聖家族、去りぬ
文字数 4,417文字
5.
伽藍 の西の入り口はただの洞穴でしかなかった。そこに、一人の司祭が入ってきた。粉雪と鉛色の雲を背景に、冷たい岩床の上を不安定な足取りで進んでくる。松明のそばで見張りをしていた二人の若者は、はじめ、その異様さに声をかけることすら躊躇した。
司祭の背は前のめりになり、足はよろめき、両腕はだらりと垂れて揺れるがままとなっていた。顔は青のような、白のような、黄色のような……だが、重い頭は伏せられているので彼らの目には禿 げた頭頂しか見えない。
止まれ、と見張りの一人が叫んだ。司祭平服を着た男ははたと足を止めた。垂れ下がった手には手榴弾が握り締められていた。
それまでの生気のない動作と裏腹に、死せるローザは素早く手榴弾のピンを抜いて二人の見張りの間に投げ込んだ。
虐殺が起きた。
※
洞穴の奥はたちまち大騒動となった。爆発。銃撃。こう聞こえた。「撃っても撃っても死なねぇんだ!」
アズが入り口の岩壁に背中をつけて待っていると、中から一人、まだ少年と呼べるような歳の革命戦士が銃を手に出てきた。左腕は肩から吹き飛び、およそ立って動ける怪我ではないのだが、目が見えておらず、自分の状態がわからぬがゆえか、彼は右半身を洞穴の壁にこすりつけながら外にまろび出てきた。
「誰かいないの」
血塗れの顔で目をつぶり、問いかける声は泣き出しそうだった。
「助けて、助けて――」
少年は崖に向かって前進し、大きくて尖ったいくつかの石とともに転落した。悲鳴が上がったが、すぐに二度と聞こえなくなった。
アズは洞穴を挟んだ反対の岩壁に立つセフと目配せを交わした。一呼吸置いて、二人は中に突入した。
洞窟の奥から命からがら逃げ延びてきた革命家たちを、二人は容赦なく撃ち倒した。セフ神父の射撃の腕はまずまずだった。足許には彼の狼犬が控え、セフが撃ち漏らした革命家に襲いかかっては引き倒した。
奥は広い空間になっているらしい。銃声とともに聞こえる悲鳴の響きかたでわかった。
「いやだああああああっ!!」
悲鳴は残響のみとなった。別の悲鳴。
「お母さん! お母さあああん!!」
その男も沈黙し、アズがたどり着く頃には何も聞こえなくなっていた。
一転して沈黙に満たされた伽藍には、噎 せ返るほどの硝煙が渦をまいていた。その薄紫の渦は、円形の壁にぐるりと張り巡らされた白熱電球に照らされており、どこか遠くから発電機の唸る音が聞こえてきた。頭上の空間は高く、闇に満ちており、天然の天井を見ることはできない。岩壁の一部に長年水が垂れていた形跡があるのだが、今は涸れていた。
こんなところだった。ルーが死んだのも。ルーが裏切り者たちに殺されたのも。こんなところで、切れかけた懐中電灯に淡く照らされながらルーの生首が落ちてきた。
ごとり。
水で変色した岩を背に、祭壇があった。聖櫃 は破壊され、その破片はこれ見よがしに祭壇に積んであった。
祭壇の前にただ一つ、立っている人影があった。
ローザ神父だった。
歩み寄れば、腹と胸の皮膚は開けっ広げになり、骨は割れ、臓器はあらかた腰へと流れ落ち、踏みつけられた小腸が床にまで垂れていた。顔面はなく、そこにあるのは赤い挽き肉と白い骨片が混ざった塊だった。頭皮はめくれて半ば剥がれ落ち、僅かな白髪が背中にかかっていた。その背中からは司祭平服を突き破って折れたあばら骨が出ていた。
右腕はなくなっていたが、左手は肘の下から皮一枚で繋がっていた。
アズは壊れた体の裏切り者に裁定を下した。
「まだ使える」
「何があった?」
セフ神父の声が重く響いた。
狼犬を従えて、背後から歩み寄ってくる。
太い針を刺すように、セフは問いかけた。
「何があって、貴様は心をなくそうとしているのだ?」
ぱっ、と、鈍化した心の暗闇で閃光が爆 ぜた。
アズはゆっくり振り向いた。
セフの目を見る気になれなかった。意識の表面に、苦い悔悟がしみ出てくる。
ローザは倒れた。アズは二度と彼を起こさなかった。
今度はセフが先に立つ番だった。彼は祭壇の後ろに回り込み、足を止め、「ふん」と鼻を鳴らした。アズもまた、祭壇を回って同じものを見た。
石やセメントで作られた大小の像があった。顔を削られ、あるものは首を切られている。
衣装からして全て聖母フローレン像だ。……だが、この程度のこと、アズがローザにしたことに比べればなんだというのだ?
「公教会の聖母崇敬は聖典の教えに反すると言って抵抗者たちは忌み嫌うが――」
アズは顔のない聖母から目を逸らした。
「聖母フローレンは教義を超えた部分で信仰者の心性を保護する象徴の一つ。教条的な正しさにこだわりこのような行いを続ければ、抵抗者たちの教会はいずれ互いの些細な違いも許せず幾千の教派に分かれよう」
セフの予言より気になるものをアズは聞いた。
地響きだ。近くはないが、冷たい頬に刺激を受けた。空気が揺れている。
「お願いがあります、セフ神父」
セフは目の圧力で内容を言うように促した。
「聖母の涙修道院に、スーデルカ・マデラと名乗る女性と二人の少女が滞在しています」
ここまで言ってもまだアズは迷っていた。
セフが迷いを砕く。
「続きを言え」
それで、アズは心を決めた。
「セフ神父には、どうか一足先に南ルナリア市へ戻り、彼女たちの身柄を保護していただきたいのです」
※
フローレンは産婆の助手であったが、実際の仕事は望まれぬ子供を産湯 に沈めて殺すことだった。まだ地球人信仰が華やかなりし頃、勇敢で知略に長 けた神官将たちが恵み豊かな大地を駆け巡っていた時代である。仕事に嫌気が差した少女フローレンは、夜の闇にさまよい出て、川に映じる星々を見つめて祈った。
『我らの創造主である母なる地球 の神人よ、私の所業がどうして許されましょう。しかし、私が養母のもとを去っても他の誰かが赤子を殺 めるまでのこと。私に何ができるというのでしょうか』
そこへ天使が現れて、フローレンを祝福した。
『おめでとう、フローレン。あなたはもうあなたが憎む行いを続けてはならない。主 である人の母に選ばれたのだから』
天使についていったフローレンは、川のほとりの茂みに打ち捨てられた赤子を見つける。神の娘エルーシヤだ。いつだって、供犠 の名はエルーシヤだ。
当然、養母である産婆はフローレンが赤子を育てるなど許すはずがなく、水につけて殺すよう要求する。
それでどうしたか。
善良な厩番 の少年、聖父イスラと共に逃げたのだ、西へ。
聖家族の物語の始まりだ。
※
「操屍者だ!」
右足で固定した死体の首から、両手で持つ処刑刀の切っ先を抜いた。伽藍の奥の通路では、屍 たちが銃撃戦を始めていた。
人は言う。
――神は全てをお許しになる。
――全てに救いをお与えになる。
アズの右手から解き放たれた屍が、岩床を蹴って枝分かれした通路に駆けていく。
――ゆえに、祈りましょう。
――神へのとりなしを聖母に願いましょう。
アズは屍たちをほうぼうに放っていた。複雑に入り組んだ伽藍のうち、最後まで銃撃戦の音が聞こえる通路が正しい出口につながっているというわけだ。
薄暗い天然洞窟の伽藍でアズは音を追う。足許が濡れていた。水ではない。血だまりだ。
処刑刀を右手に持ち替える。左手に銃を。
主よ……。
――俺は何故祈る?
音がするほうで、人間が壊れている。
悲鳴が聞こえる。
――また罪を犯すためか?
――しかも、より心安らかに罪を犯すためか?
――どうせ許されるのだからと、俺は思っているのか?
一つ確かなことがあって、アズは罪を犯すしかない。平和のために、いいや、単に任務のために。
一人で。
誰かの父を殺す。
誰かの母を殺す。
誰かの兄弟を殺す。
誰かの姉妹を殺す。
誰かの友を、恋人を、伴侶を殺す。
その屍の間を縫って前に進む。
「乗り込め! 早く!」
死者たちはあらかた打ち倒されていた。出口があった。光が見える。アズは走ることができない。あまりにも数多い亡骸を踏んでしまうから。
衣服の切れ端を、伸べられた指を、曲げた肘を、長い髪を、爪先でかきわけて進む。
風が吹いてきた。
近付いてくる出口の光が急に強さを増した。今までは、何か大きなものが出入り口を塞いでいたのだ。もう誰の声も聞こえない。
アズは結局、走った。誰かの指を踏み、手首を踏んで。
洞窟の外は石の転がる広場。生きている人の姿はなく、ただ、空を飛んでいく影があった。
アズの目が追う飛翔体、その形は。
「……鯨」
あれこそが地響きの正体だろう。鯨は雲の海を泳ぎ、すぐに姿をくらました。周囲には毀損 された死体ばかり残った。
誰かの息子を殺した。誰かの娘を殺した。
アズにも家族がいた。
誰もが等しく無力に生まれ落ちたのに、何故殺し合うことになる? それを泣く権利が誰にある?
友は殺された。死者は西へ去った。ルーはついて行った。ルーはどこへ行った? アズは西の空を睨む。ルーが去ったほうを。
魔女は西へ逃げた。別の魔女が追った。その物語の結末を、アズはまだ知らない。
※
アズは南ルナリアへの山道を足取り重く歩いた。雪は止み、雲は割れていたが、爽やかな晴れ間ではなかった。高いところにある雲は黄色く濁り、それより低い雲は灰に色づいて空を埋めていた。垣間見える空は青みがかった鉄の色で、もうすぐ夜が来る。雲の色が桃色になり、茜に変わった。晴れ間も広がったが、もはや視界全体が暗かった。準備もなしに山中で夜を迎えることになる。野営に必要なものは死んだ士官学生や下士官たちが持って行ってしまったのだ。
影の谷を歩くと、切り立った崖の下に座り込む人の影が見えた。
「セフ神父」
先に戻って婦人と少女たちを保護すると請け負ったはずの司祭は、暗がりの中でも衰えぬ眼光をアズに向けたが、狼犬の隣で煙草をふかすと、その赤い火の点を道の先に向けた。
黙って顎をしゃくっている。
彼が指すほうへ、アズは黙って向かった。石を踏みしめる足音がいやに耳についた。
少し上ると、峠に出た。
左の崖が途切れ、視界が開ける。
雪雲垂れ込める鈍 色の夜空の下、闇の下界に赤々と燃える火があった。
燃えている建物は聖堂ではないかとアズは思った。
張り巡らされた市電の高架に沿って、電気信号のように赤い火線が瞬いた。
戦いの炎に支配されたその場所は、南ルナリア市だった。
司祭の背は前のめりになり、足はよろめき、両腕はだらりと垂れて揺れるがままとなっていた。顔は青のような、白のような、黄色のような……だが、重い頭は伏せられているので彼らの目には
止まれ、と見張りの一人が叫んだ。司祭平服を着た男ははたと足を止めた。垂れ下がった手には手榴弾が握り締められていた。
それまでの生気のない動作と裏腹に、死せるローザは素早く手榴弾のピンを抜いて二人の見張りの間に投げ込んだ。
虐殺が起きた。
※
洞穴の奥はたちまち大騒動となった。爆発。銃撃。こう聞こえた。「撃っても撃っても死なねぇんだ!」
アズが入り口の岩壁に背中をつけて待っていると、中から一人、まだ少年と呼べるような歳の革命戦士が銃を手に出てきた。左腕は肩から吹き飛び、およそ立って動ける怪我ではないのだが、目が見えておらず、自分の状態がわからぬがゆえか、彼は右半身を洞穴の壁にこすりつけながら外にまろび出てきた。
「誰かいないの」
血塗れの顔で目をつぶり、問いかける声は泣き出しそうだった。
「助けて、助けて――」
少年は崖に向かって前進し、大きくて尖ったいくつかの石とともに転落した。悲鳴が上がったが、すぐに二度と聞こえなくなった。
アズは洞穴を挟んだ反対の岩壁に立つセフと目配せを交わした。一呼吸置いて、二人は中に突入した。
洞窟の奥から命からがら逃げ延びてきた革命家たちを、二人は容赦なく撃ち倒した。セフ神父の射撃の腕はまずまずだった。足許には彼の狼犬が控え、セフが撃ち漏らした革命家に襲いかかっては引き倒した。
奥は広い空間になっているらしい。銃声とともに聞こえる悲鳴の響きかたでわかった。
「いやだああああああっ!!」
悲鳴は残響のみとなった。別の悲鳴。
「お母さん! お母さあああん!!」
その男も沈黙し、アズがたどり着く頃には何も聞こえなくなっていた。
一転して沈黙に満たされた伽藍には、
こんなところだった。ルーが死んだのも。ルーが裏切り者たちに殺されたのも。こんなところで、切れかけた懐中電灯に淡く照らされながらルーの生首が落ちてきた。
ごとり。
水で変色した岩を背に、祭壇があった。
祭壇の前にただ一つ、立っている人影があった。
ローザ神父だった。
歩み寄れば、腹と胸の皮膚は開けっ広げになり、骨は割れ、臓器はあらかた腰へと流れ落ち、踏みつけられた小腸が床にまで垂れていた。顔面はなく、そこにあるのは赤い挽き肉と白い骨片が混ざった塊だった。頭皮はめくれて半ば剥がれ落ち、僅かな白髪が背中にかかっていた。その背中からは司祭平服を突き破って折れたあばら骨が出ていた。
右腕はなくなっていたが、左手は肘の下から皮一枚で繋がっていた。
アズは壊れた体の裏切り者に裁定を下した。
「まだ使える」
「何があった?」
セフ神父の声が重く響いた。
狼犬を従えて、背後から歩み寄ってくる。
太い針を刺すように、セフは問いかけた。
「何があって、貴様は心をなくそうとしているのだ?」
ぱっ、と、鈍化した心の暗闇で閃光が
アズはゆっくり振り向いた。
セフの目を見る気になれなかった。意識の表面に、苦い悔悟がしみ出てくる。
ローザは倒れた。アズは二度と彼を起こさなかった。
今度はセフが先に立つ番だった。彼は祭壇の後ろに回り込み、足を止め、「ふん」と鼻を鳴らした。アズもまた、祭壇を回って同じものを見た。
石やセメントで作られた大小の像があった。顔を削られ、あるものは首を切られている。
衣装からして全て聖母フローレン像だ。……だが、この程度のこと、アズがローザにしたことに比べればなんだというのだ?
「公教会の聖母崇敬は聖典の教えに反すると言って抵抗者たちは忌み嫌うが――」
アズは顔のない聖母から目を逸らした。
「聖母フローレンは教義を超えた部分で信仰者の心性を保護する象徴の一つ。教条的な正しさにこだわりこのような行いを続ければ、抵抗者たちの教会はいずれ互いの些細な違いも許せず幾千の教派に分かれよう」
セフの予言より気になるものをアズは聞いた。
地響きだ。近くはないが、冷たい頬に刺激を受けた。空気が揺れている。
「お願いがあります、セフ神父」
セフは目の圧力で内容を言うように促した。
「聖母の涙修道院に、スーデルカ・マデラと名乗る女性と二人の少女が滞在しています」
ここまで言ってもまだアズは迷っていた。
セフが迷いを砕く。
「続きを言え」
それで、アズは心を決めた。
「セフ神父には、どうか一足先に南ルナリア市へ戻り、彼女たちの身柄を保護していただきたいのです」
※
フローレンは産婆の助手であったが、実際の仕事は望まれぬ子供を
『我らの創造主である
そこへ天使が現れて、フローレンを祝福した。
『おめでとう、フローレン。あなたはもうあなたが憎む行いを続けてはならない。
天使についていったフローレンは、川のほとりの茂みに打ち捨てられた赤子を見つける。神の娘エルーシヤだ。いつだって、
当然、養母である産婆はフローレンが赤子を育てるなど許すはずがなく、水につけて殺すよう要求する。
それでどうしたか。
善良な
聖家族の物語の始まりだ。
※
「操屍者だ!」
右足で固定した死体の首から、両手で持つ処刑刀の切っ先を抜いた。伽藍の奥の通路では、
人は言う。
――神は全てをお許しになる。
――全てに救いをお与えになる。
アズの右手から解き放たれた屍が、岩床を蹴って枝分かれした通路に駆けていく。
――ゆえに、祈りましょう。
――神へのとりなしを聖母に願いましょう。
アズは屍たちをほうぼうに放っていた。複雑に入り組んだ伽藍のうち、最後まで銃撃戦の音が聞こえる通路が正しい出口につながっているというわけだ。
薄暗い天然洞窟の伽藍でアズは音を追う。足許が濡れていた。水ではない。血だまりだ。
処刑刀を右手に持ち替える。左手に銃を。
主よ……。
――俺は何故祈る?
音がするほうで、人間が壊れている。
悲鳴が聞こえる。
――また罪を犯すためか?
――しかも、より心安らかに罪を犯すためか?
――どうせ許されるのだからと、俺は思っているのか?
一つ確かなことがあって、アズは罪を犯すしかない。平和のために、いいや、単に任務のために。
一人で。
誰かの父を殺す。
誰かの母を殺す。
誰かの兄弟を殺す。
誰かの姉妹を殺す。
誰かの友を、恋人を、伴侶を殺す。
その屍の間を縫って前に進む。
「乗り込め! 早く!」
死者たちはあらかた打ち倒されていた。出口があった。光が見える。アズは走ることができない。あまりにも数多い亡骸を踏んでしまうから。
衣服の切れ端を、伸べられた指を、曲げた肘を、長い髪を、爪先でかきわけて進む。
風が吹いてきた。
近付いてくる出口の光が急に強さを増した。今までは、何か大きなものが出入り口を塞いでいたのだ。もう誰の声も聞こえない。
アズは結局、走った。誰かの指を踏み、手首を踏んで。
洞窟の外は石の転がる広場。生きている人の姿はなく、ただ、空を飛んでいく影があった。
アズの目が追う飛翔体、その形は。
「……鯨」
あれこそが地響きの正体だろう。鯨は雲の海を泳ぎ、すぐに姿をくらました。周囲には
誰かの息子を殺した。誰かの娘を殺した。
アズにも家族がいた。
誰もが等しく無力に生まれ落ちたのに、何故殺し合うことになる? それを泣く権利が誰にある?
友は殺された。死者は西へ去った。ルーはついて行った。ルーはどこへ行った? アズは西の空を睨む。ルーが去ったほうを。
魔女は西へ逃げた。別の魔女が追った。その物語の結末を、アズはまだ知らない。
※
アズは南ルナリアへの山道を足取り重く歩いた。雪は止み、雲は割れていたが、爽やかな晴れ間ではなかった。高いところにある雲は黄色く濁り、それより低い雲は灰に色づいて空を埋めていた。垣間見える空は青みがかった鉄の色で、もうすぐ夜が来る。雲の色が桃色になり、茜に変わった。晴れ間も広がったが、もはや視界全体が暗かった。準備もなしに山中で夜を迎えることになる。野営に必要なものは死んだ士官学生や下士官たちが持って行ってしまったのだ。
影の谷を歩くと、切り立った崖の下に座り込む人の影が見えた。
「セフ神父」
先に戻って婦人と少女たちを保護すると請け負ったはずの司祭は、暗がりの中でも衰えぬ眼光をアズに向けたが、狼犬の隣で煙草をふかすと、その赤い火の点を道の先に向けた。
黙って顎をしゃくっている。
彼が指すほうへ、アズは黙って向かった。石を踏みしめる足音がいやに耳についた。
少し上ると、峠に出た。
左の崖が途切れ、視界が開ける。
雪雲垂れ込める
燃えている建物は聖堂ではないかとアズは思った。
張り巡らされた市電の高架に沿って、電気信号のように赤い火線が瞬いた。
戦いの炎に支配されたその場所は、南ルナリア市だった。