王と言葉つかい
文字数 2,902文字
2.
「でも、あなただって言葉つかいですよね」町外れの老婆の家でリリスが尋ねた。「どうして言葉つかいを敵視するんですか?」
ちょうど雪雲が割れて、窓から注ぐ光が老婆の視線の厳しさからチルーを守った。家に招じ入れられてもまだ、老婆は名を明かしてくれていなかった。
「どうして私を言葉つかいだと思うのかしら?」
「他の人たちの態度で。とても敬 われていらっしゃるし、家もご立派です」
老婆は深々とため息をつき、椅子を引いて立った。膝が悪いせいで、緩慢な動作だった。
どれほどの年月を杖をついて過ごしているのかは、床に貼られた木のタイルの傷 み具合でわかった。老婆には、頻繁に窓辺に寄る習慣があるようだ。床の傷を伝 い、彼女は食事のテーブルから張り出し窓に近付いていった。
「あなたたち、言葉つかいと自称できるのは、専門の教育を受けた人だけです。もっとも今は、言葉つかいに生まれついた我が子を機関に差し出さない親はいないから、私のような
ストーブが赤く燃え、小さなダイニングの寒気を和らげていた。チルーは眠くなった。空腹でさえなかったら、眠り込んでいてもおかしくなかった。
老婆は何もない食卓につくチルーとリリスに背中を向けていた。その背中越しに、鳥飼いの小屋が見えた。寒風吹き荒 ぶ中、小屋の前で、人々があかぎれだらけの手で薪を割っていた。中には子供もいた。
「あなたは鳥飼いなのですか?」
リリスが声をかけた。
「だとしたら彼女と同じです。この子チルーって言うんですが――」
「あの教会の鳥飼いのことなら知っています」
冷たい言い回しで質問を否定された。会話も。
「鳥飼いは……壁の低い小さな町では大した役目を負いません。それで自分の地位を得るために、偉そうに振る舞うのです。正 に彼女がそう」
教会を一瞥し、憎々しげに口を歪めた。
「必要のない助言。頼まれてもいない説教。親切ぶった介入。教会の中で人々をわけ、取り巻きに選んだ人間を、自分に似た人間にしてしまう」
リリスはどこか諦めたような顔をし、チルーの目を見ると、僅かに唇を吊り上げた。相手が自分のペースで語るに任せることにしたようだ。
「教会とはそう言う場所です。打ちひしがれ、たった一つの善を期待して訪れれば、むしろ様々な偽善を目にすることになる」
この人は、打ちひしがれて教会の戸をくぐったことがあるのか。チルーは思ったが、想像しにくかった。
「私もそう思いますよ」
老婆はリリスを振り向いた。リリスは悪戯っぽく微笑みかけ、問う。
「ですが、教会の鳥飼いは種子の運搬や害虫の駆除ができます。あなたは何ができるのですか?」
チルーは逃げ出したかった。老婆が怒り出すのではないかと思ったからだ。老婆は怒らない。答えは、わかるようなわからないようなものだった。
「私は何もしないわ。するときは、私ではなく私の魔女の才能がするのです」
「すみません。教えていただきたくて」と、リリス。「この町ではよく魔女の話がされるみたいですが、それは――」
飛び上がるほどの音がした。玄関からだ。机をひっくり返すような音に似ていた。嫌なことを思い出させる音。そう、昔のこと。第五階梯生のときの担任は恐ろしく、どんくさいチルーはよく怒りを買って机をひっくり返された。
だが、これはドアを勢いよく開け放つ音だった。そうと知れたのは、玄関とダイニングを隔てるドアが、同じ音を立てて目の前で開いたからだった。ドアは勢いよく室内の壁に激突し、弾みで戸框 に跳ね返った。閉まるよりも早く、男が乗り込んできた。
手にナイフを持っている。
チルーは反射的に立ち上がったが、それがまずかった。男の気を引き付けてしまった。男はチルーを凝視しながら大股で歩み寄ってくる。若くはない。無精髭は灰色になっていた。彼はチルーを後ろの壁際まで追い詰めると、ナイフを持った右手ではなく、左手を伸ばしてチルーの手首を掴んだ。
「石工だな。来い!」
その力の強さに、つい叫ぶ。「やめて!」
男がナイフを振り上げた。威嚇のためだったが、そのナイフが弾け飛んだ。
ナイフは弧を描いて飛び、緑色に塗られた鉄のストーブに当たった。その間の抜けた音のしばらく後に、乱入者は事態を把握した。
リリスが銃剣を抜いていた。
「離してよ、おじさん」その、人を怯 ませる笑み。「石工は私だよ?」
乱入者は口を開けたまま黙り込む。チルーは呆然とする男の手を自力で振りほどいた。呆然とするのは当たり前だ。チルーにとってもリリスの反応は予想外なのだから。
男の視線は、文字通り目と鼻の先にある銃剣の切っ先に集中していた。
「用はなに?」いかにも小馬鹿にした口振りだ。「聞くよ?」
今度は男のほうが怯えて後ずさる番だった。チルーは彼のために壁際 の場所を開けた。男は背中を壁にぶつけてから、立場の逆転を認めた。歯噛みし、銃剣から目を背けたのだ。
「キウ、出ておいき」
杖をつきながら、老いた魔女は振り向いて言った。
「いい子だ」
チルーの目には二人とも老いているが、老 け込みかたが違っていた。二人の間には親子ほどの歳の差がありそうだった。今や男は充血した目を潤ませていた。ただの目脂 かもしれないが。
「ママ――」
「出ておいき!」
思いもよらぬ気迫で老婆は怒鳴りつけた。
「お願いです、ママ。こんなことは二度とない。町に石工が来るなんて」
「お前の罪を忘れたのかい?」
「いいえ、一日も」
厳しく見据えられ、男は焦って言葉を継いだ。
「ですが、リアナの罪では――」
「剣をしまいなさい、お嬢さん」それはリリスに向けられた言葉だった。「私の家で騒ぎは勘弁です」
「ママ、どうか」
「リアナ」憐れみ深く老婆は呟く。「汚れなき娘」所詮 、見せかけの憐れみだ。「あの子が悪くなかったことなど誰もが知っています」
男は膝から床に崩れ落ち、手で顔を覆った。身も世もない呻き声が、涙と共に流れ出た。
「出ておいき。お前の罪と共に。あの子はもう死んでいます」
彼は泣き続けた。だが、一分とおかず立ち上がると、よろめきながら戸口へと去っていった。チルーを見るどころか、顔を上げることもせず、ここにナイフを持ってきたことさえ忘れていた。
玄関の戸が閉まると、ダイニングと玄関の間の戸も閉めるよう老婆はリリスに言った。
「かつて、『王』を追う言葉つかいが来ました」
王。
「さまよう王」
チルーは口走る。扇動者の型の一つだが、討伐した言葉つかいはいないと聞く。
「王に取り憑かれ、帰ってきた言葉つかいはいません。キウはその言葉つかいに余計なことをしました。思い違いから、言いがかりをつけて殺そうと」
「リアナって?」
「彼の一人娘です。今は壁の中に」
そのとき初めて老婆の目に、人間らしい感情が宿った。
「それさえなければ、彼もこの街を出ていけるでしょうに」
「でも、あなただって言葉つかいですよね」町外れの老婆の家でリリスが尋ねた。「どうして言葉つかいを敵視するんですか?」
ちょうど雪雲が割れて、窓から注ぐ光が老婆の視線の厳しさからチルーを守った。家に招じ入れられてもまだ、老婆は名を明かしてくれていなかった。
「どうして私を言葉つかいだと思うのかしら?」
「他の人たちの態度で。とても
老婆は深々とため息をつき、椅子を引いて立った。膝が悪いせいで、緩慢な動作だった。
どれほどの年月を杖をついて過ごしているのかは、床に貼られた木のタイルの
「あなたたち、言葉つかいと自称できるのは、専門の教育を受けた人だけです。もっとも今は、言葉つかいに生まれついた我が子を機関に差し出さない親はいないから、私のような
野良
は多くないはずですが」ストーブが赤く燃え、小さなダイニングの寒気を和らげていた。チルーは眠くなった。空腹でさえなかったら、眠り込んでいてもおかしくなかった。
老婆は何もない食卓につくチルーとリリスに背中を向けていた。その背中越しに、鳥飼いの小屋が見えた。寒風吹き
「あなたは鳥飼いなのですか?」
リリスが声をかけた。
「だとしたら彼女と同じです。この子チルーって言うんですが――」
「あの教会の鳥飼いのことなら知っています」
冷たい言い回しで質問を否定された。会話も。
「鳥飼いは……壁の低い小さな町では大した役目を負いません。それで自分の地位を得るために、偉そうに振る舞うのです。
教会を一瞥し、憎々しげに口を歪めた。
「必要のない助言。頼まれてもいない説教。親切ぶった介入。教会の中で人々をわけ、取り巻きに選んだ人間を、自分に似た人間にしてしまう」
リリスはどこか諦めたような顔をし、チルーの目を見ると、僅かに唇を吊り上げた。相手が自分のペースで語るに任せることにしたようだ。
「教会とはそう言う場所です。打ちひしがれ、たった一つの善を期待して訪れれば、むしろ様々な偽善を目にすることになる」
この人は、打ちひしがれて教会の戸をくぐったことがあるのか。チルーは思ったが、想像しにくかった。
「私もそう思いますよ」
老婆はリリスを振り向いた。リリスは悪戯っぽく微笑みかけ、問う。
「ですが、教会の鳥飼いは種子の運搬や害虫の駆除ができます。あなたは何ができるのですか?」
チルーは逃げ出したかった。老婆が怒り出すのではないかと思ったからだ。老婆は怒らない。答えは、わかるようなわからないようなものだった。
「私は何もしないわ。するときは、私ではなく私の魔女の才能がするのです」
「すみません。教えていただきたくて」と、リリス。「この町ではよく魔女の話がされるみたいですが、それは――」
飛び上がるほどの音がした。玄関からだ。机をひっくり返すような音に似ていた。嫌なことを思い出させる音。そう、昔のこと。第五階梯生のときの担任は恐ろしく、どんくさいチルーはよく怒りを買って机をひっくり返された。
だが、これはドアを勢いよく開け放つ音だった。そうと知れたのは、玄関とダイニングを隔てるドアが、同じ音を立てて目の前で開いたからだった。ドアは勢いよく室内の壁に激突し、弾みで
手にナイフを持っている。
チルーは反射的に立ち上がったが、それがまずかった。男の気を引き付けてしまった。男はチルーを凝視しながら大股で歩み寄ってくる。若くはない。無精髭は灰色になっていた。彼はチルーを後ろの壁際まで追い詰めると、ナイフを持った右手ではなく、左手を伸ばしてチルーの手首を掴んだ。
「石工だな。来い!」
その力の強さに、つい叫ぶ。「やめて!」
男がナイフを振り上げた。威嚇のためだったが、そのナイフが弾け飛んだ。
ナイフは弧を描いて飛び、緑色に塗られた鉄のストーブに当たった。その間の抜けた音のしばらく後に、乱入者は事態を把握した。
リリスが銃剣を抜いていた。
「離してよ、おじさん」その、人を
乱入者は口を開けたまま黙り込む。チルーは呆然とする男の手を自力で振りほどいた。呆然とするのは当たり前だ。チルーにとってもリリスの反応は予想外なのだから。
男の視線は、文字通り目と鼻の先にある銃剣の切っ先に集中していた。
「用はなに?」いかにも小馬鹿にした口振りだ。「聞くよ?」
今度は男のほうが怯えて後ずさる番だった。チルーは彼のために
「キウ、出ておいき」
杖をつきながら、老いた魔女は振り向いて言った。
「いい子だ」
チルーの目には二人とも老いているが、
「ママ――」
「出ておいき!」
思いもよらぬ気迫で老婆は怒鳴りつけた。
「お願いです、ママ。こんなことは二度とない。町に石工が来るなんて」
「お前の罪を忘れたのかい?」
「いいえ、一日も」
厳しく見据えられ、男は焦って言葉を継いだ。
「ですが、リアナの罪では――」
「剣をしまいなさい、お嬢さん」それはリリスに向けられた言葉だった。「私の家で騒ぎは勘弁です」
「ママ、どうか」
「リアナ」憐れみ深く老婆は呟く。「汚れなき娘」
男は膝から床に崩れ落ち、手で顔を覆った。身も世もない呻き声が、涙と共に流れ出た。
「出ておいき。お前の罪と共に。あの子はもう死んでいます」
彼は泣き続けた。だが、一分とおかず立ち上がると、よろめきながら戸口へと去っていった。チルーを見るどころか、顔を上げることもせず、ここにナイフを持ってきたことさえ忘れていた。
玄関の戸が閉まると、ダイニングと玄関の間の戸も閉めるよう老婆はリリスに言った。
「かつて、『王』を追う言葉つかいが来ました」
王。
「さまよう王」
チルーは口走る。扇動者の型の一つだが、討伐した言葉つかいはいないと聞く。
「王に取り憑かれ、帰ってきた言葉つかいはいません。キウはその言葉つかいに余計なことをしました。思い違いから、言いがかりをつけて殺そうと」
「リアナって?」
「彼の一人娘です。今は壁の中に」
そのとき初めて老婆の目に、人間らしい感情が宿った。
「それさえなければ、彼もこの街を出ていけるでしょうに」