私のママはバカ女
文字数 3,559文字
3.
ミルクの匂いがする追放されたルーリー先生の夢を見ていたら、ゆさゆさと体を揺すられた。夢が薄れていく。先生も薄れてしまう。大好きだった。行かないで。行かないで。
スアラは目を開けた。いつの間にか修道院内の礼拝室のベンチで眠り込んでいた。スアラの脇腹を掴んで揺すった修道女は、憐憫と面倒臭さが混ざり合った複雑な目でベンチを見下ろしていた。その顔の後ろから、ステンドグラス越しの朝陽が差してくる。人の気配がぞくぞくと集まりつつあった。
「起きて。礼拝の時間だから。出る?」
何を聞かれたのかよくわからなかったが、髪をかき上げて起きる頃には、礼拝に参列するかと聞かれているのだと理解した。
首を振るスアラは重ねて質問を受けた。
「おうちに帰れる?」
寒さで頭が痛い。
黙っていると、「帰りなさい」、と修道女は言った。
「あなたが初めてじゃないのよ、家出してくる子は。事情はあるんだろうけど、お父さんとお母さんに謝りなさい。心配してるはずよ」
「どうでしょうね」
「してます」
立ち上がるスアラの背中を押して、修道女は出口へと促した。
「あなたのお父さんとお母さんはこの世に一人しかいないのよ? うまくいかないことがあったって、産み育ててもらったご恩が消えるわけじゃありませんからね」
※
「セリスさん」
結局家に帰らず、手ぶらで登校すると、同じ教室の男子に声をかけられた。密かに想いを寄せる女子もいる、顔立ちが良く、人格と感性のまともな人気者だ。もちろん、これまで言葉を交わしたことはない。校舎の前庭で、すれ違う女子たちの目の痛い。
スアラは体を強張 らせ、怯えながら応じた。
「なに?」
顔見知りの女子たちが、ひそひそ話をしながら校舎に吸い込まれていった。誰かが聞こえよがしに言った。
「うわぁ、私服で来てる」
何考えてんの? ダサい。そう聞こえた。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
その男子も――名前を思い出そうとすればできるのだが、スアラはあえてしなかった――スアラに対して緊張しているようで、立ち話をしづらい距離があるのだが、近付いてこなかった。身構えた顔つきをしている。
「別になんともないけど」
「なら……いいけど」
スアラのほうから目をそらしたが、解放はされなかった。
「進路希望調査票、持ってきたか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「昨日先生がカンカンだったから。まだお父さんと揉めてるのか?」
「ほっといてよ!」
スアラは振り払うように背を向けた。
またしても、善意の追い討ちがかけられた。
「お父さんと仲直りしろよ!」
それから、なんだアイツ、という悪態。彼の友人が、「もうほっとけよあんな奴」と、聞こえよがしに言っていた。
これだから嫌だ。学校なんて大嫌い。でも、他にどこに行けるというのだろう? あの家よりマシな場所には違いないとわかっているのに?
「セリス」
校舎に入ったところで、今度は刺々 しい大人の声に呼び止められた。
「お前その格好はなんだ。鞄はどうした、えっ?」
数学のアンテニー・トピア先生だ。右手に包帯を巻いている。眼鏡をかけ、髪を油で撫で付けた、神経質そうな中年の男だ。生徒に厳しいことで知られているが、厳しいのではなく高圧的に振る舞いたいだけの大人だとスアラは見ていた。
生徒でごった返す廊下へと、用務員室からモップを手にしたブラザー・エンリアが出てきた。エンリアはスアラを見つけると、スアラに気付かれるより早く、用務員室の戸口に後退した。
「持ってきてないよ」スアラはうんざりして開き直った。「見ればわかるでしょ?」
「学校に手ぶらで来るとはいい度胸してるじゃないか」
ときどき女生徒を見る目がいやらしいと噂される数学教師は、その場でスアラを怒鳴りつけた。
「教科書もノートもなしでどうするつもりだ! えっ!?」
スアラは無表情で肩を竦めた。
「学校は遊ぶ場所じゃないんだぞ! お前みたいな奴はいなくていい! 帰れ!」
※
始業の鐘が鳴る中を、スアラは校舎に背を向けて、とぼとぼと立ち去ろうとしていた。これからどうしよう?
とりあえず眠りたかった。でも、家にはあの父親がいるし……見つからずに部屋に上がれるか……でも部屋には鍵がない。建具屋に寄ってみようか。でもまた外される。でも、家に帰らないと通学鞄を回収できず、学校にもいられない。でも、でも……。
夜通し修道院で炊き出しの手伝いをし、疲れて左右にふらつきながら校門への道のりを歩く。そんなスアラの後ろをエンリアがつけていた。足音を殺す修道士は、普段人に見せることのない、油断のならない目つきをしていた。
何も気付かずに眠い目をこすって歩くスアラは、顔を上げ、はたと足を止めた。校門の前に見慣れた自動車が停まっていた。降りてきたレティが神経質な足取りで中等学校の敷地に入ってきたと思うと、すぐにスアラに気がついて、同じく足を止めた。
それから、足早で寄ってきた。しかめ面をしていた。
「スアラ! あなた一晩じゅうどこをほっつき歩いてたの!」
スアラは面倒くさくて返事をしなかった。
「何しにきたの?」
「何しにって、学校に書類を出さなきゃいけないんでしょ? 代わりに持ってきてあげたんじゃない!」
進路希望調査票だ。
青ざめ、目の下に隈を作ったスアラは、わかっていることを尋ねた。
「『就職』に丸つけたの?」
「そうだけど」一転して宥 めすかす口調となった。「あなたはまだ一年生でしょう? 進路希望を出す機会は来年も再来年もあるんだから。ここで意地張ったって仕方ないでしょう」
「約束が違う」
「残念だけど、今のあなたを見ているとね、とてもあなたの好きにはさせられないわ。私もお父さんも同じ気持ちなの。朝まで家出して、手ぶらで学校に行くなんて――」
スアラの精神は疲弊して働きをとめ、視界は暗かった。
その暗い視界に心の火が見えた。
闇の中、怒りの熾火 が、まだ諦めにのまれず残っている赤い火花が閃いた。
「私がどうして一晩じゅう外にいたか知ってる?」
顎をあげた。俄然、視界が明るくなった。娘の目にある感情の強さに、レティが微かにたじろいだ。だが、すぐまた目尻を吊り上げて詰問口調になった。
「だったら言ってごらんなさい。何がそんなに気にくわないの!」
スアラにはわかっていた。所詮、娘だと思われていると。何を言っても、何を本気で伝えても、所詮、娘なのだ。
既に打ちひしがれそうになりながら、なおも言った。それでも本当のことを言えば、何かが変わるかもしれないじゃないか。
そう、単に自分が母を見くびっているだけだったなら。聞いてくれないと思っていただけならば。
母が、真剣に話を聞いてくれるなら。
そうならば、謝ろう。心から。
「お父さんが私を犯すって言った」
レティの顔から感情の色が消えた。
スアラは、もう一言。
「言うことを聞かないなら犯すって、お父さんに言われたの」
無言のまま時が過ぎた。
レティの心は固い無表情の防御の向こうに隠れていた。耳を疑っているのだろう。ショックを受けているのだろう。
ようやくレティはこう返事をした。
「どうしてそんな嘘をつくの?」
今度はスアラが耳を疑う番だった。
「はっ?」
「娘にそんなことを言う父親がいるわけないでしょ。とにかく学校が終わったら、今日はまっすぐ家に帰ってきなさい。どうしてもお父さんに謝りたくないんだったら、お母さんが一緒に謝ってあげるから」
諭すような口調になったかと思うと、今度は吐き捨てる。
「とことん自分勝手なんだから。あんたって本当にお父さんにそっくりね」
「いや、待って」
スアラは無意識に手を伸 べて、母親の腕に触れた。
「嘘じゃない。ホントだよ。私お父さんに――」
「やめて。聞きたくないわ、そんな話」
「お父さんは私に犯すぞって言ったんだ!」
手を振り払われ、スアラは縋るように声を荒らげた。
「部屋の鍵だってそのために――」
「お願いだからそんなこと外で言わないで、恥ずかしい!」
レティは腰を屈めて、恐い顔をスアラに近付けた。
「いい? 百歩譲ってお父さんが本当にそう言ったんだとしても、本気で言ったんじゃないのよ。わかるでしょう?」
「でも」
「とにかく、そんなことは一晩中外をうろついたり学校で問題を起こす理由にならないの」
レティは書類が入ったバッグを肩にかけ直し、捨て台詞を残して校舎に向かっていった。
「ほんと、そういうところなんだから!」
自分に向けられた母の背を、スアラは凍りついて凝視した。思わず追いかけた
そして、その二の腕に縋った。
もう一度だけ、言おうとした。
「ねえお母さん、私、嘘なんかついてない。お父さんは私――」
「でもまだされてないんでしょ!」
その手は決定的に振り払われた。
「くだらないことで大騒ぎしないで!」
ミルクの匂いがする追放されたルーリー先生の夢を見ていたら、ゆさゆさと体を揺すられた。夢が薄れていく。先生も薄れてしまう。大好きだった。行かないで。行かないで。
スアラは目を開けた。いつの間にか修道院内の礼拝室のベンチで眠り込んでいた。スアラの脇腹を掴んで揺すった修道女は、憐憫と面倒臭さが混ざり合った複雑な目でベンチを見下ろしていた。その顔の後ろから、ステンドグラス越しの朝陽が差してくる。人の気配がぞくぞくと集まりつつあった。
「起きて。礼拝の時間だから。出る?」
何を聞かれたのかよくわからなかったが、髪をかき上げて起きる頃には、礼拝に参列するかと聞かれているのだと理解した。
首を振るスアラは重ねて質問を受けた。
「おうちに帰れる?」
寒さで頭が痛い。
黙っていると、「帰りなさい」、と修道女は言った。
「あなたが初めてじゃないのよ、家出してくる子は。事情はあるんだろうけど、お父さんとお母さんに謝りなさい。心配してるはずよ」
「どうでしょうね」
「してます」
立ち上がるスアラの背中を押して、修道女は出口へと促した。
「あなたのお父さんとお母さんはこの世に一人しかいないのよ? うまくいかないことがあったって、産み育ててもらったご恩が消えるわけじゃありませんからね」
※
「セリスさん」
結局家に帰らず、手ぶらで登校すると、同じ教室の男子に声をかけられた。密かに想いを寄せる女子もいる、顔立ちが良く、人格と感性のまともな人気者だ。もちろん、これまで言葉を交わしたことはない。校舎の前庭で、すれ違う女子たちの目の痛い。
スアラは体を
「なに?」
顔見知りの女子たちが、ひそひそ話をしながら校舎に吸い込まれていった。誰かが聞こえよがしに言った。
「うわぁ、私服で来てる」
何考えてんの? ダサい。そう聞こえた。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
その男子も――名前を思い出そうとすればできるのだが、スアラはあえてしなかった――スアラに対して緊張しているようで、立ち話をしづらい距離があるのだが、近付いてこなかった。身構えた顔つきをしている。
「別になんともないけど」
「なら……いいけど」
スアラのほうから目をそらしたが、解放はされなかった。
「進路希望調査票、持ってきたか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「昨日先生がカンカンだったから。まだお父さんと揉めてるのか?」
「ほっといてよ!」
スアラは振り払うように背を向けた。
またしても、善意の追い討ちがかけられた。
「お父さんと仲直りしろよ!」
それから、なんだアイツ、という悪態。彼の友人が、「もうほっとけよあんな奴」と、聞こえよがしに言っていた。
これだから嫌だ。学校なんて大嫌い。でも、他にどこに行けるというのだろう? あの家よりマシな場所には違いないとわかっているのに?
「セリス」
校舎に入ったところで、今度は
「お前その格好はなんだ。鞄はどうした、えっ?」
数学のアンテニー・トピア先生だ。右手に包帯を巻いている。眼鏡をかけ、髪を油で撫で付けた、神経質そうな中年の男だ。生徒に厳しいことで知られているが、厳しいのではなく高圧的に振る舞いたいだけの大人だとスアラは見ていた。
生徒でごった返す廊下へと、用務員室からモップを手にしたブラザー・エンリアが出てきた。エンリアはスアラを見つけると、スアラに気付かれるより早く、用務員室の戸口に後退した。
「持ってきてないよ」スアラはうんざりして開き直った。「見ればわかるでしょ?」
「学校に手ぶらで来るとはいい度胸してるじゃないか」
ときどき女生徒を見る目がいやらしいと噂される数学教師は、その場でスアラを怒鳴りつけた。
「教科書もノートもなしでどうするつもりだ! えっ!?」
スアラは無表情で肩を竦めた。
「学校は遊ぶ場所じゃないんだぞ! お前みたいな奴はいなくていい! 帰れ!」
※
始業の鐘が鳴る中を、スアラは校舎に背を向けて、とぼとぼと立ち去ろうとしていた。これからどうしよう?
とりあえず眠りたかった。でも、家にはあの父親がいるし……見つからずに部屋に上がれるか……でも部屋には鍵がない。建具屋に寄ってみようか。でもまた外される。でも、家に帰らないと通学鞄を回収できず、学校にもいられない。でも、でも……。
夜通し修道院で炊き出しの手伝いをし、疲れて左右にふらつきながら校門への道のりを歩く。そんなスアラの後ろをエンリアがつけていた。足音を殺す修道士は、普段人に見せることのない、油断のならない目つきをしていた。
何も気付かずに眠い目をこすって歩くスアラは、顔を上げ、はたと足を止めた。校門の前に見慣れた自動車が停まっていた。降りてきたレティが神経質な足取りで中等学校の敷地に入ってきたと思うと、すぐにスアラに気がついて、同じく足を止めた。
それから、足早で寄ってきた。しかめ面をしていた。
「スアラ! あなた一晩じゅうどこをほっつき歩いてたの!」
スアラは面倒くさくて返事をしなかった。
「何しにきたの?」
「何しにって、学校に書類を出さなきゃいけないんでしょ? 代わりに持ってきてあげたんじゃない!」
進路希望調査票だ。
青ざめ、目の下に隈を作ったスアラは、わかっていることを尋ねた。
「『就職』に丸つけたの?」
「そうだけど」一転して
「約束が違う」
「残念だけど、今のあなたを見ているとね、とてもあなたの好きにはさせられないわ。私もお父さんも同じ気持ちなの。朝まで家出して、手ぶらで学校に行くなんて――」
スアラの精神は疲弊して働きをとめ、視界は暗かった。
その暗い視界に心の火が見えた。
闇の中、怒りの
「私がどうして一晩じゅう外にいたか知ってる?」
顎をあげた。俄然、視界が明るくなった。娘の目にある感情の強さに、レティが微かにたじろいだ。だが、すぐまた目尻を吊り上げて詰問口調になった。
「だったら言ってごらんなさい。何がそんなに気にくわないの!」
スアラにはわかっていた。所詮、娘だと思われていると。何を言っても、何を本気で伝えても、所詮、娘なのだ。
既に打ちひしがれそうになりながら、なおも言った。それでも本当のことを言えば、何かが変わるかもしれないじゃないか。
そう、単に自分が母を見くびっているだけだったなら。聞いてくれないと思っていただけならば。
母が、真剣に話を聞いてくれるなら。
そうならば、謝ろう。心から。
「お父さんが私を犯すって言った」
レティの顔から感情の色が消えた。
スアラは、もう一言。
「言うことを聞かないなら犯すって、お父さんに言われたの」
無言のまま時が過ぎた。
レティの心は固い無表情の防御の向こうに隠れていた。耳を疑っているのだろう。ショックを受けているのだろう。
ようやくレティはこう返事をした。
「どうしてそんな嘘をつくの?」
今度はスアラが耳を疑う番だった。
「はっ?」
「娘にそんなことを言う父親がいるわけないでしょ。とにかく学校が終わったら、今日はまっすぐ家に帰ってきなさい。どうしてもお父さんに謝りたくないんだったら、お母さんが一緒に謝ってあげるから」
諭すような口調になったかと思うと、今度は吐き捨てる。
「とことん自分勝手なんだから。あんたって本当にお父さんにそっくりね」
「いや、待って」
スアラは無意識に手を
「嘘じゃない。ホントだよ。私お父さんに――」
「やめて。聞きたくないわ、そんな話」
「お父さんは私に犯すぞって言ったんだ!」
手を振り払われ、スアラは縋るように声を荒らげた。
「部屋の鍵だってそのために――」
「お願いだからそんなこと外で言わないで、恥ずかしい!」
レティは腰を屈めて、恐い顔をスアラに近付けた。
「いい? 百歩譲ってお父さんが本当にそう言ったんだとしても、本気で言ったんじゃないのよ。わかるでしょう?」
「でも」
「とにかく、そんなことは一晩中外をうろついたり学校で問題を起こす理由にならないの」
レティは書類が入ったバッグを肩にかけ直し、捨て台詞を残して校舎に向かっていった。
「ほんと、そういうところなんだから!」
自分に向けられた母の背を、スアラは凍りついて凝視した。思わず追いかけた
そして、その二の腕に縋った。
もう一度だけ、言おうとした。
「ねえお母さん、私、嘘なんかついてない。お父さんは私――」
「でもまだされてないんでしょ!」
その手は決定的に振り払われた。
「くだらないことで大騒ぎしないで!」