文字数 3,385文字

 2.

 鯨は、撃ち落とされたときの姿そのままに現場に残っていた。スーデルカが真っ先にたどり着いた。鳥飼いのガラヤは、しばしば険しい岩場でへたり込みそうになるのを、ときにエルミラに励まされ、ときにミズゥに手を引かれながら耐えて前進していた。
 山道を先導するのはアズで、次にエンリア、最後尾をセフと狼犬が守っていた。それでも鯨が見え始めると、スーデルカはエンリアとアズを追い抜いて、岩屑だらけの砂礫の上を走り出した。エンリアとアズはトラックから拝借した梯子(はしご)を交代で運んでいた。今はエンリアが梯子を持っていた。二人は目配せをしあい、アズがスーデルカを追って走った。
 スーデルカは鯨の前に立ち尽くしていた。誰にともなく宣言する。
「帰ってきた」
 その意味を、アズは敢えて問わなかった。
 エンリアが鯨に梯子をかけると、当然のようにスーデルカが最初に上った。天辺(てっぺん)の跳ね上げ戸を開き、中に飛び降りる。
 次はガラヤだ。
 山道で疲れ果てた様子だった。青ざめ、息は荒く、祈るように組んだ両手は震えていた。
「嬢ちゃん」梯子を支えながらエンリアは呼びかけた。「そのカワセミはあんたの鳥じゃないんだ。手放せ。いずれ必ず本来の自分の鳥に出会える。信じろ」
「あたしは、あたしは」
 ガラヤは長い前髪で目を隠すように俯いていた。
「あたしはただ、普通に生きたかっただけなの」
「もう、ガラヤ。今さらそんなこと言ったって仕方ないじゃん」と、エルミラ。
「神様に守られて、静かに生きていけると思ってた。教会にいさえすれば……」鼻をすすり上げる。「あたし、これが終わったらどう生きていけばいいの?」
「働いて飯を食って寝ろ。それが普通の人生だ」エンリアは答えた。「外に出るんだ。人と会って人と話せ。でなきゃあんたの世界には、あんたと神しかいなくなっちまう」
 ガラヤは怯えながら足を踏み出した。梯子に手をかけたときには泣き出しそうだった。
 それでも中に入った。床に飛び降りる音が外まで聞こえてきた。
「次は俺が入る。エルミラはここにいてくれ。鯨に入るのは三人だけでいい」
「わかったよ、お兄さん。気をつけてね」
 アズもまた鯨の内部に飛び下りた。
 中には一切の照明がなかった。
「ガラヤ」
 外の光が差し込む中で、アズはエンリアの言わんとしたことについて考え、言った。
「人には人が必要だ。目に見えないものにしか深いところを癒やし得ないとしても。エルミラを大切にするがいい」
「怖いよ、ラティアさん」
「大丈夫だ」アズはガラヤの右手を取り、壁一面に描かれた青いツバメに向けさせた。「君はやれる」
 ガラヤは迷いながら頷く。
「神様……」
 右手の甲の紋様からカワセミが浮き出た。それはアズが姿を認めた直後、ツバメの絵へと一直線に吸い込まれていった。
 入れ違いに、これまでツバメに入っていた鳥が追い出される。

 無音、闇。

 光が戻る。スーデルカもガラヤも見えない。巡礼の空間だ。壁を通り抜けてきた死者の列が、壁の反対側のツバメの絵に吸い込まれていく。
 アズはほとんど無意識に、ルーの姿を探した。いなかった。だが、いたとしたら彼が言うであろうことはわかっていた。
『入れよ』
 その通り、アズは死者たちとともにツバメの絵に入っていく。
 青い光に包まれる。

 ※

 光が薄れていく。
 薄暗いそこは、ガイエン大聖堂の玄関にどことなく似ていた。ただ、壁も柱も灰色で、扉も同様だ。色彩が感じられない。タイル貼りの床を歩くと、高い天井に足音がこだまする。
 アズは正面の扉を開けようとした。
「本当に進むの?」
 突然声をかけられ、跳び上がるほどの勢いでアズは振り向いた。左手は反射的に拳銃を抜いていた。
 声の印象の通り、後ろにいたのは生意気そうな顔つきの少女だった。色がある。赤みの強い黒髪。適度に日に焼けて健康そうだ。アズを見て目を細め、ニヤニヤと笑っていた。
 アズは思いついて尋ねた。
「君がリリスか?」
「そうだけど」リリスは肩を竦める。「この先にあるものは、別に無理に見なくていいと思う。どうしてもって言うのなら、止めはしないけど」
「どうしてそう思うんだ?」
「お父さんと同じものを見ることになるよ。生きている間は知らなくていいことだ」
「死者の王は俺につきまとっている。知らせたいことがあるのだろう」
「じゃあ行きなよ」リリスは笑うのをやめた。その目はどこか寂しそうだった。「もう止めない」
 姿が消えた。
 アズは一呼吸起き、扉と向き直った。色のない両開きの扉。
 それを開く。
 扉の先は、灰色の聖堂(みどう)だった。身廊(しんろう)の左右に灰色の会衆席が並び、正面に内陣。
 その司教座に『王』が座していた。さまよう王。死者の王。名もなき王。
 全ての宝石を外された、黒ずんだ王冠。
 その巨体を包む、引きちぎられて穴の開いたマントは場違いな深紅。マントの下の衣服から露出する体は剥き出しの骨。顔に鉄の仮面。幾度も(まみ)えた、王。それが、窮屈な司教座で頭を抱えている。
「何故だ?」アズは身廊を歩む。「どうして俺をこの場に導いた?」
 内陣の正面、翼廊の前でぴたりと足を止める。左手に光を集めようとしたアズは、それができないことに気がついた。ここはアズの知っている世界ではない。
 処刑刀を抜く。
 初めて王の声を聞いた。
『死の、暗い影……』
 想像していたようなおぞましい声ではなかった。
 どこにでもいそうな、老いた男の声だった。
『だが、あの子には、それが光に見えていた』
 頬骨が鉄仮面にぶつかって音を立てている。
『光』
 王は頭を抱えたまま、衣擦れの音を立てて立ち上がる。
『光』
 内陣を横切る。
『ひか、り……』
 アズは翼廊を横切り、会衆席と内陣を隔てる短い段差を飛び越えると、跳び上がり、うなだれる王の首を一撃で斬り落とした。
 赤、青、白、黄、緑、様々な色彩が傷口から噴出する。アズは目を細めた。首を斬られてなお、王は喋っていた。
『エルーシヤ、ああ……』
 眩しい。
 目を閉じる。
『声』
『が』
『聞、き、た、い』

 ※

 目を開ける。打って変わって、大聖堂は素朴な民家に変わっていた。壁に聖四位一体紋が掲げられていた。板張りの床に、数人の男女が直接座って男の話に聞き入っていた。
『実にエルーシヤは、神が我ら言語生命体にお与えになった御子(おんこ)。地球人に対して息子をお与えになったように、我らに対しては娘をお与えになられたのです』
 初代教会だ、とアズは理解した。六百年前の、壁の出現が始まった頃の、言葉使いという存在が生まれ始めた頃の。
「あなたは初代教会の教父の一人なのか?」
 アズの問いかけは、説教をする男には聞こえない。アズは人々の間を縫って歩み寄り、男の服に触れた。
 溢れ出る色彩。
 目を閉じる――
 またも場面が変わる。
 目を開けるより先に、慟哭が耳に飛び込んできた。身も世もない泣き声、絶叫。
『エルーシヤ!』
 広い、豪奢な部屋。
 天蓋つきのベッドの枠にシーツをくくりつけ、少女が床に身を投げ出して縊死(いし)している。
 先に見たよりも若い姿で、教父だった――後に教父となる――男が亡骸に取り縋っている。
『許してくれ』男は亡骸を抱きしめる。『許してくれ!』
 と、男も少女の亡骸も消えた。灰色の世界で、開いた窓から風にそよぐ木の葉の音が聞こえるのみとなる。
「……そういうことなのか?」
 アズの体が足許から震え出す。
「王よ、全てそういうことなのか?」
 どこにいるとも知れぬ王に、アズは問う。
「全て嘘だったのか? 作り話だったのか? 神が与えた娘によって我らに救いの約束が示されたというのは、娘の死を受け入れたくない男のでっち上げだったというのか?」
 答えはない。ただ、風が吹いている。
 その結果が、公教会の支配か。抵抗教会との血みどろの戦争か。
 言語生命体が神を手に入れたと、入れたと思い込んだ結果がこの様か。
「……それじゃあ、何のために殺し合ったんだ? 何のために争ったんだ?」
 見えない王の答えを期待して、アズは捲し立てる。
「俺たちは神なき被造物であるべきだったのか?」
 答えはない。灰色の世界に、窓から差す木漏れ日が濃淡をつけている。その中で、アズは空気を肺に吸い込んで、どこまでも聞こえるほどの大声で絶叫した。
「答えてくれ!」
 その悲鳴のような叫びのなかを、カワセミが、虚妄を崩壊に導く青き使者が、部屋を切り裂き飛び去っていく。


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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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