肉の体の朽ちるとも
文字数 5,827文字
※
アズにはわからない。
果たしていかなる理念や理想が、実際行われる野蛮の言い訳になるのか。
未来を手繰 り寄せるためならば、人は今をどれほど汚しても許されるのか。
わからない。
「銃を捨てて」
両手で拳銃を構えるミアは、数時間前に誰かに殴られたらしい。頬が腫れている。彼女はアズの正面に立ち、銃口は、アズが手で払おうとしてもぎりぎり届かない位置にあった。右にはイスラ、左にはもう一人別の青年がいて、三人で作り出した円弧にアズを閉じ込めていた。
「銃を捨てるのは吝 かではないが」
そうは言いながらも、アズは銃を捨てなかった。両手を上げる。
「理由を聞かせてくれないか」
「教会は変わらなくちゃいけないんだ」イスラが答えた。「すべて変わるんだ」
「国も、政治も」
と、ミア。
もう一人が締めくくる。
「全部の嘘っぱちを排除してやる」
それで、より正しい、原初の教えを、救い主が真に語った内容を、腐敗した聖職者たちの手から奪い返すと。
それはわかる。
わからないのは。
「君たちはバリケードの向こうで行われていることを知らない」
真正面に立つミアが首を横に振った。
「早く銃を捨てて」
「ルーはどこだ」
ミアの声が低くなる。「私、今度は撃てる」
「連中は君たちがリィと呼ぶ女性を殺した」
この一言は効いた。思わず目を見開いたミアの瞳をひたと見据える。
「……君は何も知らないんだな」
色を失うミアに代わり、名を知らぬ三人目の若者が一歩前に出た。
「これが最後だ」銃口が右のこめかみに突きつけられる。「銃を捨てろ」
アズは深々と息をつく。
真横の男が「あと三秒」
腕から力を抜く。左腕が、右腕が、体の両脇に垂れていく。
「二秒」
銃を置くために、ゆっくり膝を屈め――
「一秒」
アズの頭が下がるのに合わせ、若者の銃口もまた動く。
その銃口が完全に下がったとき。
バネのように素早く身を起こす。
左足が、低い位置にある若者の手首をしたたか蹴りつけた。悲鳴があがり、拳銃がごつごつした舗道を滑っていく。
アズは名を知らぬ若者の腕を掴み、肩越しに投げ飛ばした。
「本当に撃つぞ!!」
ミアが絶叫した。それは強い拒絶の悲鳴に聞こえた。だがイスラもろとも仲間の体で薙ぎ倒された。
三人が倒れている間に、よく知りもしない街の何処 かへと、アズは行方 をくらました。
※
「リィさん」
よそ者の街歩き。日暮れてなお続く。
杖店。紳士服店。帽子店。
ルーの家には寄り付けない。待ち伏せがいるはずだ。
鞄店。婦人服店。宝石店。
その裏口。
路地から路地へ縫い歩く。
徐々にいかがわしい通りへ。
「リィさん?」
安い酒場。売春宿。不衛生なホテル。
その裏口へ。裏口から裏口へ。川に出る。豊かな水を湛 えるエンレン湖から引いた用水で、川に沿って下れば倉庫街。さらに進めば夜には何が起きているのかわからない工場街だが、そこに至る直前で、アズは足を止めた。
川面 がガス灯を反射する。その赤っぽい明るさの中で、建ち並ぶ煉瓦 の倉庫の間から黒いワンピースが現れた。
殺された女は、いつでも逃げ出せるように半身を倉庫の陰に隠しながら、少し離れた場所に立つアズを見つめていた。
祈るような心持ちで、アズは彼女に近付いていった。自ら姿を現しただけあって、リィは逃げなかった。倉庫の間の闇に滑り込む。アズもまた身を隠した。
暗がりで、二人はしばらく何も言わなかった。
『どうして私を呼ぶの』
「これが最後ですから」
リィは怪訝 な目で見上げてきた。
「フクシャから出ていかなければいけません。すぐに」
『私を斬ってから行くの?』
「斬るつもりがあるのなら、最初に会ったときに斬っています。私はあなたにさまよって欲しくありません。ここには何もない」
『でも、見えないの。安らぎが見えない』目を伏せる。『どこに行けばいいの』
アズは外套のポケットに手を入れた。数珠 を引っ張り出す。珠 が音を立てた。
「名前を教えてください」
手に、星月夜の光が集まった。ロザリオが優しく照らされる。
「あなたのために祈りますから」
『どうしてそんなことをしてくれるの?』
「これが教会に属する者の本来の役目です」
リィはなお首を横に振る。
『でも私、お兄さんにお礼にしてあげられることが何もない』
代償を求められると思っているのだ。胸に不快な刺激を受け、アズは唇を結ぶ。見返りをあてにしない善意が存在する世界を彼女は生きてこなかったのだろう。家庭にいても、工場にいても……教会にいても。
「どうかご心配はなさらずに――」そのとき案が浮かんだ。「あるいは、もしも許していただけるのでしたら、あなたの屍 を私に使わせてください」
リィの困惑する目が、用水の豊かな流れに向けられた。
『……いいけど。あの川のどこかにあるの。水門に引っかかってればいいけど、流されてどこかに行ってしまったかも』
「構いません」
『腐って、形が残っていないかも』
アズは力強く、「構いません」
そのとき、初めてリィの瞳から緊張が抜けていった。風船の口から空気が抜けていくように、リィの目から全身の力が抜けていく。彼女はずり落ちるように、背中を倉庫の壁にこすり付けながら座り込んだ。
『シャーロット・リンドー』
眼前で跪 くアズに、リィはもう一度告げた。
『私の名前はシャーロット・リンドー。リィよりちゃんとシャーリィって呼ばれるほうが好きだったかも』
「わかりました。リンドーさんですね」
『シャーリィって呼んで、もしよければだけど。お兄さんは誰? なんていう名前なの?』
「私はアザリアス・ラティア、教皇庁公認の言葉つかいで現在の任地はガイエン。称号は『天使』。異名は『星月夜』」
初めてリィは笑顔を見せた。
『名前がたくさんあるね』
アズもまた、滅多にしないことだが、旧知の間柄でもない人間に微笑み返した。
「名前は一つです。皆はアズと」
『私もアズって呼んでいい?』
「もちろんです。ですが、あなたはもう行かなければなりません
リィの顔が不安に曇るが、もう拒まなかった。
ロザリオを左手に持ち替えて、右手でリィの肩に触れる。
光が強まった。二人の頭上で星が瞬いた。
『……ありがとう』
光に触れた肩が透明になる。すぐにリィの全身が消えた。
ここにはもう誰もいない。
「シャーリィ。シャーロット・リンドー」
アズは静かに聖四位一体紋を切る。
「天の御国 で会いましょう」
立ち上がる。
本番はむしろこれから。
アズは川沿いの道を走る。のたうつように緩やかな流れの下流へ。舗道は工場街が近づくにつれて石畳の質が悪くなり、足の裏に受ける凹凸が大きくなる。ガス灯は途絶える。遊歩道は車道と一体化する。もう日も暮れたのに、静まりかえった工場から明かりが漏れるのは何故? 破れた板壁から人のひそひそ話が漏れ聞こえるのは? 工場の裏で労働者が一人祈っているのは、その痩せた頬に涙が光るのは、何故?
アズは走るのをやめた。たどり着いたのだ。
水門に。
手すりのない階段を見つけ、岸へ下りた。月は半月よりも少し膨らんだ状態で、深い青紫色の空に輝きを増しつつあった。周囲に散った星々は、月に恭順するでもなく、めいめいが好きに輝いていながら調和がとれていた。淀んだ水は臭く、汚く、写る月影のみ清 か。
水門は、五枚の鉄扉 のうち三枚が上がっていた。探し物はなさそうに思えた。されどアズは目を凝らす。
橋脚の周囲と下がった二枚の鉄扉の前にはゴミが渦巻いている。雑草と、鉄線らしきもの。材木。靴。
靴?
アズはさらに目を凝らしながら水門に迫っていく。
四日か五日ほど前に、ガイエンで冬の雨が降った。フクシャでも降っただろう。水門が全て上がっていないのはその影響か。
リィがフクシャ大聖堂で殺されたとして、この用水に投じられたのなら、その地点は倉庫街に入った辺 りか……まさに先ほどリィがいた辺り。川の流れは極めて緩やか。すぐには殺しが発覚しないよう重石 をつけたなら、冷たい水の底でしばらく動かない。やがて腹にガスが溜まって浮力が生じ、重石が用をなさなくなる。
やがて体が川床 を離れる。
そこへ雨が降る。
水門が閉じる。
問題はどれほど重石をつけたかだ。足りていなかったなら、リィの変わり果てた骸 はとうに用水を下り、別の流れに合流している。足りたなら……ああ。
足りたのだ。
それを見つけ得たのは、浮かぶはずのないものが黒い水面に浮いていたからだ。
太い鎖。
アズはロザリオを掲げる。水面で月影が輝きを増し、下りた鉄扉のゴミ溜まりを照らした。
川底の藻で不気味にぬめる黒いワンピースは、膨張した体ではちきれそうになっていた。
リィはうつ伏せに浮いていた。
アズは聖四位一体紋を切る。
「シャーロット・リンドー、もしもあなたが望むなら、もしも、ミアとイスラがあなたの友ならば」
図面入れを開け、処刑刀を鞘から抜きながら取り出す。
切っ先を水門の骸に向けた。
「彼女たちを止めてください」
処刑刀の柄を左手でしっかりと握り、右手で刀身を撫でた。輝きが刀身に移り、
切っ先に集まる。
投擲 。処刑刀は放物線を描いて目標に届いた。鎖を避け、黒いワンピースにぷつりと刺さる。
腐乱し柔らかくなった体に刃物を突き立てるには、投げるだけで十分だった。
屍 の反転。処刑刀が水に没し、リィが仰向けになる。その姿に、もはやシャーロットという女の個性を偲 ばせる面影はない。
顔と体は二倍に膨れ上がり、色は腐敗ガスによって汚穢赤褐色 に変じていた。太くなった首は、ワンピースの襟もとで縛られたソーセージのようになっていた。仕立てのいい服ではない。けれど、貧しいなりに、教会の祭日におめかしをしたのだ。
水の中、腐ったリィが身を起こす。せっかくのワンピースがついぞはちきれ、ボロ布と化していく。体にまとわりつく毛髪はほとんどが抜け落ちていた。
真皮 が剥き出しになった両腕で水とゴミとをかき分ける。水死体のクロール。リィが近付くと悪臭が鼻を刺した。アズはマフラーで顔の下半分を覆う。目の表面がぴりぴりする。
シャーロット・リンドーだった水死体は岸に泳ぎ着き、服を引き裂きながら這い上がった。鎖が、重石が、川に沈んでいく。彼女が膨れ上がった舌と眼球を剥き出しにして目の前を走り抜けていくとき、アズはその背中から自分の武器を抜き取った。水っぽく重い足音、粘膜を刺激する臭気が去ったあと、アズは川の水に刀身を浸した。
それで、リィはどこへ。
リィを見つけたのはイスラだった。もっとも彼にはそれがリィだとわかるはずもなかった。
「しっかり探せよ、ミア!」
彼は八つ当たりで忙しかった。
「最初の一回だけならまだしも、また逃したなんて。言い訳できる相手じゃないぞ。わかってんだろうな!」
「わかってるから静かにしてよ。ここにいるって相手に教えてるようなもんでしょ」
二人は拳銃を手に周囲を警戒しながら歩いていたが、裏道の辻に出たとき、隣の筋をどたどたと走っていく巨体を目にした。イスラは反射的に吐いた。凄まじい激臭がしたのだ。ミアもまた銃を持っていないほうの手で鼻と口を覆う。だがそんなことで防げる臭気ではない。
巨体は二足歩行の人間の形に見えたが、異常に大きかった。二人は息も吸えぬまま視線を交わした。
なんだ、今のは?
巨体が去った方向から仲間の悲鳴が聞こえたのはその直後。
目を合わせたまま動けない二人は、あの激臭が次第に強まっていることにすぐに気がついた。
同時に同じ方向を見る。
巨体が走ってきた。腕を広げて。生者にも死者にも、善人にも悪人にも等しく注ぐ月光が、今、二人の目の前で一つの死の姿を浮かび上がらせた。その、酷 い形を。
袖口から伸びる手首は、袖口 の径の二倍ほどあった。大人の顔面をすっぽり覆える掌を広げ、動き回る死者はまず手前のイスラに迫る。
しきりに瞬きしながら、いつしかミアは口を大きく開けていた。
気付いたのだ、黒いワンピースに。
「リィ!」
イスラの顔面を掴み、水死体が弾けた。
※
誰かが顔を叩く。
「ミア」
乱暴な叩き方ではなかった。体を揺すられる。臭い。まずそう思った。全く鼻が慣れない。
「起きてくれ」
気絶していたらしい。臭気と恐怖で。起こしたのは誰か。アズだった。イスラは水死体の肉片に埋もれて気絶したままだ。
ミアは目を開けても何もする気になれなかった。戦ったり、命乞いしたり――どうしてそんなことを私がしなければならないの?
「事情は色々あるだろうが」
茫然自失のミアに、アズは語りかけた。
「ミア。君は殴られたときどう思った」
ミアは瞬きするばかり。アズには、とても彼女が戦いに向いた人間だとは思えない。もしそうだったとしても、これきり闘争などしたくなくなるだろう。
「そんなことをする奴とは付き合うな」
彼女の拳銃を拾い上げ、昼間と同じようにした。弾倉 から弾を抜いたのだ。それを壁に寄りかかっている彼女の腹に軽く投げた。
「家に帰れ」
そうしてアズは高いところを目指す。あとはルーだ。
近くにアパートメントがあった。その外階段を天辺 まで上る。
封鎖地帯を見下ろせた。屋根屋根に幌 が張り巡らされ、目隠しされている。
バリケードに一台のトラックが横付けされていた。
近くの戸が開き、トラックに何かが運び込まれた。
布に包まれた長いもの。
人だ。
拳を握りしめる。
「……ルー」
アズに見送られながら、トラックは夜の帳 の中へと走り去っていった。
アズにはわからない。
果たしていかなる理念や理想が、実際行われる野蛮の言い訳になるのか。
未来を
わからない。
「銃を捨てて」
両手で拳銃を構えるミアは、数時間前に誰かに殴られたらしい。頬が腫れている。彼女はアズの正面に立ち、銃口は、アズが手で払おうとしてもぎりぎり届かない位置にあった。右にはイスラ、左にはもう一人別の青年がいて、三人で作り出した円弧にアズを閉じ込めていた。
「銃を捨てるのは
そうは言いながらも、アズは銃を捨てなかった。両手を上げる。
「理由を聞かせてくれないか」
「教会は変わらなくちゃいけないんだ」イスラが答えた。「すべて変わるんだ」
「国も、政治も」
と、ミア。
もう一人が締めくくる。
「全部の嘘っぱちを排除してやる」
それで、より正しい、原初の教えを、救い主が真に語った内容を、腐敗した聖職者たちの手から奪い返すと。
それはわかる。
わからないのは。
「君たちはバリケードの向こうで行われていることを知らない」
真正面に立つミアが首を横に振った。
「早く銃を捨てて」
「ルーはどこだ」
ミアの声が低くなる。「私、今度は撃てる」
「連中は君たちがリィと呼ぶ女性を殺した」
この一言は効いた。思わず目を見開いたミアの瞳をひたと見据える。
「……君は何も知らないんだな」
色を失うミアに代わり、名を知らぬ三人目の若者が一歩前に出た。
「これが最後だ」銃口が右のこめかみに突きつけられる。「銃を捨てろ」
アズは深々と息をつく。
真横の男が「あと三秒」
腕から力を抜く。左腕が、右腕が、体の両脇に垂れていく。
「二秒」
銃を置くために、ゆっくり膝を屈め――
「一秒」
アズの頭が下がるのに合わせ、若者の銃口もまた動く。
その銃口が完全に下がったとき。
バネのように素早く身を起こす。
左足が、低い位置にある若者の手首をしたたか蹴りつけた。悲鳴があがり、拳銃がごつごつした舗道を滑っていく。
アズは名を知らぬ若者の腕を掴み、肩越しに投げ飛ばした。
「本当に撃つぞ!!」
ミアが絶叫した。それは強い拒絶の悲鳴に聞こえた。だがイスラもろとも仲間の体で薙ぎ倒された。
三人が倒れている間に、よく知りもしない街の
※
「リィさん」
よそ者の街歩き。日暮れてなお続く。
杖店。紳士服店。帽子店。
ルーの家には寄り付けない。待ち伏せがいるはずだ。
鞄店。婦人服店。宝石店。
その裏口。
路地から路地へ縫い歩く。
徐々にいかがわしい通りへ。
「リィさん?」
安い酒場。売春宿。不衛生なホテル。
その裏口へ。裏口から裏口へ。川に出る。豊かな水を
殺された女は、いつでも逃げ出せるように半身を倉庫の陰に隠しながら、少し離れた場所に立つアズを見つめていた。
祈るような心持ちで、アズは彼女に近付いていった。自ら姿を現しただけあって、リィは逃げなかった。倉庫の間の闇に滑り込む。アズもまた身を隠した。
暗がりで、二人はしばらく何も言わなかった。
『どうして私を呼ぶの』
「これが最後ですから」
リィは
「フクシャから出ていかなければいけません。すぐに」
『私を斬ってから行くの?』
「斬るつもりがあるのなら、最初に会ったときに斬っています。私はあなたにさまよって欲しくありません。ここには何もない」
『でも、見えないの。安らぎが見えない』目を伏せる。『どこに行けばいいの』
アズは外套のポケットに手を入れた。
「名前を教えてください」
手に、星月夜の光が集まった。ロザリオが優しく照らされる。
「あなたのために祈りますから」
『どうしてそんなことをしてくれるの?』
「これが教会に属する者の本来の役目です」
リィはなお首を横に振る。
『でも私、お兄さんにお礼にしてあげられることが何もない』
代償を求められると思っているのだ。胸に不快な刺激を受け、アズは唇を結ぶ。見返りをあてにしない善意が存在する世界を彼女は生きてこなかったのだろう。家庭にいても、工場にいても……教会にいても。
「どうかご心配はなさらずに――」そのとき案が浮かんだ。「あるいは、もしも許していただけるのでしたら、あなたの
リィの困惑する目が、用水の豊かな流れに向けられた。
『……いいけど。あの川のどこかにあるの。水門に引っかかってればいいけど、流されてどこかに行ってしまったかも』
「構いません」
『腐って、形が残っていないかも』
アズは力強く、「構いません」
そのとき、初めてリィの瞳から緊張が抜けていった。風船の口から空気が抜けていくように、リィの目から全身の力が抜けていく。彼女はずり落ちるように、背中を倉庫の壁にこすり付けながら座り込んだ。
『シャーロット・リンドー』
眼前で
『私の名前はシャーロット・リンドー。リィよりちゃんとシャーリィって呼ばれるほうが好きだったかも』
「わかりました。リンドーさんですね」
『シャーリィって呼んで、もしよければだけど。お兄さんは誰? なんていう名前なの?』
「私はアザリアス・ラティア、教皇庁公認の言葉つかいで現在の任地はガイエン。称号は『天使』。異名は『星月夜』」
初めてリィは笑顔を見せた。
『名前がたくさんあるね』
アズもまた、滅多にしないことだが、旧知の間柄でもない人間に微笑み返した。
「名前は一つです。皆はアズと」
『私もアズって呼んでいい?』
「もちろんです。ですが、あなたはもう行かなければなりません
リィの顔が不安に曇るが、もう拒まなかった。
ロザリオを左手に持ち替えて、右手でリィの肩に触れる。
光が強まった。二人の頭上で星が瞬いた。
『……ありがとう』
光に触れた肩が透明になる。すぐにリィの全身が消えた。
ここにはもう誰もいない。
「シャーリィ。シャーロット・リンドー」
アズは静かに聖四位一体紋を切る。
「天の
立ち上がる。
本番はむしろこれから。
アズは川沿いの道を走る。のたうつように緩やかな流れの下流へ。舗道は工場街が近づくにつれて石畳の質が悪くなり、足の裏に受ける凹凸が大きくなる。ガス灯は途絶える。遊歩道は車道と一体化する。もう日も暮れたのに、静まりかえった工場から明かりが漏れるのは何故? 破れた板壁から人のひそひそ話が漏れ聞こえるのは? 工場の裏で労働者が一人祈っているのは、その痩せた頬に涙が光るのは、何故?
アズは走るのをやめた。たどり着いたのだ。
水門に。
手すりのない階段を見つけ、岸へ下りた。月は半月よりも少し膨らんだ状態で、深い青紫色の空に輝きを増しつつあった。周囲に散った星々は、月に恭順するでもなく、めいめいが好きに輝いていながら調和がとれていた。淀んだ水は臭く、汚く、写る月影のみ
水門は、五枚の
橋脚の周囲と下がった二枚の鉄扉の前にはゴミが渦巻いている。雑草と、鉄線らしきもの。材木。靴。
靴?
アズはさらに目を凝らしながら水門に迫っていく。
四日か五日ほど前に、ガイエンで冬の雨が降った。フクシャでも降っただろう。水門が全て上がっていないのはその影響か。
リィがフクシャ大聖堂で殺されたとして、この用水に投じられたのなら、その地点は倉庫街に入った
やがて体が
そこへ雨が降る。
水門が閉じる。
問題はどれほど重石をつけたかだ。足りていなかったなら、リィの変わり果てた
足りたのだ。
それを見つけ得たのは、浮かぶはずのないものが黒い水面に浮いていたからだ。
太い鎖。
アズはロザリオを掲げる。水面で月影が輝きを増し、下りた鉄扉のゴミ溜まりを照らした。
川底の藻で不気味にぬめる黒いワンピースは、膨張した体ではちきれそうになっていた。
リィはうつ伏せに浮いていた。
アズは聖四位一体紋を切る。
「シャーロット・リンドー、もしもあなたが望むなら、もしも、ミアとイスラがあなたの友ならば」
図面入れを開け、処刑刀を鞘から抜きながら取り出す。
切っ先を水門の骸に向けた。
「彼女たちを止めてください」
処刑刀の柄を左手でしっかりと握り、右手で刀身を撫でた。輝きが刀身に移り、
語れ。
切っ先に集まる。
死者たちよ、語れ。
腐乱し柔らかくなった体に刃物を突き立てるには、投げるだけで十分だった。
顔と体は二倍に膨れ上がり、色は腐敗ガスによって
水の中、腐ったリィが身を起こす。せっかくのワンピースがついぞはちきれ、ボロ布と化していく。体にまとわりつく毛髪はほとんどが抜け落ちていた。
シャーロット・リンドーだった水死体は岸に泳ぎ着き、服を引き裂きながら這い上がった。鎖が、重石が、川に沈んでいく。彼女が膨れ上がった舌と眼球を剥き出しにして目の前を走り抜けていくとき、アズはその背中から自分の武器を抜き取った。水っぽく重い足音、粘膜を刺激する臭気が去ったあと、アズは川の水に刀身を浸した。
それで、リィはどこへ。
リィを見つけたのはイスラだった。もっとも彼にはそれがリィだとわかるはずもなかった。
「しっかり探せよ、ミア!」
彼は八つ当たりで忙しかった。
「最初の一回だけならまだしも、また逃したなんて。言い訳できる相手じゃないぞ。わかってんだろうな!」
「わかってるから静かにしてよ。ここにいるって相手に教えてるようなもんでしょ」
二人は拳銃を手に周囲を警戒しながら歩いていたが、裏道の辻に出たとき、隣の筋をどたどたと走っていく巨体を目にした。イスラは反射的に吐いた。凄まじい激臭がしたのだ。ミアもまた銃を持っていないほうの手で鼻と口を覆う。だがそんなことで防げる臭気ではない。
巨体は二足歩行の人間の形に見えたが、異常に大きかった。二人は息も吸えぬまま視線を交わした。
なんだ、今のは?
巨体が去った方向から仲間の悲鳴が聞こえたのはその直後。
目を合わせたまま動けない二人は、あの激臭が次第に強まっていることにすぐに気がついた。
同時に同じ方向を見る。
巨体が走ってきた。腕を広げて。生者にも死者にも、善人にも悪人にも等しく注ぐ月光が、今、二人の目の前で一つの死の姿を浮かび上がらせた。その、
袖口から伸びる手首は、
しきりに瞬きしながら、いつしかミアは口を大きく開けていた。
気付いたのだ、黒いワンピースに。
「リィ!」
イスラの顔面を掴み、水死体が弾けた。
※
誰かが顔を叩く。
「ミア」
乱暴な叩き方ではなかった。体を揺すられる。臭い。まずそう思った。全く鼻が慣れない。
「起きてくれ」
気絶していたらしい。臭気と恐怖で。起こしたのは誰か。アズだった。イスラは水死体の肉片に埋もれて気絶したままだ。
ミアは目を開けても何もする気になれなかった。戦ったり、命乞いしたり――どうしてそんなことを私がしなければならないの?
「事情は色々あるだろうが」
茫然自失のミアに、アズは語りかけた。
「ミア。君は殴られたときどう思った」
ミアは瞬きするばかり。アズには、とても彼女が戦いに向いた人間だとは思えない。もしそうだったとしても、これきり闘争などしたくなくなるだろう。
「そんなことをする奴とは付き合うな」
彼女の拳銃を拾い上げ、昼間と同じようにした。
「家に帰れ」
そうしてアズは高いところを目指す。あとはルーだ。
近くにアパートメントがあった。その外階段を
封鎖地帯を見下ろせた。屋根屋根に
バリケードに一台のトラックが横付けされていた。
近くの戸が開き、トラックに何かが運び込まれた。
布に包まれた長いもの。
人だ。
拳を握りしめる。
「……ルー」
アズに見送られながら、トラックは夜の