ハッピーエンド
文字数 3,185文字
2.
「あなたのお父さんは、どのような方でしたか?」
修道院の日当たりのいい客間でチルーはイクトゥスに茶を振る舞い、話し込んでいた。
「寡黙でしたね、特に自分のことについては話さない人でした。公教会の天使だったということも、死の一ヶ月前まで言わなかったくらいです」
「亡くなられたのですね」
「ええ」
勧められたクッキーに目を落としながら、イクトゥスは茶で喉を潤した。
「救貧院のマザー・テレジアの支援を受けて、石綿採掘場で働く人々の待遇改善に尽力する。それが私の知っている父の姿です。その父も、最後は塵肺 で命を落とすことになりました」
テレジアも世を去った。最後まで黒い噂の絶えない人物だったが、今なお孤独と貧困に苦しむ人々からの人気は絶大だ。
「父は晩婚でしたので、私が生まれたときには五十を過ぎていました。母は高齢出産の負荷に耐えられずすぐに亡くなったのですが、父は一人で愛情を注いで育ててくれました。ありがとうございます、お菓子、いただきますね」
イクトゥスが上下の歯でクッキーを割ると、レモンの香りが立ち込めた。
「どう? 美味しいかしら。自信作なのだけど」
「ええ、とても美味しいです」
「あなたのお父さんについて、もっと聞きたいわ」
「そうですね……父はよく、『蛇のように賢く、鳩のように素直であれ』と私に言いました。鳩のように素直であることばかり求め、蛇のように賢くあられると嫌そうにする、そういう大人からは離れろと」
チルーは声を上げて笑った。
「素晴らしい教えだわ。私もそのように教育されたかったくらい」
「そんな父ですが、死の直前に話してくれた唯一の過去が、レライヤのカワセミを巡る出来事です。死者の王を斬った件については詳しく話してくれませんでしたが。
父の死後、私はテレジア修道院を訪ね、あなたがご存命でここにおられることを知って来たのです」
「どうして訪ねてこようと思ったの?」
「私が、その当時のシスターと同じ十四歳だからでしょうか。どんな人で、どんな大人になったか知りたかったのです」
「私は普通の人よ。ただ老いて、死んでいくの」
チルーの組んだ手の近くでは、ティーポットの口から湯気が立ち上っている。
「……いいえ、違うわね。普通の人よりずっと多くの罪を犯しました。レライヤのカワセミで死者の巡礼を呼んだのですから。たくさんの人が連れて行かれた」
「シスターが悪人には見えません――」
「悪の性質は誰にでもあるの。だから、人間は他の人間の悪に、悪に伴う痛みに共感することができる」
だから、人は人と生きなければならないのだとチルーは考えていた。だが口には出さなかった。そんなことは、若者が自分で考えて、答えを導き出せばいい。
思い返せば、リリスもスアラも決して善人ではなかった。それでも共にいることはチルーの心を救った。互いの悪の痛みに共感することで救われていたのだ。
「あの」
好奇心に目を輝かせて、イクトゥスは身を乗り出してきた。
「庭に生えているあの桃の木は、教父の鎧の中から出てきた種が芽吹いたものですか?」
チルーはまじまじとイクトゥスを見つめた。それから噴き出した。
「面白いことを考える子ね。さて、どうかしら。これは私が教えてしまうより、あなたの想像力に委ねておくほうがいいかもしれないわ」
「そうですか?」
「そういうものよ」
ハンドベルの響きが客間にも届いた。
「あら、もうすぐ夕課の時間だわ。あなたは今日はここに泊まっていくの?」
「いいえ、町に宿を取ってあります。明日には列車に乗って、父の遺した家に帰ります」
「そう」チルーは茶を飲み干した。「どうぞお気をつけて」
玄関先までイクトゥスを見送った。杖をつきながら前階段を下り、土に立つ。桃の木に巣をかける鳥が、眠るために戻ってきた。見下ろす町の上の空は黄色く暮れ始めている。
「暗くなる前に、お宿に戻れるかしら」
「大丈夫です。急いで行きますから」
「急いで転んだりしないよう気をつけなさい」
「ありがとうございます、シスター・ミシマ」
一歩踏み出したイクトゥスは、思いとどまり振り向いた。
「シスター、あなたが旅を終えたとき、一番心に残っていたことは何ですか?」
チルーは桃の木を一瞥してすぐに答えた。
「生きていて、心がある」
「えっ?」
「生きていて、心がある。どんな人生も、その事実から成り立つの」
「生きていて、心がある……」
納得しているのかいないのか、イクトゥスは繰り返しながら首をかしげた。
あの旅が始まる夜、リリスは言った。
『きっとこの世界の空は広い』
その通りだと思う。リリスは壁のない世界を見ることなく死んだが、広い空を見ることはできた。
「どこで生きてもいいの。どこで死んでもいい。あなたも私も死んだあとに、花が咲くわ」
杖と共に前に出て、チルーはイクトゥスと肩を並べた。
「覚えていて。持って生まれた能力の有無に関係なく、あなたも私も何も特別じゃないの。特別だとしたら、誰もが特別なのよ。皆この惑星に流れる命の大河の一滴にすぎない……だからどこに行ってもいいの。自由に。この世界の空は広い」
「シスター、あなたは今、自由ですか?」
少しずつ赤みを増す西の空、たなびく雲に目を細め、チルーは微笑んだ。
「世界は美しいとわかるなら、その人は自由よ」
チルーはイクトゥスを送り出した。日が暮れる前に、急ぎなさいと。
イクトゥスは去っていった。やがて小道から、高い、澄んだ歌声が聞こえてきた。
※
イクトゥスの歌が聞こえなくなるまで、チルーは見送った。
イクトゥスには話さなかったが、チルーは自分の両親を探し当てたことがある。対面した母親は、お前を産むつもりはなかったとチルーに言い放った。不義の子だからと。公教会に買い取られ、ほっとしていたという。ショックを受けなかったと言ったら嘘になる。だが、その事実を受け入れたときだった。若いチルーがようやく自分の鳥と出会えたのは。
後ろで玄関が開き、同年代の修道女がそっと促した。
「夕課ですよ」
「ええ」チルーは頷き、杖をついて前階段を上がる。「すぐ行くわ」
屋内は既に暗くなりつつあった。
チルーは二階に上がると、自室に入り、頭にヴェールを被った。そして一息つこうと窓辺の椅子に座った。近頃はすぐに疲れ、膝も痛む。修道院の桃の木に目を落とす。
夕暮れの風に誘われるまま目を閉ざした。
「これはハッピーエンドなの?」
出し抜けに尋ねられ、チルーは目を開いた。
部屋の隅にリリスがいた。赤みの強い髪を二つに結った、十四歳のリリスが。
ハッピーエンドか。なるほど、リリスらしく、そこははっきりしておきたいのだろう。そう、物語にはたたずまいがある。
「リリス」
言いたいことがあったのを、チルーは思い出した。杖を使わず立ち上がる。十四歳の姿で。
「ねえ、リリス」二人は互いに歩み寄り、手を取り合った。「私、あれからわかったの」
「なに?」
「この世界はあてどなくさまよう場所じゃなかった」
リリスの丸い目を見つめ、大きく瞬いた。そう、きっとハッピーエンドでいい。
風を感じた。壁が、床が、天井が、輝きながら溶けていく。
「じゃあ、行こう」リリスが手に力を込めた。「スアラも待ってる」
いつの間にかチルーは浮いていた。
若き日の旅路のように、リリスと手を取り合って飛んでいく。
一面の野原。
色とりどりの花々の咲き乱れる野原を、光り輝く門へ。魂の歌が響く場所へ。
その日、茜に暮れる窓際で、老いたチルーは静かに息を引き取った。
※
目が覚めた。
ひどい世界だった。
誰もが私を嫌っていた。
私は望まれずに生まれてきた。
木を植えた。
大きな木になった。
花を植えた。
きれいに咲き誇った。
野菜を植えた。
果物も植えた。
誰もが豊かな実りを得た。
だから、この世界に神様はいるのだとわかった。
〈完〉
「あなたのお父さんは、どのような方でしたか?」
修道院の日当たりのいい客間でチルーはイクトゥスに茶を振る舞い、話し込んでいた。
「寡黙でしたね、特に自分のことについては話さない人でした。公教会の天使だったということも、死の一ヶ月前まで言わなかったくらいです」
「亡くなられたのですね」
「ええ」
勧められたクッキーに目を落としながら、イクトゥスは茶で喉を潤した。
「救貧院のマザー・テレジアの支援を受けて、石綿採掘場で働く人々の待遇改善に尽力する。それが私の知っている父の姿です。その父も、最後は
テレジアも世を去った。最後まで黒い噂の絶えない人物だったが、今なお孤独と貧困に苦しむ人々からの人気は絶大だ。
「父は晩婚でしたので、私が生まれたときには五十を過ぎていました。母は高齢出産の負荷に耐えられずすぐに亡くなったのですが、父は一人で愛情を注いで育ててくれました。ありがとうございます、お菓子、いただきますね」
イクトゥスが上下の歯でクッキーを割ると、レモンの香りが立ち込めた。
「どう? 美味しいかしら。自信作なのだけど」
「ええ、とても美味しいです」
「あなたのお父さんについて、もっと聞きたいわ」
「そうですね……父はよく、『蛇のように賢く、鳩のように素直であれ』と私に言いました。鳩のように素直であることばかり求め、蛇のように賢くあられると嫌そうにする、そういう大人からは離れろと」
チルーは声を上げて笑った。
「素晴らしい教えだわ。私もそのように教育されたかったくらい」
「そんな父ですが、死の直前に話してくれた唯一の過去が、レライヤのカワセミを巡る出来事です。死者の王を斬った件については詳しく話してくれませんでしたが。
父の死後、私はテレジア修道院を訪ね、あなたがご存命でここにおられることを知って来たのです」
「どうして訪ねてこようと思ったの?」
「私が、その当時のシスターと同じ十四歳だからでしょうか。どんな人で、どんな大人になったか知りたかったのです」
「私は普通の人よ。ただ老いて、死んでいくの」
チルーの組んだ手の近くでは、ティーポットの口から湯気が立ち上っている。
「……いいえ、違うわね。普通の人よりずっと多くの罪を犯しました。レライヤのカワセミで死者の巡礼を呼んだのですから。たくさんの人が連れて行かれた」
「シスターが悪人には見えません――」
「悪の性質は誰にでもあるの。だから、人間は他の人間の悪に、悪に伴う痛みに共感することができる」
だから、人は人と生きなければならないのだとチルーは考えていた。だが口には出さなかった。そんなことは、若者が自分で考えて、答えを導き出せばいい。
思い返せば、リリスもスアラも決して善人ではなかった。それでも共にいることはチルーの心を救った。互いの悪の痛みに共感することで救われていたのだ。
「あの」
好奇心に目を輝かせて、イクトゥスは身を乗り出してきた。
「庭に生えているあの桃の木は、教父の鎧の中から出てきた種が芽吹いたものですか?」
チルーはまじまじとイクトゥスを見つめた。それから噴き出した。
「面白いことを考える子ね。さて、どうかしら。これは私が教えてしまうより、あなたの想像力に委ねておくほうがいいかもしれないわ」
「そうですか?」
「そういうものよ」
ハンドベルの響きが客間にも届いた。
「あら、もうすぐ夕課の時間だわ。あなたは今日はここに泊まっていくの?」
「いいえ、町に宿を取ってあります。明日には列車に乗って、父の遺した家に帰ります」
「そう」チルーは茶を飲み干した。「どうぞお気をつけて」
玄関先までイクトゥスを見送った。杖をつきながら前階段を下り、土に立つ。桃の木に巣をかける鳥が、眠るために戻ってきた。見下ろす町の上の空は黄色く暮れ始めている。
「暗くなる前に、お宿に戻れるかしら」
「大丈夫です。急いで行きますから」
「急いで転んだりしないよう気をつけなさい」
「ありがとうございます、シスター・ミシマ」
一歩踏み出したイクトゥスは、思いとどまり振り向いた。
「シスター、あなたが旅を終えたとき、一番心に残っていたことは何ですか?」
チルーは桃の木を一瞥してすぐに答えた。
「生きていて、心がある」
「えっ?」
「生きていて、心がある。どんな人生も、その事実から成り立つの」
「生きていて、心がある……」
納得しているのかいないのか、イクトゥスは繰り返しながら首をかしげた。
あの旅が始まる夜、リリスは言った。
『きっとこの世界の空は広い』
その通りだと思う。リリスは壁のない世界を見ることなく死んだが、広い空を見ることはできた。
「どこで生きてもいいの。どこで死んでもいい。あなたも私も死んだあとに、花が咲くわ」
杖と共に前に出て、チルーはイクトゥスと肩を並べた。
「覚えていて。持って生まれた能力の有無に関係なく、あなたも私も何も特別じゃないの。特別だとしたら、誰もが特別なのよ。皆この惑星に流れる命の大河の一滴にすぎない……だからどこに行ってもいいの。自由に。この世界の空は広い」
「シスター、あなたは今、自由ですか?」
少しずつ赤みを増す西の空、たなびく雲に目を細め、チルーは微笑んだ。
「世界は美しいとわかるなら、その人は自由よ」
チルーはイクトゥスを送り出した。日が暮れる前に、急ぎなさいと。
イクトゥスは去っていった。やがて小道から、高い、澄んだ歌声が聞こえてきた。
※
イクトゥスの歌が聞こえなくなるまで、チルーは見送った。
イクトゥスには話さなかったが、チルーは自分の両親を探し当てたことがある。対面した母親は、お前を産むつもりはなかったとチルーに言い放った。不義の子だからと。公教会に買い取られ、ほっとしていたという。ショックを受けなかったと言ったら嘘になる。だが、その事実を受け入れたときだった。若いチルーがようやく自分の鳥と出会えたのは。
後ろで玄関が開き、同年代の修道女がそっと促した。
「夕課ですよ」
「ええ」チルーは頷き、杖をついて前階段を上がる。「すぐ行くわ」
屋内は既に暗くなりつつあった。
チルーは二階に上がると、自室に入り、頭にヴェールを被った。そして一息つこうと窓辺の椅子に座った。近頃はすぐに疲れ、膝も痛む。修道院の桃の木に目を落とす。
夕暮れの風に誘われるまま目を閉ざした。
「これはハッピーエンドなの?」
出し抜けに尋ねられ、チルーは目を開いた。
部屋の隅にリリスがいた。赤みの強い髪を二つに結った、十四歳のリリスが。
ハッピーエンドか。なるほど、リリスらしく、そこははっきりしておきたいのだろう。そう、物語にはたたずまいがある。
「リリス」
言いたいことがあったのを、チルーは思い出した。杖を使わず立ち上がる。十四歳の姿で。
「ねえ、リリス」二人は互いに歩み寄り、手を取り合った。「私、あれからわかったの」
「なに?」
「この世界はあてどなくさまよう場所じゃなかった」
リリスの丸い目を見つめ、大きく瞬いた。そう、きっとハッピーエンドでいい。
風を感じた。壁が、床が、天井が、輝きながら溶けていく。
「じゃあ、行こう」リリスが手に力を込めた。「スアラも待ってる」
いつの間にかチルーは浮いていた。
若き日の旅路のように、リリスと手を取り合って飛んでいく。
一面の野原。
色とりどりの花々の咲き乱れる野原を、光り輝く門へ。魂の歌が響く場所へ。
その日、茜に暮れる窓際で、老いたチルーは静かに息を引き取った。
※
目が覚めた。
ひどい世界だった。
誰もが私を嫌っていた。
私は望まれずに生まれてきた。
木を植えた。
大きな木になった。
花を植えた。
きれいに咲き誇った。
野菜を植えた。
果物も植えた。
誰もが豊かな実りを得た。
だから、この世界に神様はいるのだとわかった。
〈完〉