包囲
文字数 2,087文字
3.
目覚めたとき、スアラは警察署内の板張りの廊下の長椅子で、自分のコートを体にかけ、腕を枕にして横になっていた。すぐ目の前を警官たちが行き交っている。ちょうど夜勤と日勤の交代の時間で、晴れ晴れした顔でのんびり玄関口に向かう私服の警官と、引き締まった顔で自分の仕事部屋に向かう制服姿の警官とがいた。電話がひっきりなしに鳴り、スアラを気にする者はいない。家出少女など珍しくもないのだろう。
「起きたかな?」
爽やかかつ控えめな声に呼びかけられ、スアラは髪を手で整えながら足のほうを見た。私服姿の昨夜の警官が立っていた。
だが、一緒にいる修道女は昨夜と同じではなかった。
「保護者が迎えに来たよ。よかったね」
「保護者?」
そこにいるのは、どこからどう見ても修道院長。
マザー・テレジアだった。
それじゃあ、と言って、警官は爽やかな朝陽が差し込む玄関口へ去っていった。ニコニコしていて幸せそうだった。家に妻がいるのかもしれない。テレジアは微笑んでいるが、微笑みの意味はわからなかった。
スアラは寝起きで機嫌の悪いまま体を起こし、靴に足を突っ込んだ。コートに腕を通す。
「あなたは有名な人ですが、親以外に私を引き渡していいんですか?」
「おはようの挨拶をしてくれてもいいのですよ、セリスさん。今日からしばらくの間、私があなたの親代わりです」
もう少しで右の手首から先がコートの袖から出る、というところで動きを止めた。そのスアラの前に来て、屈み込み、テレジアは下からスアラの顔を見上げた。
「おめでとうございます。あなたには公教会の推進する未成年者保護更生プログラムが適用されることになりました」
「そんな籤 に当たったみたいに言われても困るんですけど」
面倒なことになった。だが、あの家に帰らなくてもいい、ということくらいは眠くても理解できた。
「……でも、あなたは救貧の聖女なんでしょう? 家がある私なんかに構ってていいの?」
「貧しい、という言葉は、単にお金がないことだけを指す言葉ではありません。あなたには夜中に家にいられない事情がある。そうですね?」
そうですが、と言いそうになったスアラは、急に恐ろしくなって背中を壁に押し付けた。
「どうして私の名前を知っているんですか?」
「あら。セリスさんも私を知っていたでしょう?」
「それはあなたが有名人だから――」
眼前を行き交う警官たちは、一人としてスアラたちに注意を払わない。
「行きましょう。大丈夫」
膝の上に置いた手に、テレジアの手が重ねられた。
「恐いところではありませんよ」
※
何を言っているかはわからないが、レースのカーテンの向こうでレティ・セリスが取り乱していた。左手に受話器を握りしめ、しきりに頭を振りながら長髪を振り乱している。
それを見たリリスの感想はこうだった。
「へぇー、革命家って個人の家に電話があるんだ。お金持ちぃ」
「リリス、私たち目立ってるんじゃない?」
「おっと」
路地で立ち止まってスアラの家の様子を覗き込んでいたリリスは、チルーの言葉におどけて窓から離れた。
「危ない危ない。私たち捕まっちゃうとこだったよ」
「笑ってる場合じゃないよ。でも、スアラちゃん、どうして捕まったんだろう」
「それはスアラがどういう口実で捕まったかって意味? それともどうしてスアラが出歩いてる先に都合よく警官がいたのかって意味?」
「両方かな」
二人はグロリアナの住宅地と工業地区を隔てる川に出た。階段から岸に降り、チェストや割れたガラスが投棄された橋の下に身を隠す。臭くて冷たい水の上を風が吹きすさび、チルーは汚れたままのコートの中で身を縮こませた。
「それもだけど、どうして私らが救貧の聖女に見つかったかが問題だね」
「ああ」と、チルーは思い出した。「そういえばそうだったね」
「君って危機感あるのかないのかどっち?」
「ごめんね。スアラちゃんのことで頭がいっぱいで」
「優しすぎるよ、君は」
そういうリリスの声もまた優しかった。チルーは不意に泣きたくなった。そのリリスの優しさが本物で、だから自分はリリスが好きなのだと理解したからだ。しかも、このままでいれば確実に、自分はリリスを、リリスは自分を失うことになる。
「あのオバサンが怪しい」
腕組みしてリリスが唸った。
「どのおばさん?」
「ルシーラだよ。私たちと聖女と、両方と接点のある人間はあの人しかいなくない?」
「中等学校のシスターとエンリアさんは? あの二人だったら同じ修道者なんだし、そっちのほうがありそうかも」
リリスは頷くが、明らかに心ここにあらずの様子だった。が、決心した様子で腕組みを解いた。
「仕方ないや」
「どうするの?」
「まずはあの子の作業場を自分たちで特定しよう。他のことは、それから考えよう」
少し離れたところで、靴底が砂をこする音がした。
二人は同時に、音がしたほうへ顔を向けた。
男が一人、歩道につながる階段を駆け上っていった。
チルーもリリスも口には出さない。だがわかっていた。これはまずい。
「私たち、憎まれてるかもね」
つまり、もうこれ以上グロリアナにはいられないという意味だ。
目覚めたとき、スアラは警察署内の板張りの廊下の長椅子で、自分のコートを体にかけ、腕を枕にして横になっていた。すぐ目の前を警官たちが行き交っている。ちょうど夜勤と日勤の交代の時間で、晴れ晴れした顔でのんびり玄関口に向かう私服の警官と、引き締まった顔で自分の仕事部屋に向かう制服姿の警官とがいた。電話がひっきりなしに鳴り、スアラを気にする者はいない。家出少女など珍しくもないのだろう。
「起きたかな?」
爽やかかつ控えめな声に呼びかけられ、スアラは髪を手で整えながら足のほうを見た。私服姿の昨夜の警官が立っていた。
だが、一緒にいる修道女は昨夜と同じではなかった。
「保護者が迎えに来たよ。よかったね」
「保護者?」
そこにいるのは、どこからどう見ても修道院長。
マザー・テレジアだった。
それじゃあ、と言って、警官は爽やかな朝陽が差し込む玄関口へ去っていった。ニコニコしていて幸せそうだった。家に妻がいるのかもしれない。テレジアは微笑んでいるが、微笑みの意味はわからなかった。
スアラは寝起きで機嫌の悪いまま体を起こし、靴に足を突っ込んだ。コートに腕を通す。
「あなたは有名な人ですが、親以外に私を引き渡していいんですか?」
「おはようの挨拶をしてくれてもいいのですよ、セリスさん。今日からしばらくの間、私があなたの親代わりです」
もう少しで右の手首から先がコートの袖から出る、というところで動きを止めた。そのスアラの前に来て、屈み込み、テレジアは下からスアラの顔を見上げた。
「おめでとうございます。あなたには公教会の推進する未成年者保護更生プログラムが適用されることになりました」
「そんな
面倒なことになった。だが、あの家に帰らなくてもいい、ということくらいは眠くても理解できた。
「……でも、あなたは救貧の聖女なんでしょう? 家がある私なんかに構ってていいの?」
「貧しい、という言葉は、単にお金がないことだけを指す言葉ではありません。あなたには夜中に家にいられない事情がある。そうですね?」
そうですが、と言いそうになったスアラは、急に恐ろしくなって背中を壁に押し付けた。
「どうして私の名前を知っているんですか?」
「あら。セリスさんも私を知っていたでしょう?」
「それはあなたが有名人だから――」
眼前を行き交う警官たちは、一人としてスアラたちに注意を払わない。
「行きましょう。大丈夫」
膝の上に置いた手に、テレジアの手が重ねられた。
「恐いところではありませんよ」
※
何を言っているかはわからないが、レースのカーテンの向こうでレティ・セリスが取り乱していた。左手に受話器を握りしめ、しきりに頭を振りながら長髪を振り乱している。
それを見たリリスの感想はこうだった。
「へぇー、革命家って個人の家に電話があるんだ。お金持ちぃ」
「リリス、私たち目立ってるんじゃない?」
「おっと」
路地で立ち止まってスアラの家の様子を覗き込んでいたリリスは、チルーの言葉におどけて窓から離れた。
「危ない危ない。私たち捕まっちゃうとこだったよ」
「笑ってる場合じゃないよ。でも、スアラちゃん、どうして捕まったんだろう」
「それはスアラがどういう口実で捕まったかって意味? それともどうしてスアラが出歩いてる先に都合よく警官がいたのかって意味?」
「両方かな」
二人はグロリアナの住宅地と工業地区を隔てる川に出た。階段から岸に降り、チェストや割れたガラスが投棄された橋の下に身を隠す。臭くて冷たい水の上を風が吹きすさび、チルーは汚れたままのコートの中で身を縮こませた。
「それもだけど、どうして私らが救貧の聖女に見つかったかが問題だね」
「ああ」と、チルーは思い出した。「そういえばそうだったね」
「君って危機感あるのかないのかどっち?」
「ごめんね。スアラちゃんのことで頭がいっぱいで」
「優しすぎるよ、君は」
そういうリリスの声もまた優しかった。チルーは不意に泣きたくなった。そのリリスの優しさが本物で、だから自分はリリスが好きなのだと理解したからだ。しかも、このままでいれば確実に、自分はリリスを、リリスは自分を失うことになる。
「あのオバサンが怪しい」
腕組みしてリリスが唸った。
「どのおばさん?」
「ルシーラだよ。私たちと聖女と、両方と接点のある人間はあの人しかいなくない?」
「中等学校のシスターとエンリアさんは? あの二人だったら同じ修道者なんだし、そっちのほうがありそうかも」
リリスは頷くが、明らかに心ここにあらずの様子だった。が、決心した様子で腕組みを解いた。
「仕方ないや」
「どうするの?」
「まずはあの子の作業場を自分たちで特定しよう。他のことは、それから考えよう」
少し離れたところで、靴底が砂をこする音がした。
二人は同時に、音がしたほうへ顔を向けた。
男が一人、歩道につながる階段を駆け上っていった。
チルーもリリスも口には出さない。だがわかっていた。これはまずい。
「私たち、憎まれてるかもね」
つまり、もうこれ以上グロリアナにはいられないという意味だ。