったのだ。
夕日は薄紫の空からすっかり手を引いていた。あの修道女はすぐにスアラの不在に気付くだろうし、修道院の関係者たちはまずスアラの家から探すはずだ。
わかっていても、スアラはナトリウム灯の表通りを自宅へと疾走した。他にどうしたらいいかわからなかった。
お母さんは荷物のように抱えられて連れ去られた。そこにテレジアがいた。それは自分がテレジアに母を委ねたからだとスアラは理解していた。
道の向かいから自分と同じくらいの少女が歩いてくる。すれ違うとき肩がぶつかった。そのときスアラは、相手が中等学校の同級生だと気がついた。「あっ」、と相手が声を上げたが、立ち止まるわけにはいかなかった。
一緒にいた女性は母親だろう。
息を切らし、よろめきながらスアラは走った。
ああ、どうしてなの? 私を守ってくれる人はどこにいるの? 私を愛するものはいないの?
「スアラ!」
知っている声が叫んだ。仕立て屋の壁に左手をつき、息を弾ませながら立ち止まったスアラはいきなり背後から右手を取られた。誰かが、そのままスアラを追い抜きながら路地へと誘い込む。確かめるまでもなかった。リリスだ。チルーも一緒だった。
二人とも、スアラと同じく息を切らしていた。
守ってくれる大人がいないことも同じだった。
表通りの喧騒も街灯の光も届かない路地で、額の汗を拭いながらリリスが尋ねた。
「逃げてきたの?」
暮れ残る空の下で、肩で息をしながらスアラは頷いた。
「お母さんが――お母さんが――」
「落ち着いて」チルーが背中に手を当てた。「泣かないで。大丈夫だよ」
「何が大丈夫なの!?」
スアラは空き瓶が収められた木箱を蹴飛ばした。
「こっちは母親を収容所送りにされたんだ! 私もう――」
もう、何だ? スアラは自分が言おうとしたことの恐ろしさに絶望し、言葉を失った。
「鯨はどうしたの?」
崩れ落ちそうなスアラの両肩をリリスが掴み、爪を立てた。自失するのを許さない、厳しい口調だった。が、鯨のことを思い出させるのは実際スアラには効いた。スアラは天を仰ぐ。星は見えない。
「どうしたの? 言って」
顔を夜空に向けたまま、スアラは目を
何もかも奪われた。母親も、帰る家も、鯨も。
全て騙し取られたのだ。
「……ううん」
あることを思い出して、スアラは目を開けた。
「作業場の解体工事は始まってる。でも地下に、いざというときに別の家に鯨を運び込む秘密の通路があるんだ」
リリスが肩から手を離し、大きく瞬きをした。
「君は鯨がどっちにあると思う? 作業場? それとも秘密の通路の先?」
「わからない。でも作業場には修道院の人間が張り込んでると思う」
しっかりした声で言って、スアラは右手の人差し指の関節で目尻を拭った。手袋はなく、荒れた手に感覚はなかった。
「行ってみよう」リリスが背中を二回叩いた。「しっかりしてよ」
「私、騙されてた」
「私たちもだよ」
表通りに油断なく目を配りながらリリスが囁いた。
「学園にいれば安全だって私たちは教わった。でもそれは、自由を求めるなら死ねって意味だった」
「あんたたちはどうするつもりなの?」
「やりたいことをやってやるんだ。あいつらがやろうとも思わないことを全部やってやる」
押し黙るチルーは、一日か二日で信じられないほど老け込んだルシーラのことを思い出していた。だからといって、リリスから離れ去ることなどどうしてできようか?
「君もやっちゃおうよ」
チルーは見た。スアラが涙を流しながら唇を釣り上げ、笑うのを。
ある共通の感情ゆえに、二人は心が通じたのだ。
友達になったのだ。
スアラは答えた。
「……あはっ。やっちゃおう」
※
スアラは一番乗りでその家の柵を乗り越えた。もうすっかり夜になっていた。後ろを振り向かずに前庭を突っ切り、ザクロの木と邸宅の間をすり抜けて裏庭に駆け込んだ。
そこに鯨が引き込まれていた。
「待って!」
鯨の周りには、五、六人の大人たちがいた。そのうち二人は作業場の向かいに住んでいた男女だ。すっかり息切れし、ふらつきながら鯨に歩み寄るスアラに、大人たちは態度を決めかねていた。
「……何、その目は」
スアラは
「何、その目は! こっちはあんたたちのために命がけで逃げてきたんだよ!? 何とか言ったらどう!?」
青白く角ばった顔の、痩せた中年男が身じろぎした。グロリアナの革命家の中で結構な地位にあるはずの男だが、スアラは正直興味がなかったのでよくわからなかった。普段から人に興味を抱いておけばよかったと悔いるが、もう遅い。
「スーデルカ、すまない。君がどこに行っていたのかわからなかったんだ」
「わかってたんでしょ、嘘つき。どうせ私があんたたちを裏切って逃げたとでも思ってたんだ」
嘘つきなのは私もだけど。
男は掌をしきりに
ただ、どうしようもなく足が震えた。
鯨は車輪付きの台座に載せられていた。ちょうどいいことに、梯子はついたままだった。
「まだ鯨に『鳥』を組み込んではいないよね」
鯨の喉の
「ああ。何をどうしたらいいのかわからなかったんでね」
「よかった。防御システムが組み込んであって、私が決めた手順で起動しないと自爆するようにできてるの」
それも嘘だった。
緊張に満ちた沈黙の中で、スアラはうなだれた。
私を守る人はいない。信用していい人はいない。この大人たちの中に、一人も。
「スアラちゃん、あの」
作業場の向かいに住んでいるあばた面の青年が前に歩み出た。
「君のご両親は……」
「知ってるよ! 聞きたくない」
彼と偽装結婚している女性の革命家が質問を重ねた。
「あの子たちは?」
屋敷の壁際に、チルーとリリスが手をつないで立っていた。リリスのほうが背が低いということに、スアラは初めて気がついた。
「鳥飼い。私が選んだの。こっちに来て!」
二人は手をつないだまま歩いてきた。チルーの態度もまた堂堂としたものだった。
覚悟ができているのだ。
「……鳥を見せてあげて」
そう頼むと、チルーはつないだ手を離し、無言で手袋を外した。屋敷の二階の窓から落ちる淡い光に掌をさらす。
「確かに君は鳥飼いだ」角ばった顔の男がリリスに目を向けた。「君は?」
リリスは鼻で笑った。
「まだ知らなくていいよ」
「その子の正体は隠しておくの!」スアラが鋭い声で割り込んだ。「隠しておくことが鯨を動かす
「待って」
梯子に両手をかけたスアラは、青年を振り向いて眉をひそめた。
「なに?」
「公教会の鳥飼いを確保してるんだけど、その鳥じゃ駄目なの?」
「駄目だね」
スアラは嫌悪を込めて吐き捨てた。その鳥飼いがどういう人で、どのように革命家たちの手に落ちたのか、知りたくもなかった。
「用済みだから帰してあげなよ。人質にしても足手まといになるだけでしょ?」
「そういうわけにいかないんだけどなあ」
「あんたの都合なんて知らないよ。私とは何も打ち合わせなかったあんたたちが悪い。とにかく、死にたくなければ私抜きで鯨を動かせるなんて思わないことね」
「スアラちゃん、あのさあ」
スアラはうんざりしながら梯子から手を離した。チルーとリリスに目配せし、鯨を顎で指した。
「先、上がってて。それであなたは何? 話はこれでおしまいにしてほしいんだけど」
「君が作ったそれは、子供が扱うものじゃないんだ」
「くっだらない」
スアラは心の底から吐き捨てた。後ろではリリスが、ついでチルーが梯子を軋ませながら鯨の背中に上っていく。
「あんた、自分の立場がわかってる? 頭も悪い。何の才能もない。あんたにこれを創れるの?」
青年の両側から、真横に立っていた男女がすぐさま彼の腕をとった。
「ふざけんなよ!」彼はスアラに詰め寄ろうとしていた。「こっちは心配してるんだよ! お前のためを思って言ってやってるんだろうが!」
ああ、本当に嘘ばかり。
この青年を蔑んでいないと言ったらそれも嘘。だが、どちらかと言えばどうでもよかった。もしもこの人が、賢くても、正直者だとしても、世界は寒々しいばかり。それもそのはず。今から慣れ親しんだ全てのものと別れなければならないのだ。
スアラは悠然と彼らに背を向けた。
「……持って生まれた才能の差って、残酷よね」
それは自分自身に向けた言葉。もし奏明の異能を持たずに生まれていたら、人生はどう違っていただろう。
梯子を上った。鯨の背にあるトラップドアは既に開け放たれていた。扉を閉めながら乗り込むとき、青い燕の絵の前に座り込むチルーとリリスの姿が淡く見えた。
トラップドアは閉ざされた。
暗闇となった。
何も聞こえない。
スアラは涙を流した。