孤立

文字数 4,004文字

 5.

 テレジアはタバコを吸いながら、夕方に誤射騒動があった辺りをうろついた。ルシーラの家はすぐ見つかった。カーテンの隙間から電球が明滅している様子がわかる家があったのだ。覗き込むと、幼い娘のスカートをめくり上げ、四つん這いにさせて、むき出しの尻を叩いて泣かせるルシーラの姿があった。ダイニングの床では白磁の皿が割れていた。
『もう一発おしりペンペンしたいのか?』
 テレジアは声を出さずに笑うと、家の壁にタバコを押しつけた。一家の次男はテーブルにある妹のクッキーをくすねていた。彼の目は淀んでいた。その頃長男アルコは自室の机で頭を抱え、泣きながら眠りに落ちていた。
 それで。
『ルシーラ』『中等学校のほうに行った』この二つを結び()る点は?
「お金」
 テレジアが探す二人連れは修道院の門前にいた。
「お礼はお金がいいな。ナマで」
 首を突き出すブラザー・エンリアに、またもリリスは小首をかしげた。本日二度目だ。
「私たち、わりと困っててさ。今日寝る場所も決まってないわけ。あの子が無事だったんだから安いもんでしょ」
「しょうがねえな」
 エンリアが布の財布を出すのを見てチルーの胸は痛んだ。修道者は私財を持たない。なけなしの現金のはずだ。だが、それが自分たちに必要なこともわかっていた。
「事情は聞かねぇけどよ、嬢ちゃんたち、大丈夫なのか?」
「あとは安いホテルを教えてくれたら大丈夫」
「何も聞かずに女の子二人連れを泊めてくれるとこなんて、それ相応のとこしかねぇぞ」
「いいよ、教えて」
 エンリアは渋りながらも売春宿や連れ込み宿が軒を連ねる通りを教えた。
「今の時間帯はテレジア救貧院のシスターたちがたくさんいるから、そこまで危なくはねえさ。早めに行きな」
「出世して返すよ、お兄さん」
 チルーは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
 二人は街灯の途切れるほうへ足早に向かっていく。細い背中を見送って、エンリアは修道院の門をくぐり、内側から(かんぬき)をかけた。その後で、寒風に冷たい指をさらすテレジアが、チルーたちと同じ方向に歩いて行った。
 町のいかがわしい通りからは、少しずつだが異臭が薄れてきたとアンテニー・トピアは思っていた。シスターたちの働きで、野垂れ死にする連中が減っているのだ。ルシーラが働く宿の得意客だった彼は、早めに次の気に入りを見つけたかった。
 次は若いのがいい。目尻に小じわが寄ってなくて、眉間の印象が険しくなくて、そう、身売りしたばかりの子がいい。強がっていても不安でいっぱいで、ちょっと優しくしてあげたらすぐ俺に依存しちゃうような子……。
 戦争にはいい面もある。
 平時じゃ手を出せないような上玉の女が捨て値で身を売るのだ。
 もっとも、今夜は頑張れなさそうだから下見だけだ。テレジアに蹴られた腹がまだ痛い。右手はなおのこと。
 手首には副木(そえぎ)が包帯で巻きつけられていた。どの病院も傷病兵でいっぱいだから学校で()てもらった。折れてますね、と校医は言った。どこで転んだんですか?
「ねぇパパぁ、今夜のお宿はもう決まってますぅ?」
 甘ったるい声をかけられた。今夜はしないと決めたのに、鼻の下が伸びてしまう。
 振り向いてがっかりした。後ろに立つ女が黒いベールを目深(まぶか)にかぶっていたからだ。こういうのはババアだ。
 邪険に追い払おうとしたら、女はベールを持ち上げた。
 酷薄な目がアンテニーを射抜いた。
 テレジアは薄笑いする。()いているほうの手で、アンテニーの折れた右手をそっと握った。
「中等学校に来たおかしな客について話してほしいのですが? パパぁ」

 ※

 スアラは気が落ちつくまで寄り道してから家に帰った。それでも口論の残響が頭から消えることはなかった。人は人にされたことを人にする。それは私のこと。ああ!
 リリスなんて死んでしまえ。いや、どうせならリリスの父親が。無様(ぶざま)で惨めな死にかただといいな。そのほうがリリスが知ったときさぞ傷つくだろうから。
 だが、自分はそんなことを望んでいないこともわかっていた。解決を望む問題は、リリスの父親など関係なく、スアラとスアラの父親との間にあるのだから。
 スアラの自宅は町の中心に近い邸宅だった。前階段を上り、二重扉の外側のドアノブを押すと、もうすっかり夜もふけているのに鍵が開いていた。あかりが外にこぼれた。スアラを温かく迎え、(いた)わるように。嘘くさい労わりなのが悲しいけれど。
 ダイニングで言い争う両親の声が二重扉の内側まで聞こえていたが、マットに靴底をこすりつけ、内側の扉を開け閉めすると静かになった。
 緊張満ち満ちる廊下を渡り、このまま二階の自室へ行ってしまおうかと思ったが、無論そうはいかなかった。
「スアラ?」
 レティ・セリスに恐々(こわごわ)呼ばれ、スアラはため息をつきながらダイニングの戸を開けた。
「ただいま」
 白々しい光の中で、母親はわざとらしく口に両手を持っていき、父親は声を荒らげた。
「こんな時間までどこをほっつき歩いてたんだ!」
 スアラはヒステリーを起こした大人二人を相手にするより、部屋に戻って寝たかった。シャワーすら必要ない。
「残って勉強してただけだけど?」
「嘘をつくな! 学校から連絡がきてるんだぞ!」
「やめて、この子を怒らないで」
 レティはそそくさと寄ってきて、スアラの肩に手を置いた。
「スアラ、学校の屋上で何をしていたの?」
「気分転換してただけ」
「そうよね? 馬鹿なことをしていたわけじゃないのよね?」
 バカバカしくなって頷くと、レティの手に力がこもった。
「学校から電話がかかってくるし、あなたは真っ暗になっても帰ってこないし、私たちすごく心配したのよ。もう二度おかしなことはしないって、お母さんに約束して!」
「もう二度とおかしなことはしないよ」
 渋々言うと、レティは疑いながら手を離した。
「すぐに晩ご飯を温め直すわ」
「いい」と、階段のほうを向いた。「明日の朝食べる」
 階段は、安心できる暗さだった。昼は家政婦が来るから、(すみ)に埃が積もっていることもない。父親の文句を言う声がしたが、すぐに聞こえなくなった。スアラは部屋に閉じこもり、内側から鍵をかけた。自分で工務店に行き、取り付けた安い鍵だった。見つかったとき、父親には大層怒られたが、「外せ」という命令には半年近く従っていない。
 窓にカーテンを引き、制服を脱ぎ散らかすと、家政婦がきちんと畳んでクローゼットに用意してくれた寝衣(ねまき)に腕を通した。ベッドに仰向けに横たわる。疲れすぎたせいで目は冴えていた。
 無心の状態で十分ばかし横になっていると、重い足音が階段を上がってきた。憂鬱な音だ。廊下の反対側の主寝室に向かってほしかった。だが、スアラの部屋の前に来て、戸を叩いた。
「スアラ」
 タリムが猫なで声で呼ばわった。
「お父さん、さっきは怒って悪かった。少しだけ話をしよう」
 無視していると、さらに三回叩かれた。
「話をするだけだ。スアラ、まだ起きてるだろう」
 去る気配がないので、スアラは起き上がり、乱れた亜麻色の髪に指を入れて軽く()いた。
 後付けの鍵を外す。
 ドアを細く開けても、左手をノブから離さなかった。もしタリムが押し入ってきたらすぐ閉められるように。
「悩みがあるんじゃないのか?」
 媚びた笑みを浮かべる父親を、スアラは暗がりから凝視した。そんなことをいけしゃあしゃあと聞ける神経がわからない。
 スアラは体の位置を変え、ドアに胸を押しつけると、父親に無言の凝視を続けた。
「確かにお父さんはスアラに就職を勧めた。でもな、お前の才能を役立てたいと考えている人たちは、必要ならお前をさらに上の学校に通わせてもいいって言ってたんだ。父さん、これを先に言えばよかったな」
「ふうん」
「一度就職してから進学するという手もあるんだ」
 タリムの手はスアラの体に伸びた途端、ドアに挟まれるだろう。
 そうと悟ると、「よく考えておきなさい」、と適当に締めくくり、部屋の前から立ち去った。スアラはドアを閉め、聞こえよがしな音を立てて鍵を閉めた。
 追い討ちを受けた気分だった。だが、ひとまずは安心した。今夜はもう来ないだろうし、もしかしたら、今日の件を受けて、吐き気を催す脅しを実行するのを先延ばしにするかもしれない。
 スアラはベッドに戻り、胎児のように丸まった。足許の窓の向こうが微かに明るかった。
 人は人にされたことを人にする。
 じゃあ、私のような人間はどうしたらまともな大人になれるんだろう。
 まともな大人ってなに?
 アンズの砂糖漬けを掲げて歩いてくるブラザー・ディルク・エンリアの姿が何故か頭に浮かんだ。えっ、もしかしてあれ? いやいや、ないでしょう。
 笑ってしまう。
 でも、あの人は私のために走ってきてくれた。話しかける前に口笛を吹いたのは、驚いた私がうっかり落ちるのを防ぐため……だと思う。
 まともな大人って、誰?
 嫌な気持ちと一緒に息を吐き出した。それから、自分の両親がまともかどうか考えることにした。
 スアラが最も我慢できないのは、父が、スアラの行いについて自分に責任があることとして振る舞わない点だった。父の態度は、もしかして私が間違っているのかと思うほどスアラを動揺させていた。つまり父のしていることは、ごく普通のことなのか……クラスメイトの女子たち、彼女たちも、家では父親に股間を押し付けられたり、胸や尻を触られたり、レイプすると脅されたり……またはもうされているのか。
 そのあとで、ひとりぼっちになってから、「死にたい」と呟いているのか。
 そしてそういうことは、あたかも美少年や美少女とてトイレで排泄をしているのと同じくらい当たり前のことで、だから敢えて誰も言わないだけなのか。
 うんざりした。いかにもあり得そうだったからだ。
 スアラは起き上がる。寝衣(ねまき)のボタンに指をかけた。もう一度着替えるのだ。
 今夜は眠れない。
 秘密基地に行こう。

 
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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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