でっち上げ
文字数 4,158文字
4.
「賭けてもいい。あの子、父親とは絶対話さない」
隣を歩くリリスが自信たっぷりに言い放つ。
「チルーはどう? 話すって賭ける?」
「わからない。でもこんなやり方はズルだよ」
「ズルくてもズルくなくても、君の鳥が賭かってるんだよ? あの子を信用できるか試すぐらい当たり前だと思うけど」
「そりゃあ」チルーは反論しつつ口ごもった。「私だって、鳥は大事だけど……」
「じゃあ決まりだね」
「何が決まりなの?」
「あの子が父親と話せなくて、『約束を守れなかった』って謝るなら許す。でも私たちを騙そうとして話をでっち上げたら許さない」
既に昼近くなり、街路に落ちる迷宮の影も短くなっていた。ぽかぽかと温かい冬の陽だまりに出て、チルーは目を細めた。
「許さないって、どうするの?」
光の中、リリスは白い歯を見せてニヤリとし、水平にした手を自分の喉に当て、掻き切る真似をした。
「リリス、それ、冗談でも駄目!」
冗談だと信じたかった。
そのときルシーラは、無駄に広い自宅の客間で頬杖をついて過ごし、この家と将来について思いを巡らせていた。
彼女は打ちひしがれていたが、呆然としているわけにはいかなかった。孤独なのだから。かろうじて慰安の仕事をしていたが、あんな事件があってしまっては今の仕事場にももういられない。
ひとまず現金が必要だ。積み立てた長男の学費が僅かにあるが、無収入では三月 ともたない。それに、その金は次男のアルカに使いたかった。今まで好きにさせてきたけど、これからはあの子にしっかりしてもらわないと。
マルカは?
そこで思考を停止した。
気立てのいい子になってもらいたい。でも、どうしたら?
いい母親になりたいと思っていた。幼い長女の反抗的な沈黙と猜疑心に満ちた目に晒されると、毎日、どうしてもイライラしてしまうけれど。
きっとあの子は私から離れていくとルシーラは予感していた。ルシーラ自身が母親を離れ、もう何年も連絡を取りあっていないのだから。
あの子を愛していないわけじゃない。ううん、愛してる。私は私のお母さんとは違うの。
痛む頭でそう思うようにした。
私はあの子たちを愛してる。いつかはその恩をわかってくれるはず。
それより何より、今は金だ。
ルシーラは姿勢を変えた。何気なく窓の外を見た。
すると、街路を金が歩いてきた。
※
「でも、そしたらスアラと約束する必要すらなかったじゃない。スアラのお父さんから話を聞いたらここから出ていけばいいよ。あの子を試す必要なんてない」
食い下がるチルーにリリスは周囲を警戒しながら答えた。
「あの子、空を飛ぶものを作ってるって言ってたね」
チルーの心臓が、きゅっ、と縮む。喉が違和感を訴えた。リリスの目の光が鋭くなった。その目はチルーではなく、チルーの後ろの民家を突き刺した。
扉が開き、戸口にルシーラが現れた。
髪は梳 かれておらず、つけっぱなしのネックレスは位置がずれてルビーが首の右下にへばりついている。服は皺がよっており、口は半開き。土気色の顔をし、目は虚ろで、ほとんど老婆のようだった。
「こんにちは!」
リリスが片手を上げて挨拶した。知らぬ存ぜぬで押し通すのだ。ルシーラは心あらずの笑みを見せた。
「こんにちは。あなたたち、どこにいくの?」
「親戚に頼まれて、おつかいです」
「あら、偉いわね」ルシーラは意味もなく顎の下をさすった。「親戚の方はこの近くに住んでらっしゃるの?」
「はい」
そう、と頷きながら、顎の下から手を離す。その手は最後まで下りることなく、喉と胸の中間にとどまった。
「気をつけてね」
手を振って、ルシーラは二人を見送った。家の中に戻り、もう一度戸口に出たときには、コートを着込んでいた。ハンドバッグの肩紐をしっかり握りしめながら、ルシーラはテレジアの救貧院へ早足で向かって行った。
※
「ここだね」
後をつけて突き止めたスアラ・セリスの家にリリスはたどり着いた。チルーはまだ迷っていた。
「本当にやるの?」
リリスは頷きもせず、ただ、家の正面玄関に建って二階部分を見上げていた。瀟酒 でこぎれいな家だ。暮らしに困っていそうな感じはない。
にも関わらず、荒 んだ空気を纏っている。
何故そう感じるのか、チルー自身にもわからなかった。
「あの子を信用できないからって、私たちのほうからでっち上げを仕掛けるなんて」
リリスはノッカーに伸ばす手を止めなかった。
「もう一度言うけど、君の鳥が賭かってるんだよ?」
「そんなの、あの子の鯨を狙わなければ関係ない話だよ」
「ふぅん」と、唇を片方だけ吊り上げて、見下すような笑みを浮かべる。「君はそう思うんだ」
チルーはリリスが大好きだが、こういうところは嫌いだった。
扉が叩かれた。
「いるかな」
チルーは、尋ねながらも心の中ではこう言った。いないといいな。
すぐには誰も出てこない。リリスの自信は揺るがない。
「いるね。スアラが父親を嫌っていて、しかも家に帰りたがらないんだったら、父親が家にいる時間が長いんだ。在宅の仕事だよ」
都合の良い考えだと思うチルーは、誰にも家から出てきてほしくなかった。だが、鍵が回る音がして、玄関が開かれた。
中年の男が出てきた。中肉中背、縮毛 の、インクが染みたシャツを着た、どこにでもいそうな男だった。腹が少し出ている。リリスの言うとおり、在宅の仕事で運動不足なのかもしれない。
聞かれる前に、リリスが最大のぶりっこの笑顔で挨拶した。
「初めまして。私はリリス・ヨリスと申します。この子は親戚のチルー。セリスさんのお宅でよろしいでしょうか」
普段より高い声。リリスはいつも大人に気に入られる方法を知っている。
「ヨリス?」
男はとぼけたような口調だが、目つきが警戒心で尖るのをチルーは見逃さなかった。
「セリスというのはうちで合ってるけど、君たち、どうしたのかな?」
「事前の連絡もなしに訪問してごめんなさい……あ、いえ、申し訳ございません……。
実は先月、ずっと行方がわからない父からの手紙が家に届いたんです。紛失事故で、十年くらい郵便局で忘れられていたみたいで、その手紙にセリスさんのことが書いてあったんです」
とどめを刺すように、リリスは上目遣いで男に尋ねた。
「ええっと……タリム・セリスさん、でよろしいですよね? あの、ご迷惑でしたら日を改めて……」
男がみるみる笑顔になっていった。戸惑うほどに優しげで、親切そうな笑顔だった。
「ああ、思い出したよ。ヨリスさんという男性なら確かに覚えがある。驚いた。君はその娘さんか」
朗らかに笑い、男はリリスたちを招き入れるために戸口からどいた。
「いかにも私がタリム・セリスだよ。よく来たね。迷惑なんてとんでもない。
入っておいで。妻が出かけている間、是非お話を聞かせてほしいんだ」
怒鳴られたり嫌がられるのではないかと身構えていたチルーは、呆気に取られながらリリスに続いてセリス家に上がり込んだ。
「ちょうど通いの家政婦が帰ったところでね。クッキーと牛乳を買ってきてもらったんだ。牛乳は好きかい?」
「大好きです!」
チルーはどうしても溌剌 と振る舞うことができなかった。ぎこちなく礼を述べながら、肌の感覚を研ぎ澄ませた。家政婦が来ているというだけあって、掃除は行き届いている。
だが、廊下の空気の刺すような冷たさと暗さはなんだろう?
採光のいいダイニングに入ると、どういうわけだか、むしろ暗さが増して感じられた。
「そこのテーブルで待っててごらん」
タリム・セリスはキッチンへと一度姿を消した。声だけ聞こえた。
「ところで君たち、年はいくつだい?」
「私たち、二人とも十四歳です」
「へえ。じゃあうちの娘の一個上か」
いけしゃあしゃあとリリスが尋ねた。
「娘さんがいらっしゃるんですね」
「ああ。それがもう、反抗期で困ったもんだよ。『お父さんは部屋に入ってこないで!』とか『一緒にご飯を食べたくない!』とか」
牛乳を注いだ二つのコップを持ってきて、タリムはさも気にしていないというふうに笑った。
「いやあ、お父さんさすがに傷つくよ。おっと、クッキーはどこだったかな」
後ろ姿が再びキッチンに消えてから、チルーはリリスに囁いた。
「いい人そうで良かったね」
「どうだろう。あの人とスアラ、おかしいのはどっちだと思う? チルー」
タリムに聞こえないように、チルーはリリスの耳に手を添えて答える。
「スアラちゃんのほうかな」
同じように、リリスも内緒話を囁いた。
「スアラがおかしいのは同感だけど、そしたら今度はおかしくなった原因は何だって話じゃん?」
足音を聞いて、二人は話すのをやめた。クッキーを盛り付けた皿を手に、タリムが戻ってきた。
「ヨリスさん、君のお父さんのことならよく覚えているよ」
「父は私の物心つく前に行方がわからなくなりました」
リリスは手振りを交えて堂堂と話した。
「覚えている範囲で結構です。父がセリスさんのお宅を訪れた年と、そのときの様子をお聞かせ願えますでしょうか」
「構わないけど、君のお父さんの手紙に私たち一家のことが何て書いてあったか聞かせてくれるかい?」
顔色を変えることなく、リリスは昨夜自分でしたためた手紙をテーブルに広げ、字を指でなぞった。
「ここです。親切なご夫婦の世話になっていると」
タリムは、リリスに断ってから二枚の便箋に目を走らせた。なんだかんだ、チルーも文面を作るのに協力したのだ。幼い娘を慮 りつつ、滞在する地方の風土について簡潔にしたため、妻の体調を気にかけて閉じる。
いかにも多くのことを話せない立場にあるというふうの文面。
読み終えたときに、タリムは独り言を呟いた。
「ルーリーのことが書いてないな」
すかさずリリスが、「ルーリー?」
「いや。気にしないでくれ」
「父は教会の仕事で出張中に行方知れずになったと聞いています」
「教会の仕事?」
そのとき、一瞬。
ほんの一瞬。
タリム・セリスの唇の端が冷たく光るのを見た。
息詰めたチルーが二度見したときにはもう、タリムは非の打ちどころもなく完璧な柔和さを取り戻していた。
「いいや」
テーブルの上で静かに指を組み、タリムの右の人差し指が、とん、とん、と左の中指の付け根を叩いた。
「君のお父さんは、教会から逃げていたんだよ」
「賭けてもいい。あの子、父親とは絶対話さない」
隣を歩くリリスが自信たっぷりに言い放つ。
「チルーはどう? 話すって賭ける?」
「わからない。でもこんなやり方はズルだよ」
「ズルくてもズルくなくても、君の鳥が賭かってるんだよ? あの子を信用できるか試すぐらい当たり前だと思うけど」
「そりゃあ」チルーは反論しつつ口ごもった。「私だって、鳥は大事だけど……」
「じゃあ決まりだね」
「何が決まりなの?」
「あの子が父親と話せなくて、『約束を守れなかった』って謝るなら許す。でも私たちを騙そうとして話をでっち上げたら許さない」
既に昼近くなり、街路に落ちる迷宮の影も短くなっていた。ぽかぽかと温かい冬の陽だまりに出て、チルーは目を細めた。
「許さないって、どうするの?」
光の中、リリスは白い歯を見せてニヤリとし、水平にした手を自分の喉に当て、掻き切る真似をした。
「リリス、それ、冗談でも駄目!」
冗談だと信じたかった。
そのときルシーラは、無駄に広い自宅の客間で頬杖をついて過ごし、この家と将来について思いを巡らせていた。
彼女は打ちひしがれていたが、呆然としているわけにはいかなかった。孤独なのだから。かろうじて慰安の仕事をしていたが、あんな事件があってしまっては今の仕事場にももういられない。
ひとまず現金が必要だ。積み立てた長男の学費が僅かにあるが、無収入では
マルカは?
そこで思考を停止した。
気立てのいい子になってもらいたい。でも、どうしたら?
いい母親になりたいと思っていた。幼い長女の反抗的な沈黙と猜疑心に満ちた目に晒されると、毎日、どうしてもイライラしてしまうけれど。
きっとあの子は私から離れていくとルシーラは予感していた。ルシーラ自身が母親を離れ、もう何年も連絡を取りあっていないのだから。
あの子を愛していないわけじゃない。ううん、愛してる。私は私のお母さんとは違うの。
痛む頭でそう思うようにした。
私はあの子たちを愛してる。いつかはその恩をわかってくれるはず。
それより何より、今は金だ。
ルシーラは姿勢を変えた。何気なく窓の外を見た。
すると、街路を金が歩いてきた。
※
「でも、そしたらスアラと約束する必要すらなかったじゃない。スアラのお父さんから話を聞いたらここから出ていけばいいよ。あの子を試す必要なんてない」
食い下がるチルーにリリスは周囲を警戒しながら答えた。
「あの子、空を飛ぶものを作ってるって言ってたね」
チルーの心臓が、きゅっ、と縮む。喉が違和感を訴えた。リリスの目の光が鋭くなった。その目はチルーではなく、チルーの後ろの民家を突き刺した。
扉が開き、戸口にルシーラが現れた。
髪は
「こんにちは!」
リリスが片手を上げて挨拶した。知らぬ存ぜぬで押し通すのだ。ルシーラは心あらずの笑みを見せた。
「こんにちは。あなたたち、どこにいくの?」
「親戚に頼まれて、おつかいです」
「あら、偉いわね」ルシーラは意味もなく顎の下をさすった。「親戚の方はこの近くに住んでらっしゃるの?」
「はい」
そう、と頷きながら、顎の下から手を離す。その手は最後まで下りることなく、喉と胸の中間にとどまった。
「気をつけてね」
手を振って、ルシーラは二人を見送った。家の中に戻り、もう一度戸口に出たときには、コートを着込んでいた。ハンドバッグの肩紐をしっかり握りしめながら、ルシーラはテレジアの救貧院へ早足で向かって行った。
※
「ここだね」
後をつけて突き止めたスアラ・セリスの家にリリスはたどり着いた。チルーはまだ迷っていた。
「本当にやるの?」
リリスは頷きもせず、ただ、家の正面玄関に建って二階部分を見上げていた。
にも関わらず、
何故そう感じるのか、チルー自身にもわからなかった。
「あの子を信用できないからって、私たちのほうからでっち上げを仕掛けるなんて」
リリスはノッカーに伸ばす手を止めなかった。
「もう一度言うけど、君の鳥が賭かってるんだよ?」
「そんなの、あの子の鯨を狙わなければ関係ない話だよ」
「ふぅん」と、唇を片方だけ吊り上げて、見下すような笑みを浮かべる。「君はそう思うんだ」
チルーはリリスが大好きだが、こういうところは嫌いだった。
扉が叩かれた。
「いるかな」
チルーは、尋ねながらも心の中ではこう言った。いないといいな。
すぐには誰も出てこない。リリスの自信は揺るがない。
「いるね。スアラが父親を嫌っていて、しかも家に帰りたがらないんだったら、父親が家にいる時間が長いんだ。在宅の仕事だよ」
都合の良い考えだと思うチルーは、誰にも家から出てきてほしくなかった。だが、鍵が回る音がして、玄関が開かれた。
中年の男が出てきた。中肉中背、
聞かれる前に、リリスが最大のぶりっこの笑顔で挨拶した。
「初めまして。私はリリス・ヨリスと申します。この子は親戚のチルー。セリスさんのお宅でよろしいでしょうか」
普段より高い声。リリスはいつも大人に気に入られる方法を知っている。
「ヨリス?」
男はとぼけたような口調だが、目つきが警戒心で尖るのをチルーは見逃さなかった。
「セリスというのはうちで合ってるけど、君たち、どうしたのかな?」
「事前の連絡もなしに訪問してごめんなさい……あ、いえ、申し訳ございません……。
実は先月、ずっと行方がわからない父からの手紙が家に届いたんです。紛失事故で、十年くらい郵便局で忘れられていたみたいで、その手紙にセリスさんのことが書いてあったんです」
とどめを刺すように、リリスは上目遣いで男に尋ねた。
「ええっと……タリム・セリスさん、でよろしいですよね? あの、ご迷惑でしたら日を改めて……」
男がみるみる笑顔になっていった。戸惑うほどに優しげで、親切そうな笑顔だった。
「ああ、思い出したよ。ヨリスさんという男性なら確かに覚えがある。驚いた。君はその娘さんか」
朗らかに笑い、男はリリスたちを招き入れるために戸口からどいた。
「いかにも私がタリム・セリスだよ。よく来たね。迷惑なんてとんでもない。
入っておいで。妻が出かけている間、是非お話を聞かせてほしいんだ」
怒鳴られたり嫌がられるのではないかと身構えていたチルーは、呆気に取られながらリリスに続いてセリス家に上がり込んだ。
「ちょうど通いの家政婦が帰ったところでね。クッキーと牛乳を買ってきてもらったんだ。牛乳は好きかい?」
「大好きです!」
チルーはどうしても
だが、廊下の空気の刺すような冷たさと暗さはなんだろう?
採光のいいダイニングに入ると、どういうわけだか、むしろ暗さが増して感じられた。
「そこのテーブルで待っててごらん」
タリム・セリスはキッチンへと一度姿を消した。声だけ聞こえた。
「ところで君たち、年はいくつだい?」
「私たち、二人とも十四歳です」
「へえ。じゃあうちの娘の一個上か」
いけしゃあしゃあとリリスが尋ねた。
「娘さんがいらっしゃるんですね」
「ああ。それがもう、反抗期で困ったもんだよ。『お父さんは部屋に入ってこないで!』とか『一緒にご飯を食べたくない!』とか」
牛乳を注いだ二つのコップを持ってきて、タリムはさも気にしていないというふうに笑った。
「いやあ、お父さんさすがに傷つくよ。おっと、クッキーはどこだったかな」
後ろ姿が再びキッチンに消えてから、チルーはリリスに囁いた。
「いい人そうで良かったね」
「どうだろう。あの人とスアラ、おかしいのはどっちだと思う? チルー」
タリムに聞こえないように、チルーはリリスの耳に手を添えて答える。
「スアラちゃんのほうかな」
同じように、リリスも内緒話を囁いた。
「スアラがおかしいのは同感だけど、そしたら今度はおかしくなった原因は何だって話じゃん?」
足音を聞いて、二人は話すのをやめた。クッキーを盛り付けた皿を手に、タリムが戻ってきた。
「ヨリスさん、君のお父さんのことならよく覚えているよ」
「父は私の物心つく前に行方がわからなくなりました」
リリスは手振りを交えて堂堂と話した。
「覚えている範囲で結構です。父がセリスさんのお宅を訪れた年と、そのときの様子をお聞かせ願えますでしょうか」
「構わないけど、君のお父さんの手紙に私たち一家のことが何て書いてあったか聞かせてくれるかい?」
顔色を変えることなく、リリスは昨夜自分でしたためた手紙をテーブルに広げ、字を指でなぞった。
「ここです。親切なご夫婦の世話になっていると」
タリムは、リリスに断ってから二枚の便箋に目を走らせた。なんだかんだ、チルーも文面を作るのに協力したのだ。幼い娘を
いかにも多くのことを話せない立場にあるというふうの文面。
読み終えたときに、タリムは独り言を呟いた。
「ルーリーのことが書いてないな」
すかさずリリスが、「ルーリー?」
「いや。気にしないでくれ」
「父は教会の仕事で出張中に行方知れずになったと聞いています」
「教会の仕事?」
そのとき、一瞬。
ほんの一瞬。
タリム・セリスの唇の端が冷たく光るのを見た。
息詰めたチルーが二度見したときにはもう、タリムは非の打ちどころもなく完璧な柔和さを取り戻していた。
「いいや」
テーブルの上で静かに指を組み、タリムの右の人差し指が、とん、とん、と左の中指の付け根を叩いた。
「君のお父さんは、教会から逃げていたんだよ」