ヒースの丘
文字数 4,056文字
1.
魔女は西へ逃げた。別の魔女が追った。追跡者の箒 が夏の星座を撫でると長い雨が降った。ヒースの丘は潤い、窪地の水たまりから死霊の群れが這い出た。
死霊を慰めるべく、修道士が移り住んだ。
人が通うようになり、道が整備された。
ヒースは刈り取られ、菜園に置き換わった。
人が増えた。
町ができた。
魔女たちの行方 は知れない。
※
風に突き飛ばされ、チルーは右につんのめった。リリスは前を歩いているので、その様子は見られなかった。たぶん。心配させたくない。ヒースの丘を吹き荒 ぶ風は粉雪を含んでいた。頬の感覚は既になく、刺し込む風のせいで、耳の奥がひりついた。風は手袋やマフラーの編み目をやすやすと通り抜け、底冷えする空気は、コートなどないが如く体の奥に達した。学園の支給品のコートだ。冬用の上着はこれしか持っていなかった。
眼前には白い息と、リリスの背と黒髪が見えた。
更にその向こうには、折り重なる鈍色 の雲の下に迷宮の壁が。
人が住んでいるのだ。
息を弾ませて歩く。
壁は、目測よりも遠かった。
向かい風で歩 が進まぬせいか。
単に追われる焦燥が、そう感じさせているだけか――チルーは、学園が自分たちを追わないなどとは思っていなかった。
リリスが振り向いた。目があった。微笑みと、想像していた以上に情けない友人への、思いやりに満ちた当惑があった。
気付いたんだ、とチルーは考えた。よろよろしたの、ばれちゃった。足は棒のようだ。痛いとさえ思わない。後ろのチルーを振り向いている間も、リリスの足は前へ進んでいた。チルーは無言で、リリスも結局、何も言わなかった。そのほうがありがたかった。大丈夫か、と聞かれたところで、はいと答えようといいえと答えようと歩くしかないのだから。
「どんな町なんだろう」
気を紛らわせたいらしく、リリスが話しかけてきた。チルーはこれ以上リリスに遅れないようにするだけで精一杯。
それでも答えた。
「きっと変わらないよ。壁があって、鳥飼いがいるんだよ」
「少なくとも壁はあるね」
歩く。
「うん。それで、鳥飼いがいて、生者と死者がいるの」
ただ、歩く。
「小さな町だね。巡礼にあったらひとたまりもないよ。ねえ、チルー」
夜明けと共にフクシャまで汽車の旅をし、その先は徒歩の旅をしようと提案したのはリリスだった。
「君の鳥は、本当に、誰にも見せないようにしようねえ」
その先の都市に、学園からの連絡が回るのを恐れてのことだった。
右の掌が疼いた。手袋の中にカワセミがいるのだ。紋様に姿を変えて、これからはずっと一緒にいる。
私のカワセミ。
美しいカワセミ。
本当のカワセミ。
生きているカワセミ。
こんなに善い生き物が、私を選んで来てくれた。嬉しい。嬉しい。
心に温かいものが宿り、チルーを前に歩かせた。リリスの言う通りだった。これは本当にいいものだから、人にとられたり、汚されないようにしないと。
少女たちは歩く。迷宮へ。
あそこに人がいる。
町ができると迷宮もできるのだ。
人がいると壁ができる。
※
たどり着いてみれば、町の壁は低くまばらで、入り組んでもおらず、せいぜい町を数区画に区切っているといった程度だった。町全体に牛糞の臭いが立ち込め、酒場の戸は開き、町の男たちが昼から酒をのんでいた。
右を見れば、近くの納屋から太った女が酢漬けの瓶を抱えて出てきた。肌は浅黒く、目を厳しく光らせて、見慣れぬ少女たちを露骨に警戒していた。左を見れば、馬を飼う男が畜舎の板の破れ目から油断なく二人を見つめていた。
腰ほどの高さの石壁に行き当たった。リリスが足を止め、誰かに問いかけた。
「どうしたのかな?」
壁の向こうから、顔の上半分を覗かせて、煤 まみれの小さな女の子がチルーたちを睨みつけていた。
リリスは肩を竦め、一言。
「その目」
すると、子供は答えた。
「殺してやろうと思ったのさ」
見た目ほど幼くはない。チルーは悟った。体つきが小さいのは栄養が足りていないからだ。
子供の後ろには、煙が立ち昇るあばら屋。炭焼きの小屋のようだ。
「ここは君の家?」
リリスが鎧戸 の外れた窓を一瞥するので、チルーも小屋を覗き見た。炭焼きに使うのであろう煤けた器具や什器 、車輪の外れた手押し車が乱雑に押し込まれていた。
ここで生活しているのなら、一体どこで眠っているのだろうと思える有様 だった。
「君じゃ私を殺せないね」
チルーは恐れながら成り行きを見守った。というのも、リリスのコートの下には、死者狩りの銃剣が隠れているからだ。町の大人にこの会話を聞かれたうえで銃剣を見咎 められたら、と想像すると、ぞっとしない。
子供は堂堂と言い返した。
「一人前の魔女になったら殺せる」
「だから無理だって」リリスは小屋を顎で指した。「魔法使いになるのなら、毎日視界に入るものには気をつけなければいけないよ。それは心を作るからね。こんな散らかった家じゃダメだ」
言葉つかいの学園では、寮や学内の清掃が徹底されていた。それは第七階梯までの年少生の仕事だった。
子供はなおも言い返す。
「悪い魔女は汚い」
「家はきれいかもしれないよ?」
「家だって汚いに決まってる」
リリスはかぶりを振り、声を低く落とした。
「悪い魔法使いは滅ぼす」
軽蔑したように唇を吊り上げ、子供も同じようにかぶりを振った。チルーは驚いた。あまりにも大人びた動作だったからだ。
「馬鹿なよそ者じゃ無理だよ」
「必ず滅ぼす」
その宣告に、いよいよ子供も内心の動揺を隠せなくなった。動揺しているのはチルーも同じだった。いまや低い壁の向こうや戸口から、町の人々が剣呑 な目でチルーを射竦 めていた。
それでもリリスの振る舞いは自信に満ちていた。
「君は何ができる?」
リリスが手袋を外したとき、何をするつもりかチルーはわかった。
「私はこれができる」
「リリスちゃん、やめよう」
だが、リリスはやめなかった。彼女は子供がもたれかかる壁の天辺 を掴んだ。子供は何かを予感して跳びのき、リリスの指は、壁を粘土のように変形させた。
「壁を削ったり変形させられるのは、『石工 』の言葉つかいだけ」
低いどよめきは、リリスが壁の一部を引きちぎって我がものにすると、威嚇と困惑の叫びに変わった。
「知ってる? 石工が切り出した壁を練り込んだ剣じゃないと、死者を斬れないんだ」
言葉つかいだ! 男が叫んだ。リリスは引きちぎった壁を球状に丸め、ぽんぽん投げて弄 ぶ。不意にそれにも飽きて、低い壁の向こうの子供に投げた。子供は怯えながら、足許に落ちた球を近くの木の枝でつついた。それは、紛 れもなく硬い石の球だった。
「何しにきた!」
怒鳴り声のしたほうを向き、チルーの心臓は凍りついた。猟銃の銃口が、チルーとリリスを向いていたからだ。
猟師の肩を老人の手が叩いた。
「おやめ」
女性だ。
猟師は後ろを見、息をのむと銃口を下げた。
何の変哲もない老婆に見えた。多少太っているが、それくらいだ。どこにでもいる老婆……すなわち猫背になり、膝が悪く、杖をつき、皺がよっている。肝臓を病んでいるのか、肌は黄ばみ、大きなシミが顔に模様を作っている。髪は乏しくなり、残る髪は白い……どこにでもいる老婆なのに、目つきだけ異様だった。鋭く、冷たく、乾き、それでいて、粘つくような執着心があった。
「レライヤの子だね」
杖をつきながら、二人の前に歩み出た。もう騒ぐ者はいなかった。
「レライヤの、学園の子たちだ」
リリスは笑みを浮かべて「そうですが」
こんな子だっただろうか。チルーはリリスに怯えていた。自信家だけど、こんなに不遜 に振る舞う子だっただろうか。リリスはもっと優等生然としていたはずだ。言わずもがな、態度も。たまに授業を抜け出すこともあったけど、お小言で済む程度の範囲を逸脱しなかった。
その優等生が、銃を持った大人の前で薄笑いを浮かべている。
明らかに箍 が外れている。たかだか学園を逃げ出したくらいのことで。
「ここは公教会の力も弱く、あなた方の敵の抵抗教会も入り込んできてはいません」
老婆はリリスの十歩手前で立ち止まった。
「何の御用です?」
「あの、私たち」
何と答えればいいかわからぬまま、リリスの前に出て、チルーは口を開いた。
なのにリリスはチルーの後ろから言い放つ。
「巡礼団を追っているんです」
チルーは泣きたかった。今学園に戻るなら、まだ罰を受けて済むはずだ。だがリリスに戻るつもりはない。泣きながら笑いたい。自分自身もまた、学園の日々にはうんざりしていたことを自覚せずにはいられなかったからだ。
「あなた、学生でしょう?」
「いつまでも学生ではいられませんので」
思い過ごしだったかもしれない。被害妄想だったかも――両親は私を学園に売ったわけじゃないかもしれない。先生たちは生徒を蔑んでいたわけじゃないかもしれない。生徒の親を見て扱いを差別していたわけじゃないかもしれない。卒業後に帰る家はちゃんとあったのかもしれない――それで?
そうだとして、学園に帰りたいか?
朝起きると感じる吐き気。授業のことを考えると、布団か出られない。校舎の入り口をくぐりたくない。教室に足を踏み入れるとき、足が竦 む。授業中に指名されると、喉が凍る。夜眠るとき、教師たちの刺のある言葉が頭に蘇る。
それに、戻ればきっと、鳥を奪われる。
「来なさい」
震えた。だがそれは、チルーを職員室に呼びつける教師の声ではなかった。眼前の老婆の声だった。
魔女は西へ逃げた。別の魔女が追った。追跡者の
死霊を慰めるべく、修道士が移り住んだ。
人が通うようになり、道が整備された。
ヒースは刈り取られ、菜園に置き換わった。
人が増えた。
町ができた。
魔女たちの
※
風に突き飛ばされ、チルーは右につんのめった。リリスは前を歩いているので、その様子は見られなかった。たぶん。心配させたくない。ヒースの丘を吹き
眼前には白い息と、リリスの背と黒髪が見えた。
更にその向こうには、折り重なる
人が住んでいるのだ。
息を弾ませて歩く。
壁は、目測よりも遠かった。
向かい風で
単に追われる焦燥が、そう感じさせているだけか――チルーは、学園が自分たちを追わないなどとは思っていなかった。
リリスが振り向いた。目があった。微笑みと、想像していた以上に情けない友人への、思いやりに満ちた当惑があった。
気付いたんだ、とチルーは考えた。よろよろしたの、ばれちゃった。足は棒のようだ。痛いとさえ思わない。後ろのチルーを振り向いている間も、リリスの足は前へ進んでいた。チルーは無言で、リリスも結局、何も言わなかった。そのほうがありがたかった。大丈夫か、と聞かれたところで、はいと答えようといいえと答えようと歩くしかないのだから。
「どんな町なんだろう」
気を紛らわせたいらしく、リリスが話しかけてきた。チルーはこれ以上リリスに遅れないようにするだけで精一杯。
それでも答えた。
「きっと変わらないよ。壁があって、鳥飼いがいるんだよ」
「少なくとも壁はあるね」
歩く。
「うん。それで、鳥飼いがいて、生者と死者がいるの」
ただ、歩く。
「小さな町だね。巡礼にあったらひとたまりもないよ。ねえ、チルー」
夜明けと共にフクシャまで汽車の旅をし、その先は徒歩の旅をしようと提案したのはリリスだった。
「君の鳥は、本当に、誰にも見せないようにしようねえ」
その先の都市に、学園からの連絡が回るのを恐れてのことだった。
右の掌が疼いた。手袋の中にカワセミがいるのだ。紋様に姿を変えて、これからはずっと一緒にいる。
私のカワセミ。
美しいカワセミ。
本当のカワセミ。
生きているカワセミ。
こんなに善い生き物が、私を選んで来てくれた。嬉しい。嬉しい。
心に温かいものが宿り、チルーを前に歩かせた。リリスの言う通りだった。これは本当にいいものだから、人にとられたり、汚されないようにしないと。
少女たちは歩く。迷宮へ。
あそこに人がいる。
町ができると迷宮もできるのだ。
人がいると壁ができる。
※
たどり着いてみれば、町の壁は低くまばらで、入り組んでもおらず、せいぜい町を数区画に区切っているといった程度だった。町全体に牛糞の臭いが立ち込め、酒場の戸は開き、町の男たちが昼から酒をのんでいた。
右を見れば、近くの納屋から太った女が酢漬けの瓶を抱えて出てきた。肌は浅黒く、目を厳しく光らせて、見慣れぬ少女たちを露骨に警戒していた。左を見れば、馬を飼う男が畜舎の板の破れ目から油断なく二人を見つめていた。
腰ほどの高さの石壁に行き当たった。リリスが足を止め、誰かに問いかけた。
「どうしたのかな?」
壁の向こうから、顔の上半分を覗かせて、
リリスは肩を竦め、一言。
「その目」
すると、子供は答えた。
「殺してやろうと思ったのさ」
見た目ほど幼くはない。チルーは悟った。体つきが小さいのは栄養が足りていないからだ。
子供の後ろには、煙が立ち昇るあばら屋。炭焼きの小屋のようだ。
「ここは君の家?」
リリスが
ここで生活しているのなら、一体どこで眠っているのだろうと思える
「君じゃ私を殺せないね」
チルーは恐れながら成り行きを見守った。というのも、リリスのコートの下には、死者狩りの銃剣が隠れているからだ。町の大人にこの会話を聞かれたうえで銃剣を
子供は堂堂と言い返した。
「一人前の魔女になったら殺せる」
「だから無理だって」リリスは小屋を顎で指した。「魔法使いになるのなら、毎日視界に入るものには気をつけなければいけないよ。それは心を作るからね。こんな散らかった家じゃダメだ」
言葉つかいの学園では、寮や学内の清掃が徹底されていた。それは第七階梯までの年少生の仕事だった。
子供はなおも言い返す。
「悪い魔女は汚い」
「家はきれいかもしれないよ?」
「家だって汚いに決まってる」
リリスはかぶりを振り、声を低く落とした。
「悪い魔法使いは滅ぼす」
軽蔑したように唇を吊り上げ、子供も同じようにかぶりを振った。チルーは驚いた。あまりにも大人びた動作だったからだ。
「馬鹿なよそ者じゃ無理だよ」
「必ず滅ぼす」
その宣告に、いよいよ子供も内心の動揺を隠せなくなった。動揺しているのはチルーも同じだった。いまや低い壁の向こうや戸口から、町の人々が
それでもリリスの振る舞いは自信に満ちていた。
「君は何ができる?」
リリスが手袋を外したとき、何をするつもりかチルーはわかった。
「私はこれができる」
「リリスちゃん、やめよう」
だが、リリスはやめなかった。彼女は子供がもたれかかる壁の
「壁を削ったり変形させられるのは、『
低いどよめきは、リリスが壁の一部を引きちぎって我がものにすると、威嚇と困惑の叫びに変わった。
「知ってる? 石工が切り出した壁を練り込んだ剣じゃないと、死者を斬れないんだ」
言葉つかいだ! 男が叫んだ。リリスは引きちぎった壁を球状に丸め、ぽんぽん投げて
「何しにきた!」
怒鳴り声のしたほうを向き、チルーの心臓は凍りついた。猟銃の銃口が、チルーとリリスを向いていたからだ。
猟師の肩を老人の手が叩いた。
「おやめ」
女性だ。
猟師は後ろを見、息をのむと銃口を下げた。
何の変哲もない老婆に見えた。多少太っているが、それくらいだ。どこにでもいる老婆……すなわち猫背になり、膝が悪く、杖をつき、皺がよっている。肝臓を病んでいるのか、肌は黄ばみ、大きなシミが顔に模様を作っている。髪は乏しくなり、残る髪は白い……どこにでもいる老婆なのに、目つきだけ異様だった。鋭く、冷たく、乾き、それでいて、粘つくような執着心があった。
「レライヤの子だね」
杖をつきながら、二人の前に歩み出た。もう騒ぐ者はいなかった。
「レライヤの、学園の子たちだ」
リリスは笑みを浮かべて「そうですが」
こんな子だっただろうか。チルーはリリスに怯えていた。自信家だけど、こんなに
その優等生が、銃を持った大人の前で薄笑いを浮かべている。
明らかに
「ここは公教会の力も弱く、あなた方の敵の抵抗教会も入り込んできてはいません」
老婆はリリスの十歩手前で立ち止まった。
「何の御用です?」
「あの、私たち」
何と答えればいいかわからぬまま、リリスの前に出て、チルーは口を開いた。
なのにリリスはチルーの後ろから言い放つ。
「巡礼団を追っているんです」
チルーは泣きたかった。今学園に戻るなら、まだ罰を受けて済むはずだ。だがリリスに戻るつもりはない。泣きながら笑いたい。自分自身もまた、学園の日々にはうんざりしていたことを自覚せずにはいられなかったからだ。
「あなた、学生でしょう?」
「いつまでも学生ではいられませんので」
思い過ごしだったかもしれない。被害妄想だったかも――両親は私を学園に売ったわけじゃないかもしれない。先生たちは生徒を蔑んでいたわけじゃないかもしれない。生徒の親を見て扱いを差別していたわけじゃないかもしれない。卒業後に帰る家はちゃんとあったのかもしれない――それで?
そうだとして、学園に帰りたいか?
朝起きると感じる吐き気。授業のことを考えると、布団か出られない。校舎の入り口をくぐりたくない。教室に足を踏み入れるとき、足が
それに、戻ればきっと、鳥を奪われる。
「来なさい」
震えた。だがそれは、チルーを職員室に呼びつける教師の声ではなかった。眼前の老婆の声だった。