公現より六百年
文字数 2,371文字
1.
背後の気配に凍りついたとき、昼で、リラは三十余名の寮生の腹を満たすシチューを拵 えるべく、納屋に吊るした玉ねぎを下ろすところだった。心に予感が訪れ、リラは踏み台の上で目を瞠 った。踏み台も、彼女の太った体に対して怒ったように軋むのをやめた。
落ちていく感覚――どこへ?
光、そして無音。喜びと悲しみが共にあり、その深みへ、喜びが悲しみに勝 るほうへ、溶けていく感じがした。だが、光は去り、彼女は納屋の踏み台の上に戻ってきた。彼女は寮母だった。寮生たちの夕飯の支度 をしなければならなかった。他に、今日中にしなければならない雑事が百もあった。右手には鋏 、左手には吊るした玉ねぎの、丸くかさかさした感触。足の下では、彼女を頼りなく支える踏み台が、またも苦しげに軋んだ。
彼女は生活を愛していた。忙しい日々に満足していた。ゆえに幻想を振り払い得た。
はずだった。
気配は消えていなかった。
「お義母 さん」
リラはついぞ振り向いた。
高い天井。剥き出しの梁 。
薄暗い納屋。
壁には錆びついた猟銃。黴 びた壁掛け。
ジャガイモが詰まった麻袋。その横の、外の光をもたらす出入り口。
若者の姿が、光を遮っていた。
襟に一本線の入った、白い聖教軍の制服。右手に持った制帽を胸に当てている。若者の目は、背後からさす光にきらめいて見えた。口は微笑んでいるが、頬は涙が伝っていた。
何か言わなければ。感謝か労 いか、別れか? だが考えているうちに、若者の姿は光に溶けて消えた。
そのとき、納戸を出たところでは、学生寮の主人がささやかな菜園の寒起こしをしていた。シャベルを土に突き刺した途端、あたかも土の下にスイッチが仕込んであったかのように、納屋から叫び声が飛び出てきた。慟哭の主は妻で、彼女は玉ねぎが揺れる真下の床に蹲 り、顔を覆っていた。
「あの子が死んだ!」
夫に問われるより早く、リラは訴えた。
「ああ、あんた、あの子が死んじまったんだよぉ!」
彼女の夫は気質の優しい男だが、いささか理解が鈍く、共感に欠けるところがあった。彼は戸口に立ったまま、配達夫は来ていないはずだが、と考えた。
「訃報が届いたのか?」
「あの子が」と、ちょうど今し方夫が立っている場所をリラは指さした。「来て教えてくれたんだよ」
主人は立ち尽くしていた。膝から震えが来た。震えを隠すために、
「馬鹿なことを言うな」
と吐き捨てると、菜園に戻って行った。
リラは街にさまよい出た。慟哭が肥えた体に先立ち、後には涙滴 が残った。
右には高い壁。左側にも壁。壁の下にはくすんだ色合いの家屋が軒を並べている。
小さな広場に出た。広場を囲むものも壁。この都市は迷宮で、灰色の壁が空も人の暮らしも隔て、切り裂いていた。
高い建物からは、少しだけ壁越しに市街を見通せた。学園の窓際の席の少女の目に、泣きながら広場の噴水を通り過ぎる寮母の姿が映った。五限で、歴史の授業だった。
学園の教えによれば、宗教と聖職者制度の革新が起きる前、まだ王国が『呪 つ炉の天領地』と呼ばれていた頃、この国も、大陸も、まだ迷宮ではなかった。
※
「ミシマさん」
女の声に刺され、チルー・ミシマは体を震わせた。意識が窓の向こうの景色から戻ってくる。後悔しても遅かった。教室中の視線が、一番後ろの窓際の席に集中していた。そこは、成績最下位の生徒の席だった。
「私は五限の間、一時間かけて旧世界と現代の世界の主 だった違いについて教えてきたわけですが――」
わざと音を立てて、教師はチョークを置いた。
「六百年前、公現された聖四位一体 の主 によって世界が根本的に変革される直前にあったことを示す予兆とは何ですか?」
お調子者のイースラが斜め前の席から振り向いて、口を動かして答えを教えていた。そんなことをされなくても、チルーは答えをわかっていた。
言葉つかいの出現です。
心の中で呟く。問題があった。答えが口から出ないことだ。
今は教室中が静まり返っていた。緊張しているのが自分なのか、他の生徒たちなのかわからない。喉も唇も凍りついたまま、頭の中に白く霧がかかっていく。
その霧の中に、見えるはずのない光景が見えた。教室の一番後ろの窓際の席でうなだれる、自分の姿が。
時計台が鐘を鳴らした。霧が晴れ、チルーは目をしばたたく。目に見えるのは広げられたノートだけだった。
「こんなのは十五階梯生の子たちでも簡単に答えられる問題なのですが……」
授業が終わり、隣の教室から廊下に人が出てくる気配。
「ミシマさん。あなたは半年その席で頑張っていましたが、どうやら階梯落ちもいよいよ時間の問題のようですね」
チルーにわかるのは、もう答えなくてもいいということだけだった。
喉で血が脈打っていた。その不快な感覚を味わいながら女教師の退出を見届けると、チルーは長い息をつきながら、体の力を抜いた。
教室内で、周囲の座席の生徒たちが椅子を立つ。チルーは空を見上げた。広場に寮母の姿は見えなくなっていた。
木枯らしの吹きすさぶ中を、白い祭服 姿の司祭が一人歩いていく。その背には聖四位一体紋が金糸で刺繍され、日差しを受けてきらめいていた。
遥かな過去、全能の神は被造物である地球人を救うために、自らの息子をお与えになったという。
そして、地球人たちがその被造物である言語生命体を虐げると、神は言語生命体たちに、娘をお与えになった。
その娘こそ救い主、迷宮を生み出す『壁の聖女』であるのだと、教えられていた。
背後の気配に凍りついたとき、昼で、リラは三十余名の寮生の腹を満たすシチューを
落ちていく感覚――どこへ?
光、そして無音。喜びと悲しみが共にあり、その深みへ、喜びが悲しみに
彼女は生活を愛していた。忙しい日々に満足していた。ゆえに幻想を振り払い得た。
はずだった。
気配は消えていなかった。
「お
リラはついぞ振り向いた。
高い天井。剥き出しの
薄暗い納屋。
壁には錆びついた猟銃。
ジャガイモが詰まった麻袋。その横の、外の光をもたらす出入り口。
若者の姿が、光を遮っていた。
襟に一本線の入った、白い聖教軍の制服。右手に持った制帽を胸に当てている。若者の目は、背後からさす光にきらめいて見えた。口は微笑んでいるが、頬は涙が伝っていた。
何か言わなければ。感謝か
そのとき、納戸を出たところでは、学生寮の主人がささやかな菜園の寒起こしをしていた。シャベルを土に突き刺した途端、あたかも土の下にスイッチが仕込んであったかのように、納屋から叫び声が飛び出てきた。慟哭の主は妻で、彼女は玉ねぎが揺れる真下の床に
「あの子が死んだ!」
夫に問われるより早く、リラは訴えた。
「ああ、あんた、あの子が死んじまったんだよぉ!」
彼女の夫は気質の優しい男だが、いささか理解が鈍く、共感に欠けるところがあった。彼は戸口に立ったまま、配達夫は来ていないはずだが、と考えた。
「訃報が届いたのか?」
「あの子が」と、ちょうど今し方夫が立っている場所をリラは指さした。「来て教えてくれたんだよ」
主人は立ち尽くしていた。膝から震えが来た。震えを隠すために、
「馬鹿なことを言うな」
と吐き捨てると、菜園に戻って行った。
リラは街にさまよい出た。慟哭が肥えた体に先立ち、後には
右には高い壁。左側にも壁。壁の下にはくすんだ色合いの家屋が軒を並べている。
小さな広場に出た。広場を囲むものも壁。この都市は迷宮で、灰色の壁が空も人の暮らしも隔て、切り裂いていた。
高い建物からは、少しだけ壁越しに市街を見通せた。学園の窓際の席の少女の目に、泣きながら広場の噴水を通り過ぎる寮母の姿が映った。五限で、歴史の授業だった。
学園の教えによれば、宗教と聖職者制度の革新が起きる前、まだ王国が『
※
「ミシマさん」
女の声に刺され、チルー・ミシマは体を震わせた。意識が窓の向こうの景色から戻ってくる。後悔しても遅かった。教室中の視線が、一番後ろの窓際の席に集中していた。そこは、成績最下位の生徒の席だった。
「私は五限の間、一時間かけて旧世界と現代の世界の
わざと音を立てて、教師はチョークを置いた。
「六百年前、公現された聖
お調子者のイースラが斜め前の席から振り向いて、口を動かして答えを教えていた。そんなことをされなくても、チルーは答えをわかっていた。
言葉つかいの出現です。
心の中で呟く。問題があった。答えが口から出ないことだ。
今は教室中が静まり返っていた。緊張しているのが自分なのか、他の生徒たちなのかわからない。喉も唇も凍りついたまま、頭の中に白く霧がかかっていく。
その霧の中に、見えるはずのない光景が見えた。教室の一番後ろの窓際の席でうなだれる、自分の姿が。
時計台が鐘を鳴らした。霧が晴れ、チルーは目をしばたたく。目に見えるのは広げられたノートだけだった。
「こんなのは十五階梯生の子たちでも簡単に答えられる問題なのですが……」
授業が終わり、隣の教室から廊下に人が出てくる気配。
「ミシマさん。あなたは半年その席で頑張っていましたが、どうやら階梯落ちもいよいよ時間の問題のようですね」
チルーにわかるのは、もう答えなくてもいいということだけだった。
喉で血が脈打っていた。その不快な感覚を味わいながら女教師の退出を見届けると、チルーは長い息をつきながら、体の力を抜いた。
教室内で、周囲の座席の生徒たちが椅子を立つ。チルーは空を見上げた。広場に寮母の姿は見えなくなっていた。
木枯らしの吹きすさぶ中を、白い
遥かな過去、全能の神は被造物である地球人を救うために、自らの息子をお与えになったという。
そして、地球人たちがその被造物である言語生命体を虐げると、神は言語生命体たちに、娘をお与えになった。
その娘こそ救い主、迷宮を生み出す『壁の聖女』であるのだと、教えられていた。