老司教

文字数 3,752文字

 2.

 雪がやんだ。灰が降り始めた。白く積もる。灰よ。
 朝課(ちょうか)の時間にアズとセフと犬は南ルナリア大聖堂に帰着した。目配せしながら先へ急ぐアズの爪先に、灰が降り積もる。朝方の灰よ。
 教会には市民が集まりつつあった。扉が開放され、前庭にも三、四人ずつの集まりが散見される。天使と呼ばれる殺戮者は神父と肩を並べ、聖堂の裏手に建つ司祭館に回った。
 神父たちの住居である司祭館は、ステンドグラスの細い飾り窓を持つほかは、普通の民家と変わらない、むしろ見すぼらしい佇まいの家だった。
 戸口に、女が立っていた。
「ミズゥ」
 セフが呼びかけると、黒いリボンで銀髪を束ねた女は顔を上げた。
 まだ少女のあどけなさが残る若さだった。
「私の力が必要ですか、セフ神父」
 憂慮がしみついた青白い頬。水色の虹彩を収めた大きな目。どちらかといえば丸い鼻。愛らしい顔立ちだが、近寄りがたい影がある。
 セフはいつもの通り、余計なことを一切口にせず答えた。
「今はまだ」
「そうですか。して、そちらの方が?」
「そうだ」
 ミズゥの物悲しい視線がアズに向けられた。黒いドレスを剥き出しの両手でつまみ、片足を引いて礼をする。
「南ルナリア大聖堂に属する『夢見(ゆめみ)』です。私のことは、ただミズゥとお呼びください」
「ミズゥ、教会の被害は」
「人も物も、損害は確認できておりません」
「では中に入らせてもらう。続きは夕刻に」
 ミズゥが戸口をどく。アズもまた礼を返し、一言だけ添えた。
「いずれ改めて」
 壁一面に枯れた(つた)がしがみつく司祭館の扉を開くと、狭いエントランスにはバターとコンソメの匂いが漂っていた。朝課を終えた司祭たちが朝食をとっているのだろう。
 セフは食堂には向かわなかった。狼犬を扉の内側に待機させ、狭いエントランスの左奥、上階と下階に向かう幅の狭い階段に大股で歩いていき、迷わず地下に降りていった。
 地下は、外の光と音から全く遮断された世界だった。セフとアズが並んで立つこともできないほど狭い廊下に、切れかけた白熱電球が点滅している。光の刺激に目を細めながら伺うと、ずっと奥のほうに開け放しの扉が見えた。
 近付けば、扉の奥の闇にともされた二本の蝋燭の火が見えるようになった。礼拝室だ。
 そこに、膝行(しっこう)する老人がいた。
 戸口に佇むアズ達の気配には気づいているはずだ。綿毛のような白髪が後頭部に僅かに残る老人は、身廊の床に口づけんばかりに深く屈み、祈ると、膝立ちでまた一歩、祭壇へとにじり寄る。
 セフが声をかけた。
「司教」
 アズは少なからず驚いた。私服の老司教は、顔を上げ、振り返り、廊下の裸電球で逆光になったセフとアズの顔、それが電球の明滅に合わせて闇になったり影になったりする様子に目を細めた。その白目は黄ばみ、充血していたが、ついたり消えたりする電球が照らし出す瞳にはしっかりと知性が宿っていた。それにしても、ここはひどく寒かった。
 司教は心配になるほどゆっくり立ち上がり、痛そうに膝を伸ばした。それから、震える声で語りかけてきた。
「ああ。よく、無事のお戻りで」
「遠征の成果について、急ぎご報告を」
「食事は、済まされましたか?」
 セフは首を横に振り、次々と気の滅入る報告をした。つまり、人質にとられた『聖母の涙修道会』の事務員を保護できなかったこと、聖骸も取り戻せなかったこと、兵と士官学生は全滅したこと、鯨のこと。
 最後に、ローザを射殺したこと。
 アズが口を挟む余地はなかった。
 南ルナリア司教は穏やかな人物だった。この惨憺たる結果にも眉ひとつ(ひそ)めはせず、ただセフと、後ろのアズに思慮深い眼差しを向けて聞いていた。
「奴らが南ルナリアを攻撃したのは、町を離れた公教会の『天使』を伽藍(がらん)で葬り去れると思ったからでしょう、司教」
 セフの話が切れると、司教は灰色に()せた目から注がれる視線をセフからそらすことなく、後ずさり、礼拝室のベンチに腰をかけた。ただそれだけの動作で、ひどく大儀そうな息をついた。だが声は明瞭だった。
「セフ神父、抵抗教会の革命家たちが南ルナリアを攻撃する意味は何だと思いますか?」
「国を超えた広がりを見せる抵抗教会に内側から食い荒らされているのは、敵国トレブにおいても同じです。トレブ共和国は内情を隠そうとはしているものの、その勢力がレライヤとの国境付近に差し迫っていることは周知の事実。レライヤとトレブの国境に近い南ルナリアが抵抗教会の手に落ちたということは、途中のグロリアナないし北ルナリアを飲み込みながら両国の革命勢力が合流しようとしているのでしょう。
 レライヤ陸軍もトレブ陸軍も相互を相手にした戦いで疲弊しきっていますが、聖教軍の主力部隊が南ルナリア救援に間に合う見込みはありますかな?」
 司教は浅く頷き、それから少し間を置いて、考え直したように首を横に振った。
「間に合っても間に合わなくても、両ルナリア大司教は避難令をお出しにはなりません」
 セフが息を詰めるのを、アズは彼の背から読み取った。
「どういうことか、詳しくお聞かせいただけますか?」
「大司教はお逃げになりません。抵抗教会勢力との対話。それこそが猊下(げいか)のお望みです」
 黙り込むセフに、こう付け加えた。
「両ルナリア大司教は、我ら司祭と司教に殉死の覚悟をお求めなのです」
「私は戦場にて既に死んだ身。今更決める覚悟もございません。エンリアは何も言ってきてはいませんか」
 階段を降りてくる足音が会話を遮った。神経質そうな早歩きの音がやってくる。振り向くと、スーツ姿の細身の男が電球に浮かび上がった。電球が消え、男の姿が消えた。もう一度明かりがついたとき、男は廊下の真ん中、電球の真下にいた。量の少ない黒髪を油でぴったり撫でつけている。丸眼鏡が白色光を反射した。聖職者には見えない。アズはその客のために、礼拝室の戸口から奥へと引っ込んだ。
 スーツの中年男は、礼拝室に一歩入ったところでぴたりと立ち止まり、両眉を整った下向きの弧にして固い笑みを作った。
「おはようございます、司教様。ガイエンの天使が町に戻っているはずですが」
「私です」
 アズが自ら答えると、男はすぐに、見る人を困惑させる笑みを作り直した。
「これはこれは。お会いできて光栄です」
「どちら様ですか?」
「私、北ルナリアからやって参りました検邪聖省のセトラルと申す者です。どうぞよろしく」
 役人の男は握手をしようと手を出した。つられて右手を上げかけたアズだが、すぐに動きを止めた。
「検邪聖省?」
 差し出された手を見つめ、それから役人の顔を見つめた。視線に込めた警戒を無視し、役人は笑い続けた。
「ええ、是非ともあなたにお会いしたく参ったのですが、すぐあの乱痴気(らんちき)騒ぎでして」
「乱痴気騒ぎって」アズは疲労を隠しもせず、目に怒りを込めた。「私もセフ神父も、夜が明けるまで戦っておりました。そんな言いかた……」
「失礼」
 検邪聖省は、台頭する抵抗教会勢力に対抗すべく二十年ほど前に新設された聖省だ。そこで行われる諸々の検閲や審問は、聖職者や言葉つかいまでもが対象となる。天使の称号を拝した者とて例外ではない。
「いかにも民衆を守って戦うことは、あなた方公教会の天使の大切な務め」
「でもそれは、堕落した同胞を討つことと同義でもある。何について聞きにいらしたのですか、セトラルさん。あるいは、誰のことについて?」
「あなたがエヴァリアでお会いになった人物のことです。特に、フクシャの転乱の天使ルー・シャンシアについて。彼はどこに?」
「フクシャ大司教が知っております」
「あなたは聖教軍に恐れられた星獣を討ち取られたそうですね」
 アズの冷たい物言いにも動じることなくセトラルは続けた。
「お怪我はございませんか?」
 口を開いたアズの脳裏を、一瞬、山中の修道士の顔がよぎった。
 慎重な口ぶりになる。
「ええ、全く」
「役人よ、無駄話はそこまでだ」
 セフが(けん)のある言いかたで割り込んだ。セトラルはもう一度両眉を上げながら、口角までをも全く左右対称に吊り上げた。顎の皮がその下の骨にぴったり貼りつくのが見て取れた。
「無駄話?」
「その男に話せることは全てガイエン大司教が知っているし、私が話せることは全て司教が知っている。我々は同じ話を二度できるほど暇ではない。帰れ」
「大変失礼ですが――」
「司教、ラティア殿に替えの服を」
 司教はセフに頷いた。
「寄付品を使うといいでしょう。倉庫に案内してあげなさい」
「はっ。それでは」
 セフは先に立って礼拝室を出、当然、アズも従った。
 廊下を渡り、司祭館の玄関に戻ると、狼犬が主人の顔を見て立ち上がった。
「セフ神父。お気遣いに感謝します」
 セフは顔を背け、手をひらひら振りながら反対の手をドアノブにかけた。
「こっちだ」
「神父」
 そのドアノブを、セフの生ぬるい手の上から押さえ込む。
 囁くようにアズは尋ねた。
「エンリアとは誰ですか」
 セフの目が扉のステンドグラスの飾り窓に動き、次に廊下に動いた。人の気配がないのを確かめて、アズと同じように密やかに答えた。
「さる修道会の間諜だ。グロリアナと両ルナリア一円は山地も含めて奴の庭だ」
「では――」
「おかしな飛翔体があれば奴が気付くかもしれん。こっちだ」
 扉が開かれた。
 灰と雪、両方が降っていた。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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