霊歌
文字数 5,299文字
2.
茶色く枯れた牧草地の上で、厚い雲が世界に蓋をしていた。風は冬の間は四六時中吹き荒 んでいるけれど、夕方以降の風はもっと冷たいという。ラナから耳当てをもらい、チルーは牧場主の家を出た。
「どうしても仕方がないときは手伝いを呼ぶこともあるけどね、自分のことは自分でやるものよ。大抵はね」
両手がないラナは、逞しい右足を頼りに、薄く雪化粧した牧草地の起伏を上り始めた。
「食事のときは夫がここにスプーンを結びつけてくれてね、で、反対の手にナイフなりフォークなり。昔は一口ずつ食べさせようとしたものよ。でも、私が嫌でね」
「そうですか」
灰色になった髪は、結ぶ必要がないように短く切られていた。
「あの、ご家族の方にもお礼を言いたいのですが……」
滑らないように気をつけながら、チルーはラナの後ろを歩いた。
「夫なら、息子と一緒に牛舎のほうにいるよ。村の若いのも何人かいるかしらね。乾草 を切るのは重労働ですからね。それと、言っておきますけど、あなたをうちまで負 ぶってきたのはうちの人じゃなくてリリスです。礼はあの子に言いなさい」
ラナは歩きながら、出し抜けに後ろを振り向いた。目は濁っていながらも光が宿っていた。視力はまだ生きているのだ。その視線を追ってチルーも振り向いた。
雲の割れ目を色づけながら、光がこぼれ差した。その真下には、手をかざせば隠れてしまうほど小さな家々が点在していた。家と家の間には木が植えられている。チルーには何の木かわからなかったが、はだかの枝にさまざまな飾りが下がっているのが見えた。それは神の聖女の公現祭に用いる飾り付けに似ていた。色とりどりの細い帯や、陶器や、人形だ。
雲の割れ目が広がって、チルーは光に顔を背けた。
「うちの息子が、あさって結婚するの。その前祝いの飾りよ。……どうしたの? 何か珍しいものが見える?」
チルーはすっかり立ち止まってしまっていた。
「美しくて……壁のない景色が」
ラナを見た。彼女は光を直視していた。ラナもまた美しいことにチルーは気がついた。
老いていても、痛めつけられ、顔が焼け爛れても、美しい人だった。
※
起伏の先に、木の柵と、日干し煉瓦の館が見えた。
「あなたたち学園の子は、お祝いのとき、どういう踊りをするの?」
凹凸の多い地面をラナは苦労して歩いていく。チルーはなんだか未知の単語を聞いたような気がしたのだが、頭の中で反芻 すれば、すべて知っている単語だった。
「踊り?」
強風が吹きつける。身震いするが、耳当てのおかげで患部は温かかった。
「踊りなんてしません。そういうのは……」
チルーとて、子供の頃には飛び跳ねて遊ぶこともあった。音楽に合わせて体を動かすことも。だが、一度平手打ちを食らってからは二度とやらなかった。
「……そういうのは、あまり好かれていませんでしたから」
「踊りをすることが? 何故かしら」
「貧しい人や頭の悪い人がすることだからだそうです。もっと上級生になったら社交ダンスの授業もあるのですが」
「貧しい人がどうのって、それはあなたがそう言われたの?」
と聞く声は、気分を害したというよりは、訝 しんでいる様子だった。
はいと答えると、意外にもラナは笑った。
「それはひどいわねえ。でも、あさっての婚礼の日には、私、踊るわ」
「ラナさんが?」
「おかしいかしら?」
彼女は足が不自由で、きっと目もよく見えていない。
「いえ……」
「ごらんなさい。私が失った体の部分はこれだけよ」
と、袖口から、棒のようになった両手首の切断面を見せた。
「残された部分で、十分踊れるわ」
チルーは返事に困り、話題を変えた。
「息子さんは、何人いらっしゃるのですか?」
「二人いたのだけど、上の子は十四のときに家を出て、下の子があさって結婚するの。相手の家に住むことになってるからね、うちに住むのは、これからは私と夫だけ。昔は住み込みの家政婦がいたけれど、今はもう」
最後まで言い切らず、首を横に振る。寂しかろうとチルーは思った。しばしの沈黙が訪れた。
「……ところでラナさん、私たちはどこに向かっているのですか?」
「あなたが今夜寝るところよ」棒状の手で館を指した。「教父 様がいるの」
「教父」
「ちょっと前までね、あのお屋敷は子供たちの教場として開放されていたの。優しいお方だったのよ、大地主様は。あれだけ集まっていた子供たちも……」
柵は一部が倒壊しており、その場所から、朽ちかけた木片を踏んで敷地に足を踏み入れた。
「今は、これだけ」
煉瓦の壁に沿って曲がったチルーは、その先の光景に息を詰めた。
ペンキの剥 げたポーチに木彫りの像が座っていた。女の子だ。頭には、この真冬に、花冠を戴いている。花弁のそよぎかたを見て、造花じゃない、とチルーは理解した。
でも、どこに花が?
同じような像は、前庭のいたるところにあった。
三人で向かい合い、ボール遊びをしている子。
木に腕を伸ばし、虫をとっている子。
穏やかな表情で草の上に座り、物思いに耽 っている子供。
寝そべっている子供。
その子たちを飾る花は、冠だったり、首輪だったりした。
どれも生花だった。
「子供たちは?」
チルーは急に具合が悪くなってきた。
熱があるのだから、具合が悪くて当たり前なのだが、子供たちの像を見て不安を覚えた途端に体の不調を思い出してしまったのだ。
「生きている子供は」
「村に赤ちゃんが一人。私に孫が生まれたら二人目ね」
他に子供がいないなら、村は立ち行かなくなってしまうだろう。考えを見透かしたのか、ラナは聞く前に答えた。
「他の子たちは、あそこ」
館の窓を示された。
私は見たくない。チルーはわかっていた。ここで起きたことを知りたくなかった。まして今夜はここで眠るのに。
だが見た。
窓はこびりついた土埃で曇り、内部は異様に暗かった。
壁のせいだ。
魔女の町のキウ。娘を壁にのまれた。
あの家と同じことが、館の中で起きていた。
口走る。
「どうしてこんなことに」
「おや、まあ。解説しなくても理解したみたいな口ぶりね。それともよくある現象なのかしら」
だが、念のためか、ラナは言葉にして伝えた。子供たちは壁の中にいると。
「よくある現象だとは思いませんけど……」
チルーは前庭に顔を向けた。壁を見続けていたら、そこから手足が突き出ているのを見つけてしまいそうで嫌だった。
「言葉つかいのあなたが見ても珍しいものなのね」
「このことに言葉つかいが関係していると思うのですか?」
「言葉つかいが来たわ」
それを聞くや、チルーの小さな心臓が跳ねた。
「公教会の『天使』が」
その人がこれをしたと?
聞きあぐねているうちに、館の正面玄関が開いてリリスが現れた。赤みがかった黒髪を二つに分けて結い、不満げな顔をしていたが、チルーを見ると意図のわからぬ曖昧な笑みを浮かべた。その笑みを素直に解釈するならば、チルーが立って歩けているのを喜んでいるのだろう。
大丈夫。
自分に言い聞かせる。
あの子を恐がる必要はない。リリスちゃんは私を大事にしてる……たぶん。
「窓だったのね」
あまりに脈絡なくラナが呟くので、チルーは何か聞き逃したかと思った。
「えっ?」
「死にゆく人たちにとっての窓が、子供たちにとってのこの壁だった。向こうの世界を見ようとして……」
リリスは意図不明の笑みで、ポーチから、座る子供の木像越しに二人を見つめていた。どこか人を見下 した笑みに見えた。
「私は見た。子供たちにおやつをと思って、あの日持って来たときに」
階段に足をかける。チルーは反射的に支えようとした。ラナは手摺りを掴むこともできないのだ。
「結構。自分でやるわ」
「失礼しました……見たって、何をですか?」
「子供たちは自分から壁に入っていったの、ずぶずぶと」
そして、壁の反対側から出てくることはなかったと。
一段ずつ、ラナはポーチを上りつめる。
「さて、リリス。部屋は温めておいてくれたかしら」
「もちろん」
チルーは館に入りたくなかった。壁があるからだ。
リリスの父親かもしれない人が子供たちを壁に閉じ込めたとは思いたくなかった。思う思わない以前に不可能だ。迷宮の壁に干渉できる『石工 』とて、壁を加工することはできても、作り出すことはできない。
それができるのは、迷宮の中心の安らぎの地に座 すという、壁の聖女が織りなす歌だけだ。
奇妙な気配を背後に感じ、チルーは庭を振り向いた。
そこに、思わぬものを見た。
鎧が立っていた。
今どき博物館でしか見かけないような、頭のてっぺんから足の先まで覆う鉄の鎧。古 の騎士の装具。錆に覆われ、へこみ、肘当てはすり切れた残骸でしかなく、足のほうに目を向ければ、腿当てのベルトが壊れ、外れかかっている。
「教父様よ」
鎧は古く、腕に通した花輪は鮮やかだった。筒状の兜 に入った目のスリットから視線めいたものを感じるのだが、そこから植物の根がはみ出して、風になびいていた。
鎧に入っているのは人間ではない。土だ。
チルーは後退 りする。
「怖くないわ」
ラナが宥 めるが、チルーは怖かった。鎧が動いたからだ。
疲れた足を引きずるような、はっとするほど人間らしい歩き方だった。鎧は、子供の像にかかる古い花輪を取り去ると、新しい花輪と交換した。
優しい手つきだった。風が鎧の隙間に吹き込んで、悲しげに音を鳴らした。
「あれは……」リリスが言い淀む。結局口にした質問は、要領を得ないものだった。「あれは何なんですか?」
「この壁が、子供たちを呑み込んだあと……旅の言葉つかいは去り」
ラナの濁った目が潤んだ。涙ではない。目脂 だ。
「しばらくして、あの『教父様』を連れて戻ってきた。
教父様がすることはあれだけよ。子供たちの似姿を飾るの。私たちは言葉つかいが事態を解決してくれることを望んでいた。だけど、彼がもたらしたのは花を編む鎧だけだった。
私たちは怒った。でも、あの人がしたことが、結局は正しかったのね」
リリスが質問を重ねる。
「その言葉つかいは、どうして旅をしていたんですか?」
「『王』を追っている、と言っていたわ」
チルーはリリスと目配せを交わした。
言葉つかいの世界で『王』といえば、一つしかない。『さまよう王』。巡礼団を率いる煽動者の型の一つだ。王を討ち取り得た言葉つかいは一人もいない。
また、こうも言われる。
王にしろ何にしろ、煽動者はしばしば言葉つかいにとりつくと。
リリスは儀礼上の笑みを浮かべた。
「もっと近くで見てもいいですか?」
ええ、どうぞ、という返事を聞く前に、リリスはポーチを降りていった。チルーもついていった。
花冠を交換する鎧は、チルーより頭二つ分も丈 が高かった。それは――または彼、彼女は――少女たちが手の届く位置まで近付いたとき、手を止め、肩当てと喉当ての間から土をボロボロこぼしながら二人を振り向いた。
目のスリットの向こうに見えるのは、土と、タンポポの葉だけだった。肘の内側の、破れた鎖帷子 から、小さな白い野菊が顔を覗かせていた。
野菊は季節外れの風をものともせず、力強く根付いていた。リリスが自分の体でラナの視線を遮り、野菊を鎧から引っこ抜く。
野菊はたちまち、リリスの手の中で土塊 と化した。
冬が、すべてを枯らして吹きすさぶ。
リリスの白い掌からこぼれていく土塊を目で追って、チルーは見た。
一面の花を。
菊。
野菊。
爽快な夏空の下、優しい風に揺れている。
朽ちかけた鎧とともに、チルーは草原 にいた。
薔薇があった。タンポポがあった。高貴な花も、素朴な花も、全てが歌っていた。赤い花弁があった。黄色い花弁があった。生きているものの耳には聞き取り得ぬ声で、しかしその歌は、チルーの奥底に浸透し、存在と共鳴する。
その歌が、だんだんと、体じゅうで聞こえるようになってきた。振動を歌として聞くのだ。かつてここにいた人たちが、一日前、一年前、十年前、百年前、千年前、ここにいた人々、みな歌う、歌う。
存在の残された部分で歌う。
それはおぼろな亡霊などではない。その存在は確かに感じ取ることができる。
ああ、みんな、ここにいたのか。
イースラ。
ジャスマイン。
悲しむことはなかった。
気配の濃い方向を見やる。そこにあるのは壁。
草原にくっきりと濃い影を落とすその壁は、今や彼方で扉を開き、まばゆい光をこぼれさせ、その門前と壁の上とで居並ぶ人々が歌う。
魂の振動と、その永劫の歌を。
茶色く枯れた牧草地の上で、厚い雲が世界に蓋をしていた。風は冬の間は四六時中吹き
「どうしても仕方がないときは手伝いを呼ぶこともあるけどね、自分のことは自分でやるものよ。大抵はね」
両手がないラナは、逞しい右足を頼りに、薄く雪化粧した牧草地の起伏を上り始めた。
「食事のときは夫がここにスプーンを結びつけてくれてね、で、反対の手にナイフなりフォークなり。昔は一口ずつ食べさせようとしたものよ。でも、私が嫌でね」
「そうですか」
灰色になった髪は、結ぶ必要がないように短く切られていた。
「あの、ご家族の方にもお礼を言いたいのですが……」
滑らないように気をつけながら、チルーはラナの後ろを歩いた。
「夫なら、息子と一緒に牛舎のほうにいるよ。村の若いのも何人かいるかしらね。
ラナは歩きながら、出し抜けに後ろを振り向いた。目は濁っていながらも光が宿っていた。視力はまだ生きているのだ。その視線を追ってチルーも振り向いた。
雲の割れ目を色づけながら、光がこぼれ差した。その真下には、手をかざせば隠れてしまうほど小さな家々が点在していた。家と家の間には木が植えられている。チルーには何の木かわからなかったが、はだかの枝にさまざまな飾りが下がっているのが見えた。それは神の聖女の公現祭に用いる飾り付けに似ていた。色とりどりの細い帯や、陶器や、人形だ。
雲の割れ目が広がって、チルーは光に顔を背けた。
「うちの息子が、あさって結婚するの。その前祝いの飾りよ。……どうしたの? 何か珍しいものが見える?」
チルーはすっかり立ち止まってしまっていた。
「美しくて……壁のない景色が」
ラナを見た。彼女は光を直視していた。ラナもまた美しいことにチルーは気がついた。
老いていても、痛めつけられ、顔が焼け爛れても、美しい人だった。
※
起伏の先に、木の柵と、日干し煉瓦の館が見えた。
「あなたたち学園の子は、お祝いのとき、どういう踊りをするの?」
凹凸の多い地面をラナは苦労して歩いていく。チルーはなんだか未知の単語を聞いたような気がしたのだが、頭の中で
「踊り?」
強風が吹きつける。身震いするが、耳当てのおかげで患部は温かかった。
「踊りなんてしません。そういうのは……」
チルーとて、子供の頃には飛び跳ねて遊ぶこともあった。音楽に合わせて体を動かすことも。だが、一度平手打ちを食らってからは二度とやらなかった。
「……そういうのは、あまり好かれていませんでしたから」
「踊りをすることが? 何故かしら」
「貧しい人や頭の悪い人がすることだからだそうです。もっと上級生になったら社交ダンスの授業もあるのですが」
「貧しい人がどうのって、それはあなたがそう言われたの?」
と聞く声は、気分を害したというよりは、
はいと答えると、意外にもラナは笑った。
「それはひどいわねえ。でも、あさっての婚礼の日には、私、踊るわ」
「ラナさんが?」
「おかしいかしら?」
彼女は足が不自由で、きっと目もよく見えていない。
「いえ……」
「ごらんなさい。私が失った体の部分はこれだけよ」
と、袖口から、棒のようになった両手首の切断面を見せた。
「残された部分で、十分踊れるわ」
チルーは返事に困り、話題を変えた。
「息子さんは、何人いらっしゃるのですか?」
「二人いたのだけど、上の子は十四のときに家を出て、下の子があさって結婚するの。相手の家に住むことになってるからね、うちに住むのは、これからは私と夫だけ。昔は住み込みの家政婦がいたけれど、今はもう」
最後まで言い切らず、首を横に振る。寂しかろうとチルーは思った。しばしの沈黙が訪れた。
「……ところでラナさん、私たちはどこに向かっているのですか?」
「あなたが今夜寝るところよ」棒状の手で館を指した。「
「教父」
「ちょっと前までね、あのお屋敷は子供たちの教場として開放されていたの。優しいお方だったのよ、大地主様は。あれだけ集まっていた子供たちも……」
柵は一部が倒壊しており、その場所から、朽ちかけた木片を踏んで敷地に足を踏み入れた。
「今は、これだけ」
煉瓦の壁に沿って曲がったチルーは、その先の光景に息を詰めた。
ペンキの
でも、どこに花が?
同じような像は、前庭のいたるところにあった。
三人で向かい合い、ボール遊びをしている子。
木に腕を伸ばし、虫をとっている子。
穏やかな表情で草の上に座り、物思いに
寝そべっている子供。
その子たちを飾る花は、冠だったり、首輪だったりした。
どれも生花だった。
「子供たちは?」
チルーは急に具合が悪くなってきた。
熱があるのだから、具合が悪くて当たり前なのだが、子供たちの像を見て不安を覚えた途端に体の不調を思い出してしまったのだ。
「生きている子供は」
「村に赤ちゃんが一人。私に孫が生まれたら二人目ね」
他に子供がいないなら、村は立ち行かなくなってしまうだろう。考えを見透かしたのか、ラナは聞く前に答えた。
「他の子たちは、あそこ」
館の窓を示された。
私は見たくない。チルーはわかっていた。ここで起きたことを知りたくなかった。まして今夜はここで眠るのに。
だが見た。
窓はこびりついた土埃で曇り、内部は異様に暗かった。
壁のせいだ。
魔女の町のキウ。娘を壁にのまれた。
あの家と同じことが、館の中で起きていた。
口走る。
「どうしてこんなことに」
「おや、まあ。解説しなくても理解したみたいな口ぶりね。それともよくある現象なのかしら」
だが、念のためか、ラナは言葉にして伝えた。子供たちは壁の中にいると。
「よくある現象だとは思いませんけど……」
チルーは前庭に顔を向けた。壁を見続けていたら、そこから手足が突き出ているのを見つけてしまいそうで嫌だった。
「言葉つかいのあなたが見ても珍しいものなのね」
「このことに言葉つかいが関係していると思うのですか?」
「言葉つかいが来たわ」
それを聞くや、チルーの小さな心臓が跳ねた。
「公教会の『天使』が」
その人がこれをしたと?
聞きあぐねているうちに、館の正面玄関が開いてリリスが現れた。赤みがかった黒髪を二つに分けて結い、不満げな顔をしていたが、チルーを見ると意図のわからぬ曖昧な笑みを浮かべた。その笑みを素直に解釈するならば、チルーが立って歩けているのを喜んでいるのだろう。
大丈夫。
自分に言い聞かせる。
あの子を恐がる必要はない。リリスちゃんは私を大事にしてる……たぶん。
「窓だったのね」
あまりに脈絡なくラナが呟くので、チルーは何か聞き逃したかと思った。
「えっ?」
「死にゆく人たちにとっての窓が、子供たちにとってのこの壁だった。向こうの世界を見ようとして……」
リリスは意図不明の笑みで、ポーチから、座る子供の木像越しに二人を見つめていた。どこか人を
「私は見た。子供たちにおやつをと思って、あの日持って来たときに」
階段に足をかける。チルーは反射的に支えようとした。ラナは手摺りを掴むこともできないのだ。
「結構。自分でやるわ」
「失礼しました……見たって、何をですか?」
「子供たちは自分から壁に入っていったの、ずぶずぶと」
そして、壁の反対側から出てくることはなかったと。
一段ずつ、ラナはポーチを上りつめる。
「さて、リリス。部屋は温めておいてくれたかしら」
「もちろん」
チルーは館に入りたくなかった。壁があるからだ。
リリスの父親かもしれない人が子供たちを壁に閉じ込めたとは思いたくなかった。思う思わない以前に不可能だ。迷宮の壁に干渉できる『
それができるのは、迷宮の中心の安らぎの地に
奇妙な気配を背後に感じ、チルーは庭を振り向いた。
そこに、思わぬものを見た。
鎧が立っていた。
今どき博物館でしか見かけないような、頭のてっぺんから足の先まで覆う鉄の鎧。
「教父様よ」
鎧は古く、腕に通した花輪は鮮やかだった。筒状の
鎧に入っているのは人間ではない。土だ。
チルーは
「怖くないわ」
ラナが
疲れた足を引きずるような、はっとするほど人間らしい歩き方だった。鎧は、子供の像にかかる古い花輪を取り去ると、新しい花輪と交換した。
優しい手つきだった。風が鎧の隙間に吹き込んで、悲しげに音を鳴らした。
「あれは……」リリスが言い淀む。結局口にした質問は、要領を得ないものだった。「あれは何なんですか?」
「この壁が、子供たちを呑み込んだあと……旅の言葉つかいは去り」
ラナの濁った目が潤んだ。涙ではない。
「しばらくして、あの『教父様』を連れて戻ってきた。
教父様がすることはあれだけよ。子供たちの似姿を飾るの。私たちは言葉つかいが事態を解決してくれることを望んでいた。だけど、彼がもたらしたのは花を編む鎧だけだった。
私たちは怒った。でも、あの人がしたことが、結局は正しかったのね」
リリスが質問を重ねる。
「その言葉つかいは、どうして旅をしていたんですか?」
「『王』を追っている、と言っていたわ」
チルーはリリスと目配せを交わした。
言葉つかいの世界で『王』といえば、一つしかない。『さまよう王』。巡礼団を率いる煽動者の型の一つだ。王を討ち取り得た言葉つかいは一人もいない。
また、こうも言われる。
王にしろ何にしろ、煽動者はしばしば言葉つかいにとりつくと。
リリスは儀礼上の笑みを浮かべた。
「もっと近くで見てもいいですか?」
ええ、どうぞ、という返事を聞く前に、リリスはポーチを降りていった。チルーもついていった。
花冠を交換する鎧は、チルーより頭二つ分も
目のスリットの向こうに見えるのは、土と、タンポポの葉だけだった。肘の内側の、破れた
野菊は季節外れの風をものともせず、力強く根付いていた。リリスが自分の体でラナの視線を遮り、野菊を鎧から引っこ抜く。
野菊はたちまち、リリスの手の中で
冬が、すべてを枯らして吹きすさぶ。
リリスの白い掌からこぼれていく土塊を目で追って、チルーは見た。
一面の花を。
菊。
野菊。
爽快な夏空の下、優しい風に揺れている。
朽ちかけた鎧とともに、チルーは
薔薇があった。タンポポがあった。高貴な花も、素朴な花も、全てが歌っていた。赤い花弁があった。黄色い花弁があった。生きているものの耳には聞き取り得ぬ声で、しかしその歌は、チルーの奥底に浸透し、存在と共鳴する。
その歌が、だんだんと、体じゅうで聞こえるようになってきた。振動を歌として聞くのだ。かつてここにいた人たちが、一日前、一年前、十年前、百年前、千年前、ここにいた人々、みな歌う、歌う。
存在の残された部分で歌う。
それはおぼろな亡霊などではない。その存在は確かに感じ取ることができる。
ああ、みんな、ここにいたのか。
イースラ。
ジャスマイン。
悲しむことはなかった。
気配の濃い方向を見やる。そこにあるのは壁。
草原にくっきりと濃い影を落とすその壁は、今や彼方で扉を開き、まばゆい光をこぼれさせ、その門前と壁の上とで居並ぶ人々が歌う。
魂の振動と、その永劫の歌を。