無音、闇、死

文字数 2,435文字

 3.

 宿を求めるのは無理そうだった。老婆には「フクシャに戻る」と言っておきながら、リリスは明かにそれと反対方向の丘を上り始めた。魔女を名乗る老婆の家での一件は、リリスには休息たり得たらしい。ヒースの荒れ野の丘を上る足取りは軽くなっていた。もっともそれについて行けているのだから、チルーも多少は回復しているはずだった。
 持っている食料は、寮からくすねたビスケットが一缶。あんずの砂糖漬けの小瓶が一つ。野宿の道具はない。現金はリリスが持っている。レライヤが巡礼に見舞われたとき、たまたま居合わせて死者を斬った報酬金だ。だが、両親が金を送っているのだという噂があった。真相は聞けない。何故か羽振りがいい生徒は他にもいた。チルーは現金を手に入れたことがなかった。
 大きな起伏を上りきると、リリスは後ろを振り返った。視線はチルーを通りすぎ、冷淡な態度で壁に閉じこもる小さな町に向けられた。
 今見れば、本当に小さな町だ。人口も百人いればいいほうだろう。飢えたチルーの嗅覚は、料理の匂いを敏感に嗅ぎ取った。炊事の煙が見えないのは、強風が散らしてしまうから。雲の向こうには太陽がある。健康な空を見たかった。別れを告げながら傾いていく斜陽、穏やかな薄暮を。だが倦怠感に満ちた雲は、血を流して横たわる傷病者のように、夕日の色を吸いながら隙間なく空を埋めていた。
「魔女の伝承自体は珍しくもないよ」リリスが目を細めた「かつて言葉つかいは『魔女』や『悪い魔法使い』だった。教会のシステムに組み込まれるまで迫害されていたわけだし」
「でも魔女は私を仲間だと思わなかった」
「公教会に飼い慣らされてると思われたね。同じ力を持ってても、魔女だの魔法使いだのは言葉つかいが嫌いなんだ」
 チルーは頷いた。あの町にも教会はあったが、それができた頃から、あの町は魔女を(あが)め、教会に心を閉ざしてきたのだろうか。
「それよりリリスちゃん、どうするの?」
「死者を呼ぼう」
 待ち構えていたような素早い返答だった。チルーは体を強張らせた。
「呼んで、後を追うんだ。そのために逃げたんだよ」
「でも、町が」
「離れているよ。大丈夫」
「離れてたって、巡礼が町のほうに向かったらどうするの?」
「死者は死にたい人しか連れてかない」
「絶対いるよ」住民たちの冷たい視線を思い出しながら、リルーは町を手で指した。「死にたい人、いるよ、絶対。見たでしょ? あの人たち。生きていたそうに見えた?」
「チルー」
 慈愛を込めて微笑みながら、リリスは諭した。
「私たちを導くのは、死者の巡礼団しかないんだよ」
「駄目だよ!」
「君は何がそんなに恐いのかな?」
「巡礼団が町に向かったら人が死んじゃう。それに……」
「それに?」
 チルーは声を落とした。
「学園に見つかったらただじゃ済まない」
「ただじゃ済まないのは、ここで死者を呼んでも呼ばなくても同じだよ」
「でも」
「学園は反抗する生徒を許さない」リリスは微笑みながら言った。「殺される」目が優しいのが怖かった。「どのみち捕まったら同じなんだ」
「殺されるなんて、そんな」
「ジャスマインを忘れちゃいないよね」
 強風で雲が破れ、(つか)の間、西日がリリスの顔に色を塗った。
「義憤に駆られたジャスマイン。正義感の強い子」
「あの子は転校になったの」
「抵抗教会への内通を疑われて先生を傷つけた」
「あの子が内通者だったなんて嘘!」
「でもラプラ先生に瀕死の重傷を負わせたのは事実」
 強風が雲を押す。雲が、晴れ間が、閉ざされる。
「殺すつもりでやったんだ」
「だからって、学園が生徒を殺すなんて」
「私は聞いた。偶然だけど聞いちゃったんだ。校長がジャスマインの親に送る弔問金のことで教頭に相談してた」
「……やめてよ」
「やめないよ。事実だもん。私は本当のことを言ってる」
 リリスが腕を伸ばしてきて、チルーの右手を手袋越しに両手で包み込んだ。
「お願い。やって」力が込められた。「学園に関わったら未来はない。でも君の鳥なら私たちを導ける」
 チルーの心は拒否した。危なすぎるよ。
 だが、喉が凍りついた。
 唇は開いたが、動こうとしない。
 あの感覚。遠くへ離れていってしまう感覚。
 どこへ行ったらいいのかわからないということをわかっている。
 今夜眠る場所がないのなら、夜通し歩くしかない。どこへ?
 鳥なら導ける。本当に?
 心が体に戻っていく。本当は最初からこうしたかったのだ――手袋を脱ぐ――しなかったのは、責任を負いたくなかったから。
 リリスに頼まれてやるのなら、責任の半分をリリスが負う。言い逃れはさせない。できるなら、全責任を負わせたい。
 最低だ。
 リリスが手袋を預かった。たちまち冷えていく左手で、右手の紋様を撫でた。
 右手を軽く握ると掌が(かゆ)くなった。柔らかいものが掌から出てくる。
 手を開くと、小鳥が飛び出した。印象的な青い色彩の筋を残して町へと飛んでいく。
 その美しさに見惚(みと)れること数秒。
 チルーは我に返り、叫ぶ。
「そっちは駄目!」
 丘の上から一歩、町に足を踏み出した。後ろから肩を掴まれた。カワセミは町に飛び込んで、町を囲む壁に消えた。壁の手前のヒースの茂みから、何かが這い出てきた。
 複数人が、列を作って一人ずつヒースをかき分けて現れる。
 白の、黒の、青の、黄の、緑の巡礼衣の、死者が。
 チルーが凍りついている間に、死者は列を崩さずに、壁の切れ目から町に入り込んでいく。
 確かに、悲鳴が聞こえた。
 すぐに聞こえなくなった。
「チルー」
 肩を叩かれ、飛び上がる。
「君は死んじゃ駄目だよ」
 リリスが銃剣を抜き放ち、町に向かって丘を駆け下りていった。
 チルーはリリスを呼ぼうとしたけれど、声は出ないまま。リリスの姿は斜面の影に消え、見えなくなり、無音、闇。
 死。



 
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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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