別れの言葉
文字数 3,600文字
※
「あくまで一時帰宅ですからね」
修道院の車の後部座席に並んで座るテレジアが釘をさした。ハンドルを握る修道女が、スアラの家の前で車を路肩に寄せた。スアラは何もかも投げ出して、消え去ってしまいたかった。そうはさせぬとテレジアの目は告げている。
「あの」
「なぁに?」
「一緒について来てもらえませんか?」
「もちろんそのつもりですが、どうして?」
「質問攻めにあうし……」
そういえば、深夜に出歩いていた理由をまだテレジアからは一度も聞かれていなかったことに思い至る。
口ごもるスアラの肩を、テレジアが叩いた。
「大丈夫。行きましょう」
心を決めてスアラは頷いた。
「……はい」
車を降りて家の戸口に立つ。心臓は大きく脈打っているが、後ろにテレジアがいる分マシだった。一人だったら、家に入らず逃げ出していたかもしれない。外扉を開き、それを閉じずにガラスの内扉を開けた。わざと音を立てて室内履きに履きかえる。その間、ダイニングでレティが聞こえよがしに泣きじゃくっていた。
足音をパタパタさせながら廊下の奥に向かう。右手に階段、左手にダイニングの扉がある地点まで来て、普段ならまっすぐ階段に向かうスアラは、ダイニングの戸を開け放った。テーブルに肘をついて泣くレティと、その後ろを行ったり来たりするタリムがいた。
タリムが威圧を込めて睨みつけた。レティは何の反応も示さない。
「どこに行ってたんだ」
これまでは恐ろしかった、低い声。
スアラは鼻で笑ってみせた。虚勢でしかなかったが。
「そっちこそ、夜中に車でどこに行ってたの?」
タリムの口から頬に、動揺の波紋が広がった
「娘相手にコソコソしちゃって、馬鹿みたい」
「何だと!?」
スアラは叫ぶ。
「テレジアさん!」
途端にレティが泣くのをやめて顔を上げ、怯えた様子で左右を見回した。
テレジアが、玄関から品よく声をけた。
「ごめんください」
タリムの顔が紅潮する。歯をむき、だがスアラを怒鳴ることも殴ることもできない状況を悟ると、大股で前に足を踏み出した。入れ違いにスアラは廊下に出て、階段を上った。テレジアと会うときには、あの男は人のよさそうな笑みを浮かべているはずだ。
部屋では黒いビーズの瞳を持つ新品のクマが椅子に座らされたままで、スアラではなく壁でもなく、虚空を見ていた。一階から平謝りするタリムの声が微かに聞こえてくる。窓に近付き、半開きのカーテンを両手で全開にした。ぱっ、と目の前が開けた。冬晴れの光に耐えて目線を下げると、長らく置きっぱなしだったガラスの鳥や親指サイズの人形が窓枠に並んでいた。
ガラスの鳥は十歳の誕生日プレゼントだった。
今までずっとここにあったのに、見えていなかったのだ。
不意に愛おしい気持ちを鳥に抱いたが、持っていく気は起きなかった。着替えと一番大事なものだけ持ってくるよう言われている。これは一番じゃない。
スアラは机の鍵を回して、鯨のもとに通じる鍵をズボンのベルトに通した。次に、床に膝をついてベッドのマットレスを持ち上げる。
ベッド本体とマットレスの間にスケッチブックが隠してあった。
それを通学鞄に押し込んだ。スアラが持っているなかで一番大きな鞄だ。
スケッチブックの上に着替えを詰め、鞄を閉めて一息つく。
大事なことを思い出した。
スアラは机に向かい、鉛筆をとる。鍵のないひきだしから空色の便箋を出して、一言書きつけた。
『戻れない
ごめん
諦めて』
小さくちぎってガラスの鳥の陰に立てかける。次にリリスが来たとき、窓の外からこの置き書きを見つけるだろう。そのとき気がついた。この鳥や小さな人形たちがいるから、リリスはここが目当ての部屋だと当たりをつけたのだと。危険な賭けだ。もし違っていたらどうするつもりだったのだろう。
一階に戻ったとき、レティは鼻歌を歌っていた。彼女が少女の頃に流行 ったという初恋の歌だ。レティは忙しすぎて幸せそうだった。キッチンストーブの前にいて、卵を割り、泡立てていた。牛乳の匂いがした。ケーキを焼くのだ。
「お母さん」
返事はないけれど、淡く微笑んでいた。
「……お母さん」
ダイニングに足を踏み入れる。拒むように、鼻歌に歌詞がついた。
「息をするのも苦しくて
一人 月影 辿る」
キッチンストーブはダイニングテーブルの遥か彼方にあった。テーブルの手前にいるスアラには、声を届けることすらできないのだ。
「私、行ってくるね」
レティはスアラを見ようともせず、歌い続けた。
どうしてうちはこうなのだろう? いつもいつも。
玄関ではまだタリムとテレジアが話し込んでいる。三人の大人たちの声の間で、スアラはぶら下げた通学鞄の重みを肩に感じながら、どんな言葉なら母に届くだろう、と考えた。何を言えば、いつだって真剣に話しかけていたのだと伝わるだろう? どう言ったら?
「お母さん――」
レティの様子に変化はなかった。
この無視はなんだろう? 罰するつもり? それとも本当に、二度と私を見たくないの?
閉じた心の中で、怒りが花々のように開き始めた。
バカ女。
ああ、知っているではないか。
あの女の心に確実に届いて突き刺す言葉を、一つだけ知っているではないか。
唇が震え始めた。両足も震えていた。
息だけは震えていなかった。
だから、自分でも驚くほど残酷な声音を使うことができた。
人の心を刺すために。
確かな息遣いで、言った。
「自己憐憫しか能がないバカ女」
泡立て器の音が止まる。
時が止まったのだ。
歌はやみ、スアラに背を向けて、レティは凍りついた。スアラはレティに背中を見せて廊下を走り出した。
冷たい風が吹いてくる玄関まで走って来たスアラに、タリムは心配そうに声をかけた。
「スアラ、荷物はそれだけでいいのかい? 随分少ないじゃないか」
スアラは無視して靴を履く。
「セリスさん、物資は私どものほうで何とかしますから」
「何もないの」
スアラは振り返ることなく修道院の車に向かう。
「テレジアさん、私には何もない」
「シスターさんたちの言うことをよく聞くんだよ!」タリムが声をかけてきた。「あとでお母さんが作ったおやつを届けにいくからね!」
後部座席に乗り込んで、車のドアを閉める。車内は外と同じように寒い。タリムの声がまだ聞こえた。
「あの通り難しい子でして……妻も私も手を尽くしているのですが……」
「死ね」
スアラは口を動かし、ほとんど声を出さずに吐き捨てた。
やがてテレジアが隣に乗り込んで、車が動き出した。
しばらく、誰も何も言わなかった。
運転手が車を中等学校の方面に滑らせていく。スアラは不思議に思った。修道院とは方向が違う。
「スアラ、あなたのお父さんはあなたに服やおやつを持っていくと言っていましたが――」
「そうですか」
「私が断りました」
瞼をピクリと震わせて、スアラはテレジアを横目で見た。微笑んでいた。
「あら。意外ですか?」
「あの人、引き下がりました?」
「ええ。ご納得いただきました」
その言葉にスアラは安堵していた。押しかけてこられては堪らない。だが、いつかは家に帰されて、またあの男と暮らさなければならなくなる。そのときどんな報復を受けるだろう?
それよりもスアラの心を重くさせるのは、途切れたレティの歌、その凍りついた背中と、束ねられた髪だった。白髪が増えた髪。
スアラが思っていた以上に深くレティは傷ついた。
お母さんを傷つけてしまった。それは……それは、本当の言葉だったからだ。届いてしまったからだ。
お母さんは、本当に、自己憐憫しか能がないバカ女だったんだ。そのことを、お母さん自身、心の奥底でわかっていたんだ。
どうやって謝ればいいのだろう?
どうすれば、深く心を刺した刃をお母さんから抜き取ってあげられるのだろう? 刃を持っているのなら、あの男のほうをこそ滅多刺しにしてやりたかったのに。深い傷で時を止めてやりたいのは、あの男のほうだったのに。
車はスアラの作業場がある大通りに差しかかった。作業場を一目見ようと、スアラは窓の外に意識を向けた。どうして見ずにいられよう。そこに鯨が、愛するものがいるというのに。
白い幕が見えた。
作業場となっていた家は、白い幕と骨組みで覆われていた。
えっ、と口から出かかった声を押しとどめる。
家は解体されようとしていた。
鯨が地下から出されるのだ。まだ完成していないのに。いいと言っていないのに!
動揺して目を剥 くスアラの横顔をテレジアは注視した。スアラはその視線に気付いていなかった。今、スアラの心は二つの極に引き裂かれていた。
一つは、鯨を守らなければいけない、ということ。
もう一つは、お母さんに謝らなきゃ、ということ。
けれど、結局あの一言こそが、スアラが生涯最後に母に話しかけた言葉となった。
この朝を最後にスアラが母親と会うことは二度となかった。
「あくまで一時帰宅ですからね」
修道院の車の後部座席に並んで座るテレジアが釘をさした。ハンドルを握る修道女が、スアラの家の前で車を路肩に寄せた。スアラは何もかも投げ出して、消え去ってしまいたかった。そうはさせぬとテレジアの目は告げている。
「あの」
「なぁに?」
「一緒について来てもらえませんか?」
「もちろんそのつもりですが、どうして?」
「質問攻めにあうし……」
そういえば、深夜に出歩いていた理由をまだテレジアからは一度も聞かれていなかったことに思い至る。
口ごもるスアラの肩を、テレジアが叩いた。
「大丈夫。行きましょう」
心を決めてスアラは頷いた。
「……はい」
車を降りて家の戸口に立つ。心臓は大きく脈打っているが、後ろにテレジアがいる分マシだった。一人だったら、家に入らず逃げ出していたかもしれない。外扉を開き、それを閉じずにガラスの内扉を開けた。わざと音を立てて室内履きに履きかえる。その間、ダイニングでレティが聞こえよがしに泣きじゃくっていた。
足音をパタパタさせながら廊下の奥に向かう。右手に階段、左手にダイニングの扉がある地点まで来て、普段ならまっすぐ階段に向かうスアラは、ダイニングの戸を開け放った。テーブルに肘をついて泣くレティと、その後ろを行ったり来たりするタリムがいた。
タリムが威圧を込めて睨みつけた。レティは何の反応も示さない。
「どこに行ってたんだ」
これまでは恐ろしかった、低い声。
スアラは鼻で笑ってみせた。虚勢でしかなかったが。
「そっちこそ、夜中に車でどこに行ってたの?」
タリムの口から頬に、動揺の波紋が広がった
「娘相手にコソコソしちゃって、馬鹿みたい」
「何だと!?」
スアラは叫ぶ。
「テレジアさん!」
途端にレティが泣くのをやめて顔を上げ、怯えた様子で左右を見回した。
テレジアが、玄関から品よく声をけた。
「ごめんください」
タリムの顔が紅潮する。歯をむき、だがスアラを怒鳴ることも殴ることもできない状況を悟ると、大股で前に足を踏み出した。入れ違いにスアラは廊下に出て、階段を上った。テレジアと会うときには、あの男は人のよさそうな笑みを浮かべているはずだ。
部屋では黒いビーズの瞳を持つ新品のクマが椅子に座らされたままで、スアラではなく壁でもなく、虚空を見ていた。一階から平謝りするタリムの声が微かに聞こえてくる。窓に近付き、半開きのカーテンを両手で全開にした。ぱっ、と目の前が開けた。冬晴れの光に耐えて目線を下げると、長らく置きっぱなしだったガラスの鳥や親指サイズの人形が窓枠に並んでいた。
ガラスの鳥は十歳の誕生日プレゼントだった。
今までずっとここにあったのに、見えていなかったのだ。
不意に愛おしい気持ちを鳥に抱いたが、持っていく気は起きなかった。着替えと一番大事なものだけ持ってくるよう言われている。これは一番じゃない。
スアラは机の鍵を回して、鯨のもとに通じる鍵をズボンのベルトに通した。次に、床に膝をついてベッドのマットレスを持ち上げる。
ベッド本体とマットレスの間にスケッチブックが隠してあった。
それを通学鞄に押し込んだ。スアラが持っているなかで一番大きな鞄だ。
スケッチブックの上に着替えを詰め、鞄を閉めて一息つく。
大事なことを思い出した。
スアラは机に向かい、鉛筆をとる。鍵のないひきだしから空色の便箋を出して、一言書きつけた。
『戻れない
ごめん
諦めて』
小さくちぎってガラスの鳥の陰に立てかける。次にリリスが来たとき、窓の外からこの置き書きを見つけるだろう。そのとき気がついた。この鳥や小さな人形たちがいるから、リリスはここが目当ての部屋だと当たりをつけたのだと。危険な賭けだ。もし違っていたらどうするつもりだったのだろう。
一階に戻ったとき、レティは鼻歌を歌っていた。彼女が少女の頃に
「お母さん」
返事はないけれど、淡く微笑んでいた。
「……お母さん」
ダイニングに足を踏み入れる。拒むように、鼻歌に歌詞がついた。
「息をするのも苦しくて
一人 月影 辿る」
キッチンストーブはダイニングテーブルの遥か彼方にあった。テーブルの手前にいるスアラには、声を届けることすらできないのだ。
「私、行ってくるね」
レティはスアラを見ようともせず、歌い続けた。
どうしてうちはこうなのだろう? いつもいつも。
玄関ではまだタリムとテレジアが話し込んでいる。三人の大人たちの声の間で、スアラはぶら下げた通学鞄の重みを肩に感じながら、どんな言葉なら母に届くだろう、と考えた。何を言えば、いつだって真剣に話しかけていたのだと伝わるだろう? どう言ったら?
「お母さん――」
レティの様子に変化はなかった。
この無視はなんだろう? 罰するつもり? それとも本当に、二度と私を見たくないの?
閉じた心の中で、怒りが花々のように開き始めた。
バカ女。
ああ、知っているではないか。
あの女の心に確実に届いて突き刺す言葉を、一つだけ知っているではないか。
唇が震え始めた。両足も震えていた。
息だけは震えていなかった。
だから、自分でも驚くほど残酷な声音を使うことができた。
人の心を刺すために。
確かな息遣いで、言った。
「自己憐憫しか能がないバカ女」
泡立て器の音が止まる。
時が止まったのだ。
歌はやみ、スアラに背を向けて、レティは凍りついた。スアラはレティに背中を見せて廊下を走り出した。
冷たい風が吹いてくる玄関まで走って来たスアラに、タリムは心配そうに声をかけた。
「スアラ、荷物はそれだけでいいのかい? 随分少ないじゃないか」
スアラは無視して靴を履く。
「セリスさん、物資は私どものほうで何とかしますから」
「何もないの」
スアラは振り返ることなく修道院の車に向かう。
「テレジアさん、私には何もない」
「シスターさんたちの言うことをよく聞くんだよ!」タリムが声をかけてきた。「あとでお母さんが作ったおやつを届けにいくからね!」
後部座席に乗り込んで、車のドアを閉める。車内は外と同じように寒い。タリムの声がまだ聞こえた。
「あの通り難しい子でして……妻も私も手を尽くしているのですが……」
「死ね」
スアラは口を動かし、ほとんど声を出さずに吐き捨てた。
やがてテレジアが隣に乗り込んで、車が動き出した。
しばらく、誰も何も言わなかった。
運転手が車を中等学校の方面に滑らせていく。スアラは不思議に思った。修道院とは方向が違う。
「スアラ、あなたのお父さんはあなたに服やおやつを持っていくと言っていましたが――」
「そうですか」
「私が断りました」
瞼をピクリと震わせて、スアラはテレジアを横目で見た。微笑んでいた。
「あら。意外ですか?」
「あの人、引き下がりました?」
「ええ。ご納得いただきました」
その言葉にスアラは安堵していた。押しかけてこられては堪らない。だが、いつかは家に帰されて、またあの男と暮らさなければならなくなる。そのときどんな報復を受けるだろう?
それよりもスアラの心を重くさせるのは、途切れたレティの歌、その凍りついた背中と、束ねられた髪だった。白髪が増えた髪。
スアラが思っていた以上に深くレティは傷ついた。
お母さんを傷つけてしまった。それは……それは、本当の言葉だったからだ。届いてしまったからだ。
お母さんは、本当に、自己憐憫しか能がないバカ女だったんだ。そのことを、お母さん自身、心の奥底でわかっていたんだ。
どうやって謝ればいいのだろう?
どうすれば、深く心を刺した刃をお母さんから抜き取ってあげられるのだろう? 刃を持っているのなら、あの男のほうをこそ滅多刺しにしてやりたかったのに。深い傷で時を止めてやりたいのは、あの男のほうだったのに。
車はスアラの作業場がある大通りに差しかかった。作業場を一目見ようと、スアラは窓の外に意識を向けた。どうして見ずにいられよう。そこに鯨が、愛するものがいるというのに。
白い幕が見えた。
作業場となっていた家は、白い幕と骨組みで覆われていた。
えっ、と口から出かかった声を押しとどめる。
家は解体されようとしていた。
鯨が地下から出されるのだ。まだ完成していないのに。いいと言っていないのに!
動揺して目を
一つは、鯨を守らなければいけない、ということ。
もう一つは、お母さんに謝らなきゃ、ということ。
けれど、結局あの一言こそが、スアラが生涯最後に母に話しかけた言葉となった。
この朝を最後にスアラが母親と会うことは二度となかった。