あんたにはわからない
文字数 3,814文字
※
集合住宅の裏のごみ捨て場に転がり込んできた男は、左手で腹を、右手で顔を抑えていた。両目は瘤 のようなもので塞がれていた。石が瞼 に吸い付いているのだ。周囲を探ろうとし、男の腕が宙を泳ぐ。痩せた腕だ。その乾いた指先がコンクリート製のダストシュートの出口に触れたとき、彼は走り寄る軽い足音を聞いた。
男はしゃがむか、ダストシュートの陰に隠れるべきか、判断しそびれた。結局彼はリリス・ヨリスによって胃を蹴りあげられ、口の端から泡を飛ばしながら仰向けに倒れ込んだ。後頭部を打って倒れた男の腹をリリスの靴が踏む
「おじさんさぁ。ちょっと足踏まれたぐらいでしつこいんだよねぇ」
男は視力を失い、腹と頭の痛みに悶絶しながらなお抵抗した。
「この――ガキが――」
「躾の悪い犬だなあ」リリスは薄笑いを浮かべた。その表情は声にも反映された。「四つん這いになりなよ。紐つけて散歩してあげようか」
リリスがいる裏通りから十歩離れた脇道には、幌 つきトラックが一台路肩に停められていた。幌には洗濯場の名前が記載され、臭いを放つ洗濯物が山積みで、運転手は近隣の家で集金の最中だった。
チルーは運転手の動きを見下ろせる集合住宅の外階段に座っていた。その間、リリスの足もとでは男が悲鳴をあげていた。
「はあ? 『ガキが』じゃないでしょ!? 返事は『ワン』だよ、犬!」
「やめて!」
女が、叫びながら走ってきた。リリスは慌てて振り向いた。
灰色の修道服を身に着けた、自分と大して年の変わらない修道女だった。彼女は息を切らしてリリスのもとにたどり着くと、膝をつき、倒れている男に覆いかぶさった。
「やめてください。お願い。この人はかわいそうな人なの」
「かわいそうってどんなふうに? 私、こいつに殴られそうになったんだけど」
男は途端に、被害者のようにうめき始めた。
「そのことは私が謝ります。ですから、どうか――」
リリスはもう一度男の腹を踏みつけた。
「自分で謝れよ。口あるじゃん」
「やめなさい!」修道女は、やや乱暴にリリスの足を男の体から払いのけた。「あなた、こんなことをして楽しいの!?」
「楽しいね」
ニコリともせず応じるリリスを見て、シスターは返す言葉を失った。
そのとき外階段で、チルーが木の枝で手すりを二度叩いた。
怯えた目をするシスターの前で、リリスは彼女の望み通りに立ち去る素振りを見せた。
最後に言葉を残した。
「とっても楽しいよ。あんたにはわからない。帰る場所がある奴にはね」
背を向けるや、リリスは一目散に走り出した。集合住宅に沿って角を曲がったとき、トラックのエンジンがかかり、チルーは荷台にいて、幌の陰から必死になって手招いていた。急いで!
その手が伸 べられる。
リリスは地面を蹴りながらチルーの手を取った。荷台に飛び乗ると、チルーは即座に幌の隙間をしっかりと閉ざした。間を置かずしてトラックが動き始めた。
「うまい具合に修道院の人間が来たよ」
薄闇の中で、息を弾ませながらリリスが嬉々として報告した。だが、外に背中を向け、山盛りの洗濯物が押し込まれた麻袋のほうを見ていた。自分がことをしでかしたほうへと、彼女は目を向けようとしなかった。
トラックの荷台は、風から守られていても振動がひどかった。次に口を開いたとき、タイヤが石か何かを踏んだせいで、チルーは舌を噛みそうになった。
「さっき、何をしたの?」
「何って?」
「悲鳴が聞こえた」
幌を通して僅かに入る光でも、リリスのしかめ面を浮かび上がらせるのに十分だった。何より、彼女は舌打ちをした。
「どうでもいいじゃん、そんなの」
チルーが黙っていると、珍しいことに言い訳がましくなった。
「必要なことしたんだよ、騒ぎを起こして、あの場にずっと留まってるって思わせる作戦なんだから。それにさ、あいつは当然の報いを受けるべきだったんだ。ちょっとぶつかられただけで胸倉掴んでくるなんてさ」
「うん、そうだよ、リリスちゃん……その通りだよ」
チルーはリリスの横顔に視線を注いで言った。
「怒ってなんかないよ。大丈夫だよ」
「……そうだ」と、リリスは膝を打った。「そんなことより服を変えようよ。ずっと着たままじゃん?」
チルーは「うん」と同意を示すに留めた。
ラナからもらった衣服にできるだけ似ていないものを、リリスは必要以上に吟味して選んでいるように見えた。そんなリリスを見るのは初めてだった。今や全てが壊れようとしていた。限界を迎えるのだ。でも、どんな状況で?
チルーが温かい毛織りのジャケットに着替え終えたとき、幌の外の賑わいに気がついた。
「市場かな」
その呟きをリリスが拾う。
「じゃあ中等学校の近くだね。まずいね、もっと離れないと」
「もっと、ってどれくらい?」
当然、二人とも土地勘はない。
リリスが両膝を使って荷台の入り口に向かった。幌がわずかに開かれて、刺すように冷たい風と、赤く熟れた夕日が入ってきた。
トラックは市場に向かう大通りを走行中だった。
チルーもまた、外の様子を確かめようとにじり寄る。
あっ、とリリスが声をあげた。
「あの子!」
※
「まずさ、親と仲が悪いっていう悩みが贅沢なわけよ」
という一言が出るまでには、スアラは自分を買い物に連れ出した修道女を嫌いになっていた。
「修道院なんて好きこのんで入る場所じゃなし。大概体 のいい口減らしなわけでさ。母親の顔を見たくったって滅多に叶う願いじゃない。小さい子供だって修道院に入ったら歯を食いしばって我慢してるわけ。親がいて、しかも学校に行かせてもらえるなんてすごい贅沢なんだよ? わかる?」
そういえば、以前修道院で夜を明かしたとき、寝起きに説教を食らわせてきた修道女がいた。顔を覚えていないが、同じ人かもしれない。
スアラは助手席で腕組みし、窓の外に目を向けていた。目抜き通りは迷宮の影の中にあった。人は歩道からあふれて車道を渡っていた。陸軍のトラックが、すれ違うとき盛大にクラクションを鳴らした。
荷台には傷つき疲れ果てた兵士たちが満載で、そのうち一人が包帯を巻いた顔で、修道院の車をじっと見ていた。
「……君、聞いてる? 人の話」
ああ、昨夜は旅に出る相談をしたんだとスアラは思い出した。何故こんなにも遠い記憶なのだろう。
しつこくされたくなくて、スアラは投げやりな態度で答えた。
「聞こえてますよ」
生意気で不従順な、金持ちの両親に育てられた年下の同性に、修道女は舌打ちをした。次に、クラクションを鳴らした。歩行者を押しのけるように車が路肩に停められる。
「ここにいて」
てっきりついて行くものと思っていたスアラは運転席に目を向けた。
「荷物持たなくていいの?」
「結構よ」
彼女は明らかに、不機嫌な態度でスアラを不安にさせようとしていた。
「車の番をしててちょうだい」
市 の片付けが始まりつつある広場へと、麻袋だけ持って足を急がせる修道女は、そう遠くない将来に、スアラを勝手に連れ出した報いを受けることとなる。
スアラは一人、車に残された。
最初はせいせいした。忙 しげに外を行き交う人の流れを見ている内に、あの修道女の思ったとおりになってきた。通行人の視線に苛 まれ、不安になってきたのだ。
いじめられることになるのかもしれない。修道院では何をして暮らすことになるのだろう。慈善活動か。いや、まずは掃除洗濯からだろう。モップがけでも、洗濯でもなんでもいい。それをしていると聞こえよがしに噂されるのだ。
『親と仲が悪いんだって』『贅沢よね』
ああ、いかにもありそうじゃないか!
誰かがいきなり運転席側の窓を叩いた。びくつき、反射的に顔を向けた。お母さんだ、と思った。今は会いたくないと思いつつも、そうであることを願っていたのだと、はっきり自覚した。
だが、母ではなかった。
口を半開きにし、腰を屈めて車を覗き込んでいるのは、もう一年ほど会話をしていなかった隣家の初老の主婦だった。
嫌な予感に胸を刺され、スアラは助手席から外に出た。
「おばさん」
「スアラちゃん、あんたどこ行ってたの!」
「どこって」
「おうちが大変なことになってるじゃない!」
そのときスアラは、主婦が抱える紙袋から頭を出す赤ワインのボトルを見ていた。
「大変って、どういうことですか?」
「聖教軍の人がおうちに来て、あんたのお父さんとお母さんを連れて行っちゃったのよ。お母さんはこぉんなふうに抱えられてったし、お父さんなんてひどいことされて、誰かわからんくらい顔を腫らして……」
と、顔をしかめ、身振り手振りを交えて話すのだが、大袈裟に言っているわけではないことが、スアラには伝わった。
「お母さんが――」
連れて行かれた。
こぉんなふうに抱えられて。
スアラは、母親が後ろから羽交い締めにされ、両足を引きずりながら家の外に連れ出されるところを想像してみた。
嫌悪を伴いつつも、ありありと想像できた。
「そんな」
聖教軍が動いたのなら、両親の行き先は異端思想矯正の収容所しかあるまい。
「どうしよう。テレジアさんに言わなくちゃ」
スアラは子供で、何がどうなっているのか、混乱した頭ではわからなかった。救貧の聖女なら、収容所の偉い人にも顔がきくかもしれない、と思った。テレジアさんならお母さんにひどいようにはしないはず。
「何言ってんだい」
愛すべき隣人は事実を告げた。
「そのとき『救貧の聖女』があんたの家にいたんだよ」
集合住宅の裏のごみ捨て場に転がり込んできた男は、左手で腹を、右手で顔を抑えていた。両目は
男はしゃがむか、ダストシュートの陰に隠れるべきか、判断しそびれた。結局彼はリリス・ヨリスによって胃を蹴りあげられ、口の端から泡を飛ばしながら仰向けに倒れ込んだ。後頭部を打って倒れた男の腹をリリスの靴が踏む
「おじさんさぁ。ちょっと足踏まれたぐらいでしつこいんだよねぇ」
男は視力を失い、腹と頭の痛みに悶絶しながらなお抵抗した。
「この――ガキが――」
「躾の悪い犬だなあ」リリスは薄笑いを浮かべた。その表情は声にも反映された。「四つん這いになりなよ。紐つけて散歩してあげようか」
リリスがいる裏通りから十歩離れた脇道には、
チルーは運転手の動きを見下ろせる集合住宅の外階段に座っていた。その間、リリスの足もとでは男が悲鳴をあげていた。
「はあ? 『ガキが』じゃないでしょ!? 返事は『ワン』だよ、犬!」
「やめて!」
女が、叫びながら走ってきた。リリスは慌てて振り向いた。
灰色の修道服を身に着けた、自分と大して年の変わらない修道女だった。彼女は息を切らしてリリスのもとにたどり着くと、膝をつき、倒れている男に覆いかぶさった。
「やめてください。お願い。この人はかわいそうな人なの」
「かわいそうってどんなふうに? 私、こいつに殴られそうになったんだけど」
男は途端に、被害者のようにうめき始めた。
「そのことは私が謝ります。ですから、どうか――」
リリスはもう一度男の腹を踏みつけた。
「自分で謝れよ。口あるじゃん」
「やめなさい!」修道女は、やや乱暴にリリスの足を男の体から払いのけた。「あなた、こんなことをして楽しいの!?」
「楽しいね」
ニコリともせず応じるリリスを見て、シスターは返す言葉を失った。
そのとき外階段で、チルーが木の枝で手すりを二度叩いた。
怯えた目をするシスターの前で、リリスは彼女の望み通りに立ち去る素振りを見せた。
最後に言葉を残した。
「とっても楽しいよ。あんたにはわからない。帰る場所がある奴にはね」
背を向けるや、リリスは一目散に走り出した。集合住宅に沿って角を曲がったとき、トラックのエンジンがかかり、チルーは荷台にいて、幌の陰から必死になって手招いていた。急いで!
その手が
リリスは地面を蹴りながらチルーの手を取った。荷台に飛び乗ると、チルーは即座に幌の隙間をしっかりと閉ざした。間を置かずしてトラックが動き始めた。
「うまい具合に修道院の人間が来たよ」
薄闇の中で、息を弾ませながらリリスが嬉々として報告した。だが、外に背中を向け、山盛りの洗濯物が押し込まれた麻袋のほうを見ていた。自分がことをしでかしたほうへと、彼女は目を向けようとしなかった。
トラックの荷台は、風から守られていても振動がひどかった。次に口を開いたとき、タイヤが石か何かを踏んだせいで、チルーは舌を噛みそうになった。
「さっき、何をしたの?」
「何って?」
「悲鳴が聞こえた」
幌を通して僅かに入る光でも、リリスのしかめ面を浮かび上がらせるのに十分だった。何より、彼女は舌打ちをした。
「どうでもいいじゃん、そんなの」
チルーが黙っていると、珍しいことに言い訳がましくなった。
「必要なことしたんだよ、騒ぎを起こして、あの場にずっと留まってるって思わせる作戦なんだから。それにさ、あいつは当然の報いを受けるべきだったんだ。ちょっとぶつかられただけで胸倉掴んでくるなんてさ」
「うん、そうだよ、リリスちゃん……その通りだよ」
チルーはリリスの横顔に視線を注いで言った。
「怒ってなんかないよ。大丈夫だよ」
「……そうだ」と、リリスは膝を打った。「そんなことより服を変えようよ。ずっと着たままじゃん?」
チルーは「うん」と同意を示すに留めた。
ラナからもらった衣服にできるだけ似ていないものを、リリスは必要以上に吟味して選んでいるように見えた。そんなリリスを見るのは初めてだった。今や全てが壊れようとしていた。限界を迎えるのだ。でも、どんな状況で?
チルーが温かい毛織りのジャケットに着替え終えたとき、幌の外の賑わいに気がついた。
「市場かな」
その呟きをリリスが拾う。
「じゃあ中等学校の近くだね。まずいね、もっと離れないと」
「もっと、ってどれくらい?」
当然、二人とも土地勘はない。
リリスが両膝を使って荷台の入り口に向かった。幌がわずかに開かれて、刺すように冷たい風と、赤く熟れた夕日が入ってきた。
トラックは市場に向かう大通りを走行中だった。
チルーもまた、外の様子を確かめようとにじり寄る。
あっ、とリリスが声をあげた。
「あの子!」
※
「まずさ、親と仲が悪いっていう悩みが贅沢なわけよ」
という一言が出るまでには、スアラは自分を買い物に連れ出した修道女を嫌いになっていた。
「修道院なんて好きこのんで入る場所じゃなし。大概
そういえば、以前修道院で夜を明かしたとき、寝起きに説教を食らわせてきた修道女がいた。顔を覚えていないが、同じ人かもしれない。
スアラは助手席で腕組みし、窓の外に目を向けていた。目抜き通りは迷宮の影の中にあった。人は歩道からあふれて車道を渡っていた。陸軍のトラックが、すれ違うとき盛大にクラクションを鳴らした。
荷台には傷つき疲れ果てた兵士たちが満載で、そのうち一人が包帯を巻いた顔で、修道院の車をじっと見ていた。
「……君、聞いてる? 人の話」
ああ、昨夜は旅に出る相談をしたんだとスアラは思い出した。何故こんなにも遠い記憶なのだろう。
しつこくされたくなくて、スアラは投げやりな態度で答えた。
「聞こえてますよ」
生意気で不従順な、金持ちの両親に育てられた年下の同性に、修道女は舌打ちをした。次に、クラクションを鳴らした。歩行者を押しのけるように車が路肩に停められる。
「ここにいて」
てっきりついて行くものと思っていたスアラは運転席に目を向けた。
「荷物持たなくていいの?」
「結構よ」
彼女は明らかに、不機嫌な態度でスアラを不安にさせようとしていた。
「車の番をしててちょうだい」
スアラは一人、車に残された。
最初はせいせいした。
いじめられることになるのかもしれない。修道院では何をして暮らすことになるのだろう。慈善活動か。いや、まずは掃除洗濯からだろう。モップがけでも、洗濯でもなんでもいい。それをしていると聞こえよがしに噂されるのだ。
『親と仲が悪いんだって』『贅沢よね』
ああ、いかにもありそうじゃないか!
誰かがいきなり運転席側の窓を叩いた。びくつき、反射的に顔を向けた。お母さんだ、と思った。今は会いたくないと思いつつも、そうであることを願っていたのだと、はっきり自覚した。
だが、母ではなかった。
口を半開きにし、腰を屈めて車を覗き込んでいるのは、もう一年ほど会話をしていなかった隣家の初老の主婦だった。
嫌な予感に胸を刺され、スアラは助手席から外に出た。
「おばさん」
「スアラちゃん、あんたどこ行ってたの!」
「どこって」
「おうちが大変なことになってるじゃない!」
そのときスアラは、主婦が抱える紙袋から頭を出す赤ワインのボトルを見ていた。
「大変って、どういうことですか?」
「聖教軍の人がおうちに来て、あんたのお父さんとお母さんを連れて行っちゃったのよ。お母さんはこぉんなふうに抱えられてったし、お父さんなんてひどいことされて、誰かわからんくらい顔を腫らして……」
と、顔をしかめ、身振り手振りを交えて話すのだが、大袈裟に言っているわけではないことが、スアラには伝わった。
「お母さんが――」
連れて行かれた。
こぉんなふうに抱えられて。
スアラは、母親が後ろから羽交い締めにされ、両足を引きずりながら家の外に連れ出されるところを想像してみた。
嫌悪を伴いつつも、ありありと想像できた。
「そんな」
聖教軍が動いたのなら、両親の行き先は異端思想矯正の収容所しかあるまい。
「どうしよう。テレジアさんに言わなくちゃ」
スアラは子供で、何がどうなっているのか、混乱した頭ではわからなかった。救貧の聖女なら、収容所の偉い人にも顔がきくかもしれない、と思った。テレジアさんならお母さんにひどいようにはしないはず。
「何言ってんだい」
愛すべき隣人は事実を告げた。
「そのとき『救貧の聖女』があんたの家にいたんだよ」