泥すすり
文字数 3,942文字
※
状況が変わったのは、天然の洞窟と人工のトンネルが複雑に入り組んだ迷路をさまよい、もはや方角もわからず、月の光も星の光も届かぬ通路の奥深くに入り込んでからだった。
「気味が悪ぃよなあ」
老若男女入り乱れた一団が、木材で補強された通路を通っていく。交代の時間だ。
「おれ、この持ち場が一番嫌いだよ」
「ガタガタ文句言わないで。そんなのみんな同じでしょ」
奥で吼えるような声が響いた。何十人もの女の金切り声が同時に放たれたという感じの叫びだ。声は空気を震わせながら、壁を伝ってやってくる。電線がしなって壁にぶつかり、白熱電球の銅の傘は音をたてた。通路にいる者たちは誰ともなしに立ち止まった。
十人いる一団の硬直が解けたのは、振動と声の残響がすっかり消え去ってから数秒後のことだった。
「まだ扉閉まんねぇのかよ」
彼らのうち、銃を持っているのは四人だけだった。そのうち三丁が、いまどき誰も使わないようなリボルバー式拳銃だった。
彼らは労働者と脱走兵を主体とする革命軍の中でも下っ端で、この持ち場の先にいるのは、銃など通用しない相手だ。
「あの化け物、若様の言うことなんざ聞きゃしねえのさ。暴れちまって、扉を塞ぐのも一苦労だ。餌を入れても見向きもしないんじゃねえのか?」
「もう狂っちまってんだろ? 若様のせいじゃない」
農民の中年女が言ったが、誰も言葉を続けなかった。彼らはまた耳を澄ませ、一番新しい銃を持つ一団のリーダーが、思い切ったように足を踏み出した。
彼らは士気が低く、最後尾の小太りの男は半ば足を引きずりながらため息ばかりついていた。その男の後ろから歩いてきた青年が、男の肩を叩いた。
「ちょっといいか?」
小太りの男の前を二人組が歩いていたが、距離は十歩以上も離れていた。
「ん? あんた誰だい?」
「実は煙草入れを落として……」
「見ない顔だな」
「おととい来たんだ」
アズは更に声を落とした。
「後ろの小部屋でこっそりふかしてたんだ。見つけてくれたら半分わけてやる。ちょっとだけ一緒に探してくれ。頼む」
土をくり抜いてできた小部屋に二人は入っていった。出てきたのはアズだけだった。アズは、早足で次の二人組に追いついた。
行く手にはカーブがあった。これから配置につく一団の大多数がカーブの向こうに姿を消し、二人が取り残されるのを待ってから、アズは鞘に収めた処刑刀を振りかぶり、背の高い男の脳天めがけて振り下ろした。
もう一人いたほうが、慌てて振り向いて、口と目を大きく開いた。殴りつけたほうの相手が倒れ込むのを捨て置いて、アズは立っているほうの男の口を右手で塞ぎながら押し、その背と頭を壁につけさせた。
「声を出すな」
その見張りは、まだ少年だった。
「銃はどこだ」
目を見て相手を判断する。勇敢だったり機転がきくタイプではなさそうだった。目脂 の溜まった目を充血させて、力なく首を何度も振っていた。唇の動きが掌に伝わってきた。
「やめて、やめて」
「静かにするなら殺さない。銃を出せ」
持ってない、と少年は言った。アズは彼を後ろ向きに立たせた。体の前面を壁に押し付けさせると、少年の背と腰、胸に触った。本当に持っていなかった。
「銃を持っているのは誰だ」
少年は泣き始めた。ぐずりながら人の名前らしきことを口にする。
「それは誰だ」
「一番前の人たちです。四人います。お願い、殺さないで」
「俺の後にもう一人くる」
アズははったりをかますことにした。
「ここでじっとしていろ。騒げばそのもう一人がお前たちを殺す」
少年は嗚咽しながら繰り返し頷いた。
「天使はどこにいる」
「えっ?」
「公教会の天使だ。ここにいるのはわかっている」
「どうして」
「答えろ」
処刑刀の柄頭を背中に押し付けてやると、早口でまくし立てた。
「この先だよ、泥すすりがいるところ。別の人たちが塒 に運んだんだ、さっき」
「塒はどこだ」
この先の角を右に曲がったらあとは一本道で、突き当たりに鉄の扉があるという。少年を壁に張り付かせたままにして、アズは足を早めた。
急げ。
間に合え。
アズはほとんど走り出した。もうこそこそしない。足音を聞きつけて、道の先で残りの七人がめいめい振り向いた。アズは右手を上げて彼らに振った。
「なんだあんた」
一番後ろの男が誰何 する。
「発電機の整備士だ。それよりさっき三人ばかし道を引き返していったぞ。逃亡する気じゃないのか?」
七人は顔を見合わせ、確かに三人欠けているのを把握すると、ある者は顔をしかめ、ある者はうんざりしてため息をついた。
「あの馬鹿野郎ども!」
一人がアズの横を通り、引き返そうとした。リーダーらしき先頭の男が声をかける。
「おい、勝手に動くな!」
「は? さっさと捕まえないと俺らの責任になるだろうが!」
それを聞き、さらに二人が群れを離れる。
残る先頭の四人は、腰の見えるところに銃を吊っていた。
リボルバー、リボルバー、リボルバー、自動拳銃。
「なあ、ちょっと話がある」
アズは自動拳銃を持つ男のもとに大股で歩み寄った。ここで彼らはアズの腰にぶら下がるおかしな刃物にも気を回したが、もはや構わなかった。アズはポカンとしている男の顎に拳をお見舞いした。
「動くな!」
くずおれる男の腰から自動拳銃を引き抜いた。
安全装置を解除。
不安が胸をよぎったが、杞憂 だった。弾倉は入っていたし、不発でもなかった。
乾いた銃声の反響に、耳を塞ぎながら人々が身を屈める。応戦しようとしたのは一人だけだった。続く一撃で、アズは向けられたリボルバーを敵の手から弾き飛ばした。ひらりとコートの裾を翻し、背を向ける。アズが曲がり角を右に曲がってから、ようやく腰抜けたちが古くさい銃を撃ち始めた。
空気の動きを顔に感じた。野外が近い。通路の後方で誰かが呼び子を吹き鳴らしている。
だが。
騒動は、前方の野外にはまだ届かない。
知っている光。カルシウムライトの光。
飛び出す。
岩壁に取り付けられた巨大な鉄扉。
大人が手を繋いで立っても、端から端まで届くには十五人は必要になるだろう。
まさに十五人ほどの大人が、岩壁の上と扉の周囲にいた。
ウィンチの動きに合わせて扉が閉まっていく。
鎖が鳴る。
ウィンチが軋む。
アズは叫んだ。
「ルー!!」
振り向いた革命家たちの目を、強すぎる閃光が灼 いた。その光を最後に、彼らは視力と命を失った。この場にいる男女は、全員銃で武装しており、訓練を受けている様子が見て取れた。だが荒れ狂う星月夜の天使の前で多少の訓練が何になろう。
「ルー!」
岩壁から血と臓腑がしたたり落ちる下で、アズは体を斜めにして、かろうじて残された隙間から体をねじ込んだ。
「どこだ? ルー!」
「アズ!」
闇の底から応答が返ってきた。
「なんで来やがった、馬鹿野郎!」
外の光に目を細める。足許 は手すりのない階段だ。遥か下のほうにも照明があるのが見て取れた。懐中電灯が落ちているのだ。
左手を凍る岩肌に当て、真っ暗闇の中で階段を降り始めた。初めは外から星の光を引き込むこともできたが、じきにそれも絶えた。
「どこにいるんだ? ルー、動けるか?」
慎重に、一段ずつ階段を降りていく。
星獣がいるはずだ。
生き物の気配はない。動くようなものは。獣も、ルーも。アズが足の裏をすって足場を確かめる音だけが響いていた。
そしてルーの声。
「来てんじゃねぇよ――」
段の縁 がない。底についたようだ。懐中電灯が落ちている場所がわかった。照らす虚空に何かの輪郭が見える。
歩み寄ってわかった。
変色した人間の背中だ。
力なく横たわっている。
「ルー!」
息をのみ、走り出す。
「今助ける――」
ルーの前に跪 いた。膝に抱き上げ、硬直する。
凍傷でぼろぼろになったその体には、首がなかった。
だが、声はした。
「気をつけろ!」
ルーの叫び。
直後、背後から胴を締め上げられた。
体が宙に浮く。ルーの体が地面に落ち、アズは高く吊り上げられた。
言葉もなく、アズは両手で様子を探った。アズの胴体を鷲掴みにするのは獣毛に覆われた指だった。無論
、人間の大きさではない。
目を下に向ける。
爛々 と光る目に、懐中電灯の白い光が反射していた。白目と黒目、それに睫毛 もある、ただ大きすぎるという点を除いて人間と同じ目だった。暗い色の虹彩に収まった知性のない瞳はアズを見上げていた。
毛に覆われた口が動く。
「ア、ズ」
喋っていたのは、この人とも獣ともつかぬ暗闇の住人だったのだ。
いや。
「悪い――」
違う。
「許、して、くれ――」
星獣の、開いた口の中。
そこに収まったルーの生首。
それが喋っていた。
生首を飴玉のように舐めながら、星獣はアズの腹と胸とを締める力を強めた。
ルー。
言葉にならない。
「くっ、――うっ、――」
指が体に食い込んで、息が苦しい。
ただ、下を見続ける。ルー。ルー。
銃は手放してしまっていた。剣は、化け物の手に胴体もろとも握られている。
光は。月の光。星の光。僅かな隙間から、もしも届くのなら――。
ぎゅっ、と一際強く力が加わった。閃光はアズの頭の中で散らばった。
意識が、白く塗りつぶされていく。
誰かが苦痛に悲鳴を上げていた。
それが自分の声だとは、アズにはわからなかった。
状況が変わったのは、天然の洞窟と人工のトンネルが複雑に入り組んだ迷路をさまよい、もはや方角もわからず、月の光も星の光も届かぬ通路の奥深くに入り込んでからだった。
「気味が悪ぃよなあ」
老若男女入り乱れた一団が、木材で補強された通路を通っていく。交代の時間だ。
「おれ、この持ち場が一番嫌いだよ」
「ガタガタ文句言わないで。そんなのみんな同じでしょ」
奥で吼えるような声が響いた。何十人もの女の金切り声が同時に放たれたという感じの叫びだ。声は空気を震わせながら、壁を伝ってやってくる。電線がしなって壁にぶつかり、白熱電球の銅の傘は音をたてた。通路にいる者たちは誰ともなしに立ち止まった。
十人いる一団の硬直が解けたのは、振動と声の残響がすっかり消え去ってから数秒後のことだった。
「まだ扉閉まんねぇのかよ」
彼らのうち、銃を持っているのは四人だけだった。そのうち三丁が、いまどき誰も使わないようなリボルバー式拳銃だった。
彼らは労働者と脱走兵を主体とする革命軍の中でも下っ端で、この持ち場の先にいるのは、銃など通用しない相手だ。
「あの化け物、若様の言うことなんざ聞きゃしねえのさ。暴れちまって、扉を塞ぐのも一苦労だ。餌を入れても見向きもしないんじゃねえのか?」
「もう狂っちまってんだろ? 若様のせいじゃない」
農民の中年女が言ったが、誰も言葉を続けなかった。彼らはまた耳を澄ませ、一番新しい銃を持つ一団のリーダーが、思い切ったように足を踏み出した。
彼らは士気が低く、最後尾の小太りの男は半ば足を引きずりながらため息ばかりついていた。その男の後ろから歩いてきた青年が、男の肩を叩いた。
「ちょっといいか?」
小太りの男の前を二人組が歩いていたが、距離は十歩以上も離れていた。
「ん? あんた誰だい?」
「実は煙草入れを落として……」
「見ない顔だな」
「おととい来たんだ」
アズは更に声を落とした。
「後ろの小部屋でこっそりふかしてたんだ。見つけてくれたら半分わけてやる。ちょっとだけ一緒に探してくれ。頼む」
土をくり抜いてできた小部屋に二人は入っていった。出てきたのはアズだけだった。アズは、早足で次の二人組に追いついた。
行く手にはカーブがあった。これから配置につく一団の大多数がカーブの向こうに姿を消し、二人が取り残されるのを待ってから、アズは鞘に収めた処刑刀を振りかぶり、背の高い男の脳天めがけて振り下ろした。
もう一人いたほうが、慌てて振り向いて、口と目を大きく開いた。殴りつけたほうの相手が倒れ込むのを捨て置いて、アズは立っているほうの男の口を右手で塞ぎながら押し、その背と頭を壁につけさせた。
「声を出すな」
その見張りは、まだ少年だった。
「銃はどこだ」
目を見て相手を判断する。勇敢だったり機転がきくタイプではなさそうだった。
「やめて、やめて」
「静かにするなら殺さない。銃を出せ」
持ってない、と少年は言った。アズは彼を後ろ向きに立たせた。体の前面を壁に押し付けさせると、少年の背と腰、胸に触った。本当に持っていなかった。
「銃を持っているのは誰だ」
少年は泣き始めた。ぐずりながら人の名前らしきことを口にする。
「それは誰だ」
「一番前の人たちです。四人います。お願い、殺さないで」
「俺の後にもう一人くる」
アズははったりをかますことにした。
「ここでじっとしていろ。騒げばそのもう一人がお前たちを殺す」
少年は嗚咽しながら繰り返し頷いた。
「天使はどこにいる」
「えっ?」
「公教会の天使だ。ここにいるのはわかっている」
「どうして」
「答えろ」
処刑刀の柄頭を背中に押し付けてやると、早口でまくし立てた。
「この先だよ、泥すすりがいるところ。別の人たちが
「塒はどこだ」
この先の角を右に曲がったらあとは一本道で、突き当たりに鉄の扉があるという。少年を壁に張り付かせたままにして、アズは足を早めた。
急げ。
間に合え。
アズはほとんど走り出した。もうこそこそしない。足音を聞きつけて、道の先で残りの七人がめいめい振り向いた。アズは右手を上げて彼らに振った。
「なんだあんた」
一番後ろの男が
「発電機の整備士だ。それよりさっき三人ばかし道を引き返していったぞ。逃亡する気じゃないのか?」
七人は顔を見合わせ、確かに三人欠けているのを把握すると、ある者は顔をしかめ、ある者はうんざりしてため息をついた。
「あの馬鹿野郎ども!」
一人がアズの横を通り、引き返そうとした。リーダーらしき先頭の男が声をかける。
「おい、勝手に動くな!」
「は? さっさと捕まえないと俺らの責任になるだろうが!」
それを聞き、さらに二人が群れを離れる。
残る先頭の四人は、腰の見えるところに銃を吊っていた。
リボルバー、リボルバー、リボルバー、自動拳銃。
「なあ、ちょっと話がある」
アズは自動拳銃を持つ男のもとに大股で歩み寄った。ここで彼らはアズの腰にぶら下がるおかしな刃物にも気を回したが、もはや構わなかった。アズはポカンとしている男の顎に拳をお見舞いした。
「動くな!」
くずおれる男の腰から自動拳銃を引き抜いた。
安全装置を解除。
不安が胸をよぎったが、
乾いた銃声の反響に、耳を塞ぎながら人々が身を屈める。応戦しようとしたのは一人だけだった。続く一撃で、アズは向けられたリボルバーを敵の手から弾き飛ばした。ひらりとコートの裾を翻し、背を向ける。アズが曲がり角を右に曲がってから、ようやく腰抜けたちが古くさい銃を撃ち始めた。
空気の動きを顔に感じた。野外が近い。通路の後方で誰かが呼び子を吹き鳴らしている。
だが。
騒動は、前方の野外にはまだ届かない。
知っている光。カルシウムライトの光。
飛び出す。
岩壁に取り付けられた巨大な鉄扉。
大人が手を繋いで立っても、端から端まで届くには十五人は必要になるだろう。
まさに十五人ほどの大人が、岩壁の上と扉の周囲にいた。
ウィンチの動きに合わせて扉が閉まっていく。
鎖が鳴る。
ウィンチが軋む。
アズは叫んだ。
「ルー!!」
振り向いた革命家たちの目を、強すぎる閃光が
「ルー!」
岩壁から血と臓腑がしたたり落ちる下で、アズは体を斜めにして、かろうじて残された隙間から体をねじ込んだ。
「どこだ? ルー!」
「アズ!」
闇の底から応答が返ってきた。
「なんで来やがった、馬鹿野郎!」
外の光に目を細める。
左手を凍る岩肌に当て、真っ暗闇の中で階段を降り始めた。初めは外から星の光を引き込むこともできたが、じきにそれも絶えた。
「どこにいるんだ? ルー、動けるか?」
慎重に、一段ずつ階段を降りていく。
星獣がいるはずだ。
生き物の気配はない。動くようなものは。獣も、ルーも。アズが足の裏をすって足場を確かめる音だけが響いていた。
そしてルーの声。
「来てんじゃねぇよ――」
段の
歩み寄ってわかった。
変色した人間の背中だ。
力なく横たわっている。
「ルー!」
息をのみ、走り出す。
「今助ける――」
ルーの前に
凍傷でぼろぼろになったその体には、首がなかった。
だが、声はした。
「気をつけろ!」
ルーの叫び。
直後、背後から胴を締め上げられた。
体が宙に浮く。ルーの体が地面に落ち、アズは高く吊り上げられた。
言葉もなく、アズは両手で様子を探った。アズの胴体を鷲掴みにするのは獣毛に覆われた指だった。無論
、人間の大きさではない。
目を下に向ける。
毛に覆われた口が動く。
「ア、ズ」
喋っていたのは、この人とも獣ともつかぬ暗闇の住人だったのだ。
いや。
「悪い――」
違う。
「許、して、くれ――」
星獣の、開いた口の中。
そこに収まったルーの生首。
それが喋っていた。
生首を飴玉のように舐めながら、星獣はアズの腹と胸とを締める力を強めた。
ルー。
言葉にならない。
「くっ、――うっ、――」
指が体に食い込んで、息が苦しい。
ただ、下を見続ける。ルー。ルー。
銃は手放してしまっていた。剣は、化け物の手に胴体もろとも握られている。
光は。月の光。星の光。僅かな隙間から、もしも届くのなら――。
ぎゅっ、と一際強く力が加わった。閃光はアズの頭の中で散らばった。
意識が、白く塗りつぶされていく。
誰かが苦痛に悲鳴を上げていた。
それが自分の声だとは、アズにはわからなかった。