生きていて、心がある

文字数 3,488文字

 4.

 その後、ラナとリリスの間で交わされた会話をチルーが知ることはなかった。病床のチルーは、マットレスと掛け布団の間で輾転反側(てんてんはんそく)しながらリリスの帰りを待っていた。
 日は沈みかけていて、寝室は薄暗かった。学園では何限めかだって? とうに教室もひけて寮なり自習室なりでみな勉強する時間だ。朝起きて勉強。食事の前に勉強。食事の後にも勉強。
 その先の未来が明るくないことは誰もが知っていた。イースラ、ジャスマイン、リリス、チルー自身。

『お迎えが来たよ』
 ラナの家のダイニングで、出し抜けにリリスが明るい声で言い放った。
『チルー、帰りな』
『えっ?』
 反感を込めて目を細めるチルーに、リリスは出窓の向こうで立ち止まった教父を細い顎で指した。
『ほら。心配して見に来てくれたじゃん?』
『でも私――』
『帰って』リリスは冷ややかだった。『ラナさんと二人で話したい』

 そういうわけで、結局チルーは何もしないでラナの家を後にした。昼前の出来事だったが、辺りがすっかり薄暗くなった今でもリリスは帰ってきていない。
 耳の痛みが和らいでいることにチルーは気付いていた。ベッドサイドのテーブルに、手編みの耳当てが投げ出してある。隣には学園から持ち出した手袋があり、薄墨の闇に染まっていた。
 寝返りを打ち、手袋に背を向ける。
 ラナの家を出たチルーは、動く鎧を無視して丘を上り始めた。教父は後ろをついてきた。誰かが定期的に油をさしているらしく、錆びついているわりにひどい音はしなかった。
 教父はすぐに追いついて、チルーと足並みを揃えた。交わす言葉は何もない。無機物相手とあらばなおのこと。
 来たときよりも、帰りは寒く感じられた。心の虚しさゆえかと思いきや、そうでなく、単に手袋をし忘れていたのだ。ラナの家と館のちょうど中間にきたときに気付き、歩きながらポケットに押し込んでいた手袋を取り出した。
 右手から手袋をはめるとき、教父に手首を握られた。強い力ではなかったが、鉄の体の冷たさはチルーを(すく)み上がらせた。
「なに?」
 怯えたチルーの右の掌には、カワセミの紋様。
 見つかってしまった。
 まずかっただろうか?
 様子を窺う。
 カタカタと音を立て、兜が小刻みに震えた。目のスリットから垂れる草の根が前後に揺れた。
 スリットの両端から土がこぼれ落ちてきた。
 それは涙の代わりだった。
 震えは今や鎧の全身に及び、赤錆びた草摺(くさずり)の下から乾燥した種が押し出された。
 チルーは理解した。
 これは人だ、と。
 生きていて、心がある。
 人知れぬ思いに屈服し、人の体を持たぬ教父はチルーの背中に腕を回した。父親が幼い娘にするように、冷たい体で抱きしめた。
 頬に鉄の胸当てを押しつけられながら、チルーは目線を下に落とす。滋養のない土の中で芽吹かずにいた種が転がっていた。
 草摺から滑り落ちた、桃の種であった。

 ※

 テーブルクロスが(ひるがえ)る。視界が白く染まったのち、テーブルの向こう側に、ラナとダナンの夫婦の立ち姿が再び現れた。
 ダナンの赤ら顔は、夏の日照りと冬のルナリア(おろし)によって荒野のようにひび割れていた。六十歳前後でありながら、固太りの体は逞しく、今日が婚礼であるゆえか、一つも穴の空いていない作業用のつなぎに身を包んでいた。それが一番いい服なのだろう。目は虚ろで、善良だが他人を信じていない人であろうとチルーは見た。
 低い壁によって複雑な形に切り刻まれた広場の真ん中で、テーブルクロスが四隅からピンと張られた。そのうちの一端をリリスが持っていた。ラナがリリスを見守っていた。二人は表面上は和やかさを取り戻していた。
 あまり積もることがないという雪は、日が昇ると(おおむ)ね溶けてしまった。空はときおり雲が流れるが、快晴といってよかった。枯れ草を濡らす水滴の一つ一つが日光を集め、黄金の輝きを宿した。もしこの先の人生が長いのならば、この日の美しさの記憶も長く残りそうだった。
 広場はドライフラワーを積んだ荷車で飾られていた。大皿が続々と運ばれてきた。ホウレンソウのパイ。砂糖と蜂蜜で味付けしたパン。チキンのワイン煮。コイのフライ。栗のサラダ。玉ねぎの小麦詰め。酒は料理と同じくらい豊富な量と種類があった。それらを前にチルーが思い起こすことはただ一つ。教会の鐘のようにこだまする言葉――『買わされたのでしょう』。
 目の前に一際大きなタルトが置かれた。黄色く(まる)いそれは、かぼちゃのタルトのようで、皿を運んできた十八、九の青年がチルーにウィンクした。チルーは愛想笑いを返した。まだ耳当てがないとつらいが、もともと健康なだけあって、風邪の治りは早かった。ただ、食欲はなかった。聞いてしまった以上は。『買わされたのでしょう』。
 タンバリンが控えめにリズムを打ち鳴らした。近くにいた女性が長いスカートをつまみ、ステップを踏む。ギターがリズムに乗り、縦笛と、手拍子が続く。踊りが始まるのだ。タルトを持ってきた青年が、椅子を挟んでウィンクした。チルーは愛想笑いをしたまま、さも照れたように顔の下半分を手で隠した。青年の友人たちが小声でからかうのが聞こえたが、実際は青ざめていく顔を隠すためにしたのだった。
 ずっと心に引っかかっていた。
 この人たちは友好的すぎる。
 ラナの件で聖教軍や公教会に思うところがあるのは当然にしても、だ。
 さらに、ここには抵抗教会で調達を任されているような人が物を売りつけに来る。
 抵抗教会が欲しがる人材はなんだ?
 言葉つかいだ。
 教義の面でも、戦力の面でも。
 チルーは戦力にならない。だが死者は斬れる(いざとなったらやれるということを、図らずも実証してしまったばかりだ)。さらに、もし殺されたジャスマインが抵抗教会に内通していたのが事実なら、チルーもリリスもその同級生。
 話をしたいと思う者はいるだろう。
 タルトの前を離れ、いそいそとリリスのもとに駆けていった。女性たちが身にまとう、冬物の赤いワンピース、黄色いワンピース、緑のワンピースの横を通り抜ける。青年たちは堪えきれない笑みを浮かべながらチルーの動きを目で追った。
 ドライフラワーが吊るされた柵のそばでリリスは腕組みして立っていた。
「リリス……リリスちゃん」
 友人は困惑するほど悠然とした様子で踊りを眺めていた、
「なに?」
「私たち、いつまでここにいるの?」
 リリスは微笑みながら首を横に振る。
「お腹いっぱいになっての出発でも遅くないよ」
 チルーは口をつぐむ。ラナが、よたよたと歩み寄ってきたからだった。
「あなたたち、踊らないの?」
「踊りって、私たち一つも知らないんです」
 明朗な調子でリリスが答えた。
「知らないなんて、そんなの別に構わないわ。音楽に合わせて体を動かせばいいの」
「そういうセンスがなくて」リリスは困ったように眉尻を下げた。「在学中、踊ってる暇がなかったものですから」
「やってみたら、楽しいわよ」
 ラナが鳥の翼のように両腕を広げ、無事なほうの足で飛び跳ねて見せるのでチルーは少しだけ驚いた。彼女の夫は離れたところで首を伸ばして見守っていた。
「楽しみを味わうのは、暇な人のすることじゃないわ。あなた方を教えた先生は間違ってる」
「そうなんでしょうね。どういう人が楽しみを味わうの?」
 顔を寄せたリリスに、ラナはしゃがれた声で答えた。それはチルーの耳に、絶望的なほど皮肉に聞こえた。
「自由な人よ」
「自由であることが必要ですか?」
 チルーは口を挟んだが、ラナや村の人々が自由であるとは毛ほども信じていなかった。ラナの内心は知らない。だが態度は堂堂としていた。
「高貴さのために、他に何が必要かしら」
 音楽がやんでいく。村人たちが一斉に、同じ方向に顔を向けた。ラナもだ。
 広場で唯一、人の背丈よりも高い壁。
 その陰から、腕を組んだ一組の男女が現れ出た。
 白いスーツとドレス。新郎と新婦だ。
 歓喜の声と音楽が湧き上がった。
 だがそれも、二人がテーブルにたどり着くのを待たずして主婦の叫び声にかき消されることになった。その主婦は、はじめ遠くで喚いているだけだったが、広場に近付くにつれて、喚き声の内容が聞き取れるようになった。
 こう言っていた。
「聖教軍だよ! 兵隊がこっちに来る!」
 祝賀の空気はその一声で冷え、色褪(いろあ)せた。
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登場人物紹介

■チルー・ミシマ

■14歳/女性


『言葉つかい』と呼ばれる異能力者の育成機関、聖レライヤ学園の第十七階梯生。

内気で緊張に弱く、場面緘黙の症状に悩んでいる。

『鳥飼い』の賜物(=異能力)を持つ。

■リリス・ヨリス

■14歳/女性


チルーの同級生で、唯一の友達。『英雄の娘』と呼ばれるが、両親のことは名前以外に何も知らない。

迷宮の壁に作用する『石工』の賜物を持つ。

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