真実を知りたいだけ
文字数 5,533文字
3.
「チルー?」
呼びかけられなければ、ずっとその場所にいられただろう。
「チルー、何?」
夏は消えた。花も去り、歌は、肩を揺さぶられたら、旋律の一つも思い出せなくなった。
リリスの顔がよく見えない。
涙のせいだった。
「何が起きたの、今?」
チルーはリリスの鋭さを恐れた。どうしたの、という質問ではなかったからだ。
「何を見たのか、言ってごらん」
鎧が軋んだ。錆びた体で、新しい花を待つ子供たちのもとへ行く。
チルーは何も言いたくなかった。生ぬるい滴が見開いた両目からあふれ出るに任せた。
他の誰が、あの光景を見たのだろう。
リリスの父親か?
「私にカワセミが来たみたいに」
リリスの目を見ず囁いた。
「リリスのお父さんにも、きっと何かが来たんだ」
「あなたたち、いい加減入ってらっしゃい」
ポーチからラナが声をかけた。なのでリリスは何も言わず、チルーの熱っぽい背中に手を当てて、ラナの言葉に従った。
館に足を踏み入れた。
壁のある広間の扉は固く閉ざされていた。
家の中にいれば、風にさらされることはなく、しかも二階の部屋は採光が良かった。暖炉に火が入っており、リリスの荷物があった。
ラナが尋ねた。
「どこまで行くつもりなの?」
かつては夫婦の寝室だったのだろうか。大きなベッドが二台、枕を窓がある壁際に向け、ナイトテーブルを挟んで並んでいた。一台は使われた形跡があり、もう一台は今からチルーが使うのだ。
質問に答えるのはリリスに任せた。チルーが聞きたいことだったからだ。
「どこまでも。ここから一番近い、教会のない町はどこですか?」
「南ルナリアの向こう、北の谷かしら。でもお勧めはできない。住民の多くが抵抗教会の過激派と入れ替わってしまっているの。女の子たちが行く場所じゃないわよ」
「どうしてそんなことに?」
リリスは乱れたベッドにどっかり腰を下ろした。チルーときたら、本当に町の人々への挨拶を後回しにしてここにきて良かったのかと気にしているのに。
ラナは両手の先端で火かき棒を挟み込み、角を崩し、炉内の空気をかき混ぜた。
チルーは何もかもに遠慮して突っ立ったままだった。
「谷に、生き残りの星獣が住み着いているの。それを、公教会を裏切った一人の言葉つかいが飼いならした。
以来、谷の町はその男の要塞よ」
「星獣? 今どき?」
「ええ。昔はそれに会いに行く人がこの町を通り過ぎていったものよ。いい夢を見させてくれるそうで」
答えながらラナは、火かき棒を横の壁の釘に引っ掛けようとして落とした。チルーは小走りで近付いた。目眩がした。ふらつきながらも暖炉にたどり着き、ラナに代わって棒を釘に引っ掛けた。
「あなた、熱が引くまで寝ていなさい」
物言いたげで、それは確実に、チルーが彼女を手伝ったことへの文句だった。
「夜までに、旦那があなたがたの新しい服を持ってくるわ。上の子が使っていた服よ。男物だけど我慢なさい」
「質問があるんですが」
リリスが靴を脱ぎながら尋ねた。
「この館にああした壁が現れたとき、ラナさんの二人のご子息はおいくつだったのですか?」
チルーは身を強張 らせた。聞かなくていいことだと思った。無神経な質問だと感じるのだが、なぜそう感じるのかはうまく言い表せられなかった。ラナは気分を害するだろう、と思った。何故そんなことを聞くのかと怒り出すだろうと。
または、怒らせたかったのだろうか。リリスにはそういうところがある。
ラナは怒らなかった。
「上の子は十三で、下の子は八歳でした。この教場に通っていてもおかしくない歳ですよ。でも、上の子は一人でいることを好んだし、下の子は病気をしていたの」
そう一息に答えて、ラナはいそいそと部屋を出た。
足音は、階段を降り、じきに玄関が閉まった。
※
翌朝。
丘の上から見る村は、低い壁に分断され、だが人々は壁に寄りかかったり肘をついたりして互いに歓談していた。住民同士の仲は険悪ではなさそうで、その様子がチルーを安心させた。
「これからどうしよう」
一緒に丘をくだるリリスは呑気 そうに、
「治ってから考えれば?」
「それじゃ遅いよ。私たち、追われてるんじゃないかな」
「じゃないかな、じゃないでしょ」
男物のシャツをはためかせてリリスは笑うが、どこか刺 があった。
「そうに決まってるよ」
リリスは死にたいのだ。チルーは喉から胸骨の下のほうへと鈍い痛みが落ちる感触に耐えた。リリスは、チルーもろとも殺されたって仕方がないと思っている。道連れが嫌なら、先の質問は自分に放つべきだった。これからどうするの?
学園に戻るのは嫌だ。鳥を奪われるのは嫌だ。
逃げるしかない。
けれど、体は病み、全てが億劫 だ。
そのとき理解した。
死にたい人は絶望しているのではない。生きていくためにするべきことが面倒で、その面倒の量が多い人から死んでいくのだ。たぶん。
ギターと縦笛と素朴な打楽器が数小節ずつ舞踏曲の練習をしていた。矢車草 や野菊のように純朴な調べだった。
その連想をしたのは、実際に矢車草と野菊を目にしたからだ。
丘をくだるチルーとリリスの前に教父が立ちはだかった。なにぶん大きいので、立ちはだかられたように思うのである。その籠手 から矢車草が薄紅 の花をのぞかせていた。
その鎧は、子供たちに花を手向 けるための、ただの装置だろうか。確かめたくなって、チルーはラナと同じように呼んでみた。
「教父様」
教父はチルーをじっと見つめた。正確には、兜にあいたスリットを数秒間チルーに向けた。
それからチルーの肩と背中に両手を当て、回れ右して館に戻るよう促した。
「病気の子は寝てろって? お優しいんだねえ。よく出来てるじゃん」
チルーには茶化す気は起きなかった。
「でも、リリス、心があるみたいだよ?」
「何に? 鎧に?」
物言わぬ鎧はチルーの背中をそっと押す。その籠手をリリスが素早く掴んだ。
「待って、何か書いてある」
リリスは籠手をひねり、手首の内側を自分の顔に向けた。相手が人間だったら悲鳴をあげただろう。リリスが指でなぞると、土埃が払われ、手首に刻まれた文字が読めるようになった。
『小さな魔女スアラ 一歳の誕生日に』
「魔女だって。まただよ」
鎧はリリスを振りほどこうとしなかった。心底嫌そうな顔をするリリスの手を鎧から離させたのは、チルーのまだ熱っぽい手だった。
「やめようよ」
それから、ただの物だと思う相手に一応言ってみた。
「私はいいんです。体は丈夫なほうですから」
教父はもう二人を止めなかった。
※
ラナは村はずれの家の窓辺で本を読んでいた。顔を紙面に寄せ、目で文字をすするような読みかたをしていたが、視力が低いぶん気配に敏 いのか、枯れ草を踏んで歩いてくる二人にはすぐに気がついた。
立ち上がるラナの前で、リリスは出窓を室内側に押して勝手に開けた。
「あら、あなたたち。寝ていればいいのに」
「チルーがダナンさんに挨拶がしたいって言うから連れてきたんです。服を持ってきていただいたとき、この子寝てたので」
「そんなこと言って、まあ」
切断された手を窓越しにチルーの額に当てた。
「熱が下がりきってないじゃない。ぶり返したら大変よ。まあ、とにかく入ってらっしゃい。鍵はかかっていませんからね」
その言葉に甘えて二人はラナの家に上がり込んだ。
ダイニングのテーブルには、ラナが読んでいた本の他に、編みかけのレースがあった。
「さっきまで手伝いの子がいたんですけどね。まあ子といっても三十を過ぎてるわけだけど。村では若いほうですからね」
「それ、仕上げちゃいましょうか」
手伝いが置いて行ったらしいレースに目を注ぎ、リリスが提案した。ラナが目を剥く。
「あなたが?」
「学園でお勉強しか教わらなかったわけじゃありませんよ。私たち、七歳までに、礼拝に出るときかぶるヴェールを自分で編めるようにならなきゃいけませんでしたから」
「あら、そう。じゃあお願いしようかしらね」
気のない様子でラナが言うので、リリスはチルーの隣の席に座った。三人家族なので、椅子はもう一脚ある。チルーは手持ち無沙汰で空席に座ることになった。
少しの間、不自然で居心地の悪い沈黙があった。
「教父様の手の刻印を見ました」
レースを編みながら、リリスがいたずらっぽく目を光らせる。
「あれは誰かのお誕生日プレゼントだったみたいですけど?」
「刻印があることなら知ってるわ。でも、私たちがそれに気付いたのは例の言葉つかいが去ってから。みんな、そんなことはどうでもいいと思っていたの。壁の件で傷ついて、動揺していましたからね」
「胸中お察しします」
リリスの型通りの文句にラナは愛想笑いを浮かべたが、鼻で笑ったようにも見えた。胸中などお察しできるわけがないでしょう、ご冗談を、ということだ。その笑いは冷たいだけでなく、矛盾と疎外感に満ちていた。彼女は子供を失わなかったのだから。
「ところでラナさん、この先には抵抗教会に飼い慣らされた星獣がいるって言ってましたよね」
「『泥すすり』のことね。言っておくけど、あなた方がそれに近付いたら、私は口を滑らせたことを死ぬまで後悔するわ」
「もう少し聞きたいんです。いい夢を見させてくれるって言っていたことについて」
「あなた、いい夢みたい?」
「別に」
「なら聞かなくていいわ」
リリスは器用にも、ラナを見つめたままレースの編み針を動かし続けた。
「脅威になるなら知っておきたいんです」
「近付かなければ脅威じゃない。それだけのものよ」
「近付いたら夢を見させられる?」
「ええ。その隙に革命闘士とやらに殺されて終わりよ。この話も終わりにしましょう」
「ラナさん」
その畳み掛ける口調に驚いた。なんと有無を言わせぬ強さだろう。寝起きを共にし、同じものを食べ、同じ教室で同じことを学んだ同い年の同性が、どうしてこんなに自分と違うのか。チルーは逃げ出したくなった。
「この水差し、サマリナリアのものですね」
ラナは虚をつかれた様子だった。チルーも同じ思いだ。隣国のその都市の名を聞いたことはある。リリスは水差しの取手を取り、向きを変えた。
花の紋章が彫られていた。夏のリナリア。
ラナは急に頭が鈍くなったふりをして、天井に向かって瞬いた。
「ああ、そうなのかしらねえ? 気にしたことなかったわ」
「一目見てわかった。錫 の純度が全然違う。この辺りの産物じゃない」
リリスは編みかけのレースをテーブルに投げ出した。ラナは彼女を見ようともしなかった。
「誰から買ったんですか?」
「行商くらいこの村にも来るわ。いちいち覚えていないし……」
「これを売った人は、あなたに星獣と革命闘士の残忍なやり口を吹聴 した人だ。違います?」
リリスがしていることは、質問なのに質問ではなかった。ラナは笑い飛ばしているのに笑い飛ばせていなかった。
「ラナさん、知ってますか? サマリナリアは抵抗教会が興 った最初期にその運動に賛同した」
「そんなこと、レライヤにいたら関係ない――」
「レライヤで活動するのに資金がいる」
「あなた、何が聞きたいの?」
「買わされたのでしょう。日用品も、私たちに出してくれたお茶や薬も」
ラナの微笑みの残滓 が唇から消える。リリスの目は輝き、その輝きの源が好奇心や知性であることに違いはないものの、口許 は殺気立っていた。なので、リリスが椅子を引いて立ち上がったとき、いよいよ何か取り返しのつかぬことをしでかすのではないかと恐れた。
リリスは今日も、腰に銃剣を下げていた。
「何が知りたいの」
だがラナは、威厳を込めて椅子に座っていた。
「教父様のことを教えて」
「話したことが全てよ」
「いいえ。あなたにはまだ話せることがある」
リリスは男物のズボンのポケットに手を入れた。
「私は知らなければならない」
ポケットから出てきたとき、リリスの指には数珠 が絡んでいた。
聖四位一体紋をラナの眼前に突きつける。
「村に教父様を連れてきたのは、こういう名前の人でしょう?」
ラナは目を細めた。鼻先で揺れ動く聖四位一体紋を手にとり、半ば引ったくるように見やすい位置まで遠ざけたり近付けたりした。
その喉からえづくような呻きがもれたので、チルーは彼女が吐くのではないかと思った。ああ、大人しく寝ていたほうがどんなにマシだっただろう。思考は現実逃避する。今は何時くらいだろう。お昼にはなっていない。学園は三限の授業だろうか。四限かな。基礎化学をやっているだろうか。それとも歴史? 戦闘実習?
「あなたは――あなたは――チルー!」
チルーは肩をびくつかせた。基礎化学も歴史も戦闘実習も遠い過去。二度と教室には戻らない。
「水を飲ませて……お願い……私の口まで持ってきてちょうだい」
純度の高い錫の水差しからガラスのコップに水を注ぎ、要求された通りにした。口の端から漏れた一筋を、ラナは袖口でぬぐった。
「何ていう……酷い運命」
「運命なんて信じない。真実を知りたいだけ」
ラナが、出窓に顔を向けた。次にリリス、最後にチルーが。
曇り空を背負い、冬枯れの草原を、教父が来た。
「チルー?」
呼びかけられなければ、ずっとその場所にいられただろう。
「チルー、何?」
夏は消えた。花も去り、歌は、肩を揺さぶられたら、旋律の一つも思い出せなくなった。
リリスの顔がよく見えない。
涙のせいだった。
「何が起きたの、今?」
チルーはリリスの鋭さを恐れた。どうしたの、という質問ではなかったからだ。
「何を見たのか、言ってごらん」
鎧が軋んだ。錆びた体で、新しい花を待つ子供たちのもとへ行く。
チルーは何も言いたくなかった。生ぬるい滴が見開いた両目からあふれ出るに任せた。
他の誰が、あの光景を見たのだろう。
リリスの父親か?
「私にカワセミが来たみたいに」
リリスの目を見ず囁いた。
「リリスのお父さんにも、きっと何かが来たんだ」
「あなたたち、いい加減入ってらっしゃい」
ポーチからラナが声をかけた。なのでリリスは何も言わず、チルーの熱っぽい背中に手を当てて、ラナの言葉に従った。
館に足を踏み入れた。
壁のある広間の扉は固く閉ざされていた。
家の中にいれば、風にさらされることはなく、しかも二階の部屋は採光が良かった。暖炉に火が入っており、リリスの荷物があった。
ラナが尋ねた。
「どこまで行くつもりなの?」
かつては夫婦の寝室だったのだろうか。大きなベッドが二台、枕を窓がある壁際に向け、ナイトテーブルを挟んで並んでいた。一台は使われた形跡があり、もう一台は今からチルーが使うのだ。
質問に答えるのはリリスに任せた。チルーが聞きたいことだったからだ。
「どこまでも。ここから一番近い、教会のない町はどこですか?」
「南ルナリアの向こう、北の谷かしら。でもお勧めはできない。住民の多くが抵抗教会の過激派と入れ替わってしまっているの。女の子たちが行く場所じゃないわよ」
「どうしてそんなことに?」
リリスは乱れたベッドにどっかり腰を下ろした。チルーときたら、本当に町の人々への挨拶を後回しにしてここにきて良かったのかと気にしているのに。
ラナは両手の先端で火かき棒を挟み込み、角を崩し、炉内の空気をかき混ぜた。
チルーは何もかもに遠慮して突っ立ったままだった。
「谷に、生き残りの星獣が住み着いているの。それを、公教会を裏切った一人の言葉つかいが飼いならした。
以来、谷の町はその男の要塞よ」
「星獣? 今どき?」
「ええ。昔はそれに会いに行く人がこの町を通り過ぎていったものよ。いい夢を見させてくれるそうで」
答えながらラナは、火かき棒を横の壁の釘に引っ掛けようとして落とした。チルーは小走りで近付いた。目眩がした。ふらつきながらも暖炉にたどり着き、ラナに代わって棒を釘に引っ掛けた。
「あなた、熱が引くまで寝ていなさい」
物言いたげで、それは確実に、チルーが彼女を手伝ったことへの文句だった。
「夜までに、旦那があなたがたの新しい服を持ってくるわ。上の子が使っていた服よ。男物だけど我慢なさい」
「質問があるんですが」
リリスが靴を脱ぎながら尋ねた。
「この館にああした壁が現れたとき、ラナさんの二人のご子息はおいくつだったのですか?」
チルーは身を
または、怒らせたかったのだろうか。リリスにはそういうところがある。
ラナは怒らなかった。
「上の子は十三で、下の子は八歳でした。この教場に通っていてもおかしくない歳ですよ。でも、上の子は一人でいることを好んだし、下の子は病気をしていたの」
そう一息に答えて、ラナはいそいそと部屋を出た。
足音は、階段を降り、じきに玄関が閉まった。
※
翌朝。
丘の上から見る村は、低い壁に分断され、だが人々は壁に寄りかかったり肘をついたりして互いに歓談していた。住民同士の仲は険悪ではなさそうで、その様子がチルーを安心させた。
「これからどうしよう」
一緒に丘をくだるリリスは
「治ってから考えれば?」
「それじゃ遅いよ。私たち、追われてるんじゃないかな」
「じゃないかな、じゃないでしょ」
男物のシャツをはためかせてリリスは笑うが、どこか
「そうに決まってるよ」
リリスは死にたいのだ。チルーは喉から胸骨の下のほうへと鈍い痛みが落ちる感触に耐えた。リリスは、チルーもろとも殺されたって仕方がないと思っている。道連れが嫌なら、先の質問は自分に放つべきだった。これからどうするの?
学園に戻るのは嫌だ。鳥を奪われるのは嫌だ。
逃げるしかない。
けれど、体は病み、全てが
そのとき理解した。
死にたい人は絶望しているのではない。生きていくためにするべきことが面倒で、その面倒の量が多い人から死んでいくのだ。たぶん。
ギターと縦笛と素朴な打楽器が数小節ずつ舞踏曲の練習をしていた。
その連想をしたのは、実際に矢車草と野菊を目にしたからだ。
丘をくだるチルーとリリスの前に教父が立ちはだかった。なにぶん大きいので、立ちはだかられたように思うのである。その
その鎧は、子供たちに花を
「教父様」
教父はチルーをじっと見つめた。正確には、兜にあいたスリットを数秒間チルーに向けた。
それからチルーの肩と背中に両手を当て、回れ右して館に戻るよう促した。
「病気の子は寝てろって? お優しいんだねえ。よく出来てるじゃん」
チルーには茶化す気は起きなかった。
「でも、リリス、心があるみたいだよ?」
「何に? 鎧に?」
物言わぬ鎧はチルーの背中をそっと押す。その籠手をリリスが素早く掴んだ。
「待って、何か書いてある」
リリスは籠手をひねり、手首の内側を自分の顔に向けた。相手が人間だったら悲鳴をあげただろう。リリスが指でなぞると、土埃が払われ、手首に刻まれた文字が読めるようになった。
『小さな魔女スアラ 一歳の誕生日に』
「魔女だって。まただよ」
鎧はリリスを振りほどこうとしなかった。心底嫌そうな顔をするリリスの手を鎧から離させたのは、チルーのまだ熱っぽい手だった。
「やめようよ」
それから、ただの物だと思う相手に一応言ってみた。
「私はいいんです。体は丈夫なほうですから」
教父はもう二人を止めなかった。
※
ラナは村はずれの家の窓辺で本を読んでいた。顔を紙面に寄せ、目で文字をすするような読みかたをしていたが、視力が低いぶん気配に
立ち上がるラナの前で、リリスは出窓を室内側に押して勝手に開けた。
「あら、あなたたち。寝ていればいいのに」
「チルーがダナンさんに挨拶がしたいって言うから連れてきたんです。服を持ってきていただいたとき、この子寝てたので」
「そんなこと言って、まあ」
切断された手を窓越しにチルーの額に当てた。
「熱が下がりきってないじゃない。ぶり返したら大変よ。まあ、とにかく入ってらっしゃい。鍵はかかっていませんからね」
その言葉に甘えて二人はラナの家に上がり込んだ。
ダイニングのテーブルには、ラナが読んでいた本の他に、編みかけのレースがあった。
「さっきまで手伝いの子がいたんですけどね。まあ子といっても三十を過ぎてるわけだけど。村では若いほうですからね」
「それ、仕上げちゃいましょうか」
手伝いが置いて行ったらしいレースに目を注ぎ、リリスが提案した。ラナが目を剥く。
「あなたが?」
「学園でお勉強しか教わらなかったわけじゃありませんよ。私たち、七歳までに、礼拝に出るときかぶるヴェールを自分で編めるようにならなきゃいけませんでしたから」
「あら、そう。じゃあお願いしようかしらね」
気のない様子でラナが言うので、リリスはチルーの隣の席に座った。三人家族なので、椅子はもう一脚ある。チルーは手持ち無沙汰で空席に座ることになった。
少しの間、不自然で居心地の悪い沈黙があった。
「教父様の手の刻印を見ました」
レースを編みながら、リリスがいたずらっぽく目を光らせる。
「あれは誰かのお誕生日プレゼントだったみたいですけど?」
「刻印があることなら知ってるわ。でも、私たちがそれに気付いたのは例の言葉つかいが去ってから。みんな、そんなことはどうでもいいと思っていたの。壁の件で傷ついて、動揺していましたからね」
「胸中お察しします」
リリスの型通りの文句にラナは愛想笑いを浮かべたが、鼻で笑ったようにも見えた。胸中などお察しできるわけがないでしょう、ご冗談を、ということだ。その笑いは冷たいだけでなく、矛盾と疎外感に満ちていた。彼女は子供を失わなかったのだから。
「ところでラナさん、この先には抵抗教会に飼い慣らされた星獣がいるって言ってましたよね」
「『泥すすり』のことね。言っておくけど、あなた方がそれに近付いたら、私は口を滑らせたことを死ぬまで後悔するわ」
「もう少し聞きたいんです。いい夢を見させてくれるって言っていたことについて」
「あなた、いい夢みたい?」
「別に」
「なら聞かなくていいわ」
リリスは器用にも、ラナを見つめたままレースの編み針を動かし続けた。
「脅威になるなら知っておきたいんです」
「近付かなければ脅威じゃない。それだけのものよ」
「近付いたら夢を見させられる?」
「ええ。その隙に革命闘士とやらに殺されて終わりよ。この話も終わりにしましょう」
「ラナさん」
その畳み掛ける口調に驚いた。なんと有無を言わせぬ強さだろう。寝起きを共にし、同じものを食べ、同じ教室で同じことを学んだ同い年の同性が、どうしてこんなに自分と違うのか。チルーは逃げ出したくなった。
「この水差し、サマリナリアのものですね」
ラナは虚をつかれた様子だった。チルーも同じ思いだ。隣国のその都市の名を聞いたことはある。リリスは水差しの取手を取り、向きを変えた。
花の紋章が彫られていた。夏のリナリア。
ラナは急に頭が鈍くなったふりをして、天井に向かって瞬いた。
「ああ、そうなのかしらねえ? 気にしたことなかったわ」
「一目見てわかった。
リリスは編みかけのレースをテーブルに投げ出した。ラナは彼女を見ようともしなかった。
「誰から買ったんですか?」
「行商くらいこの村にも来るわ。いちいち覚えていないし……」
「これを売った人は、あなたに星獣と革命闘士の残忍なやり口を
リリスがしていることは、質問なのに質問ではなかった。ラナは笑い飛ばしているのに笑い飛ばせていなかった。
「ラナさん、知ってますか? サマリナリアは抵抗教会が
「そんなこと、レライヤにいたら関係ない――」
「レライヤで活動するのに資金がいる」
「あなた、何が聞きたいの?」
「買わされたのでしょう。日用品も、私たちに出してくれたお茶や薬も」
ラナの微笑みの
リリスは今日も、腰に銃剣を下げていた。
「何が知りたいの」
だがラナは、威厳を込めて椅子に座っていた。
「教父様のことを教えて」
「話したことが全てよ」
「いいえ。あなたにはまだ話せることがある」
リリスは男物のズボンのポケットに手を入れた。
「私は知らなければならない」
ポケットから出てきたとき、リリスの指には
聖四位一体紋をラナの眼前に突きつける。
「村に教父様を連れてきたのは、こういう名前の人でしょう?」
ラナは目を細めた。鼻先で揺れ動く聖四位一体紋を手にとり、半ば引ったくるように見やすい位置まで遠ざけたり近付けたりした。
その喉からえづくような呻きがもれたので、チルーは彼女が吐くのではないかと思った。ああ、大人しく寝ていたほうがどんなにマシだっただろう。思考は現実逃避する。今は何時くらいだろう。お昼にはなっていない。学園は三限の授業だろうか。四限かな。基礎化学をやっているだろうか。それとも歴史? 戦闘実習?
「あなたは――あなたは――チルー!」
チルーは肩をびくつかせた。基礎化学も歴史も戦闘実習も遠い過去。二度と教室には戻らない。
「水を飲ませて……お願い……私の口まで持ってきてちょうだい」
純度の高い錫の水差しからガラスのコップに水を注ぎ、要求された通りにした。口の端から漏れた一筋を、ラナは袖口でぬぐった。
「何ていう……酷い運命」
「運命なんて信じない。真実を知りたいだけ」
ラナが、出窓に顔を向けた。次にリリス、最後にチルーが。
曇り空を背負い、冬枯れの草原を、教父が来た。