友達が来てるんだ

文字数 3,155文字

 
 ※

 廊下は他の教室の生徒でごった返していた。何人かが、スアラの教室にトラブルの気配を嗅ぎつけて興味津々で覗き込んでいた。スアラは廊下の端の階段に着くと、帰ろうとする生徒の流れに逆行して上り始めた。二階から四階へ。人が減り、屋上へ続く階段に渡された鎖をまたぐと誰もいなくなった。
 その場所は電球が切れたままになっていた。埃が積もった階段の折り返し地点に立つと、スアラは詰めていた息を吐き出した。途端に涙がどっと溢れてきた。
 手の甲で(ぬぐ)う。
 私は泣き虫なんだけど、あいつらの前では泣かなかった。誰かに味方をしてくれなんて言わないし、嫌な気持ちにさせられた分をやり返してやった。バカ猿の足に引っかかって無様に転ぶこともなかったし、なんなら踏んづけてやったじゃない。
 えらい。えらいぞ私。よくやった。
 涙を流れるに任せ、スアラは階段を上りきった。そこはスアラの場所だった。ちょっと前まで屋上に出るための扉には鍵がかかっていたのだが、『奏明(そうめい)の魔女』の前にあっては鍵などないも同じこと。かつてスアラはそれをドアノブごと破壊してやったのだ。
 スアラには特別な賜物(たまもの)があった。だがスアラは公教会の育成機関には手渡されなかった。グロリアナという小さな町で、特別な子として育てられた。なんてったって、将来は(きた)るべき全世界宗教革命に身を投じることになっているのだから!
 スアラが小さかったとき、抵抗教会はグロリアナではまだわけのわからない異端でしかなかった。東や北の国々で起きている弾圧と抵抗など、この平和な田舎町には関係のない話だった。伝道者たる祖母に連れられて家々の玄関口に立つ幼いスアラを、近所の人々は、憐むような目で見た。
 タリムとレティは異端教会内の見合いで結婚した。当然、噂が立ち、一家は浮いた存在となった。
 まあお母さんもかわいそうだ、とスアラは思う。親の付き合いで新興の教派に移籍して、わけがわからずいるうちに、革命がどうとか武装するとかいう大きな話になってしまったのだから。
 かつてドアノブがあった穴から新鮮な風が吹いてきた。スアラは屋上に出た。その場所で、涙が止まり、乾き、頬の赤みが失せ、心がすっかり静かになるまで膝を抱えた。寒くないわけではないが、雪が降っているわけでもないし、風に吹かれていたかった。
 そのうちに、空の光が透き通る赤みを増してきた。いつまでもここにいたかった。だが、立ち上がる。足に血が通い始め、鈍い痛みと痺れを感じた。
 立ち去る前に、スアラは好きな光景を見ようとした。沈む太陽がルナリア山塊の雪を茜に染めるのを。その景色に一歩でも近付きたくて、スアラは屋上の縁に立った。リリスが校門でスアラを見つけたのはこのときだった。
 スアラの眼下では迷宮が光と影を織りなしていた。人が集まると壁ができ、壁に沿って町ができれば壁は数と高さを増す。町の東の端の壁の向こうに真白く険しい山々が頭を見せていた。ちょうど西日が山並みに直撃していた。
 壁がなければどれほど美しい光景だろう。
 スアラは自然が好きだった。土と風と太陽が。野に出れば鳥もいる。自然は厳しいが、理不尽ではないはずだ。おととい「良い」と言ったことを今日の朝には「ならぬ」と言ったりしない。
 目線を下げてうなだれた。立ち去る前には必ず下を見るのだ。ここから飛び降りたら死ぬという事実を確認するためだ。
 そう、いつでも死ねる。
 今日は違った。新たな課題が胸に持ち上がったのだ。『いつ』はいつだ?
 下劣な連中に思うままにされてからか。深く傷ついてからか。あるいは……。
 どれほど立ち尽くしていただろう。西日がまだ眩しいから、大した時間ではないかもしれない。
 口笛が聞こえた。
 振り向いたスアラの目に、ノブのない戸が外に向かって押し開かれるのが映った。現れたのは大柄な青年、陽気なブラザー・ディルク・エンリアだった。
 エンリアは砂糖漬けの小瓶を右手に掲げ、振った。
「よう、嬢ちゃん! アンズもらったぜ。食うか?」
 エンリアは、この学校で雑用のような仕事をしている男だった。修道士である以上、日々の聖務が第一の仕事なはずなのだが、敬虔(けいけん)そうな素振りは見たことがない。
「うめぇぞ」
 屋上の縁から離れたスアラの前で、エンリアは小瓶の蓋を開け、アンズの砂糖漬けを一切れ指でつまみ、口に運んだ。
 それから瓶の口をスアラに向けた。
 不覚にもスアラは笑ってしまった。
「いいよ、子供じゃあるまいし」
「子供!?」エンリアは大袈裟に反応した。「今俺のこと子供って言ったか!?」
 スアラは声を殺して笑うにとどめた。身の回り大人はどいつもこいつも嫌いだが、エンリアだけはそうでもなかった。まあ、比較的。
「何でそんなもの持ってんの?」
「向かいの婆さんがくれるんだよ。寒いし中入ろうぜ?」
 さりげなく、エンリアはスアラを屋内に導いた。スアラは鞄を拾い上げ、大人しく従った。
 階段に戻る。
「スアラちゃんよ、一応聞いてみるけど、あんたぶっ飛ばしてぇ奴とかいるか?」
「いる」ひとまず即答してから少し考えた。「シスター・エピファニア」
「わかる。俺も」
 階段には二人の声だけ響いていた。もうみんな帰ったのだ。
「でもやめとこうぜ、あれもうババアだからよ、ぶっ飛ばしたらマジで死にかねん」
 エンリアは自分で言った内容に笑った。
 鎖をまたぎ、鏡が夕日を照り返す廊下に一度出た。そのときスアラはエンリアの額に光る汗に気がついた。
 走って来たのか。何故?
「スアラちゃん、悩んでることとかないのかい?」
「なに、急に」
「一度はさ、俺に話してみてくれよ。何でもできるわけじゃねえけどさ、何かはできるかもしれんじゃん」
 スアラは理解した。屋上の縁にいたから、誤解されているのだ。
「ちょっと、勘違いしてない?」
「俺が?」
「私が屋上にいたのは……」
 階段の下のほうで咳払いが聞こえた。スアラは黙った。あの嫌味ったらしい咳払い。シスター・エピファニアだ。
 シスターは、老体に鞭打って生徒のもとに駆けつけたりはしなかった。修道服と頭にかぶるベールをきちんと整え、一階の階段下で待っていた。
「屋上で何をしていたのですか? セリスさん」
 立ちはだかるシスターの横をすり抜けようとしたスアラは、たちまち腕を掴まれた。仕方なく立ち止まる。
「離して」
「何をしてたか言いなさい」
「嫌だね」シスターの手をピシャリと叩いた。「話すくらいなら死んだほうがマシなんですけど」
「あなたは何もわかっていない」
 指がきつく腕に食い込んだ。
「まだ話したばかりなのに。その発言は(しゅ)の与えたもうた生命に対する冒涜です。懺悔なさい、すぐに」
「誰に? 先生に?」
「神にです!」
 スアラは腕を振って引き止める手を払った。スアラは短気だった。まだ少女で、しかも思い詰めた少女で、短気なうえに短慮であっても致し方なかった。
 シスターの手が離れると、叫んだ。
「下の毛でも剃ってるほうがマシなんだよ、バーカ!」
 さすがにシスターが蒼白になるのを見れば、少しは溜飲(りゅういん)が下がった。校舎の玄関に向かって大股で歩きだす。
 スアラと追うエンリアの後ろ姿を、エピファニアは立ち尽くして見送った。
 あの子はもう仕方がない。エピファニアは思った。仕方がない。手の施しようがない生徒はこれまでだっていた。そういう子は、神に(ゆだ)ね、卒業までやり過ごしていればいいだけの話だ。おお、神に栄光あれ。
「スアラちゃん、悪い、もうちょい話しかけていいか?」
 玄関は木製の両開きの扉で、片側だけ開いていた。スアラは立ち止まらずに返事した。
「なに?」
「あんたの友達が来てるんだ」
 今後は立ち止まった。エンリアの正気を疑った。むしろ心ない冗談を言われたかと思った。
 スアラに友達などいないからだ。

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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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