幸せ
文字数 4,889文字
5.
感情の波が去り、濡れたハンカチを目から離すと、すぐにテレジアが背中に生ぬるい手を当ててきた。
「お茶を淹 れましょうか?」
頭痛がするほど眠かった。スアラは首を振る。
「……あとのことは全て、あなたのご両親の問題です。子供に捨てられたと思うか、人生を生き直す機会とするかも」
眠すぎて何も聞きたくない。スアラは弱々しく抵抗した。
「今はぼうっとしていたいの」
「そう」テレジアはスアラの背中をそっと叩いた。「そうですね。何も考えなくていいの」
「もう少し、上で寝ていてもいいですか?」
「もちろん」
スアラが眠っている間に、テレジアとエンリアは一仕事終わらせられるはずだ。
「ゆっくり寝ろよ」
そう言うエンリアの体越しに、スアラは窓を見た。
澄んだ光が満ちていた。昼が近い。
立ち上がれば、一面のプリムラの花が庭に広がっている。
スアラは窓に吸い寄せられていった。
夜中に緑の葉を覆った霜が、今やっと、雫となって葉先に宿っている。その一つ一つが幾千の太陽を映し、虹の輝きがさざめいていた。
炊事場からは煙が上がっていた。
向かいの建物の窓辺で、老いた修道女が黙想していた。
穏やかな顔だった。
「面白いものが見えますか?」
プリムラを覆う光に目を奪われながら、スアラは答えた。
「きれい」
後ろから肩を抱かれる。
実に心地よい一言が、耳に流し込まれた。
「最初から、ずっときれいだったのですよ」
※
もう一度スアラの家を尋ねたとき、玄関先には菓子になるはずだったものが焼け焦げた臭いが漂っていた。
「先刻はご挨拶しかできず申し訳ございませんでした」
テレジアは体の前で手を重ね、眉を垂らして微笑みながら切り出した。
「度々のご訪問でお手数をおかけしますが、ご息女のことで改めてお話しをさせていただきたいのですが……」
「もちろんお待ちいたしておりました」
タリム・セリスは誰からも愛される笑顔をエンリアに向けた。
「そちらの方は?」
「はじめまして。セレテス記念中等学校に併設の修道院に在籍しております、修道士のディルク・エンリアと申します。校内でご息女としばしばお話をさせていただくことがあった関係で同席をさせていただきたいのですが」
「そうでしたか。それは喜んで」
「セリスさん、大変厚かましくて申し訳ないのですが」
握手するタリムとエンリアの隣で、テレジアは切り出した。
「なんでしょう?」
「よろしければ、スアラさんのお部屋でお話をさせていただきたいのです」
タリムは握手を解きながら、「一体なぜ?」
「公教会が取り入れる最新の教育心理学によれば、十代の心の問題はその部屋を見れば九割は判明するとか。ですから、私たちはその研修を受けた者として、是非ともお部屋を拝見したいのです」
「ほう……最新の教育心理学」
微笑みを絶やさぬながらも、気に食わないと思っている声音だ。が、断る口実が思いつかなかったのか、頷いた。
「それで娘の問題が解決するなら構いません。ただ、年頃の娘ですので……私の立ち合いのもとという形でもよろしいですか?」
「もちろんです。ご厚意に感謝します」
客人用の室内履きに履き替えた二人は、タリムによって家の奥に案内された。階段の前に来たとき、エンリアはダイニングに目を向けた。レティ・セリスがテーブルについていた。客を迎える服装をしているが、不貞腐れた表情で座り込み、エンリアたちを見ようともしなかった。
「ここが娘の部屋です」
二度とスアラが帰ってこないスアラの部屋は、南向きで、窓にかかるカーテンをタリムが開けるとすぐに明るくなった。
「あと一時間もしたら家政婦が掃除に来ます。それまでの間でしたら何でも――」
振り向いたタリムは途中で言葉を切った。
テレジアが、部屋の隅で屈んでいた。エンリアに見つめられながら黄色い物を拾い上げる。
紅茶の缶だった。
テレジアはしばらく紅茶の缶をためつすがめつした。その間、探り合うような沈黙があった。
スアラのベッドは頭を東側の壁につける形で置かれている。ベッドに歩み寄ったテレジアがくしゃくしゃの毛布の上に缶を置くと、沈黙は終わりを告げた。
「ご息女は、何か作りかけの工作物があることを気にかけてらっしゃいました」
「工作物?」
声に白々しい感じがない。大したものだ。だが動揺が出る場所は顔や声だけではない。タリムが大仰 に腕を広げれば、エンリアにはそれで十分だった。
「なんでしょう。学校の課題とか?」
「お父様はご存じありませんか?」
「初等学校でも美術の成績は良い子でしたから」
両手を下ろし、パン、と音を立てて太腿を打った。
「中等学校の美術科の先生が知っているかもしれませんね」
「私たちは教皇直轄の修道院に属する者です。そうした立場の者として気になる話を聞きました。件 の工作物に関して、ご息女が夜な夜な作業に出かける先は、抵抗教会の過激派の家だと」
「まさか」と、タリムは青ざめてみせた。「そんな馬鹿な」
「お父様、あくまでご存じないのですね?」
「知りません。いかにも我が家は抵抗教会の教えを信奉しておりますが、だからこそ過激思想の一派には迷惑しているのです! 娘には決して関わり合うなとあれほど――ああ、教えてください。娘は何に巻き込まれているのです?」
「ですから、革命家たちのために、何がしかの工作を」
「そんな」
タリムはショックを受けているようでいて、両手の爪は苛立たしげに太腿を掻いている。押し黙りながらエンリアは心の中で毒づいた。
あんたはあんたが思ってるほど演技派じゃないぜ、おっさん。
「そのことで問い詰めるために、あなた方は娘を……?」
「問い詰める?」テレジアは声を立てて笑った。「まさか。クロだとわかっているのですから、撃ち殺したほうが早いではありませんか」
そう言って、窓に寄り、タリムの隣に立ってカーテンを閉めた。部屋がまた暗くなった。カーテンの色に合わせて空間がベージュ色に染まる。隙間から差す光がカーテンレールを浮かび上がらせた。
「あの、マザー?」
その上擦った声は、もはや演技ではない。
「お言い間違いでしょうか? 今、耳を疑うような言葉が聞こえたのですが」
そのとき、階下で椅子の倒れる音がした。
声はなく、ただ複数人の足音。
くぐもった女のうめき声。
「声を出すな」
戸口に立つエンリアがタリムに銃口を向けた。
タリムの反応は素早かった。
両手を上げたのだ。
「さすが」
テレジアの声に含まれる笑いの種類は冷笑に変わっていた。
「力ある者には服従すべきと心得ている。下衆な脅しで娘を服従させる者らしいな」
「何のことだか……」
「お前、娘にレイプするぞと脅したね」
タリムの目はベッドを挟んで向けられる銃口に固定されていた。が、渾身 の勇気と努力で眼球を動かして、横目でテレジアを見た。
「それがあなたに関係ありますか? 人の家庭の躾 に口を出さないでくれ」
言い終えるのと、テレジアの殴打がタリムの顔面に炸裂するのがほぼ同時だった。鼻血を散らしてよろめくタリムは、足を払われ、勉強机に頭を打ちつけながら倒れ込む。一階ではレティが聖教軍の兵士に腕づくで連行されていく。
テレジアは仰向けに倒れたタリムに馬乗りになり、胸倉を掴み、顔を二度、三度と殴った。スアラの涙を吸ったハンカチは、今、テレジアの拳に巻きつけられていた。
完全に鼻が潰れるほど殴ってから、テレジアはタリムの髪を鷲掴みにした。
「聞け。私らはお前ら夫婦を拷問すると言っているんじゃない。
血だらけの顔でうめき、口を開いたタリムはまず前歯を吐き出した。次に声を絞り出した。
「娘の――娘の――私はただ――夢を叶えてやりたかったんだ。娘は革命で弱者を救いたいと……正義感の強い子で」
「その言い訳はいつから考えていた?」
「そうじゃない。私は娘を愛している。本当だ。全ては娘のためにしたことだ!」
ハッ、と息を吐き、テレジアはタリムの胸倉から手を離した。
「言ってろ。人は信じたい物事を信じるのさ。宗教みたいなもんだ」
「お前に私たちの何がわかる! 後ろ指をさされ――蔑まれ――どんな思いで娘を育ててきたか! あの子は私のものだ! 誰にも渡さんぞ!」
「なるほど」
立ち上がり、束の間テレジアはタリムを解放した。
すぐに鳩尾 に足を置き、動けなくした。
「蔑まれ、後ろ指をさされてきたから、同じ位置まで娘を引きずりおろしたかったんだねえ、お前」
「黙れ」
「悲しかったんだねえ。悔しかったんだねえ。孤独だったんだねえ」
「黙れ、黙れ!」
足に力を込めると、ぐうっ、と呻いてタリムは沈黙した。
「お前は悲しみで塗り固められている」
タリムは苦痛に顔を歪めていたので、テレジアの目を見る余裕はなかった。見ないほうがよかっただろう。
「だが、私は悪意で塗り固められている。お前のような小物が傷つきうろたえるのを見るのが好きで仕方がない」
「――悪魔め」
「ひどいねえ。これでも公教会の『天使』なのに!」
「テレジア」エンリアは見かねて口を挟んだ。「その辺にしときな」
明らかに、テレジアはその提案に不満があるようだった。
「……深く突き落とされた人間は……」
それでも、鳩尾から足を離してやった。
「特に、自分が誰からも愛されていないと知ったとき……傷を癒されることなど望まない。堕落に歯止めがかからなくなることを望むんだ。矛盾していると思うか?」
もう一度屈んだとき、タリムの顔面は醜く腫れ上がり始めていた。
「それとも、身に覚えがあるか?」
荒い足音が階段を上がってくる。
四人。
テレジアたちがタリムと関わり合うのはここまでだった。
「でも、お前の娘はお前の場所まで突き落とされてはこない。残念だったねえ」
聖教軍の兵士たちが、スアラの部屋に現れた。
その父親を、収容所へと連れ去るために。
※
毛布の上に立つ紅茶の缶を枕が薙ぎ倒した。
「おやおや」
カーテンはまた開かれた。住んでいた者の気配がまだ色濃く残るけど、あとは廃墟となりゆくしかない部屋に、不滅の太陽が差し込んだ。
「いけないねえ。包丁なんかで人を刺したら自分が怪我をしてしまうよ。タオルでいいから鍔 をつけないと」
一方、エンリアは枕の下の刃物にさしたる反応を見せなかった。彼は窓辺から紙切れを手に戻ってきて、テレジアに差し出した。
こう書かれていた
『戻れない
ごめん
諦めて』
「相手はお前の獲物か?」
「十中八九そうだろうね」
エンリアは紙切れを勉強机の下にあるゴミ箱に捨てた。
「それなら、状況的にかなり大事な約束をしてたんだろうな」
「だろうねえ」
盛大にため息をつき、エンリアは窓辺に寄りかかる。
「子供なんだよなあ……」
腕組みするエンリアをよそに、テレジアはベッドに座って紙巻きタバコの箱を出した。
「異常な状況に置かれた人間と、ホイホイ大事な約束をしてしまう。かと思えば大人に言われるままにそれを反故 にしちまって。相手の都合は知ったこっちゃないってか」
テレジアは、半分はエンリアの言い種に賛同していた。スアラは幼すぎた。リリスも、チルーもだ。確かにあの三人は、同年代の少女たちと比べて頭がいいのだろう。成熟しているようにさえ見える。
それでも力を我がものとするには未熟すぎるのだ。
そう思いつつも残り半分は賛同しかねていた。
「あんた、何もわかっちゃいないねえ」
タバコに火をつけるテレジアの目に、偲 ぶような、悼 むような光を見た。
「どういうことだ?」
「子供だろうが大人だろうが関係ない。帰れる場所がない人間には行ける場所だってないのさ。あっちに行けとか、こっちに来いとか、人に言われるまま動いちまう。さながら迷える子羊さ」
エンリアは何も言い返せなかった。
そのとき迷える子羊は、修道院のベッドの中で幸せな眠りについていた。
透き通る光の中で、懐かしい夢を見ているのだろう。
今日の出来事の詳細をスアラが知ることはない。
両親が収容所で迎える末路をスアラが知ることはない。
今はただ、眠りながら微笑んでいる。
頬を薔薇色に染めて。
感情の波が去り、濡れたハンカチを目から離すと、すぐにテレジアが背中に生ぬるい手を当ててきた。
「お茶を
頭痛がするほど眠かった。スアラは首を振る。
「……あとのことは全て、あなたのご両親の問題です。子供に捨てられたと思うか、人生を生き直す機会とするかも」
眠すぎて何も聞きたくない。スアラは弱々しく抵抗した。
「今はぼうっとしていたいの」
「そう」テレジアはスアラの背中をそっと叩いた。「そうですね。何も考えなくていいの」
「もう少し、上で寝ていてもいいですか?」
「もちろん」
スアラが眠っている間に、テレジアとエンリアは一仕事終わらせられるはずだ。
「ゆっくり寝ろよ」
そう言うエンリアの体越しに、スアラは窓を見た。
澄んだ光が満ちていた。昼が近い。
立ち上がれば、一面のプリムラの花が庭に広がっている。
スアラは窓に吸い寄せられていった。
夜中に緑の葉を覆った霜が、今やっと、雫となって葉先に宿っている。その一つ一つが幾千の太陽を映し、虹の輝きがさざめいていた。
炊事場からは煙が上がっていた。
向かいの建物の窓辺で、老いた修道女が黙想していた。
穏やかな顔だった。
「面白いものが見えますか?」
プリムラを覆う光に目を奪われながら、スアラは答えた。
「きれい」
後ろから肩を抱かれる。
実に心地よい一言が、耳に流し込まれた。
「最初から、ずっときれいだったのですよ」
※
もう一度スアラの家を尋ねたとき、玄関先には菓子になるはずだったものが焼け焦げた臭いが漂っていた。
「先刻はご挨拶しかできず申し訳ございませんでした」
テレジアは体の前で手を重ね、眉を垂らして微笑みながら切り出した。
「度々のご訪問でお手数をおかけしますが、ご息女のことで改めてお話しをさせていただきたいのですが……」
「もちろんお待ちいたしておりました」
タリム・セリスは誰からも愛される笑顔をエンリアに向けた。
「そちらの方は?」
「はじめまして。セレテス記念中等学校に併設の修道院に在籍しております、修道士のディルク・エンリアと申します。校内でご息女としばしばお話をさせていただくことがあった関係で同席をさせていただきたいのですが」
「そうでしたか。それは喜んで」
「セリスさん、大変厚かましくて申し訳ないのですが」
握手するタリムとエンリアの隣で、テレジアは切り出した。
「なんでしょう?」
「よろしければ、スアラさんのお部屋でお話をさせていただきたいのです」
タリムは握手を解きながら、「一体なぜ?」
「公教会が取り入れる最新の教育心理学によれば、十代の心の問題はその部屋を見れば九割は判明するとか。ですから、私たちはその研修を受けた者として、是非ともお部屋を拝見したいのです」
「ほう……最新の教育心理学」
微笑みを絶やさぬながらも、気に食わないと思っている声音だ。が、断る口実が思いつかなかったのか、頷いた。
「それで娘の問題が解決するなら構いません。ただ、年頃の娘ですので……私の立ち合いのもとという形でもよろしいですか?」
「もちろんです。ご厚意に感謝します」
客人用の室内履きに履き替えた二人は、タリムによって家の奥に案内された。階段の前に来たとき、エンリアはダイニングに目を向けた。レティ・セリスがテーブルについていた。客を迎える服装をしているが、不貞腐れた表情で座り込み、エンリアたちを見ようともしなかった。
「ここが娘の部屋です」
二度とスアラが帰ってこないスアラの部屋は、南向きで、窓にかかるカーテンをタリムが開けるとすぐに明るくなった。
「あと一時間もしたら家政婦が掃除に来ます。それまでの間でしたら何でも――」
振り向いたタリムは途中で言葉を切った。
テレジアが、部屋の隅で屈んでいた。エンリアに見つめられながら黄色い物を拾い上げる。
紅茶の缶だった。
テレジアはしばらく紅茶の缶をためつすがめつした。その間、探り合うような沈黙があった。
スアラのベッドは頭を東側の壁につける形で置かれている。ベッドに歩み寄ったテレジアがくしゃくしゃの毛布の上に缶を置くと、沈黙は終わりを告げた。
「ご息女は、何か作りかけの工作物があることを気にかけてらっしゃいました」
「工作物?」
声に白々しい感じがない。大したものだ。だが動揺が出る場所は顔や声だけではない。タリムが
「なんでしょう。学校の課題とか?」
「お父様はご存じありませんか?」
「初等学校でも美術の成績は良い子でしたから」
両手を下ろし、パン、と音を立てて太腿を打った。
「中等学校の美術科の先生が知っているかもしれませんね」
「私たちは教皇直轄の修道院に属する者です。そうした立場の者として気になる話を聞きました。
「まさか」と、タリムは青ざめてみせた。「そんな馬鹿な」
「お父様、あくまでご存じないのですね?」
「知りません。いかにも我が家は抵抗教会の教えを信奉しておりますが、だからこそ過激思想の一派には迷惑しているのです! 娘には決して関わり合うなとあれほど――ああ、教えてください。娘は何に巻き込まれているのです?」
「ですから、革命家たちのために、何がしかの工作を」
「そんな」
タリムはショックを受けているようでいて、両手の爪は苛立たしげに太腿を掻いている。押し黙りながらエンリアは心の中で毒づいた。
あんたはあんたが思ってるほど演技派じゃないぜ、おっさん。
「そのことで問い詰めるために、あなた方は娘を……?」
「問い詰める?」テレジアは声を立てて笑った。「まさか。クロだとわかっているのですから、撃ち殺したほうが早いではありませんか」
そう言って、窓に寄り、タリムの隣に立ってカーテンを閉めた。部屋がまた暗くなった。カーテンの色に合わせて空間がベージュ色に染まる。隙間から差す光がカーテンレールを浮かび上がらせた。
「あの、マザー?」
その上擦った声は、もはや演技ではない。
「お言い間違いでしょうか? 今、耳を疑うような言葉が聞こえたのですが」
そのとき、階下で椅子の倒れる音がした。
声はなく、ただ複数人の足音。
くぐもった女のうめき声。
「声を出すな」
戸口に立つエンリアがタリムに銃口を向けた。
タリムの反応は素早かった。
両手を上げたのだ。
「さすが」
テレジアの声に含まれる笑いの種類は冷笑に変わっていた。
「力ある者には服従すべきと心得ている。下衆な脅しで娘を服従させる者らしいな」
「何のことだか……」
「お前、娘にレイプするぞと脅したね」
タリムの目はベッドを挟んで向けられる銃口に固定されていた。が、
「それがあなたに関係ありますか? 人の家庭の
言い終えるのと、テレジアの殴打がタリムの顔面に炸裂するのがほぼ同時だった。鼻血を散らしてよろめくタリムは、足を払われ、勉強机に頭を打ちつけながら倒れ込む。一階ではレティが聖教軍の兵士に腕づくで連行されていく。
テレジアは仰向けに倒れたタリムに馬乗りになり、胸倉を掴み、顔を二度、三度と殴った。スアラの涙を吸ったハンカチは、今、テレジアの拳に巻きつけられていた。
完全に鼻が潰れるほど殴ってから、テレジアはタリムの髪を鷲掴みにした。
「聞け。私らはお前ら夫婦を拷問すると言っているんじゃない。
必要があれば拷問する
と言っているんだ」血だらけの顔でうめき、口を開いたタリムはまず前歯を吐き出した。次に声を絞り出した。
「娘の――娘の――私はただ――夢を叶えてやりたかったんだ。娘は革命で弱者を救いたいと……正義感の強い子で」
「その言い訳はいつから考えていた?」
「そうじゃない。私は娘を愛している。本当だ。全ては娘のためにしたことだ!」
ハッ、と息を吐き、テレジアはタリムの胸倉から手を離した。
「言ってろ。人は信じたい物事を信じるのさ。宗教みたいなもんだ」
「お前に私たちの何がわかる! 後ろ指をさされ――蔑まれ――どんな思いで娘を育ててきたか! あの子は私のものだ! 誰にも渡さんぞ!」
「なるほど」
立ち上がり、束の間テレジアはタリムを解放した。
すぐに
「蔑まれ、後ろ指をさされてきたから、同じ位置まで娘を引きずりおろしたかったんだねえ、お前」
「黙れ」
「悲しかったんだねえ。悔しかったんだねえ。孤独だったんだねえ」
「黙れ、黙れ!」
足に力を込めると、ぐうっ、と呻いてタリムは沈黙した。
「お前は悲しみで塗り固められている」
タリムは苦痛に顔を歪めていたので、テレジアの目を見る余裕はなかった。見ないほうがよかっただろう。
「だが、私は悪意で塗り固められている。お前のような小物が傷つきうろたえるのを見るのが好きで仕方がない」
「――悪魔め」
「ひどいねえ。これでも公教会の『天使』なのに!」
「テレジア」エンリアは見かねて口を挟んだ。「その辺にしときな」
明らかに、テレジアはその提案に不満があるようだった。
「……深く突き落とされた人間は……」
それでも、鳩尾から足を離してやった。
「特に、自分が誰からも愛されていないと知ったとき……傷を癒されることなど望まない。堕落に歯止めがかからなくなることを望むんだ。矛盾していると思うか?」
もう一度屈んだとき、タリムの顔面は醜く腫れ上がり始めていた。
「それとも、身に覚えがあるか?」
荒い足音が階段を上がってくる。
四人。
テレジアたちがタリムと関わり合うのはここまでだった。
「でも、お前の娘はお前の場所まで突き落とされてはこない。残念だったねえ」
聖教軍の兵士たちが、スアラの部屋に現れた。
その父親を、収容所へと連れ去るために。
※
毛布の上に立つ紅茶の缶を枕が薙ぎ倒した。
「おやおや」
カーテンはまた開かれた。住んでいた者の気配がまだ色濃く残るけど、あとは廃墟となりゆくしかない部屋に、不滅の太陽が差し込んだ。
「いけないねえ。包丁なんかで人を刺したら自分が怪我をしてしまうよ。タオルでいいから
一方、エンリアは枕の下の刃物にさしたる反応を見せなかった。彼は窓辺から紙切れを手に戻ってきて、テレジアに差し出した。
こう書かれていた
『戻れない
ごめん
諦めて』
「相手はお前の獲物か?」
「十中八九そうだろうね」
エンリアは紙切れを勉強机の下にあるゴミ箱に捨てた。
「それなら、状況的にかなり大事な約束をしてたんだろうな」
「だろうねえ」
盛大にため息をつき、エンリアは窓辺に寄りかかる。
「子供なんだよなあ……」
腕組みするエンリアをよそに、テレジアはベッドに座って紙巻きタバコの箱を出した。
「異常な状況に置かれた人間と、ホイホイ大事な約束をしてしまう。かと思えば大人に言われるままにそれを
テレジアは、半分はエンリアの言い種に賛同していた。スアラは幼すぎた。リリスも、チルーもだ。確かにあの三人は、同年代の少女たちと比べて頭がいいのだろう。成熟しているようにさえ見える。
それでも力を我がものとするには未熟すぎるのだ。
そう思いつつも残り半分は賛同しかねていた。
「あんた、何もわかっちゃいないねえ」
タバコに火をつけるテレジアの目に、
「どういうことだ?」
「子供だろうが大人だろうが関係ない。帰れる場所がない人間には行ける場所だってないのさ。あっちに行けとか、こっちに来いとか、人に言われるまま動いちまう。さながら迷える子羊さ」
エンリアは何も言い返せなかった。
そのとき迷える子羊は、修道院のベッドの中で幸せな眠りについていた。
透き通る光の中で、懐かしい夢を見ているのだろう。
今日の出来事の詳細をスアラが知ることはない。
両親が収容所で迎える末路をスアラが知ることはない。
今はただ、眠りながら微笑んでいる。
頬を薔薇色に染めて。