突破

文字数 4,628文字

 5.

 その、絶叫。
 目を覚ます。途端、投げ捨てられた。星獣の手から解き放たれ、宙を舞い、かろうじて受け身をとったアズは懐中電灯のそばに倒れ込んだ。着地の衝撃があばら骨と腰骨とを突き抜けて、痛みに歯を食いしばる。隣で友人が死んでいた。微かになった懐中電灯の光が、片方の手で顔を覆ってのけぞる獣を淡く照らしていた。獣のもう片方の手は、剛毛に覆われた胸を押さえていた。鼓動のない胸を。
 女の金切り声を束ねたような不快な絶叫は不意に絶え、体は砂となった。崩れ落ちる砂の中にルーの生首があった。それが地面に落ちると鈍い音を立てた。それきり電灯の光が消え、星獣も消えた。
 暗闇にアズの荒い呼吸がこだまする。
「ルー」
 激痛が体の中を走り抜け、悲鳴をあげる代わりにアズは名を叫んだ。
「トビィ!」
 助けを求めるかのように。
「レミ!」
 喘鳴(ぜんめい)混じりの声となり、
「ルー……」
 声は弱々しい呻きとなり、呼吸の音も微かになっていった。
 なにも聞こえなくなったあと、時が経ち、洞穴(どうけつ)に朝の光が差した。
 鉄扉が開き始めたのだ。

 ※

「私の責任じゃないからな」
 尊大かつ不機嫌に、氷像の天使レマ・クロウは相棒に言い放った。見張りを組んでいた男は革命に身を投じて六年目になるのだが、今一つぱっとしない人物で、公教会の追手をやすやすと通過させたのもこいつに違いないとレマは思っていた。むろん侵入口が特定されたわけではないので、それを口にしてしまったら言いがかりになるのだが、事実はその通りだった。
 男はうんざりしながら投げやりに言い放つ。
「はいはい、お前のせいじゃないしオレのせいでもないの! これで満足か?」
「は?」
 冷ややかな視線に突き刺され、古株の男はいらいらしながら恐怖した。結果、しばらくレマのほうを見ないことに決めた。ウィンチが操作され、鉄扉が開き続ける。あの神経に障る咆哮が地の底から響くのではないか、と、レマ以外の全員が身を強張(こわば)らせて待ち構えたが、何も聞こえなかった。鎮まっているらしい。
 生きている人間を二人も放り込んだのだ。一人は半死半生で、もう一人の馬鹿は自分から飛び込んだ。後者の馬鹿が一瞬で殺戮した仲間たちの血が、周囲の岩壁に散っていた。レマの相棒は言葉つかいも星獣もごめんだった。
 だが、星獣は飢えを満たしたようだ。身体的な飢え、人間には理解できない夢の飢え、どちらも。それでも暴れるなら言葉つかいの力が必要だ。レマの力でしばらく凍ってもらうしかない。
 悠に二人が並んで入れるほど扉が開いた。レマが先に立って闇に身を浸す。男もレマに続く。彼は自覚しなかったが、今や母親の背に隠れる幼児のように身を縮めていた。彼はレマが苦手だが、嫌ってはいなかった。頼みの綱をどうして嫌えよう。
 その頼みの綱の上に、予期せず何か重たげなものが落ちてきた。
 レマは声もあげなかった。
 剣で体を貫かれ、バランスを崩して階段の横の虚空へ落ちていく。
 レマを奇襲したアズは、空中で顔を上げた。
 採光は十分。
 光に意識を集中し、それを固める。
 手がかりと足場を得た。レマの体は左手の処刑刀から自然と抜け落ちて、洞穴の底で、水の入った袋が弾ける音を立てた。
 わけもわからず取り残された男は硬直して立ち尽くしていたが、彼が叫び出すより早くアズが舞い上がった。筋を描いて降り注ぐ曇天の光を蹴り、再度、頭上から襲撃。男は首から長い血の帯を引いて闇に墜落していった。
 アズの右手に光が集まった。
 処刑刀を左手に、階段を駆け上がる。
 外へ飛び出す。同時に光が炸裂。ほとんどアズ自身の意思を無視した暴走で、この場にリールがいるかもしれないと思いつつも、彼は容赦しなかった。本心では彼女を殺したくないにも関わらず。
 眼前で、人体が内側から破裂していく。その血飛沫(しぶき)の中を突破する。ウィンチの後ろで恐慌に陥った男が泣き叫んでいた。彼は間もなく果てなき平安を得た。アズが右手を振りかざすと、その動きに合わせて天の光の見えざる波が岩壁の上に襲い掛かった。人の姿は見えなかったが、血飛沫は見えた。
 アズは岩壁に上がり、その枯れ草の上を更に走る。走り続ける。ルナリア山塊の偉容を包み隠す曇天と霧の中、今やそこかしこで警鐘が打ち鳴らされ、呼子(よびこ)が吹き鳴らされていた。
「若様を守れ!」
 その声がしたほうへ光を投げ放つ。霧の中で右往左往する人々が、アズの居場所を特定し、一斉に撃ち始めた。そのときにはアズは彼らの頭上にいた。迷宮の壁を見つけたのだ。
 ここはエヴァリアの町の端だった。
「ちくしょう、どこだ!」
 声の主は、その言葉を遺言にして体を破裂させた。銃撃と撹乱(かくらん)。アズは壁の内側に着地する。その先は迷宮。最初の分岐路に現れた人影に、右腕を()いだ。輝きはその人を無残な姿に変えた。アズは走る。痛い。胸が痛い。腹が痛い。腰が痛い。内臓も(いた)めているだろうか。骨にひびが入っているだろうか。だが、それがなんだ。走るのみ。生きて帰るのだ。
 ルーとレマの最期を教会に報告するために。
 生きて家族に会うために。
「若様!」
 壁を一枚隔てた先から声がした。
「来てください、こっちです!」
 若者の大声に、別の若者の小声が続く。文句を言っているようだ。体の右側にある壁の向こうだ。壁の果ては見えない。飛び上がろうとしたアズの視界が闇に閉ざされた。
 無音。
 意識を失ったわけではない。
 苛立ちを堪える。
「こんなときに……」
 巡礼だ。
 アズは目を閉じる。うなだれる。巡礼の煽動者を確かめる気はなかった。こういうタイミングで現れる煽動者は決まっている。
 さまよう王。
 この無名にして名高き王は巡礼に加わるよう呼びかけるが、アズのことなどお呼びではない。王は他のどのような煽動者よりも多くの生者を連れ去るが、いつでもアズを()け者にする。
 ただ、見せるのだ。アズに。アズが殺した人の姿を。
 見る。
 衣擦れの音を立てて、壁を通り抜けてきた死者たちが、向かいの壁に吸い込まれていく。
 行け。行くがいい。エヴァリアの革命家たちを連れて去れ。老いも若きも、男も女も、信仰者も不信仰者も、ルーを殺した連中を等しく連れ去ってしまうがいい。
 壁から、巡礼衣のレマが出てきた。アズは顔を(そむ)ける。目を開き、心を閉ざす。王に戦いを挑む余力は今はない。やり過ごすしかなかった。行ってしまえ、レマ。
「アズ」
 真後ろで呼ばれた。
 思わず振り向いた。
 手を伸ばせば届く位置に、その人は立っていた。
 逞しい体格。
 短く刈り込んだ髪。
 日焼けした肌と、角ばった輪郭の顔。
「ルー」
 一歩踏み出す。ルーの後ろで巡礼が最後尾を迎えた。
 ルーは呆れまじりの微笑みでアズを見下ろしていた。無茶な奴だよな、と。
 ルー。
 がさつで乱暴者。
 人を寄せ付けず、でもそれはおかしなことに人を巻き込まないための態度で、本当はアズよりずっと繊細な人だった。勤勉で、動物が好きだった。アズが七歳で学園に編入されたとき、最初に話しかけてくれたのがルーだった。喧嘩っ早くてすぐ手が出るけれど、内なる正義に忠実だったルー。
 試験の前には額を突き合わせて勉強した。眠らずに語り通した夜もあった。怪我をしたハトを寮の相部屋でこっそり飼ったことがあった。物を貸したり、借りたり、壊したりした。喧嘩をして何日も口をきかなかったこともあった。アズが肺炎に(かか)ったのをきっかけに、その険悪な状態は打破された。ルーは昼夜を問わずうなされ咳き込むアズに付き添ってくれた。伝染を恐れて他の誰も病室に近寄らなかったのに。
 その友が、ゆっくりと、アズに背を向ける。
 巡礼の最後尾について、壁に吸い込まれていった。
「……ルー!!」
 アズは追おうとした。だが、ルーの姿を吸い込んだ壁を通り抜けることはできなかった。
「ルー、そっちに行くな! ルー!!」
 壁を叩く。ルー、ルー!! 世界に音が戻ってきた。巡礼が去ったのだ。ルーと共に。
「戻ってこい!!」
 だが、ここは悲嘆にくれていられる場所ではなかった。戦場なのだから。アズの声を聞きつけて、誰かが走ってくる。だが、どうやら闇雲に走っているだけの様子だった。今やそこかしこで誰かが喚き、泣いていた。
「若様、どこに行かれたのですか? 若様?」
 光がイメージ通りに凝固して、アズの足場となった。壁に乗ると、眼下では、茶色い肌の、黒髪の女が慌てふためいて叫んでいた。
「若様!」
 リール。
 彼女の足許で三人死んでいた。連れて行かれたのだ。リールは足をもつれさせて転び、死体に手をついた。傍目にも取り乱していた。が、持って生まれた心の目は正しく機能した。彼女は見るべき場所を見て、見つけるべきものを見つけた。
 壁の上に立ち、見下ろしているアズを。
 黙り、凍りつくリールの頭上を飛び越える。光を足場に、壁の反対側へ。彼女が何を思ったか、これから何を思うのか、知りたくなかった。とりわけ彼女がどれほど姉を誇りに思っていたかについては。
 銃声が聞こえた。
「落ち着きやがれ、テメェら!」
 威勢の良い若者の声が続く。声のするほうへ、歩幅ギリギリの壁の上をアズは駆けた。
「巡礼がなんだ、所詮は死んだ奴らだろうが! 教会の天使は生きてて今すぐ俺らを殺せるんだよ!!」
 壁がぽっかりと開けた広場のような場所があった。雪を乗せた枯れ草を踏みしめ、若者が(げき)を飛ばしていた。その人の周囲で右往左往していた男たちが動きを止め、注目する。
 注目の的になっているその剛気な男が『若様』らしかった。
 彼は、部下たちにさらに活を入れようとしていた。息を吸い込む。
 部下たちを波打つ光の刃が襲い、殺し尽くすほうが早かった。
 右手を上げて光を操るアズの居場所を、若者は見つけられなかった。光は彼の手から銃をはたき落とした。
「ここだ」
 一瞬にして血飛沫にそまった若者は、急に不安げになって、きょろきょろ辺りを見回した。その眼前にアズは降り立った。
 血に染まり、処刑刀を手に歩み寄るアズから少しでも距離を取ろうと、若者は後ずさった。その(かかと)が死体に引っかかり、無様に尻餅をついた。彼の背は壁に当たった。
 逃げ場はない。だが、アズをひたと見据える目は冷静で、冷ややかでさえあった。
 その目に問う。
「フクシャの転乱の天使ルー・シャンシアの誘拐・拷問、および殺害を指示したのはお前か?」
 二度、若者は大きく瞬きをした。
 返事は、質問への答えではなかった。
「お前はガイエンの星月夜の天使か?」
「そうだ」
 処刑刀を喉に突きつける。
「今は昼だぜ?」
 質問に答えるつもりはないらしい。彼は死を悟ったのだ。
「名前からして、さあ。月とか星の光を操るんじゃなかったっけ? あんた」
 さも何を言っているのかわからないというふうに、アズは小首をかしげた。
 それから答えた。
「太陽も星だ」
「ああ」
 若者は生返事をした。
「うん」
 と頷く。
「俺お前嫌いだわ」
 息を詰め、アズは相手の喉に処刑刀の切っ先を深く沈めた。

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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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