迫りくる手
文字数 2,537文字
1.
「私がレライヤ学園を卒業してまだ十年も経っていないのですが」
というが聖女の第一声だった。
「校則が変わったのでしょうか、若い石工 よ。卒業の日まで学園を出ることを許されぬあなた方が、何故ここに?」
「まあ規則って急に変わりますし」
軽口を叩くリリスの左手を、チルーは後ろから引っ張った。自分のコートからトマトの匂いがした。少しだけ後ろに引きずられながら、リリスは踏みとどまっていた。
「いいでしょう」テレジアは言った。「学園の制度の問題だとか、不祥事ですとか、私には関わり合いのない話。それよりあなた方、今夜、食べるものと寝る場所はありますか?」
「何故そんなことを聞くんです?」
「救貧の聖女ですので」
「うわあ、聞いた?」
振り向いたリリスと目があった。
「この人、自分で自分を聖女って言ったよ」
「気に入っておりますの。この呼び名」
「ねえ、聖女様」
チルーは叫びだしたかった。いい加減にしてよ!
だが、悲しいかな気が小さくて声が出なかった。
「いっそのこと、黙ってついて来いとか斬り捨てるぞとか言ってもらえたほうが話が早いんですけど」
「やめようよ」
ようやくリリスの耳に囁いたときには涙声になっていた。
「行こうよ、もう嫌だよ」
高く掠れた声ながら、テレジアの耳に聞こえていたようだ。
「行く、ですって?」いきなり声が低くなる。「逃げると?」
チルーの手の中で、リリスの手首が固くなった。そのとき初めて、リリスが見かけの態度ほど余裕ではないことに気がついた。
「逃げる。いいでしょう」
明らかに、テレジアは少女たちが狭い世界で相手にしてきた大人たちとは違う。何が違うかわからない。
とにかく違うのだ。
「では、お逃げなさい」
「えっ?」
思わず聞き返すチルーをよそに、リリスが一歩下がった。少女二人の肩が並ぶ。
リリスはまだ何か言いたがるのではないかと、チルーは思っていた。
間違いだった。リリスは左手首からチルーの手をほどくと、今度は手を繋ぎ直した。
ぎゅっ、と力を込められる。
握り返した。それが合図だった。繋いだ手が離れると同時に二人は後ろを向いた。
脇目もふらず走った。必ず追いつかれることをチルーは覚悟していた。あの人は足音を立てない。捕まるときは、いきなり肩を掴まれて、投げ飛ばされるのだ。そうでないならば、腰に下がったあの剣が深く胸を貫く。何日か後には、校長が教頭に、二人の学生の親に渡す弔問金のことで相談するのだろう。ジャスマンのときのように。
だが、捕まらなかった。
路地を直進し、三つ目の角を曲がった。そこに壁はなかった。大通りに出て、ナトリウム灯の下を走り続けた。勤め帰りの大人たちに混じり、そのコートに包まれたいくつもの体を押しのける。何人かが舌打ちし、また何人かが小声で文句を言っていた。
川に出た。
長い石橋がかかる天然の川で、たぶん、浅い。
その岸まで階段を駆け下りて、二人はやっと立ち止まった。チェストや割れたガラスが投棄された橋の下に身を寄せて、チルーは暗がりに座り込んだ。顎を上げれば、上の歩道を歩く人々と、すでに藍色に暮れた空が見えた。
息が整うまで、二人は無言だった。チルーは汗をかき、しかもまだトマト臭いままだった。
「なんで」
先に呼吸を落ち着けたのはリリスのほうだった。
「逃したんだと思う?」
チルーはまだ口を開け、肩で息をしていた。やっとの思いで首を振る。
「たぶん――」
喉が痛くてまだ喋れない。チルーは目で促した。言って。
リリスは手の甲で額の汗を拭き、チルーを見ずに頷いた。
「――追われてるって理解すれば、いずれ諦めが来るって思ってる。私たちは諦めて――そしたら――今度捕まえたときにはもう逃げない。あの人は私たちを捕まえられるんだ」
チルーは、今度はより大きく首を振る。嫌だよ。捕まったら殺されちゃう。
汗がひき、体が冷え始めた。
「この町を出なきゃ。急いで」
「出られるの?」
「たぶん歩きじゃ無理。汽車はもっと無理。あの人……あの人たちの思いもしない方法じゃないと」
「そんな方法……」
「あるよ」
目にナトリウム灯の光を宿しながら、リリスは断言した。
「一つだけある」
※
テレジアは別段機嫌を良くはしなかった。悪くもしなかった。見つけて当然のものを見つけただけである。
「で、あの子たちをどうするんだ?」
セレテス記念中等学校併設の修道院の客間で、ローテーブルを挟んでテレジアとエンリアが向かい合っていた。ソファに浅く腰かけたテレジアは、三本めのタバコを灰皿に押しつけて答えた。
「まずは先の巡礼との関係をはっきりさせないと。あの子たちが呼んだのであれば、見過ごすわけにはいかないねぇ」
テレジアは四本めのタバコを取り出しはしなかった。
「ま、十中八九あの子らの仕業だと思うけど。君はどうだ?」
「俺も同意見。で、どうして一旦見逃したんだ? 手荒な真似を嫌ったわけじゃないだろ?」
「一緒にするな、軟弱者。スアラを確保したときの反応を見たいのさ」
「どっちの?」一度聞いてからエンリアは付け足した。「嬢ちゃんの? 鳥飼いたちの?」
「そりゃ両方だよ。で、ブラザー、小さな魔女の作業場の目星はついてるんだろうな?」
「もちろん」
私服のジャケットから紙切れを出し、テーブル越しに渡す。テレジアは暗号化された地図を開かず、そのまま修道衣のポケットに押し込んだ。
「嬢ちゃんはいつ確保できる?」
「警察との連携はできている。最速で今夜」
「そうか」
その同意に潜む落胆を、テレジアは聞き逃さなかった。
「何が不満だ? エンリアよ」
「俺な、さっき嬢ちゃんに、公教会に駆け込めって勧めたんだ」
「で、フラれたと?」
「自分の意志で決めてほしいって思ってた。俺ら大人に捕まっちまうんじゃなくてよ」
「勧誘力が足りないな。それとも説得力か? 私の修道院で研修を受けるか」
「お前らしい言い草だ。でも笑う気分じゃねえわ」
テレジアは立ち上がり、スカートに落ちた煙草の灰を払った。
「スアラを確保したら、作業場らしき場所の近くを通って反応を見よう」
「ああ」
気のない返事を聞き流しながら、ソファに丸めて置いていたコートを手に取る。
嬢やたち。
お前らのズラかる方法を見抜かれていないと思うなよ。
「私がレライヤ学園を卒業してまだ十年も経っていないのですが」
というが聖女の第一声だった。
「校則が変わったのでしょうか、若い
「まあ規則って急に変わりますし」
軽口を叩くリリスの左手を、チルーは後ろから引っ張った。自分のコートからトマトの匂いがした。少しだけ後ろに引きずられながら、リリスは踏みとどまっていた。
「いいでしょう」テレジアは言った。「学園の制度の問題だとか、不祥事ですとか、私には関わり合いのない話。それよりあなた方、今夜、食べるものと寝る場所はありますか?」
「何故そんなことを聞くんです?」
「救貧の聖女ですので」
「うわあ、聞いた?」
振り向いたリリスと目があった。
「この人、自分で自分を聖女って言ったよ」
「気に入っておりますの。この呼び名」
「ねえ、聖女様」
チルーは叫びだしたかった。いい加減にしてよ!
だが、悲しいかな気が小さくて声が出なかった。
「いっそのこと、黙ってついて来いとか斬り捨てるぞとか言ってもらえたほうが話が早いんですけど」
「やめようよ」
ようやくリリスの耳に囁いたときには涙声になっていた。
「行こうよ、もう嫌だよ」
高く掠れた声ながら、テレジアの耳に聞こえていたようだ。
「行く、ですって?」いきなり声が低くなる。「逃げると?」
チルーの手の中で、リリスの手首が固くなった。そのとき初めて、リリスが見かけの態度ほど余裕ではないことに気がついた。
「逃げる。いいでしょう」
明らかに、テレジアは少女たちが狭い世界で相手にしてきた大人たちとは違う。何が違うかわからない。
とにかく違うのだ。
「では、お逃げなさい」
「えっ?」
思わず聞き返すチルーをよそに、リリスが一歩下がった。少女二人の肩が並ぶ。
リリスはまだ何か言いたがるのではないかと、チルーは思っていた。
間違いだった。リリスは左手首からチルーの手をほどくと、今度は手を繋ぎ直した。
ぎゅっ、と力を込められる。
握り返した。それが合図だった。繋いだ手が離れると同時に二人は後ろを向いた。
脇目もふらず走った。必ず追いつかれることをチルーは覚悟していた。あの人は足音を立てない。捕まるときは、いきなり肩を掴まれて、投げ飛ばされるのだ。そうでないならば、腰に下がったあの剣が深く胸を貫く。何日か後には、校長が教頭に、二人の学生の親に渡す弔問金のことで相談するのだろう。ジャスマンのときのように。
だが、捕まらなかった。
路地を直進し、三つ目の角を曲がった。そこに壁はなかった。大通りに出て、ナトリウム灯の下を走り続けた。勤め帰りの大人たちに混じり、そのコートに包まれたいくつもの体を押しのける。何人かが舌打ちし、また何人かが小声で文句を言っていた。
川に出た。
長い石橋がかかる天然の川で、たぶん、浅い。
その岸まで階段を駆け下りて、二人はやっと立ち止まった。チェストや割れたガラスが投棄された橋の下に身を寄せて、チルーは暗がりに座り込んだ。顎を上げれば、上の歩道を歩く人々と、すでに藍色に暮れた空が見えた。
息が整うまで、二人は無言だった。チルーは汗をかき、しかもまだトマト臭いままだった。
「なんで」
先に呼吸を落ち着けたのはリリスのほうだった。
「逃したんだと思う?」
チルーはまだ口を開け、肩で息をしていた。やっとの思いで首を振る。
「たぶん――」
喉が痛くてまだ喋れない。チルーは目で促した。言って。
リリスは手の甲で額の汗を拭き、チルーを見ずに頷いた。
「――追われてるって理解すれば、いずれ諦めが来るって思ってる。私たちは諦めて――そしたら――今度捕まえたときにはもう逃げない。あの人は私たちを捕まえられるんだ」
チルーは、今度はより大きく首を振る。嫌だよ。捕まったら殺されちゃう。
汗がひき、体が冷え始めた。
「この町を出なきゃ。急いで」
「出られるの?」
「たぶん歩きじゃ無理。汽車はもっと無理。あの人……あの人たちの思いもしない方法じゃないと」
「そんな方法……」
「あるよ」
目にナトリウム灯の光を宿しながら、リリスは断言した。
「一つだけある」
※
テレジアは別段機嫌を良くはしなかった。悪くもしなかった。見つけて当然のものを見つけただけである。
「で、あの子たちをどうするんだ?」
セレテス記念中等学校併設の修道院の客間で、ローテーブルを挟んでテレジアとエンリアが向かい合っていた。ソファに浅く腰かけたテレジアは、三本めのタバコを灰皿に押しつけて答えた。
「まずは先の巡礼との関係をはっきりさせないと。あの子たちが呼んだのであれば、見過ごすわけにはいかないねぇ」
テレジアは四本めのタバコを取り出しはしなかった。
「ま、十中八九あの子らの仕業だと思うけど。君はどうだ?」
「俺も同意見。で、どうして一旦見逃したんだ? 手荒な真似を嫌ったわけじゃないだろ?」
「一緒にするな、軟弱者。スアラを確保したときの反応を見たいのさ」
「どっちの?」一度聞いてからエンリアは付け足した。「嬢ちゃんの? 鳥飼いたちの?」
「そりゃ両方だよ。で、ブラザー、小さな魔女の作業場の目星はついてるんだろうな?」
「もちろん」
私服のジャケットから紙切れを出し、テーブル越しに渡す。テレジアは暗号化された地図を開かず、そのまま修道衣のポケットに押し込んだ。
「嬢ちゃんはいつ確保できる?」
「警察との連携はできている。最速で今夜」
「そうか」
その同意に潜む落胆を、テレジアは聞き逃さなかった。
「何が不満だ? エンリアよ」
「俺な、さっき嬢ちゃんに、公教会に駆け込めって勧めたんだ」
「で、フラれたと?」
「自分の意志で決めてほしいって思ってた。俺ら大人に捕まっちまうんじゃなくてよ」
「勧誘力が足りないな。それとも説得力か? 私の修道院で研修を受けるか」
「お前らしい言い草だ。でも笑う気分じゃねえわ」
テレジアは立ち上がり、スカートに落ちた煙草の灰を払った。
「スアラを確保したら、作業場らしき場所の近くを通って反応を見よう」
「ああ」
気のない返事を聞き流しながら、ソファに丸めて置いていたコートを手に取る。
嬢やたち。
お前らのズラかる方法を見抜かれていないと思うなよ。