エンリア

文字数 3,438文字

 5.

 高い窓から差し込む光が塵を輝かせていた。木の粉にまみれ、制服も髪も黄色く汚したスアラは呆然と立ち尽くしていた。放課後の倉庫で、握りしめていた(のこぎり)を床に投げ出す。水色の塗装のはげた平均台に座り込む。辺りには破壊の嵐が爪痕を残していた。聖四位一体紋が記されたものは、目につき次第破壊してやった。花瓶。垂れ幕。ペン立て。遥か昔の競技部の優勝を記念するゴブレット。最後に破壊したのは木彫りの聖母像。
 そして今、(もも)に肘を置いて頬杖をつくスアラの眼前には、抜け殻になった憎悪の荒野が広がっていた。ズタズタにされた布と錆びた布切り鋏、砕けたクリスタルのゴブレット、転がる釘抜き、首が取れた石膏の像。スアラは背を前に倒し、頭を抱えた。目を閉じると安心した。
 次は何を壊そう、と彼女は虚しく考えた。壊せるものには当分困らない。クソ腹の立つ神の象徴など、学校じゅうにいくらでもあるのだから。
 だが、そういうことを本当にしたいのかという自問が心に引っかかっていた。したい。するだろう。自問しながらも。
 スアラには、自分がおかしいという自覚があった。普通になりたかった。今よりちょっとでいいから普通の人になりたい。もし贅沢な願いでないのなら、できたらまともな人になりたい。
 頭に爪をたてる。
 ああ、でも、私は普通がわからない。まともさはもっとわからない。子供の目に映る英雄のように、『普通』はあまりに遠いんだ。
 鬱々と考えこむスアラの背を、大いなる掌のように午後の日差しが温めていた。
 このように自己卑下を繰り返すのは不健康な行為だとわかっていたが、それをしている間、不思議な安らぎも感じるのだった。つまり、私はまだ私を責め立てる大人たちにはそこまで似ていない。自分自身を見たくないがために、立場の弱い者を見て拳を振り上げるような……もはや自分自身を見ないことによってしか救われる手立てがないような……そこまで悲しい人間じゃない。今はまだ。
 スアラはうとうとし始めた。浅い微睡(まどろみ)に意識が沈み込もうとする、正にそのとき、間近で衣擦(きぬず)れの音がした。
 優しくスアラを迎え入れようとしていた夢が弾け、消えた。ヒュッ! と音を立てて左に顔を向けると、人が立っていた。
 修道士(ブラザー)・エンリアだった。
「待って」
 腰を浮かせるスアラに向かって、諭すように両手を見せた。
「怒らないから、な?」
 スアラが中途半端な姿勢で硬直していると、エンリアは引き裂かれた布地をまたいで近づいてきた。その間も喋り続けた。
「少しだけ話をさせてくれ。怒らないし説教もしない。約束する」
「いつからいたの?」
「最後から三つめくらいからだな」
 だとしたら、皮張りの聖典のページを素手で引き裂いていた頃だろう。
 いきなり顔が熱くなった。
「なあ、嬢ちゃん」
 エンリアは跳び箱の一番上の段を外して床に置き、そこに座った。
「あんた、何にそんなに苦しんでいるんだ?」
「別に」
「話したくない、か?」
 スアラは眠ろうとしたときのように頭を抱え、首を横に振った。
「どうした? 俺は出ていったほうがいいか?」
 首否を重ねる。
 掠れた声でスアラは言った。
「話しかけないでほしいけど、ほっとかないでほしいの」
「難しいな」
 穏やかに笑って、エンリアは尋ねた。
「将来のことか?」
 ごまかすように、スアラは「うーん」と唸った。
「もしかして、すごく近い将来のことか?」
 極めて慎重に、短く答えた。
「今夜のこと」
 朝、母親に受け入れられなかった話だ。まして他人のブラザー・エンリアが受け入れてくれると思えない。スアラは口を閉ざす。
 迂闊に言っても恥をかくだけだ。
 それに、「お母さんの言う通りだ」と、「そんなのは大した悩みじゃない」「嬢ちゃんが悪い」と、エンリアにまで言われたら、とても耐えられない。
「今夜、何をそんなに困ることがあるんだい?」
「家に悪い奴がいるの」
「どう悪いんだ?」
 無言。
「その悪い奴は、嬢ちゃんにひどいことをするのかい?」
「どうしたらいいの?」
 頭を抱えていたスアラは、エンリアの口調にほだされて、倒していた背を起こした。少し猫背という程度の姿勢になった。
「悪い奴が近くにいるとき、どうしたらいいの?」
「悪いってわかってる奴とは手を切るしかないな」
 その迷いのない断言に、「えっ?」と、今度こそ背筋を伸ばす。
 エンリアは、穏やかだが、毅然とした態度で付け加えた。
「嬢ちゃん。悪い奴ってのはな、周囲にいる他の人間の悪いところを引き出して、あわよくばその人まで悪い奴にしちまうんだ」
「なんで?」
「寂しいんだと思うぜ。仲間が欲しいんだ」
「悪い奴の仲間になったら、もう寂しくない?」
「寂しい人間が二人になるだけだよ」
 エンリアは微笑んでいなかった。正面からひたとスアラを見据え、重要なことだとスアラにもわかる質問をした。
「それに、嬢ちゃんはその悪い奴とよく似た人間になりたいか?」
 今度は考えるより先に答えが飛び出した。
「嫌だ!」
「だよな」エンリアは頷いた。「悪い奴と手を切るのは、嬢ちゃんのためだけじゃない。これから嬢ちゃんが出会う人のためでもあるんだ。でなきゃな、あんたはこの先出会う全ての人を傷つけることになっちまう」
 真っ先に頭に浮かんだのは、リリスとチルーの顔だった。
 初めて会ったとき、あの二人にどういう態度をとった?
 ああいうやりとりを、この先もずっと続けていくのか?
「でも……。手を切れない相手だったら?」
 エンリアが、意志を固めるような沈黙を置いた。
「嬢ちゃん、俺はあんたにとって一番いい答えをしたい。だから少し、嬢ちゃんにとって嫌な質問をしなきゃいけないんだ。答えたくなかったら、答えたくないって言ってもいい」
「どんな質問?」
「その悪い奴ってのは、今夜だけじゃなくて、この先もずっと家にいるのか?」
 これを聞けば、スアラはエンリアの意図と続く質問が読めた。
「うん」
「もしかして、それは嬢ちゃんの親か?」
「答えたくない」
「その人は、あんたに手をあげて……つまり……叩いたりとかするのか?」
 心臓が強く鼓動を打ち、喉がむず痒くなった。スアラは黙り込む。エンリアは安心させるように頷いた。
「一つだけ、今夜嬢ちゃんがゆっくり眠れる方法があるぜ」
「ほんと?」
「公教会に保護を求めるんだ」
 スアラは首をかしげ、ゆっくり大きく瞬きをして続きを待った。
「抵抗教会の革命家たちの情報を持って保護を求めればいい。嬢ちゃんは教会に守られるし、家にいる悪い奴は捕まる」
「親を売れって言うの?」
 悪い奴の正体を自ら言ってしまったが、スアラはもう気にしなかった。
「俺は命令も指図もしない。嬢ちゃん、あんたは今すぐにでも大人になれるんだ。大人に言われたことをするんじゃなくて、自分で決めて行動すればな」
「私が決めるの?」
 全身の血の巡りが早くなっていく。思考はほとんどスアラの制御を外れようとしていた。私に決めろっていうの? 大人が強制的に私を保護するんじゃなくて? そうしたら、またあいつらのところに戻されることになっても言い訳がきくのに。私じゃなくて、大人たちがやったことだって……。
「ああ」だが、エンリアは告げた。「嬢ちゃんが、自分で決めるんだ」
 あの男は嫌い。スアラは父親の存在感を肌で思い出し、ゾッとした。あいつはどうにでもなればいい。二度と会えなくても構わない。でも、お母さんは?
 お母さんは悪くない。抵抗教会の企みに不運にも巻き込まれてしまっただけだ。私に冷たいけど……それは私がお母さんを疲れさせるから。私がお母さんを疲れさせるのは、あの男のせい。あいつさえいなくなれば『自己憐憫しか能がないバカ女
 ううん……それは私のこと……お母さんのことじゃない。
 あの男さえいなくなれば、あの人はまた私のお母さんに戻ってくれる。それに鯨は?
 確実に、公教会に差し押さえられることになる。
「帰る」
 静かにスアラは告げた。エンリアは一言、
「そうか」
 妙に気まずくて、スアラは無理に微笑んだ。
「もしかしたら、本当はそんなに悩むほどのことじゃないのかも……私が勝手に思い込んでるだけで……」
 何と答えてほしいのか、スアラにもわからなかった。
 平均台から立ち上がると、エンリアが最後に言った。
「どうしてもヤバかったら、俺のところに逃げてこい」
「え?」
「門前払いはさせねえから」
 スアラはエンリアから顔を背けた。だがエンリアの視線はまっすぐスアラの心臓を貫いていた。
「うん」



 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み