楽園は遠く
文字数 3,614文字
6.
ベッドに仰向けに横たわり、チルーはスアラが言ったことを考えていた。
『人に虐げられたあんたは、人を虐げるようになるんだ』
両隣の部屋からは、ベッドの軋む音と行為の声が聞こえていた。自分でも驚いたことに、チルーは早くも慣れていた。どうでもいいだけかもしれない。この先の、何一つ見えない未来に比べてこの程度の騒音がなんだ?
右手を上げる。掌を窓にかざすと、カワセミの紋様が照らし出された。
「寝れないの?」
大きなベッドの隣でリリスが尋ねた。
「ねえ、リリス」
「なに?」
「もし巡礼の行く先とリリスのお父さんが行った方向が別々になったら、リリスちゃんはどっちに行きたい?」
リリスは少し考えてから答えた。
「なんとなくだけど、お父さんも巡礼を追った気がする。だとしたら同じ道だ」
「でも、違ったら?」
安らぎの地を見てみたい。今やチルーはそう思い始めていた。あの花園。開かれた壁からこぼれさす光。魂に直接響く歌。
なのに、私はこんな所でなにをぼんやりしているの?
身を起こす。背中を向けてたリリスが振り向いた。
「聖所に行こう」
断られたらどうしよう、と少し思った。知らない町を夜更 けに一人で歩くのは怖い。だが、このまま朝までまんじりともせずにいるのはもっと辛かった。
リリスもまた布団を跳ね除 けて起きた。
「チルーのほうから言い出すとは思わなかったよ」
※
アルコは本の山の中で目を覚ます。部屋の電気はついたまま。この部屋の電気は母親が優先的に換えるからぴかぴかと眩しい。
身を起こす。机に伏せて寝ていたせいで背中と肩が固くなっていた。ルシーラから出された宿題は手付かずのままだった。
明日の朝になれば、母は出かける前にまた宿題を出す。そして同じ説教をする。家で勉強するしかないのよ。初等学校は休校が明けていないんだから。いい? 休校中に遊んでばかりいた子と差をつけなきゃ。
アルコは本のてっぺんから教科書を取った。
宿題をしないと弟妹 の前で尻を叩かれる。
だが、開くことができなかった。
手が拒む。
ああ――。
朝なんかこなければいい。
明日も今日と同じ一日だから。
これって面倒じゃない?
※
ルシーラは静かに家を出た。二階を見上げ、長男の部屋に電気がついているのを確かめた。ちゃんと勉強をしているようだ。顔を前に戻し、魔女の薬局へと内股で歩き始めた。
眠れないほど足の間が痛かった。まともな薬局はこんな時間に開いていない。一方で、あのいつ寝ているのかわからない老魔女の薬は効くのだ。ただ不気味なだけで。
とにかく眠れるよにしよう。夜が明けたら働くために。
でも、それって面倒じゃない?
※
スアラは岩鯨 の胎内で浅い眠りから一度覚めた。もしかしたら既に朝で、学校に行かなければいけない時間かもしれない、と思った。だが、起きて時計を確認する気は起きなかった。
面倒だったのだ。
※
グロリアナの路上生活者は、夜更けの通行人が帽子に硬貨を投げ込んでいく気配で目を覚ました。冷えた体で早くそれを懐に確保しなければと思いつつも、しなかった。
夜遅くまで娘がほっつき歩いている家の主婦は、もう三日も娘の顔を見ていないことをわかっていながら寝床に入った。娘のこともいつかは家族で話し合わなければならないが、今日する気はなかった。
その近所の家のダイニングでは、一ヶ月も洗っていない食器がキッチンストーブに山積みになり、冬だというのに黒々とした大粒のハエがたかっていた。一人で暮らす男は、いつかは掃除しなければと思っていながらも、今日する気はなかった。
別の家では、老いた男がさらに老いた父親の寝室に恐々 とした目を向けていた。心臓の悪い父がそのドアから出てこなくなって一週間が経った。死んでいるのではないかという気がしていた。あのドアをいつかは開けなければいけない。だが今日する気はなかった。
だって、面倒じゃないか。
※
町を切り刻む壁に阻まれて、日中見えていた教会にはなかなかたどり着けなかった。
「もう、鬱陶しいなあ!」
リリスが壁を蹴りつけ、靴型を刻み付けた。さすが石工だ。普通の人なら足を傷 めている。
二人は十四歳になるまでレライヤを出たことがなかった。チルーは壁の向こうで照らし出される教会の鐘楼 に、縋 るような目を向けた。歩き慣れない町では、迷宮の壁がこんなにも厄介だとは。二十分ほどうろついているのだが、鐘楼には近付けていなかった。
鳥はいいな。こんな壁、飛び越えていけるのに。
とにかく二人は急ぎ足で歩く。
「壁を作るのが本当に救い主のすることなのかな」
「それ、今聞く?」
「リリスは思わない?」
このありふれた問いに対する模範解答はこうだ。『壁は人間の罪に対する最も適切な処置の形であり、ある意味では我々こそが壁を作っているのだ』こうきたものだ。『壁の聖女、救い主エルーシヤ様の御言葉 に従い、迷宮の状態が解消された天の御国 が来るよう祈り求めましょう』
「思うよ」
リリスは素っ気なく言った。
「どうして壁の中心にたどり着けるのが死者の巡礼団だって言い伝えられるのかな」
手袋をした右手をチルーは握った。
「私たちは死者が怖いのに、たまにすごく死者に会いたい」
「チルーは自分のところに来てほしいと思う?」
「巡礼に?」
「うん」
「私はいい。……まだ行かない」
視線だけで問いかけるチルーに、振り向いたリリスは微笑んだ。
「私もだよ」
「巡礼について行く人は、迎えに来てほしいって思ったのかな」
「もし本当に苦痛のない死なら、そうなんじゃないかな」
たまらない思いに駆られ、チルーは手を伸ばす。リリスがその手を取った。
踏み込んできたのはリリスのほうだった。
「ねえチルー。死を願うのは悪いことだと思う?」
「いや!」
咄嗟に否定の言葉が飛び出した。
まただ。
世界が遠くなる感覚。喉が凍りつくような。
駄目。
言葉を絞り出して。
でなきゃ、リリスちゃんが行ってしまう。
「リリス、私、私……」
手をつなぎ合ったまま、少女たちは立ち止まった。
「死な……死な……」
涙があふれる。
「……生きて」
この一言があればイースラは生きただろうか。
「ごめん……」
「どうして謝るの?」
世界が遠のく感じがおさまった。しゃくり上げながらだが、次はきちんと話すことができた。
「だって、生きててほしいって押し付けだよね」
「どういう意味?」
「私、リリスに死なないでほしい。でも生きてる間リリスがやらなきゃいけないことを代わりにやれるわけじゃないもの。
リリスの代わりに学校に行ったり、将来代わりにお金を稼いでくることも、ううん、立って歩くことすら代われない。生きていくのが嫌になるくらい面倒なこと、代わりにやれるわけじゃない」
では、私がお金持ちになって、生きていてほしい人が社会で嫌な思いをしないで済むよう養うことができたらよかっただろうか。
よくないよ、とチルーは否定した。
人には尊厳がある。犬や猫じゃない。
「何もできないのに、『死なないで』だなんて――」
繋いでいないほうの手の甲で目を拭 った。
「――無責任だよね、ごめん。でも私、『だったら死んじゃえ』なんて言えないよ」
すっ、とリリスがチルーを引き寄せた。体が近付き、背中に腕が回る。
束 の間、二人は抱き合った。
「私のほうこそごめん」
耳許で囁いて、リリスはチルーから離れた。
「仕事探さなきゃね」
「えっ?」
「旅を続けるならお金が必要だよ。エンリアさんのような人からたかってばかりもいられない」
チルーは浅く頷いた。
「そうだね」
「ま、面倒くさいけどさ」
けらけら笑うリリスが、たまたま顔を向けた方向に目を凝らし、真顔になった。
知っている道だった。
中等学校がある。
併設の修道院が、教会が……聖所が。
二人はそこにたどり着いた。十字の中央に釘を打ちつけられた聖四位一体紋を見つけた。
「あらら、先に冒涜されちゃった」
リリスが軽口を叩く。チルーは黙って手を伸ばし、釘の頭を押してみた。
「どうして私たちは死者に願いを託したんだろう」
「死者がどこにもない場所に行けるからだよ」
「リリス、私ね、イースラに酷いこと言ったの」
「聞いてた」
リリスが肩を並べた。
「君が『死にたくない』って叫ぶの、聞こえてた」
奥歯に力がこもる。
もっと耳を傾けるべきだったのだ。
人付き合いが苦手だからなんて、そんなのは言い訳だった。
もっと耳を傾ければよかった。
生者に対しても。死者に対しても。
「……死者の声、聞こう」
だが、チルーはなかなか手袋を外せなかった。
「どうしたの?」
「生きてる人がたくさんついて行っちゃう」
「チルー」
リリスが背中に手を当てた。
「私が一緒に罪を犯す」
覚悟を決め、チルーは一息に手袋を脱ぎ捨てた。
掌の紋様。
それが盛り上がり、青い背中とオレンジの腹の小鳥に変わった。
翼を広げて飛んでいく。
無音。
「リリス、行かないで」
ベッドに仰向けに横たわり、チルーはスアラが言ったことを考えていた。
『人に虐げられたあんたは、人を虐げるようになるんだ』
両隣の部屋からは、ベッドの軋む音と行為の声が聞こえていた。自分でも驚いたことに、チルーは早くも慣れていた。どうでもいいだけかもしれない。この先の、何一つ見えない未来に比べてこの程度の騒音がなんだ?
右手を上げる。掌を窓にかざすと、カワセミの紋様が照らし出された。
「寝れないの?」
大きなベッドの隣でリリスが尋ねた。
「ねえ、リリス」
「なに?」
「もし巡礼の行く先とリリスのお父さんが行った方向が別々になったら、リリスちゃんはどっちに行きたい?」
リリスは少し考えてから答えた。
「なんとなくだけど、お父さんも巡礼を追った気がする。だとしたら同じ道だ」
「でも、違ったら?」
安らぎの地を見てみたい。今やチルーはそう思い始めていた。あの花園。開かれた壁からこぼれさす光。魂に直接響く歌。
なのに、私はこんな所でなにをぼんやりしているの?
身を起こす。背中を向けてたリリスが振り向いた。
「聖所に行こう」
断られたらどうしよう、と少し思った。知らない町を
リリスもまた布団を跳ね
「チルーのほうから言い出すとは思わなかったよ」
※
アルコは本の山の中で目を覚ます。部屋の電気はついたまま。この部屋の電気は母親が優先的に換えるからぴかぴかと眩しい。
身を起こす。机に伏せて寝ていたせいで背中と肩が固くなっていた。ルシーラから出された宿題は手付かずのままだった。
明日の朝になれば、母は出かける前にまた宿題を出す。そして同じ説教をする。家で勉強するしかないのよ。初等学校は休校が明けていないんだから。いい? 休校中に遊んでばかりいた子と差をつけなきゃ。
アルコは本のてっぺんから教科書を取った。
宿題をしないと
だが、開くことができなかった。
手が拒む。
ああ――。
朝なんかこなければいい。
明日も今日と同じ一日だから。
これって面倒じゃない?
※
ルシーラは静かに家を出た。二階を見上げ、長男の部屋に電気がついているのを確かめた。ちゃんと勉強をしているようだ。顔を前に戻し、魔女の薬局へと内股で歩き始めた。
眠れないほど足の間が痛かった。まともな薬局はこんな時間に開いていない。一方で、あのいつ寝ているのかわからない老魔女の薬は効くのだ。ただ不気味なだけで。
とにかく眠れるよにしよう。夜が明けたら働くために。
でも、それって面倒じゃない?
※
スアラは
面倒だったのだ。
※
グロリアナの路上生活者は、夜更けの通行人が帽子に硬貨を投げ込んでいく気配で目を覚ました。冷えた体で早くそれを懐に確保しなければと思いつつも、しなかった。
夜遅くまで娘がほっつき歩いている家の主婦は、もう三日も娘の顔を見ていないことをわかっていながら寝床に入った。娘のこともいつかは家族で話し合わなければならないが、今日する気はなかった。
その近所の家のダイニングでは、一ヶ月も洗っていない食器がキッチンストーブに山積みになり、冬だというのに黒々とした大粒のハエがたかっていた。一人で暮らす男は、いつかは掃除しなければと思っていながらも、今日する気はなかった。
別の家では、老いた男がさらに老いた父親の寝室に
だって、面倒じゃないか。
※
町を切り刻む壁に阻まれて、日中見えていた教会にはなかなかたどり着けなかった。
「もう、鬱陶しいなあ!」
リリスが壁を蹴りつけ、靴型を刻み付けた。さすが石工だ。普通の人なら足を
二人は十四歳になるまでレライヤを出たことがなかった。チルーは壁の向こうで照らし出される教会の
鳥はいいな。こんな壁、飛び越えていけるのに。
とにかく二人は急ぎ足で歩く。
「壁を作るのが本当に救い主のすることなのかな」
「それ、今聞く?」
「リリスは思わない?」
このありふれた問いに対する模範解答はこうだ。『壁は人間の罪に対する最も適切な処置の形であり、ある意味では我々こそが壁を作っているのだ』こうきたものだ。『壁の聖女、救い主エルーシヤ様の
「思うよ」
リリスは素っ気なく言った。
「どうして壁の中心にたどり着けるのが死者の巡礼団だって言い伝えられるのかな」
手袋をした右手をチルーは握った。
「私たちは死者が怖いのに、たまにすごく死者に会いたい」
「チルーは自分のところに来てほしいと思う?」
「巡礼に?」
「うん」
「私はいい。……まだ行かない」
視線だけで問いかけるチルーに、振り向いたリリスは微笑んだ。
「私もだよ」
「巡礼について行く人は、迎えに来てほしいって思ったのかな」
「もし本当に苦痛のない死なら、そうなんじゃないかな」
たまらない思いに駆られ、チルーは手を伸ばす。リリスがその手を取った。
踏み込んできたのはリリスのほうだった。
「ねえチルー。死を願うのは悪いことだと思う?」
「いや!」
咄嗟に否定の言葉が飛び出した。
まただ。
世界が遠くなる感覚。喉が凍りつくような。
駄目。
言葉を絞り出して。
でなきゃ、リリスちゃんが行ってしまう。
「リリス、私、私……」
手をつなぎ合ったまま、少女たちは立ち止まった。
「死な……死な……」
涙があふれる。
「……生きて」
この一言があればイースラは生きただろうか。
「ごめん……」
「どうして謝るの?」
世界が遠のく感じがおさまった。しゃくり上げながらだが、次はきちんと話すことができた。
「だって、生きててほしいって押し付けだよね」
「どういう意味?」
「私、リリスに死なないでほしい。でも生きてる間リリスがやらなきゃいけないことを代わりにやれるわけじゃないもの。
リリスの代わりに学校に行ったり、将来代わりにお金を稼いでくることも、ううん、立って歩くことすら代われない。生きていくのが嫌になるくらい面倒なこと、代わりにやれるわけじゃない」
では、私がお金持ちになって、生きていてほしい人が社会で嫌な思いをしないで済むよう養うことができたらよかっただろうか。
よくないよ、とチルーは否定した。
人には尊厳がある。犬や猫じゃない。
「何もできないのに、『死なないで』だなんて――」
繋いでいないほうの手の甲で目を
「――無責任だよね、ごめん。でも私、『だったら死んじゃえ』なんて言えないよ」
すっ、とリリスがチルーを引き寄せた。体が近付き、背中に腕が回る。
「私のほうこそごめん」
耳許で囁いて、リリスはチルーから離れた。
「仕事探さなきゃね」
「えっ?」
「旅を続けるならお金が必要だよ。エンリアさんのような人からたかってばかりもいられない」
チルーは浅く頷いた。
「そうだね」
「ま、面倒くさいけどさ」
けらけら笑うリリスが、たまたま顔を向けた方向に目を凝らし、真顔になった。
知っている道だった。
中等学校がある。
併設の修道院が、教会が……聖所が。
二人はそこにたどり着いた。十字の中央に釘を打ちつけられた聖四位一体紋を見つけた。
「あらら、先に冒涜されちゃった」
リリスが軽口を叩く。チルーは黙って手を伸ばし、釘の頭を押してみた。
「どうして私たちは死者に願いを託したんだろう」
「死者がどこにもない場所に行けるからだよ」
「リリス、私ね、イースラに酷いこと言ったの」
「聞いてた」
リリスが肩を並べた。
「君が『死にたくない』って叫ぶの、聞こえてた」
奥歯に力がこもる。
もっと耳を傾けるべきだったのだ。
人付き合いが苦手だからなんて、そんなのは言い訳だった。
もっと耳を傾ければよかった。
生者に対しても。死者に対しても。
「……死者の声、聞こう」
だが、チルーはなかなか手袋を外せなかった。
「どうしたの?」
「生きてる人がたくさんついて行っちゃう」
「チルー」
リリスが背中に手を当てた。
「私が一緒に罪を犯す」
覚悟を決め、チルーは一息に手袋を脱ぎ捨てた。
掌の紋様。
それが盛り上がり、青い背中とオレンジの腹の小鳥に変わった。
翼を広げて飛んでいく。
無音。
「リリス、行かないで」